少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2014/05/27 火 自己分析

●信じるとは

「信じることは真実へと繋がる唯一の道だ」
 なんてことをもう10年くらい前、どこかに書いた気がします。
 今でもだいたいそう思っているのですが、「信じる」ということがなんであるのか、というのは、たぶん変わってきました。

 基本的に、信じるというのは「他人に丸投げする」ことです。「じゃ、そういうことで」と同じようなもんです。「僕はあなたを信じたので、あとはよろしくお願いします」という感じです。

 借金。たとえば借金です。友達にお金を貸すとします。「返してくれるって、僕は信じてるから」と“だけ”思って貸す場合、その「返す」という行為について、貸す側はまったく関知しないことになります。返してくれなかったら、どうするんでしょうね。「信じてたのに」って言うしかないですよね。
 お金を貸す時に考えるべきことは、まず相手に「返す能力があるのか」「返す気があるのか」でしょう。ここを確かめずに貸したら、それこそ本当に「丸投げ」です。そして、最も考えるべきことは、たぶん、「返ってこなくても平気か」だと思います。(このことは誰かがどこかで書いていましたが、忘れました。橋本治さんだったかな?)
 貸したお金は返ってこないかもしれない。もしそうなった場合、それを受け入れる覚悟は自分にあるか? というのが、大事なのです。返ってこなかったら困るとか、死ぬほど傷つくとかいうことなら、たぶん貸さないほうが賢明です。「信じて貸す」というのはそういうことです。返ってこなかったら、諦めるという「覚悟」が必要なのです。

「信じる」ということには、「覚悟」が必要です。覚悟なしに信じてしまうと、あとで泣きを見ます。

 借金。もし確実に返してほしいならば、相手に丸投げしないで、貸したお金はちゃんと自分で管理したほうがいいと思います。返済期日や利息などを決めたり、返すように何度も催促したり、返さないと訴えるぞと脅したり、それでも返ってこないようなら、返せない事情を聞いて、ちょっと力になってあげるとか、いろいろやることはあります。バイトを紹介してあげるとか、ギャンブルをやめさせるとかも、それに含みます。「貸している」という権利の上にあぐらをかいていてはいけないということです。(これは丸山真男という人が『日本の思想』の中で言っていましたね。教科書によく載っていた『「である」ことと「する」こと』ってやつです。)
 それでも返してくれない場合はあります。その時は、諦めるしかないことが多いと思います。諦めきれない人は、「信じてたのに」と愚痴をこぼします。諦められる人は、覚悟を持って信じていた人か、もしくは、はじめから信じてなんかいなかった人です。

 どんなことであれ「信じる」というのはそういうものです。
「あの人は決して浮気なんかしない」と脳天気に信じるのは、相手への「丸投げ」です。「じゃ、浮気しないってことで、ヨロシク」とだけ言って、何も考えないでいると、いつの間にか浮気されています。そういうもんです。それなのにろくな覚悟もなしに「ヨロシク」をやってしまうと、あとで泣くことになります。
 浮気されたくないのなら、常にふたりの関係を見つめて、ある意味で「疑い続ける」ことが大事なのかもしれません。「信じたいために疑い続ける」ってのは岡林信康さんの『自由への長い旅』の歌詞です。丸投げをするなら覚悟をしておいたほうがいいし、丸投げをしないならば「疑い続ける」(あまりネガティブな意味ではなく)のは肝要だ、と思います。
 ただし、覚悟するのにも、疑うのにも、けっこう体力が要ります。ここはバクチだと思って、「賭ける」というのもアリでしょう。そのあたりは生き方の問題です。


●優しさとは

「人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」
 有名な、海援隊の『贈る言葉』です。
 悲しみの多い人ほど優しい、たしかにそんな気がしますね。

 身体の傷からは血が流れますが、僕はなんだか、心の傷口からは優しさが流れ出るのではないかと思います。

 僕は滅多なことでは怒りません。ただ傷つきます。少なくとも僕の場合、「怒る」と「傷つく」が同時に起こることは、ないと思います。傷ついている時には、怒っていないような気がします。怒るのだとしたら、「傷」とか「悲しみ」とかとは、また別の理由で怒っているような、気がしています。
 他人のことはよくわかりませんが、試しに少し考えてみますと、「私は傷ついた!」みたいな雰囲気で怒っている人、たまにいるような気はします。ただ、それらはたいてい「プライドが傷ついた」とか「恥をかいた」とか「自分の思うようにいかない」と言い換えられるような場合が多くて、「心が傷ついた」とはなんだか、少し違うような気もするのです。
 僕はプライドが傷ついたり、恥ずかしかったり、自分の思うようにいかないような場合に、ちょっとムカッとか、イラッとか、したりはします。ただ、できるだけそれをオモテに出さないようにはしています。「プライドが傷つくとか、恥ずかしいとかは、こっちの勝手な事情だから」と思っているからです。「心が傷つく」の場合も、だいたいは同じです。こっちの事情だから、と思って、泣きます。僕があんまり怒らないのはおそらくそういう理由で、これはもしかしたらあんまりよくないのかもしれないですね。たぶんストレスがたまっています。それに、事情があんなら打ち明けて、理解してもらえばいーじゃん、って話もあります。ほかにもたぶん、いろいろあります。
 ……怒らないと言っても、もちろん例外というのはあって、お酒をたくさん飲んでいたり、あまりにも心が大きく揺さぶられた時なんかは、不器用な怒りかたをしてるかもしれません。怒る、というと違うのかもしれませんが、いつもならならないような気分になって、いつもなら取らないような行動を思わず取ってしまい、他人を困らせてしまうことがあるようです。怒り慣れてないからかうまくできず、「失敗した……」とか「あれじゃダメだったのか……」とあとで反省することが多いです。ある程度は普段からわかりやすく怒っていたほうが、自他共にそのことに慣れるので、よいのかも。怒ろう。

 このへんは僕が勝手に、自己分析してるだけ(しかもその結果を、一般論に敷衍・援用しようとしている節がある)なんで、異議のある方もいるかもしれません。「自分に都合のいいことばっか言いやがって」とか。とりあえずお許しください。できれば。

『贈る言葉』に戻ります。
 僕はけっこう(表面上)優しいような気がしますが、それは悲しいからなのでは? とちょっと思ったのです。
 悲しくて、傷ついて、仕方ないから優しいのです。
 また、優しいから傷つきます。
「怒る」に行けば傷つかないかもしれないのに、行かないからただ単に傷つきます。「怒る」に行けば、何かが起きて、そこで「納得」とか「慰み」が生まれるかもしれないのに、ただ傷ついて心を閉ざし、「優しさ」で誤魔化そうとしてしまいます。

「求めないで 優しさなんか 臆病者の言い訳だから」
 これも『贈る言葉』です。
 臆病者の言い訳。まさにこれです。この手前の歌詞は、
「信じられぬと嘆くよりも人を信じて傷つくほうがいい」
 ですね。
 優しさを求めたり、振りかざすのは、「信じる覚悟」が持てないからです。臆病だと、「信じられぬと嘆く」とか、「優しさ」で言い訳をする、といったことになります。

 僕はたくさん傷ついていると思います。比較するものではないので何とも言えませんが、僕はそう思います。きっと人並みには傷ついていることでしょう。で、傷ついたぶんだけ優しくなっているのではないかと思います。それっていいことなの? って、ぜんぜんわかんないんですが、とりあえずそうなってるような気がします。
 たとえば、お金を貸します。それが返ってきません。そこで怒ったりすれば、お金は返ってくるのかもしれません。でも僕はきっと、泣き寝入りするでしょう。そしてその人をある程度許すでしょう。それが「本当の優しさ」なのか? というのは、難しいところです。怒って、無理にでも金を返させたほうが、「本当の優しさ」だという考え方もあります。しかし、いま僕の前身を巣くっている「優しさ」は、たぶん「泣き寝入りする」ほうの優しさなのです。これは明らかに僕の魅力であって、欠損です。
 傷ついて、それをそのままにして、やがて消えてゆく中で、ただ少しずつ優しくなります。現状、僕が自分について抱いているイメージは、そんな感じです。

「時は流れ傷は消えていく それがイライラともどかしく 忘れてたあやまちが 大人になり口を開ける時 流れ星 探すことにしよう もう子供じゃないならね」
「僕たちが居た場所は遠い遠い光の彼方に そうしていつか全ては優しさの中へ消えてゆくんだね」
 これは小沢健二さんの『流れ星ビバップ』です。僕はなんだか、この感じがわかる気がします。しかし、この曲の最後を飾る言葉はこれです。
「目に見える全てが優しさとはるかな君に伝えて」
 僕はこれが、まだよくわかりません。理屈ではなんとなくわかるのですが、だからこそ、僕の優しさはここまで到達していないのだと思います。

「いつの日か 長い時間の記憶は消えて 優しさを僕らはただ抱きしめるのか? と 高い山まであっという間吹き上がる北風の中 僕は何度も何度も考えてみる」
 同じく小沢健二さんの『さよならなんて云えないよ(美しさ)』から。
 何度引用すれば気が済むんだ、という感じですが……それくらい心の中に常にあるのです。
 これも、前半はとてもよくわかるのですが、後半が「まだ」です。

 傷と優しさは表裏一体なんだ、ということを僕は思うのです。
 そういえばかつて、日本のヒットソングの中に登場する「傷」という言葉について考察したことがあります。長いですが引用します。

2013/09/04 水 傷、痛み、悲しみ バンプミスチルスピッツ、PIERROTの場合

 優しさということについて長い間考えている。
 PIERROTのキリトさんは優しい。しかし、その優しさはたとえばhideさんや小沢健二さんとはちょっと違う。
 ヴィジュアル系のトップにいたバンドとしての限界というか、おそらく当然として、PIERROTの歌詞には基本的に「痛みを背負い続ける」とか「傷は消えない」とかいう感覚がおそらくある。

「そうして知った痛みを未だに僕は覚えている」「そうして知った痛みが未だに僕を支えている」(BUMP OF CHICKEN『天体観測』)
「癒えることない痛みならいっそ引き連れて」(Mr.Children『TOMORROW NEVER KNOWS』)
 こういった曲には確実に、それがある。「痛みをそのままの形で維持する。そしてそれが人生の支えになる」という考え方。
 ちなみにスピッツも、傷や痛みや悲しみを「忘れない」ということを盛んに歌っている気がする。(このあたりは専門のひろりんこさんあたりにお伺いしたいところ。)代表曲『チェリー』の歌い出しが「君を忘れない」だというのは象徴的だなと思う。

 PIERROTの場合、『HUMAN GATE』がちょうど「忘れない」系の歌かもしれない。ほかの曲でも、傷や痛みを保存するような意味合いの詞がいくらか登場する。しかし傷や痛みや悲しみはPIERROTのメインテーマでは特にないと思うので、あまり目立たない。

 僕は基本的に、保存・維持された傷や痛みや悲しみによって支えられるとかいうことに共感しません。まったく意味がわかりません。どういうことなのかピンときません。ピンとこないので、しばらく考えてみることにいたします。


2013/09/05 木 傷、痛み、悲しみ hideの場合

 このテーマで書くと長くなるので簡潔に。
「傷」「痛み」「悲しみ」という、僕が問題にする三つの言葉をすべてふんだんに使った名曲が、hideの2ndアルバム『PSYENCE』に収録された5thシングル『MISERY』。(こういう書き方してるから長くなる)
 なんと、『PSYENCE』の発売は1996年9月2日だそうだ。一昨日書いたPIERROTの『CELLULOID』の、ほぼ1年前。今からほぼ17年前。

「君の痛み うれしそうに羽根を広げて舞い降りてくる」
「昼の光 君の傷を抱いて優しく広げていく」
「笑う月の蒼さ 傷をなでて閉じていく」
「降りそそぐ悲しみを その腕の中に抱きしめて」
「炸裂する痛みが 駆け抜けるだけの風ならば」
「悲しいと言うならば空の青ささえも届かないもどかしさに君は泣くんだろう 君の小さな身体包んでる夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」
「手を伸ばせば感じる その痛み両手で受けとめて」

 などなど、「傷」「痛み」「悲しみ」といった単語が頻出する。まるで痛み系J-POPのフルコースのようだが、それでいてほかの曲(たとえば天体観測やTOMORROW NEVER KNOWS)とは違う。
『MISERY』とほぼ同じことを歌っているのが『FLAME』という曲で、ちょっと違うが似たようことを言っているのが『GOOD BYE』という曲、だと思う。いずれも『PSYENCE』に収録されている。
 この三曲の中で歌われるのは、僕なりに要約して言えば、以下のような感じだ。

【1】傷も痛みも悲しみも、夜の風を浴びたり、星の声に耳を傾けたりしているうちに忘れていくようなもの、あるいは駆け抜ける風のようなものだろう。
【2】傷つくことや、忘れること、変わることを恐れることはない。
【3】傷も痛みも悲しみも、愛しさも憎しみも、すべてそのままに受けとめてしまえばいい。雨のあとには晴れがくる。(そのことを嫌がることはない。)
【4】受け入れてしまえば、あとは自分の中にある優しさや希望や活力(「夢」や「歌」という言葉に凝縮されている前向きなもの)によって「鮮やか」で「軽やか」で「しなやか」なものに変わっていく。

 Amikaさんという歌手はデビュー曲の『ふたつのこころ』(な、なんと! 発売日が1998年9月2日で、PSYENCEのちょうど二年後!)で、「悲しみはいつか麻痺していくことを 悲しみの中でもわかるように」と歌っている。そして「自信がない日も見失う時もいつでも 磁石がさすように求める場所にはたどり着ける ふたつのこころでいつも強く願うなら」と続く。
 同じようなことを、hideはこう言う。悲しい時にこそ、それは終わるのだということを思い出すこと。そしてその悲しみを前向きなものに変えていくのは、自分の中にある「夢」や「歌」なんだと。
 ふたつのこころとは、「まるで頭と身体に心が二つあるようで」とあるので、そういうような意味だろう。そう思うと、「夢」とか「歌」ってのはなんだかそれに重なるような気もしなくもない。(これはまあ、こじつけ。)

 痛みは保存するものではなく、維持していくことによって支えになるようなものではなく、忘れるもので、そして忘れてもいいものである。忘れることで、それはやがて夢や歌によって「鮮やかになる」のだ。

 この考え方が突き詰められ、究極に美しい形にまとめあげられたのが『HURRY GO ROUND』という、hideの最後にして屈指の名曲だと思う。ぜひそう思いながら、じっくり聴いてみてください。


2013/09/06 金 傷、痛み、悲しみ 小沢健二さんの場合

 hideの優しさとは、「忘れるものだ」「忘れてもいい」「だから受け入れてしまえばいい」であって、さらに「夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」なのだ。痛みのマイナス要素を払拭しながら、かつプラス要素にも言及する。
 そのうち詳しく書くと思うし、昨日のぶんにも少し書いたんだけど、「夢」というのは「将来の希望」とか「未来の理想」というだけの意味ではない。少なくとも、歌われる時はきっとそうではない。僕は意外と「夢」という言葉が大好きであるが、「将来の希望」「未来の理想」というだけの意味で使われる場合は、くそくらえと思う。「夢」っていうのはそんなに程度の低い言葉ではない。そうではなくって、「夢」というのはたぶん、「優しさや希望や活力など、あれこれの前向きなエネルギーが集約されたものをまとめて表現した言葉」なのだ。「君の小さな体包んでる夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」という『MISERY』の歌詞は、まさにこの意味での「夢」だと僕は感じる。

 小沢健二さんの場合、こういう感触は「優しさ」という言葉で表現されている、と思う。この人について書き出せばすぐに本一冊分の文章になってしまう(誰か依頼してくれないものかね)ので、今度こそ手短に。

「いつの日か長い時間の記憶は消えて 優しさを僕らはただ抱きしめるのか? と」(『さよならなんて云えないよ(美しさ)』) 「そうしていつかすべては優しさの中へ消えていくんだね」(流星ビバップ(流れ星ビバップ))

「優しさ」ということを考えるとこの二曲になる。
 詳しくは、百万回くらい聴いていただけたらいいのだけど、あらゆる美しいことがあって、苦しいことがあって、それらが消えてしまった先に、ただ残るのが「優しさ」である、そうであればいい、ということ、だと僕は思っている。
 傷、痛み、悲しみというのがこの文章のテーマだったはずだけど、そういうものはすべて溶けて消えていく、というのが小沢健二さんの曲の基本的な前提だと思う。
 1stアルバムの最初の曲で、「熱はただ散っていく夜の中へ」(『昨日と今日』)と歌っているように、そういうことはたぶん、根底にあるのだ。
 散っていく、消えていくから虚しいんだ、というところで終わらずに、小沢さんは「その後に優しさが残る」と言う。hideが『HURRY GO ROUND』で「花」や「春」によって表現しようとしたものと、似ている。

「友達は家へ帰ってしまった 夜通しのリズムも止まってしまった」(『暗闇から手を伸ばせ』)というのは寂しいことだが、その後で「大空へ帰そう にぎわう暗闇から涙を拾って」と続けるのが、小沢健二さんなのだ。
 熱は散ってしまう、そのことは寂しい。そのことは前提として、その後のことを考える。

 痛みや傷に関しては、『ある光』『流れ星ビバップ』を引き合いに出してこのようなこと(ここの8/30)を書いた。
 こっちには書かなかったけど、「東京の街が奏でる」というライブで『ある光』が演奏された際、CD版にはなかった「光よ(を?)、一緒に行こう」というコーラスが追加されていた。うん、やはり「光」というのは、共に行くものなのだ。傷や痛みとではなく、「全ての色を含んで未分化(『無色の混沌』)」な、光と一緒に行く。hideでいえば「君の小さな体包んでる夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」で表現されるものが、「光」に近いような気がする。鮮やかになる、光。

 すべては忘れていくもので、忘れても構わないもので、忘れるからこそ鮮やかになり、優しさになる。
 たびたび例に出すミスチルの『TOMORROW NEVER KNOWS』(若い人には、なぜ僕がこんなにこの曲にこだわるのかわからないかもしれないけど、300万枚近く売れたんですよ!)でも、「人は悲しいくらい 忘れていく生きもの 愛される喜びも 寂しい過去も」という歌詞があるが、それに対してそれ以上の言及はない。その後で「癒えることない痛みならいっそ引き連れて」と言う。「償うことさえできずに今日も痛みを抱き」という歌詞もある。「優しさだけじゃ生きられない」とも言ってしまっている。
 僕にはこの曲が、「忘れていく」ということを否定的に歌っているように聞こえる。「忘れてしまう→でも忘れるのは悲しい」という前提があって、「今日も痛みを抱き→忘れるのは悲しい→痛みを引き連れよう」というような話の流れになるのだと、僕は感じる。で、結論として「心のまま」と、自分勝手さを肯定するようなことを言う。
 これに共感した(1000円払った)人たちが、94年以降に300万人弱(Wikipediaによると売上276.6万枚、日本レコード協会は出荷300万枚以上認定?)いるというのがすごい。

 岡崎京子さんも『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』っていう本を出してた。内容は知らないから、忘れることについてどういう立場なのかは知らない。でも、「忘れたくない」人たちの心をタイトルだけで掴んだと思う。

 忘れたくない、という感覚は罪深い、と僕は思うよ。「君を忘れない」で始まる『チェリー』がスピッツ最大のヒット曲だってのにも、僕はため息が出る。『ルナルナ』という曲は「忘れられない小さな痛み」が歌い出し。大人気の『楓』も「忘れはしないよ」から始まる。2013年になっても『さらさら』という曲のサビで「悲しみは忘れないまま」と歌っている。あとは「最低の君を忘れない」とか? 忘れろや! 忘れることを肯定しろや!
「○○を忘れない」っていうスローガンと、同じようなもんだろうって思っちゃうんだ。「震災を忘れない」だとか。
「反省させると犯罪者になります」と似たような理屈で、無理に忘れないでいるとまずいんじゃないかな。夢日記つけると発狂するようなもので。忘れることの効能というのはあるでしょう。忘れるからこそ身にしみるんだし。身にしみたからこそ忘れるのだし。
 忘れないでいると、ほかのことに目が向かないからね。
 それでは「優しさ」にならないのだと僕は思う。

 もっと単純に、忘れないことよりも「考える」ことのほうが大事だし、「生活する」ことのほうが大事だろうな。

 と、僕はずっと思ってきたんだけど、
 それでいいんだね。きっとね。
 いろんな人がいるということを肯定しないと。
 それで滅ぶならそういう運命だ。
 でも暇だから自分なりの理想を言うのね。

(こういうバックナンバーはできればそのうちまた、読めるようにしたいところですが、どうなるかわかりません……。)

 引用部の最後のほう、やややけくそのように、「いろんな人がいるということを肯定しないと。」と言っています。うん、これから半年以上が経って、そういう気持ちは強くなってきたよ。

 何かを批判したり、悪く思ったりするのは、「若さ」の為せる業なんですよね。
 永遠に何かに怒ってる人ってたまにいるけど、ある意味ではそれは「幼稚」なんです。老成してくれば、すべてを許せるようになります。肯定できるようになります。ひょっとしたら、それは「どうでもいい」って無関心なのかもしれないけど。
 ただ……。「幼稚」ではいけないのか? 「子供」ではいけないのか? 「若い」というのは悪いことなのか? というのは、また別の話です。
 若い人はすぐ、何かを悪く言います。そのこと自体が良いか悪いか、僕にはわかりません。僕も未だに、何かを悪く言ったりしていると思うし、まったく言わないつもりもないし、かといって積極的に言うつもりもなく、できればあんまり言いたくないので、今のところは「そんなことにはあんまりこだわんないほうがいいよねえ」くらいに思って、適当にやっています。これからどうなるかは、不明です。

 ただ、「優しさ」というのは、「大人」ということと関係が深いようにも思うのです。『流れ星ビバップ』に「もう子供じゃないならね」ってあるように。
 傷ついて、優しくなって、大人になって……。だからといって「若い」ということを追い出しもしないで……。(「若い大人」って言葉も成立するものだから。)そんなぐらいがちょうどいいのかな、なんて思ったりしています。

「there'll be glory glory days 悲しいことのほうが少ないことを 誰に笑われたって確かめてみたいんだ」(Folder『Glory Glory』)

 それで最終的に、「傷」だとか「悲しみ」みたいなものよりも、「優しさ」が勝っていくような自分になりたいな、と思います。それが「夢は痛みを飲みこみ鮮やかになる」とか「目に見える全てが優しさ」という境地なのかもしれないな、なんて描きつつ。


●関係とは

 なぜ僕が、(意図的に)あまり怒らず、(表面的に)優しくいるのかといえば、たぶん、僕は「僕」でいたいからなのでしょう。
 言い方を変えると、僕は「独立」していたいのです。

 ただ、僕がそういう因果関係を背負って生きているからといって、そうでいることが正しいかどうかは別の話です。
 たぶん、間違っています。だってこれは僕がとても「臆病」であるということだから。

 怒らず、傷つき、優しくしていれば、「独立」した「僕」でいられるのか、というと、答えは「いられる」だと思います。僕はずっとそのようにしてきて、不都合がなかったので。ただし、僕はもうそうすべき状況にありません。
 ネガティブなことを言うのではありません。むしろこれまでの人生で、あるいはここにこれまで書いたことの中で、最もポジティブなことです。
 覚悟はできています。あとは調整だけです。
 僕がどういう形で独立してあるべきか、を模索するだけです。
(このあたりからさらに意味がわからなくなってきます。抽象度が高まっています。抽象度を高めてしまうことはよくないと思われる方もいるかもしれませんが、ひとまずお許しください。何か、今はわからない意味があるのかもしれないと。)

 関係とは、独立した人間同士の間に育まれるものです。
 独立したもの同士が、手を繋ぐから美しいのです。
 タモリさんとさんまさんが、小さな丸テーブルを挟んで語り合うとき、かれらはそれぞれ完全に独立しながらも、美しく息を合わせています。あれです。
 あのテーブルが「関係」の象徴であると、以前に書きました。

 かつて『笑っていいとも!』に、タモリさんとさんまさんが小さな丸いテーブルを挟んで雑談するだけのコーナーがあった。10年以上続いた名物コーナーだった。
 僕はあのテーブルこそが「人と人との関係」の象徴だとずっと思っている。
 人と人との間には必ずテーブルがあって、そこに「話題」が置かれる。みんなはその「話題」について語り合う。決して、個人と個人が一直線に語り合うわけではない。そうであってはいけない。「人-人」ではなく、「人-テーブル-人」なのだ。そしてそのテーブルを介して、たくさんの人が同じ話題を共有できる。
 タモリさんとさんまさんの間にある、あのテーブルがバーカウンターになれば、それが僕のやっている「場」の理想なのだ、というふうに思っている。

(中略―タモリさんのジャズ的な自由さと、自由について)

「誰もが皆自由に生きてゆくことを許し合えればいいのさ」
 っていう歌詞がやっぱり最後には出てくる。
 いつもいつも毎度どうも。
 みんながタモリさんになればいいと僕は思うし、タモリさんもそう思っている(いた)んじゃないだろうか。
 あのタモリさんとさんまさんの雑談コーナーは、まさに二人の自由のぶつかり合いだった。
 さんまさんはどちらかといえば予定調和的な笑いを好む(※)が、タモリさんと二人で話している時にそれは通用しない。今でもそうだということは上に貼った、十七年ぶりの雑談コーナーの動画を見ればわかる。
 さんまさんが行きたい方向に、タモリさんは決して道を空けない。
 だからさんまさんはまた違う道に進もうとする。タモリさんは再びそれを阻む。そうこうしているうちに、話題が一巡して、元に戻る。
 出世魚からさるかに合戦、桃太郎と進んで、再び出世魚に戻るという展開はまるで教科書のようだ。
 でもそれはただの雑談。何の意味もない。
 でも二人にはそれが楽しいし、見ているこちらもそれが楽しい。
 互いに自由であるような理想的な関係を僕はここに見る。
 なかなか難しいことだけど、あのテーブルをいつでも意識して生きていたいものだ。
 それは日常の中でジャズを奏でる舞台のようなものなのでございますからのう。

(※予定調和的じゃない笑いも、もちろん大好きですよね……。「どちらかといえば」というのは、タモリさんと比べてのこと、という感じに解釈してくださいませ。)

 さっき、「独立」した「僕」なんてことを書いたけど、「自由」と言い換えてもよさそうですね。いきなり「自由」と書くと誤解されそうだけど。
 人間は自由なもので、だけど必要に応じていろいろな「関係」を結び、あるいは一時的には一心同体とか二人三脚といえるようなくっつき方もします。愛し合うふたりならば、かなり頻繁に重なり合った状態でいると思いますし、それがいいです。ただ、重なり合っているべきでない瞬間もたぶんきっとあるはずで、そういうのを見極めていくのが「調整」かな、と思ったりしています。
 しばらくはその「調整」の中で、面倒なことも起きるかもしれませんが、よほどのことがない限り終わってしまうことはない構えなんで、大きめに構えていられたらなと思います。

 ところが……なんですけれども。
 こういうことを言っていたら、「やっぱりあなたは自分がいちばん大事なんだ」とか「あなたは結局、“何者か”でいたいのね」なんてことを、言われる可能性があるのですよ。
 そういうことを言われたら僕は本当に、心から傷つきます。べつに、自分がいちばん大事であるということや、“何者か”でいたい気持ちを否定はしません。そういう気持ちはSTAP細胞なみにありまぁす。でも、それが僕の心の中のメインストリームでは、ない……少なくともそれら「だけ」がメインストリームでは、ない……と、自分では思います。

 僕は「僕」でいたいし、他人と「関係」を結べるような「独立」した存在でありたいし、「自由」という状態を志向します。しかし……。
「僕が僕であるために 勝ち続けなきゃならない」と言うように、そういうふうであるためには、「勝ち続ける」という言葉で表現されるような力強い気合いが必要なんです。でも今の僕には、そんな気合いはありません。勝ち続けることがなんぼのもんじゃ? 勝つ必要なんかないぞ。と素直に思います。
 もっとしなやかにやりたいです。
『僕が僕であるために』を歌った尾崎豊も、『自由への扉』という超名曲を発表する直前に死んでしまいました。岡林信康さんは、もう45年くらい前に書いた『自由への長い旅』という曲を未だに歌い続けています。そういうことに象徴されるくらい「自由」ってのは難しいもので、僕みたいなもんがちょっと気軽に自由になってみようか、なんてのは無理なんです。K DUB SHINEさんも『オレはオレ』って曲で、自分を貫くことを格好良く歌っているわけですが、そういうことはケーダブさんレベルの一流人間だから、主張できるのです。僕はもうさすがに身の程を知っているので、「僕」だの「自由」だのということに、さほどこだわりはありません。
 さほどこだわりはないですが、ここまで長文を書き連ねるくらいにはこだわりがあるわけで、「じゃあ、どの程度のこだわりであるのか?」を実践的に探るのが、これまた「調整」という言葉で表したい内容でもあります。

 ぐだぐだ言っていますが、僕は人との関係の在り方を見直そうとしているのです。怒ったりしないで、感情を抑えて、偏りのある優しさばかりを蓄積させてきた僕は、ある方面での「関係」構築・維持力はけっこうなおてまえなんだと思いますが、圧倒的に弱い方面もあるのです。それを「直す」とか「矯正する」とかってのはまた、死ぬほど難しいことになってくるのでしょうが、たとえば自覚して、周囲に協力をあおぐとかですね……。べつのことで補うとかですね……。なんとかなるもんならしたいので、なにもしないよりは意識しよう、という感じです。
 僕には29年もの長きにわたって蓄積させてしまった、恐ろしく膨大な「何か」が詰まっています。それはもう、どうしようもないもので、しかもそのうちけっこうな割合はそうとう魅力的なものなのです。こういうのはだいたい、消えはしないが腐りはする、という厄介なもので、ちゃんとした管理が必要です。
 最近、ようやくスケジュールと心とに余裕ができてきて、部屋を掃除しているわけですが、やっぱり少しでも整理が進むと気持ちがいいですね。ちゃんとした管理、これ重要です。ここで一応、最初の借金とか「信じる」とかいった話に戻ります。ちゃんとした管理、これ重要です。「関係」についても、そうです。
 さすがにそろそろ、そういうことを考えはじめてもきましたよ、という、きわめて個人的なことを、これだけのスペースを使って言っているわけです……。


●最後に

 関係とは第三者が判断するものではありません。そのテーブルを挟む、あるいは囲む人たちが、一時的に共有するのが「関係」です。それがどういう関係であるか、というのは、客観的に言うことは困難だし、本人たちの間にも認識にズレがあって当然です。僕がある時期から、プライベート度の高い内容をあまりネットに書かなくなったのは、それも理由として一つありますし、過去ログをいま、撤去している理由としても、いちおうは数えられることです。

「○○さんからこういうことを言われた」と××さんが書いたら、それを見た△△さんは「ふうん、○○さんと××さんはそういう関係なんだ」と思いますね。しかし○○さんからしたら、「そんなこと言ってない!」って主張したいのかもしれませんし、××さんとしても、「ちょっと盛っちゃったな~」とか思ってるのかも知れません。

 まあー。そういうことをいちいち気にしていたら、この情報化社会、生きていけませんので、「そういうもんである」「誤解は前提」「間違っているのが自然」等々と思っていくべきなのかもです。なんせ、そんなことはインターネットが登場する以前から、いくらでもあったわけなんで。ただ違うのは、それが不特定多数に向けて、ともすれば半永久的に見られてしまうということだけです。つまり、まったく意図せぬ相手にも見られてしまう。△△さんだけでなく、□□さんとか、まだ見ぬ◆◆さんにも……。というところですね。この件については僕も反省があります。ただ、これ、難しくないですか? 気にし続けるのって。ぜったいどっかで失敗しちゃうよ~。って思います。現代の若者は細かいことはたぶん気にしてないので、僕も気にせず、大きいところだけせめて間違えないようにしたいなとか、いろいろに思えども、まだうまく整理できていない段階です。ネットとの付き合い方、むずかしい。
 なんかねー。やなんですよ。ネット上の、第三者から、関係を勝手に解釈されるのって。でもこれからは、あんまり気にしないように、するかもしれません。わかりません。調整します。以上です。

2014/05/24 土 太陽と埃の中で

 一ヶ月弱、ここに文章を書けないでおりました。これだけ空けたのは久しぶりだと思います。そのことに関していろいろ考えてきましたが、まだ整理できていないので、特に何かを書くことはできません……。そのうち、あるいは小出しに。
 僕がASKAさんの歌で特に好きなのは『太陽と埃の中で』と『月が近づけば少しはましだろう』です。この苦しさみたいなものが、結局は覚醒剤に向かわせたのかと思えば、僕はどうも他人事ではない気がします。
「死にたい」と思う人は多く、そのほとんどの人が「死ねない」ということに悩んでいると思います。「死にたい、死ねない」というやり場のない苦しみ。その循環に人は悩みます。こち亀の有名なコマで、「まず生きるという前提を置け」みたいなことを両さんが言うやつがありますが、それができるならそれがいいと思います。それは「死にたい、死ねない」ループにはまっているすべての人にとって最も望ましい気持ちであり、それだけにあまりにも難しく、ほとんど「輪廻転生からの解脱」に近いものです。
 たぶんその苦しみから抜け出るために酒を飲んだり、覚醒剤をやったりするのです。あるいは過度に眠ったり、性欲をあふれさせます。あらゆる現実逃避活動へ向かいます。
「どうせ最後には死ぬのだし」「困ったら死ねばいいんだから」という言い訳によって、それらの行動を自分に許します。どれだけ自分が損をしようが構わない、本当に耐えられなくなった時には死ねばいい、と思います。
 しかし死ねない。困りますね……。
 チャゲアスの有名な曲で『WALK』というのがあって、それが偶然いま、かかっています。「君を失うと僕のすべては止まる いつもそばにいて勇気づけて」なんて曲です。
 前向きに歩き出すための曲ですね。でも、いつでもそんな気分ではいられません。……というか、こんなことを歌わざるを得ないような人は、歩けない人なのです。

 書いたら少し元気になってきました。仕事に行ってきます。

2014/05/20 火 アナと雪の女王

「アナと雪の女王 あらすじ ネタバレ」で出てきたページを上から順に開き、僕が気になっているシーンに関する記述を一つずつ、恣意的な選別なしに貼りつけます。

ハンス王子は、自らエルサのもとに向かい、剣でエルサを亡き者にしようとするが、アナが身を挺して救う。
アナは、エルサの体は魔法で完全な氷となり、剣で傷つくことは避けられたが、石像のように固まってしまった。驚き、悲しむエルサは、アナを抱いて泣く。そこで姉妹の愛を取り戻すのだった。その愛こそが真実の愛であり、アナは氷の魔法を解くことができた。
http://1wordworld.blog26.fc2.com/blog-entry-601.html

ついにアナはクリストフを見つけるがそばでハンスがエルサを殺そうとしているのを見つけ、おもわずエルサを助けに行く。ハンスが剣を振り下ろした瞬間にアナは氷になり、剣は弾き飛ばされエルサは助かる。エルサは氷になった妹を見て、抱きしめながら泣いた。その瞬間、みるみるとアナの氷が溶け、アナが生き返ったのだ。そう真実の愛はクリストフでもなく、姉妹愛だったのだ。
http://hm-hm.net/fantasy/アナと雪の女王

エルサは自分のために犠牲になったことに悲しみで大声で泣き、氷の彫刻のようになった変わり果てたアナの姿を抱きしめた。
すると、
みるみるうちにアナの体は命を吹き返し、エルサとアナは抱き合って喜ぶ。
http://frozen-rapunzel.blog.so-net.ne.jp/2014-03-25

エルサは氷の彫像と化したアナを抱きしめて慟哭する。そのとき、凍りついたアナの体は元に戻ってゆき、姉妹は感激して抱き合う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アナと雪の女王

そしてアナが凍り、いよいよ真実の愛の出番。
真実の愛は姉妹の愛でした。
http://maiyoko.com/2013/12/1595

ハンス達がエルサを襲ったときにアナが庇った瞬間、アナは凍りつく。
これによりエルサは真実の愛に気付き、アナの相手はエルサだったことも分かりアナは元の姿に戻る。
http://douga-hikaku.net/anamovie/

エリサがアナを抱きしめることで「真実の愛」.アナは元に戻る.また自分の呪文を解呪する方法が分かる
http://lib.hatenablog.com/entry/2014/03/16/アナと雪の女王_ストーリーと感想(ネタバレあり)

 この映画は「ストーリーがありきたり」と批判されることが多いようなのですが、このクライマックスシーンについてのあらすじを見ると、「なるほど」と思います。確かにありきたりです。
 なぜありきたりかというと、ここに貼りつけたものの大部分は、「姉・エルサがアナを抱きしめることでアナがもとに戻る」という感じの解釈になってるからです。
 誰も、あらすじを客観的に書くことなんてできません。あらすじにはかならず主観、すなわち「書く人の解釈」が入り込みます。ネタバレあらすじを書いている人の大半は、どうやら「エルサ(と)の愛が氷を溶かす」と解釈しているようです。
 これは、死にかけたヒーローの身体の上に、ヒロインの涙がポトリと落ちて、ヒーローが生き返る(目を覚ます)、といった、マンガとかで非常によく出てくる状況をイメージしてるからだと思います。人は「見たことあるもの」のイメージに引っぱられます。

 僕が『アナと雪の女王』のストーリーについて素晴らしいと思ったのは、「凍り付いていくアナの心臓を溶かしたのが、アナ自身の心だった」という解釈をしたからです。
「凍り付いていく心臓は、真実の愛(true love)が溶かす」ということが作中で明らかになると、「溶かすのは、愛する人のキスだ!」って(作中の)みんなは思い込み、キャラクターたちはそれを目指して行動をはじめます。でも、真実の愛って、もらうものでもなければ、二人の行為によって証明されるようなものではない、と僕は思います。実際、王子様とも、クリストフという青年ともアナはキスをしません。代わりに「自らの意志でエルサを助ける」という行為に出ます。
 アナがエルサを助けた直後に、アナの全身は凍り付きます。しかしすぐに、彼女の心臓を中心として氷は溶けていきます。「心臓から溶けていく」ということを強調したこのシーンは、「アナ自身の心が氷を溶かした」という表現である、と僕は受け取りました。
 乱暴な言い方をすれば、エルサの気持ちは関係ないのです。
 大切なのは、「アナが自分よりもエルサのことを大切に思った」ということです。オラフという雪だるまが「真実の愛」について語ったのは、「自分よりも他人を大切にする」ということだけであって、「助けてくれた人に対して涙を流す・流してもらう」みたいなことは、関係ないと思います。
 氷が溶ける・溶けないはアナの心の問題であって、エルサが泣いたとか、抱きしめたとか、ぜんぜん関係ないと僕は思います。「姉妹愛」とかも、また別の話です。「アナの相手はエルサだった」と書いている人もいますが、なんでもカップリングしたがる人なのでしょう。
 ただ、アナのその行為に心打たれ、「エルサの心の氷」(比喩的表現)が溶けていった、ということはあると思います。しかしそれはまた別個のことなのです。
『アナと雪の女王』における「真実の愛」というのは、「人と人との間にあるもの」というよりは、「人の心の中にあるもの」だ、というのが僕の解釈です。

 映画『ヒックとドラゴン』の日本における広報では、「ドラゴンと友達になる」というコンセプトが強調されていましたが、実際見てみると「友達」なんてのは関係なくって、ヒックたちはもっとクールに、ドライに、ドラゴンたちを飼い慣らしています。キリスト教的な世界観のせいかもしれませんが、彼らはあくまでもドラゴンを「ペット」とか「乗り物」とか「武器」として扱っていました(と僕は解釈しました)。
 日本人の価値観の上では、人間と動物が平等であったほうが違和感がないので、「友達」という表現がしっくりくるのでしょう。『アナ』も、和や「関係」を重んじる日本人にとっては、そっち寄りの解釈になりやすいのではないかな、と思います。キリスト教圏の人たちは個人主義だから、僕のような解釈に寄りやすいのではないか? と、仮説ですがちょっと思います。この「真実の愛」は、キリスト教の無償の愛「アガペー」的なものを思わせますし。……ただまあ、アメリカの人とかは同時に「家族主義」的でもあるから、「姉妹の絆!!」みたいに思うのかも……そのへんはよくわかりません。

『アナ』は僕にとって、「真実の愛は人の心の中で育っていくもので、もらうものでもなければ、関係の中にあるものでもない」というところが、ありきたりどころか、新鮮でした。新鮮とまで言うと言いすぎかもしれませんが、「おお、こういうことを描くのか」と、驚きました。
 そして僕は個人的に、「関係というのは、どうしても人の心の中にしか存在できないものなんだろうな……そしてそれを表現するのは、物理的な現象でしかありえないのだろう……」などとも、心の中で思ったのでした。
 言葉というのはとるにたらないものです。

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