少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

 過去ログ  2014年3月  2014年4月  2014年5月  TOP
2014/04/27 日 キャパ越シェフ

 がんばってます
 いべんときてください><

2014/04/22 火 僕が事実を描く理由

 これ、僕の『9条ちゃん』を純文学ふうに書き直してくれたものです。(「世界に親切」2014年4月22日)
 参考として、この部分の原文を貼っておきましょう。(※同人版の第二章から。商業版とは異なります。)べつに真剣に読む必要はありません、適当に飛ばしてください。

 昼休み。
 マモルのクラス、三年C組の革命の志士たち、犬飼ケンゴを除いた三十九名は、9条ちゃんとともにせいぜい十畳ほどしかない茶道室に立てこもり、来るべき攻防戦に向けて浮き足立っていた。隣の理科室から持ち込んだ大量の四角い椅子と、人体模型、地球儀、顕微鏡、始祖鳥の化石などを引き戸の前に積み上げてバリケードを作り、手に手にバットやら竹刀やらホッケーのスティックやらそれぞれの部活の得物を持って、火炎ビンの代わりとしてアルコールランプや塩酸を備えた。頭には赤白帽を赤のほうでかぶっている。誰かが「革命とかって赤いらしいよ」というあやふやなうんちくを披露したためだ。前教頭の粋な計らいにより、申請さえすれば学校の備品も貸し出してもらえたので、拡声器やラジカセも調達してお祭り騒ぎである。なんせ一時間目から四時間目までまるまると時間があったので、色々と凝っている。女子たちの手によって茶道室は素敵なお楽しみパーティー会場に塗り替えられ、飲食物も持ち込まれた。クーラーもよく効き、トイレも備え付けられているので、人口密度の高すぎる点を除いては完璧に快適な城であった。入り口には「9条ちゃんに人権を」だの「体制の横暴を許すな」だのといった言葉の書かれた貼り紙が掲げられた。
「たたみきもちいいですうー」
 9条ちゃんは初めての和室にはしゃいでいた。その無防備でしどけない9条ちゃんの姿にマモルの変態は刺激された。
「きゅ、9条ちゃん、気持ちいいかい、たたみ気持ちいいかい、気持ちよかったら気持ちいいってもっと言ってごらん」
「きもちいいですうー」
「そうそう、ウヒヒヒ。もっと。もっと言ってもっと。そう、か、かかか快感、って言ってごらん」
「かいかんですうう」
「ムホ。じゃじゃじゃ、じゃあ、フヒヒヒ、ヤッターマン、コーヒー、ライターって言ってごらん」
「やったーまんこーひーらいたー」
「ウヒヒヒ、グヘヘへ」
「なに言わせてんのよ、バカねっ!」
 バシッ、と知恵院がマモルの頭をはたく。よろめくマモル。
「わーわー、やめろやめろ。狭いところであばれるな。いま塩酸と硫酸を混ぜるところだぞ」
「そんなもん混ぜてどうすんだ?」
「いや、だって暇だから」
「そんなことしたら塩化水素ガスが出て全員死ぬわよ」
「ダメよへんなガスなんか出しちゃ! もうすぐお鍋ができあがるんだからっ」
 隅のほうで女子たちがキャッキャ言いながらカセットコンロで鍋を煮ている。ぐつぐつ。
「おー、いい匂いだなあ」
「やみなべにしようぜ」
「やーよ」
「秋口の鍋ってテンション上がるな」
「クーラーばんざい」
 わいわいやっていると、沈痛なおももちの校長がやってきた。引き戸をガラッと開け、バリケードの隙間から声を張り上げた。
「みなさぁん、ばかなことはもうおやめなさーい。9条ちゃんとやらの登校を、許可します」
「えーーーーーっ!」
 ざわざわざわ。
「やったね9条ちゃん!」
「うれしいですう」
「さ、そういうわけで片付けるわよ」
「ダメよ! やっとお鍋ができたところなのに」
「こんなに準備したのになんだよ、前教頭を出せ前教頭を!」
「僕たちのたのしい文化祭を中止にするなんて権力の横暴です!」
「そうだ、えーっと、横暴だ!」
「そうだそうだ、えーと、えーと、横暴だ!」
 攻防戦の準備があまりにも楽しかったため、一般生徒から不満が噴出した。
「おだまりなさぁい。私が許可すると言ったからには、あなたたちには闘争の理由などないはずでーす。早く出てきて、五時間目の準備をなさぁーい」
 校長は冷静に言い放つ。前教頭はその後ろで暴れていて、ほかの教諭たちに取り押さえられている。
「おい、どうする。こんなに頑張ったのに中止だってよ」
「納得いかねえなあ」
「教室戻んのたりいよ。クーラーないし」
「そうね、ここのほうが涼しくて自習が捗るわ。どうせ授業なんか受験の役に立たないし」
 ガリ勉タイプの女子も茶道室に満足の様子である。
「だけどわたしたちの要求が通ったのは喜ばしいことよね」
「そうだなあ、要求が通るってすばらしいな」
「ひょっとして、いま要求すれば何でも通るんじゃないか?」
「そうだな、やってみよう」
 一人の生徒が、拡声器を持って叫びだした。
「学校側に告ぐ! 9条ちゃんの登校を許可してくれてありがとうございます。えーっと、でもそれだけじゃ僕たちの気がおさまりません。だから全教室にクーラーを設置してください」
「メイクと茶髪オッケーにしてください」
「校内にコンビニ作ってください」
「性教育を充実させてください」
「図書室にゴージャス宝田先生の作品を入れてください」
「ジャニーズ研究部作ってください、部費でライブ行かせてください」
 生徒たちがかわるがわる拡声器を握って叫びまくる。
 校長がついに激昂し、一喝した。
「バカなことを言ってるんじゃありません! 親を呼びますよ!」
 しーん。
「……どうする、親だってさ」
「やべえよ」
「校長のやつ、なんて汚い真似しやがる」
「鬼畜だな」
「やめようか」
「バカっ。今やめたらほかのクラスのやつらになんて言われるかわかったもんじゃないぞ」
 中庭には野次馬の生徒たちがニヤニヤしながら事の顛末を見守っているのである。中途半端なところでやめたらバカにされてしまう。彼ら普通の中学生にとって「格好悪い」と言われることはほとんど死を意味するのである。
「そうだそうだ」
「じゃあ、どうする?」
「闘うしかないだろう。闘って死ねば英雄になれるぞ」

 僕の文章はある意味でとても不親切ですね。読者に不親切。僕はほとんど「事実」のみを書いているのに対し、天才読者・なかや氏の書き直してくれた純文学バージョンは、けっこう「事実の解説」(感想?)が詳しくて、理解しやすいです。
 たとえば「権力と闘うためだ。」「下心を一切隠していない。」「9条ちゃんの口から卑猥な言葉を引きずり出そうとする。」「胃袋がきゅうっと縮こまるようなにおい。」あたりは、「解説」かなと僕は思います。「語り手による解釈」と言ってもいいです。
 彼らが立てこもっている理由を「権力と闘うため」と断じるのは一つの解釈でしかないし、下心を隠しているのか隠していないのかはマモル本人にしか(いや、本人にすら)わからないことだし、ヤッターマンのくだりも卑猥な言葉を引きずり出そうとしているというだけの動機ではなくて、たとえば「ひっかけクイズ」を楽しもうとする気持ちも1%くらいあるかもしれない(そうでないなら直接卑猥な言葉をくり返させてもいい)。あるいは、むしろマモルのほうに卑猥な言葉を口にすることへの抵抗(照れ)がある、という部分がぼやけてしまう気もする。マモルは卑猥な言葉を引き出そうとする意志「だけ」があったわけではないので、一つしか書かないのはフェアじゃない。解釈を誘導させすぎてしまう。胃袋がきゅうっと、というのは、誰の胃袋のことなのか。縮こまらない胃袋だってあるだろう。これも読者に解釈を押しつけているような感じがするから、僕なら書かないと思う。
 ただ、この頃(2009年春)の僕は、そういうことを意識的にやっていたわけではないので、「前教頭の粋な計らい」の「粋な」のように、「解説」をときおりつけています。粋であるかどうかを、語り手が決めていいものかどうか。今の僕なら書かないかもしれません。
 僕はたぶん、できるだけ「事実」だけを書きたいと思ってるんでしょうね。このことは庚申の夜におざ研でなかや氏と話していて気づきました。僕の小説がセリフばかりなのは、地の文よりもセリフのほうが「事実度」が高いからなんだと思います。「こういう音声が発されました」という記述には、解釈の入り込む隙があんまりないので。
 しかし、読者によっては、解釈を限定してもらったほうが読むのが楽だったり、面白いと感じたりするんだと思います。僕はけっこう、書いてる自分でも意味がわからないようなことを書いたりしています。前にも書きましたが知恵院左右の「自分の気持ち」云々ってのも、「よくわかんないけど知恵院はこう言いそうだ」くらいで書きました。そしたら何年も経ってから「あ、もしかしてこういうことなのかなあ~」って思いついて、びっくりしたものです。そして、それが果たして「正解」なのかどうかは、いまだによくわからないのです。

 庚申の夜に僕が、とある小説について「新鮮味がない」みたいな意味のことを言ったら、なかや氏がこんなことを言いました。「自分の持っているものだけで書こうとしてるんじゃないの?」
 あーなるほど。小沢健二さんがこんなことを書いていました。

芸術について僕が思うのは、それはスーパーマーケットで買い物をするようにアレとコレを買ったからカゴの中はこうなるというものではなくて、アレもコレも買ったけど結局は向こうから走ってきた無限大がフュッと忍びこんで決定的な魔法をかけて住みついてしまったどうしましょう、というようなものではないかということだ。言い古された言い方をすると、作者に全てがわかる訳じゃない。でもお喋りな作者というのは常にいて、哀れにも自分の作品には及びもつかないみすぼらしいメモ帳の切れはしを読み上げてしまったりする。僕は過去に何人ものそういう愛すべき作者たちが好きだったんだけど、今回はどうやら僕の番のようだ。せいぜい堂々とやろう。(『犬は吠えるがキャラバンは進む』ライナーノーツより)

 僕はこの文が好きすぎるゆえに、「無限大」を信じて小説を書くし、「みすぼらしいメモ帳」(この日記のこと)も作成してしまうわけです。僕は高校生のとき、このライナーの全文が暗誦できたし、今でもこの引用した部分に関してならほぼ完璧に再現できます。

 小説の中で、語り手が解釈を加えすぎてしまうことは、その「無限大」を殺してしまうことになるのではないかと思うのです。もちろん、こうして僕がここにいろいろ書いてしまうのも、何かを殺してしまっているのかもしれませんが、僕は作者としてというよりむしろ読者として書いているつもりなので、なんとか許してもらいたいものです。作者にすべてがわかるわけじゃない、ってのが前提にあるから、何を言っても別に問題はないと、どこかで思っているのでしょう。

「僕たちのたのしい文化祭を中止にするなんて権力の横暴です!」
「そうだ、えーっと、横暴だ!」
「そうだそうだ、えーと、えーと、横暴だ!」
 攻防戦の準備があまりにも楽しかったため、一般生徒から不満が噴出した。

 この部分なんか、僕、とても好きです。
 ここに「解説」なんて入れてしまったら、本当に野暮ったくなってしまいます。たぶんそういう文章は、今後も書かないと思います。……でも、むしろ鮮やかに書いたほうが売れるのかもしれません。難しいものです。

2014/04/21 月 丸投げ作家

 天才読者曰く、「ふつうの小説は地の文の合間に休憩みたいな感じでセリフが挟み込まれるけど、ジャッキーさんの場合はセリフの間に地の文が挟み込まれてるよね」
「なるほど、ふつうの小説は人生の合間に息抜きやってる感じだけど、僕の場合は息抜きの合間に人生やってる感じなのか!」
「可能性はある」

 たしかに僕の小説はセリフばっかりです。地の文はト書きみたいな感じです。高校のころ演劇やってて、初めて書いたまともな物語が戯曲だったから、その感じでやってるんだろうな。はっきり言って、高2のときに『少年三遷史』というお芝居を書いた時とほとんど同じ感覚で、小説も書いてます。
 戯曲は、演出と役者しだいでいくらでも変わるものです。実は多くの戯曲は、登場人物の行動や感情について、説明がありません。「怒って」とか「笑いながら」程度の指定さえ、ない場合があります。すべては演出家と役者とスタッフと、観客が決めるのです。(もちろん、かなり細かく指定している脚本もあります。)
 僕はたぶん、脚本だけ書いて、読者に「演出家」としての仕事を押しつけているのだと思います。

2014/04/20 日 走れメロス

「サロンde夜間学校」という企画の第一回として、久々に国語の授業をしました。
 お題は『走れメロス』。お客さんはみんな大人。
 45分2本勝負で、前半は音読、後半は雑談+解説でした。
 やはり音読は楽しいですね。音楽的な気分になります。
 大人になるとなかなか輪読ってことをしないです。僕も四年ぶり。
 なかなか好評だったようで、嬉しいな。

 持論を展開するだけなら楽なんだけど、それじゃあんまり楽しくないというか、本を読めばいいって話になるので、なるべく生徒が「楽しく参加」できる授業がいいですね。べつに発言したり、課題をしたりということではなくっても、話を聞いているだけでも、「楽しく参加している」という意識がもてるような授業。それが理想です。
 みんな知らないかもしれないけど、「話を聞いている」ということはそれだけで「参加」なんです。というか、その場にいるだけでもう「参加」なんです。
 参加している以上、どのように参加するか、ということが大切になってきます。
 授業をする側は、「どうしたら良い参加のしかたをしてもらえるか」を考えます。

 学校だとなかなか難しいのですが、やはりはじめから楽しく参加するつもりで来てくれている人たちの前で授業をするのは、とても楽というか……あんなにやりやすいことはなかなかないです。貴重な機会をありがとうございました。本当に。
 また機会があったら、ぜひここの読者のみなさんもききにきてみてください。
 別の企画かもしれませんが、5月か6月くらいに『高瀬舟』の授業をやる予定です。

2014/04/19-2 土 庚申を守る(守庚申)

 大江匡衡(おおえのまさひら)という人がちょうど一〇〇〇年くらい前にまとめた『江吏部集』(ごうりほうしゅう、と読むのが一般的のようですが僕は大学のとき「ごうのりほうしゅう」と読まされました)という漢詩集の中に「守庚申」という言葉がたくさん出てきます。後には「庚申待」と言われるようになるのですが、僕は大学時代にこの漢詩集を授業で読んでいたため、「守庚申」(しゅこうしん)のほうが身近です。「守庚申」は漢文なので、返り点を「守(二)庚申(一)」というふうにつけて、「庚申を守る」なんて読みます。
 守庚申というのは、とても簡単に言うと、「庚申の日に眠ると悪いことが起きるから徹夜して遊んでいよう」という行事です。庚申の日というのは、十二支十干を組み合わせた六十通りの「干支」に基づくため、六十日に一度、巡ってきます。
 平安時代には貴族の楽しみだったようですが、だんだん庶民に広がってきます。その証拠が東京のあちこちにある「庚申塔」や「庚申塚」です。江戸時代くらいにはけっこう流行っていたものと思われます。散歩していると思わぬところにあって、驚きます。本当にけっこうあります。気になる人はいろいろ調べていただけたら楽しいと思います。
 
 それで今日、一九日は庚申だったので、撮影のあとずっとおざ研におりました。

2014/04/19 土 品川

 品川のスタジオで写真を撮ってきました。
 来月だす同人誌『通電少女 おしおきかなっ?』の表紙撮影です。
 共著者の女の子二人、連れていきました。(もう一人いるのですが都合で)
 カメラマンさんは、以前とあるお店で偶然出会った男性。
 一度飲み交わしただけなのに、快く引き受けていただきました。持つべきものは、なんというか、持つべきものはですね。

 それにしても本当にこの子たちはすばらしい。三人ともそれぞれに、違った魅力を持っています。みんな、磨けば磨くだけ光り輝くと思います。僕が少しでも、彼女たちの未来を明るく豊かにさせるための力になれていればいいな、と思うんだけど、しかし、余計な道に引きずり込んでしまったところもあるかも。でもさー、変なところで発散させるよりも、エネルギーを創作に向けるって、健康的ですよたぶん。

2014/04/18 金 バーミヤン

 幸せな一夜!

2014/04/17 木 青春はいくつもある

 木曜喫茶でした。楽しいのでみなさん、ぜひいちど来てみてください。
 なんで「青春はいくつもある」ってタイトルにしたのか、忘れちゃいました。うーん。
 そうか、先日めかし込んで行ったパーティで、「青春はいくつもある」を実感したんだった。
 青春はいくつもあります。

2014/04/16 水 ついに動き出せるぜ

 ここしばらくの僕を支配していたモノがついに終わったぞ! これでようやくいろいろできる……。ふう。
 暇ねーとかいってるくせに日記ばっか書きやがってと思う人。僕は正直な人間(!)なので言いますが、こういうのは……その……仕方ないのですよ。忙しくても恋人とメールくらいするじゃないですか。しないと最悪、恋人と別れることになったりとか。そういうわけなのでおゆるしくださいませ。
 もっと言うと僕にとってこういった雑文を書くのは、食事をとるようなものなんです。このサイトだけに限っても、もう14年(!)続いているわけですし、日課なんです。その前にもノートに日記書いたりとか、ワープロで手記とったりとか、してたんですが、それは僕なりの精神安定法なのですね。必要なのです。
 もうちょっと言うと、最近更新が滞りがちだったじゃないですか。あれは今振り返ると、「書くことへのブレーキが強すぎた」からだろうと思うんです。なんというか……いろんな方面に気を遣って、書けないでいたんです。ごちゃごちゃめんどくさいこと考えて、「あれも書けない」「これも書いちゃダメだ」なんて思って、一方的にストレスをためてしまっていたのです。それと、「書くならちゃんと内容のあるものを書こう」と思っていた時期もありましたね。それもあんまりよくなかったのかもしれません。
 このサイトを続けている意義の一つとして、「いつでも初心に返れる」というのがあります。初心だけでなく、この14年の軌跡を(穴が空いている箇所もありますが……)いつでも振り返ることができます。高校一年生の僕はフォントサイズを大きくして「のび太みたいに食パンをくわえて」なんて書いていたわけで、今読むとそういうのって恥ずかしくも実に面白いのです。「文章ってのはこういうのでもいいのだ」ということを思い出させてくれるし、「この頃は本当に何も気にせず書いていたなあ」なんてことも思えます。もちろん何にも遠慮しないことは、悪いことのほうが多いような気がしますが、大人たるもの、それはバランスとって、うまい具合に遠慮したりしなかったりしていけるようにやっていきたいのです。

 笑えや泣けや怒れや素直に
 空に向かって空き缶蹴っ飛ばしてさぁ
 10年経っても20年経っても変わらない
 嫌われ者の僕らでいようね

 baroqueとかいうバンドのメジャーデビュー曲『我伐道』(がきどーと読みます)の歌詞です……この曲を買った時のことは今でも鮮明に覚えていますね。名古屋は大須にある、ヴィジュアル系の中古音盤専門店で、200円くらいで買いました。そっから10年くらい経って、未だに大好きで、恥ずかしげもなくカラオケで熱唱するような感じで居続けるとは、なんとも面白いもんですよ。「10年経っても20年経っても」ってのが、心に響きますね。
 baroqueはその後すぐ解散して、2011年に再結成しました。もちろん未だにこの曲も歌い続けています。あるDVDに収録されたライブMCで、ギターの圭くんがこんなことを言っていました。2013年3月のライブです。『我伐道』からまる10年。
 すっごくかわいい顔してるだけに、こういうこと言うとまたグッとくる。

 ほんと色々あって。もう色々、ほんと色々あんだよ、もう面倒くさい。もう、大人の事情とか。ほんともう大人とかクソなんだけど。俺も大人なんだけどさ、もう。ほんとに、ほんとむかつくんだから。本当に。本当むかつくからね。もう30になるけど一つ思うのは、だけど、そんな腐った大人になりたくない!(略)とにかく、よくわかんない、金のための、大人のルールなんかどうでもいいんだよ。だろ?(怜:尾崎みたいっすね!)そうだよ、だからバンドやってんだよ。30前に改めて思うね、本当に。でも、あとはやりたいヤツだけやりゃあいいと思うから。やりたいやつだけステージに立てばいいじゃないかよ、本当に。俺は真剣なんだよ! 本当に。ふざけんなっ!(これの4分目くらいから。前後も含め感動的なスピーチ)

 このライブの直前に、他のメンバー二人が立て続けに脱退的なことしてるので、「色々あって」とか、「やりたいやつだけ~」とかって言葉が出てきたのかな。
 この人たち(怜くんは僕の二つ上、圭くんは僕と同い年)は、10年経っても本当にずっと、同じ感じなんだなーと、嬉しく、羨ましく思いつつ、何を僕もと思います。

 面白かったのは、この動画を見ていたら、とんねるずの『一番偉い人へ』という歌の2013年末に放送された動画(原曲は1992年)がYoutubeからおすすめされたこと。これは、歌詞を読んでいただければわかるのですが、とても良い歌です。秋元康の作詞では、一番好きかもしれません。もちろん、あの時(『ガラガラヘビがやってくる』と『がじゃいも』の間)のとんねるずが歌ったから好きだというのが大きいですが……。動画に歌詞が出てくるのでぜひどうぞ。これ
「卒業することで終わった 大人たちを批難すること」という最初のほうの歌詞が語っているように、この曲は「反抗する10代の歌」ではなくて、「反抗し終わったあとの、大人の歌」です。「大人」という立場をきちんと背負った上で、「一番偉い人へ 俺たちは 今何をするべきか?」と自問自答します。
 そして一応出される答えめいたものは、「どこかで忘れてたもっと大切な何か」「時代の暗闇にきっと置き去りの何か」。さあ、いったいどういうものなんでしょうね。この曲から22年経って、僕は未だに考えています。
 とんねるずも、「10年経っても20年経っても……」をやってる人たちですね。彼らは、20年以上前の歌を平気で歌うし、30年以上前のネタを平気でやります。そこが本当に素晴らしい、美しいと思います。

『我伐道』という歌に戻りますが、あの曲にはこんな歌詞もあります。
「故に餓鬼道ぎりぎりの線で」
 完全に「ガキ」でいることはできないし、いるべきでもない、ということは、当時20歳前後だった彼らにも、しっかりわかっていたのだと思います。

 逃げだしても涙ふけ笑え
 生涯終えやふとも後悔すんな
 自分らしく自画自賛でゆこう
 ゆっくりと時代に流されたっていいから

「自分らしく自画自賛で」……僕はわりとそういう感じの人です。しかし僕に足りないのは、「ゆっくりと時代に流される」覚悟かもしれません。「餓鬼道ぎりぎりの線」を歩むには、そういう覚悟も実は必要なのでしょう。

<付録>
 ちなみにbaroqueというのは僕がたびたび語るkannivalismというバンドと主要メンバーが同じです。どちらもボーカルの怜くんとギターの圭くんという二人が中心になっており、その歴史はかなり複雑なのですが、簡単に説明すると、
 ??年 kannivalism結成
 2001年 kannivalism解散
 2001年 baroque結成
 2004年 baroque解散
 2005年 kannivalism再結成
 2008年 kannivalism活動休止
 2009年 kannivalism活動再開(いつの間にか休止状態に)
 2011年 baroque再結成
 2013年 baroqueメンバーが怜と圭の二人に
 という感じです。
 この二つのバンドはメンバー変動が激しく、歴代メンバーはWikipedia調べで合計9人。怜くんと圭くんだけが双方にずっといます。僕はこの二人、きわめて個人的には、藤子不二雄先生(または『まんが道』の満賀と才野)に次ぐ、すばらしい二人だと思っています。いや、きわめて個人的な話です。完璧すぎて腐女子がつけいる隙のない感じがあって、とてもよいのです。
 名著『鬱病ロッカー』読んでね~。(そのうち入手難になりそう。)

2014/04/15 火-3 tpotats

 思春期に何度も「どん底だ」と認識すると、「あ、またどん底だ」って思うくらいで済む。思春期に一度も「どん底だ」と認識したことがないと、「うわああああああああああああああああ! どん底だあああああああああああああああああああああああ!」って思って病院行って薬飲む感じになる。もちろん思春期の一回目のどん底の時点で病院行って薬飲んだらずっとそういう感じになる。最初のどん底のところで病院に行かず、何度も何度も堪え忍べばそういう感じにはならないのだろうが、その代わり死ぬほど辛く、死ぬ場合もあるし、腕くらいならザクザクになる。もしくは僕みたいになんかヤバイ感じになる。

2014/04/15 火-2 間違ったものを愛したままで

 みんなそんなに、意外と、ちゃんとしていないのです。
 欠陥品です。
 間違ったものを愛しています。
 間違ったものを愛することをやめると困ってしまう人たちばかりです。
 でもそれはたとえばテレビやゲームみたいなものです。
 悪いような気がするけどないと困る人は多いし、別にそんなに悪くないような気もするのです。
 仮にテレビは間違ってるとします。しかしそれを愛する人は、間違っているのでしょうか? となると、首をひねらざるを得ません。
 個人的には、テレビが好きじゃないにこしたことはないような気はします。でも、べつにテレビが好きであっても問題はない気もします。僕もかつては相当なテレビっ子であり、テレビがなければ今の僕はありません。『宇宙船サジタリウス』と出会うこともありませんでした。今でも、笑っていいとも!の最終回はちゃんとチェックするくらいにはテレビが好きです。
 テレビが間違っていたとしても、べつにテレビが間違ったことばかりを言うわけではありません。嫌なやつでも晴れた日には「いい天気だ」と言って伸びをするわけです。(しないやつもいます。)
 そうやって考えると何一つ問題はないです。
 みんな胸を張って間違ったものを愛せばいいです。
 同時に、正しいとか素晴らしいと心から信じられるものを探したり、それを愛したりすれば、自然に適当なところに落ち着くでしょう。間違ったものを愛したまま、正しいものを愛して、様子を見ましょう。永遠にそれでもいいと思います。どうせわからないのだし。

「間違ってるなんて誰にも決められないだろう!」とか、「物理法則以外に正しいものはあるんですか?」とか、そういうことはどうぞご自由に考えていてください。

2014/04/15 火 受験勉強の量と質

 なかや氏が、≪「受験勉強は量より質」とは言わないけど、「量あってこその質」だろうと思う。≫なんてことを言っています。その通りでしょうね。職人でも、技術を極めるには相当な量の鍛錬が必要なわけで。勉強もそれに近い。
≪量0なら質が100でも意味がない≫と彼は言います。彼の言いたいこととは違うかもしれませんが、たとえば、質100のものを100やれば10000になるという感じに考えましょう。質1のものを100やっても100にしかならない。でも、とりあえず100にはなる。「ドリル」とか「暗記中心の勉強」はもしかしたら、1×100に属すのかもわかりません。僕は質100みたいな勉強をするのが大好きなんだけど、それだと実は、量が1とか2とかしかこなせなかったりするんですよ。はぐれメタルみたいになかなか倒せない。それで結局、100とか200にしかならなかったりする。もしかしたら、質20くらいのものを20くらいやって、400くらいの成果を出すのが、いちばんいいのかもしれません。受験のような短期決戦の場合は。
 自分の場合を振り返ると、質100を3やって、質10を20やって、質1を100やったような感じだった気がします(イメージ)。

2014/04/14 月-2 サロン de 夜間学校

 筆箱ひとつだけで夜間学校へin the sky
 ここで講師することになりました。あるいはここ
 興味ある人は、来てみても問題ないと思います!
 池袋で、20日の13:30から18:30まで……とあります(夜間とは)。僕は90分くらいやるのだと思いますが、何をやろうかな? と考えるより先に、もう書かれていました。『走れメロス』。最初には順当ですね。最初にちらっと頼まれた時に「こういうのやりたいと思ってたんですよ~」と話したことを、覚えてくださっていたようで。いや、話が早いというか。
 主催の方は、アニメの趣味とか、「場」についてとか、教育・教養・勉強などに関してとか、僕とわりと似通った志をお持ちなので、こうして一緒に何かできるのがとても嬉しいです。(9条ちゃんプロジェクトにも一枚噛んでいただいています。)
 さて。何を話そうかな~。

2014/04/14 月 よいよ

 恐ろしく忙しい上に、こまごまといろいろとあって、大変なのですが、自分より若い人たちのことを考えると活力が出るし、近所の弁当屋や喫茶店で働いている人を見ると、心が落ち着く。
 やったことのないことを急に申しつけられて、心の中で右往左往し、パソコンの前で固まっている。さいきん近所に新しくできた喫茶店に行って、少しゆっくりしてこよう。いったんのうみそを解体して、白いメモ帳にまとめなおさないと、何もできない。アナログな人のようだ。

2014/04/13 日 「アートの究極が教育だとすれば」

 アートの究極が教育だとすれば。ミッキー吉野さんが言ってた
「難しいことを、わかりやすく」表現したポップスは、超一級の教育になる。幼き日の僕が小沢健二さんの曲を聴いてしっかりと「教育」されてしまったのは、それがそういうポップスだったからだろう。
 それにしても……いちどミッキー吉野さんとお話ししてみたいな。ひとまず、リハビリがうまくいくことを祈ります。

 僕もそろそろポップスなるものを意識してみよう。遅すぎる気もするけど、9条ちゃんってそもそもそういう作品だったりするので、実は5年前には知っていたのだ。
 それに、いつまで経っても「最も好きな作家は児童書の岡田淳さん」って言い続けているのも、まったくそういう話でしかない。

2014/04/12 土 巡り合わせ

 爆笑問題の太田光さんが、若い頃にピカソの絵を見て、ものすごく感動したっていう(ファンの間では)有名なエピソードがあります。最近またそのことについて語っていました。
 太田さんは、自分が感動したのはピカソの力じゃなくって、自分の力なんだって言っていました。
 太田さんはその時、いろいろなことに気づいたそうなんですが、そのときそれに気づかせてくれたのがたまたまピカソだっただけで、気づいたのはあくまでも自分なんだ、ということです。もちろん、そういう機会を与えてくれたピカソの絵がすごいということは前提としてあるわけですが、太田さんの言いたいことはわかります。
 以前とある人が、「大切なことに気がついた、それを気づかせてくれた人に感謝」なんてことを言っていたことがありまして、僕はひどくいらいらしながら、「そんなもんたまたまじゃねーか! そのときの自分がたまたまその言葉を、第三者の口から言ってほしがってたってだけのことだろ!!」とか、思っていたものです。「だからタイミングってのは嫌いなんだ!」
 まあ、ピカソの絵だってそういうようなもんです。もしその一年前に太田さんがピカソの絵を見ても、何も感じなかったかもしれないのです。あるいはそれがゴッホだったら、たぶんダメだったのです。
 気づかせてくれたのはピカソの絵なので、ピカソに感謝するならすればいいけど、ただそれをもって「ピカソはすごい」ってことには、ならないということです。ただ、太田さんと同じような経験をした人が、きっと何万人、何億人(?)もいるから、ピカソはすごい、ということに、現在なっているのでしょう。
 僕がどれだけゴッホでも、ある瞬間のある人には、ピカソじゃなければ訴えかけることができない、ということがあるのです。
 あるいは、僕がゴッホじゃなくて、ただの人でも、僕でなければダメだったっていう時も、きっとあります。
 人はピカソでもゴッホでも、何でもたくさん見るといいのです。しかし、何を感じたからといって、あるいは何も感じなかったからといって、それをもって「ピカソはすごい」「ゴッホはいまいち」なんて、思うべきではないのです。
 肝心なのは誰と生きていくかであって、「誰がすごいか」ではありません。「誰に感謝するか」でもないです。
 だから僕がどれだけ他人に優しくしたり、その人にとってよい影響を及ぼしたとしても、それをもって僕が「すごい」とか「感謝される」とかっていうふうには、ならなくていいのです。それは巡り合わせの話なので。ただもし僕と何らかの形で生きていけそうなら、そのほうがよければ、そうなればいいと思います。
 昔は、やはり感謝されたいと思っていましたが、今はそんなことにはあまり意味がないと思っています。

2014/04/11 金 想像力

 想像力は、あればあるほど人生がつらい。
 あらゆる可能性を考えてしまうからだ。
 想像力の豊かな人は、いろんな事を考えすぎる。
 その中から一つだけを選んで、それを信じ切ることができない。

 想像力のある人は、想像力のあるうちは宗教にはまらない。
 しかし、想像に疲れ果てた瞬間に、一気にはまる。
 想像するには体力が要る。
 また、想像することは恐ろしい。
 未来というのは恐ろしい。
 なぜ恐ろしいのかといえば、それが未知だからだ。
 宗教は、想像や未来を、既知のものにする手段である。
 だから人は、未知に疲れた時に宗教に逃げ込む。

 もちろん、恋愛も同じである。
「この人と一生」と思いこめば、未知は既知になる。
「夢」もそうである。
「絶対に野球選手になるんだ」と、思いこめているうちは、怖くない。
 未来への道が、たった一本に定まっている。
 これが「安定」であり「安心」である。

 拡散していく想像力を、一本に束ねる。
 そうすると、気持ちは楽になる。
「レールの上を歩く」「安定した生活」とはそういうものかもしれない。
 想像力のつらさから解放されることができる。

 しかし、なんにしても、生きている以上、想像力ごときを怖がっている場合ではない。
 想像力を束ね、槍のようにして、信じるほうへ突き進んでいくか。
 全方位から襲いかかってくる想像力と、常に闘いながら生きていくか。
 なんにしたって、負けないようにしたい。

 一人ではなく、二人で、またはたくさんの人たちと、「これだよね」って、想像を共有すれば、少なくとも恐怖は薄れる。
 それは時に宗教のように見えるだろう。
 決して束ねられているのではなく、寄り添っているだけなのだということを肝に銘じていよう。

2014/04/10 木 俺たちに明日はある

 なんか僕のやってることって、いちいち時代後れで、「多くの人に受ける」って感じじゃないんだよな~、って、今さら。
 それはこのサイトもそうだしおざ研もそうだし、作家活動とかもそうだし。どれも僕は面白く、素晴らしいものだと思っているし、「かけがえのない需要」がちゃんとあることもわかってるんだけど、今ひとつこう、パッとしない。
 とにかく散漫すぎてわかりにくいんだね。
 もう少しわかりやすく整理すれば、もう少しよくなると思うんだけど、残念なことに僕は、そういうことにまったく向いていない。
「おざ研」にしてもね……ネーミングからしてもう、まったく「売る」気がない。それはもちろん、あんまり目立たないようにしたかったってのもある。ただそれにしても、もうちょっと人を集められたらいいんだけどな。
 その他どれをとっても、いまいち上手でない。
 僕の能力というのはさほどのものでもないのだから、一人でやれることは限られているのだ。
 特に足りないのはプロデュース力とマネジメント力。それらの能力が僕にはほとんどない。しかし、多くの人に支持される人ってのは、たいていそれらの才能に恵まれた人たちなのだ。だから僕はこのようなのである。
 どうにかして突破口を開きたいものだ。
 今のところ思っているのは、おざ研やこのサイトに顕著だけど、そもそも僕はたくさんの人を相手にすることを考えていないのだ。「毎週10人前後きたら御の字」「30人くらい読んでくれてたらいいかな」というふうに、かなり小さな数字を最初から目標にしてる。ある意味思った通りに進んでいるとも言える。
『9条ちゃん』に関しても、同人で出したとき、最初は100部しか刷らなくて、一瞬で売り切れ。完全に読み違えた。
 商業版にしても、「1万部売れれば……」などと、小さい(いや、1万売れたらヒットではあるのですが)ことを言っていた。そうじゃなくてやっぱ、「100万部」とか言っておいたほうがいいのかもしれない。東大目指してたら早稲田受かるみたいなこともあるので。
 ただ、「ジャンプ以外からデビューしたくない」とか頑なに言い張って死んでいくようなのは嫌だなとは思う。
 とりあえず『9条ちゃん』を一所懸命作っていくことと、私生活を安定させることか。
 そして頑固さを捨てて、もうちょっと柔軟にやっていきたい。

 添え木さんが久々にうちにきて、数時間話した。
 彼と話しているとアイディアが出しやすい。
 相棒がほしいねえ。

2014/04/09 水 『あずみ』はどのように集大成か

 病床に伏せって、何もできなくなっていた時に『あずみ』を全巻購入し、空いた時間にゆっくりと読み進めている。
 結論を書くにはまだ早いが、『あずみ』もやはり、小山ゆう先生の作品である。『がんばれ元気』と同じにおいがする。
 僕は小山ゆう先生の大ファンだが、『あずみ』とその姉妹編『AZUMI』だけは、ほとんど読んだことがなかった。先日完結したので、一気に読んでみようと思ったわけだ。これを読めば、僕は小山ゆう先生の作品をすべて、少なくとも単行本になっているものに関しては、読み終えることになる。
 小山ゆう先生が一貫して描き続けてきたのは「才能」と「運命」である。デビュー作の『おれは直角』は、実は様々な内容が絡み合っていて、第一作にして集大成のような作品なのでひとまず除外するが、その後の『がんばれ元気』『風の三郎』『愛がゆく』『スプリンター』など、80年代半ばまでに始まった代表作に関しては、ほぼ「才能」と「運命」を軸にして展開されてきた。(87年に始まった『チェンジ』だけは、連載作の中ではちょっと異色かもしれない。)
 86年から10年にわたって連載された『お~い!竜馬』も、なんとか同じ枠内に入れられそうだ。竜馬は、剣についても人を動かす能力についても、ほとんど『愛がゆく』の愛と同じくらいの「才能」に満ちていた。そして、冒頭のほうき星の演出や、たてがみを持って生まれてきたことに象徴されるように、「運命」を背負った存在でもある。(また、歴史上の人物であるということも、「運命」と言っていいかもしれない。)
 ただし竜馬の才能は、「運命に翻弄されない才能」だった。竜馬は何からも自由だった。彼の才能は決して、運命に縛られたものではなかった。だから竜馬には、「運命と才能の間にゆれる葛藤」は、ほとんどなかった。そこが『スプリンター』までとは違うところである。
 たとえば『がんばれ元気』の元気は、「父親の夢を果たす(関拳児を倒して世界チャンピオンになる)」という「運命」のため、その才能をひたすらに鍛えていった。その途上には巨大な葛藤が幾つもあった。元気が勝利するたび、奪われる夢がある。壊される生活がある。しかし、元気はあまりにも強く、必ず勝利してしまう。親友の夢を打ち砕き、先輩を失明させ、スポーツ万能の天才を廃人にし、出稼ぎ外国人の収入を絶たせた。運命に従うほど、誰かを傷つけてしまう。その度に元気は葛藤を抱えた。
『風の三郎』でも、「運命に従い続ける自分への疑問」は描かれた。『愛がゆく』では、愛のために沢山の犠牲が払われ、愛はそのことに深く悩んだ。『スプリンター』でも、「何のために走るのか」は大きなテーマだった。
 竜馬の才能には、その種の葛藤があまりない。彼が抱いたのはたとえば「時代」との葛藤であった。竜馬は、自分自身の行動に信念を持ち、「正しい」と信じていた。信じようとしていた。
 そして93~94年の相撲漫画『ももたろう』に至っては、「運命」など関係ない、ただの「才能」が描かれた。主人公のももたろうは、葛藤など一切持たない。ももたろうが「勝利」(相撲だけでなく、女性問題なども含む)するたびに、傷つく人がいる。しかしももたろうはそんなことはまったく気にせず、とにかく勝つ。女を抱く。何もかも、すべてを手に入れる。読んでいるだけで胸くそ悪くなってくる、超名作である。
 小山ゆう先生が描き続けた「天才の物語」は、『ももたろう』において行き着くところまで行ってしまった。「葛藤のない天才」とはどういうものかを、痛いほどわからせてくれた。
『がんばれ元気』が、「天才の葛藤100%」だとすれば、『ももたろう』は、「天才の葛藤0%」なのである。小山ゆう先生は、20年の時をかけて、「天才の葛藤」のさまざまな形を描き続けたと、僕は思っている。

『あずみ』は、天才剣士あずみの葛藤を描いた作品と言うことができるだろうが、素晴らしいのは、あずみの葛藤には「幅がある」ことである。あずみが人生経験を積むごとに、彼女の中での葛藤の質は変わっていく。『あずみ』が20年も続いたのは、小山ゆう先生がデビュー以来描き続けたさまざまな質の「葛藤」を、『あずみ』の中で変幻自在に展開させたからではないだろうか。
 あずみには最初、葛藤がほとんどない。ももたろうのようなものだった。しかしその後あずみは、愛になったり、三郎になったり、元気になったり、光になったり、時にまたももたろうになったり、するのである。(また、あずみは世の中の変革に直接関わっているので、ときおり竜馬のようにもなる。ふざけてる時のあずみは直角っぽい。)小山ゆう先生の描いてきた、さまざまな「天才の在り方」が、あずみの中にすべて生きているのだ。だから『あずみ』は、小山ゆう先生の代表作として、20年も続いているのだ……。(実はまだ宮本武蔵が出てきたところくらいまでしか読んでないんだけど、そう予想している。)

 先日始まった最新作の『雄飛』がどういう作品になるのか、今から楽しみで仕方ない。

2014/04/08 火 柿の不人気

 僕は果物の中でいちばん柿が好きなんですが、柿の不人気さには驚かされます。なんでみんなそんなに柿が嫌いなんですか?
 柿には段階があって、最初は固いけど、だんだん柔らかくなっていきます。柔らかくなると、水っぽくなって、甘くなります。多くの家庭では、固いうちに、皮をむいて、切って、つまようじとか添えて出されるようです。しかし、柔らかくなってから、丸かじりしたり、スプーンですくって食べるようなのも、美味しいのです。ちなみに柿の皮も、固いときと柔らかいときとで、味が違います。どちらもおいしい。
 柿は、渋い時期さえ終わってしまえば、腐るまでのすべての段階がうまいのです。だから僕は柿が好きだというのもあります。
 ああー。みんな、本当にすべての段階の柿を知っているのか……? 干し柿の味を、知っていて、それでいて嫌いなのか……? なぜだ……。
 じゃあいったい、誰が柿を食べているの? 地方差?
 柿はねえ、昔から日本にあって、……調べたら弥生時代くらいに桃とかと一緒に栽培種が大陸から伝来、って書いてある……さるかに合戦にも出てくるし、桃栗三年柿八年とか言うし、日本人にとってなじみのとっても深い果物なんだぞ~。小山ゆう先生の『おれは直角』や『あずみ』にも出てくるぞ~。(どちらも舞台は江戸時代)
 たしか『おれは直角』で、柿が地面に叩きつけられてベチャってなるシーンがあるんですよ、つまりですよ、『直角』に出てきた柿は、固い柿じゃなくて、柔らかい柿だったわけですよ。静岡出身の小山ゆう先生にとっての柿は、柔らかい柿だったんですよ!
 みんな柔らかい柿食べてますか? 固い柿ばっかり食べてるんじゃないですか? 全段階の柿をちゃんと食べてくださいよ~~。
 柿に貴賤なし、と思っているので、柿を入手したら、ゆっくり食べますよ。一個ずつ、何日かの間隔をあけて食べて、すべての段階の柿を味わえるように調節しますよ……。
 それが諸行無常というものなんです。
 柿ほど表情豊かな果物はありませんよ。柿ほど段階によって味の変わるものはありません。バナナより幅があります。
 そして干し柿のうまさ!
 柿にはですね、甘くなる柿と、甘くならない柿があるのですよ。甘くならない柿は、そのまま食べることができないから、干して食べるのですよ。干すとなぜか、甘くなるのです。つまり、つまり! もともと甘いものを干し柿にしているのではなくって、渋いのを干し柿にして、甘くしているわけです。で、ありますから、無駄がないのであります。
 柿は身体にもいいようです。(野菜や果物はたいてい身体にいいわけですが)
 まあ、そんなこと言ったって、味の好みの問題なんだから、どうしようもないですね。とりあえず、「すべての段階の柿を食べたことがない人は、食べてみてください!」としか言えません……。
 たぶんみんな、食べたことあるだろうしな……。
 なんで柿が不人気なんだろうなあ。
 僕が柿に対して特別な感情を抱きすぎなんだと思う。
 なんかもう宇宙船サジタリウスみたいな感じで柿を見てる。

2014/04/07 月 えりかわさんお誕生日おめでとうございます

 昨日の帰り道、何人かで歩いてる時に、道ばたで干し柿を売っているおっちゃんがいた。僕は、猫を見かけたときの猫好きのように、何も考えずにばっと走り寄って、柿を買った。いちおう「柿買ってくる」とだけ言って。
 五秒で買って、五秒で戻ろうと思っていたのだが、おっちゃんがたくさんのことを話し始めた。
「これね、今ここにあるぶんだけだからね、安くしとくよ。こっちが一箱600円で、こっちは三箱500円。600円のふたつと、安いほうが二つで、1000円!」
 こういう売り文句をきいて、「あー、なんかサービスしてくれそうだな~」と思った僕は、やすいのを一箱追加してくれというようなことを言って、その通りにしてもらえた。やった~と思った。
 それで群れに戻ると、「んも~、信号が赤になっちゃったじゃんよ~」と言われて、何を思ったのか僕はまず「でもね~エヘヘ~、オマケしてもらっちゃった~」とか口走ったようだ。そしたら「まずごめんなさいでしょ!」的なことを言われた。確かにそうだ、と思って謝罪した。
 そのあとカレー屋に行ったんだけど、なんだかうまくいかなかった。たぶん、僕はみんなが思ってるようなことを思っていたわけではなくて、誤解があると思うんだけど、そんなことはとりあえず関係なく、うまくいかなかった。僕はもう、自分が何を言っているのかすらわからなかったし、自分がどう思っているのかもわからなかった。故障である。
 このときは、四人の人がいて、二人ずつが「私たち」を形成していて、さらに四人で「私たち」を作っていた。こういうようなとき、関係が複雑になりすぎて、僕はもう、わけがわからなくなってしまうのである。たぶん。
 こういうことについて、少しずつ勉強していきたいのです。

 僕は自分を空気の読めない人だとは思っていないけど、「人それぞれに空気の読み方は違って、読んだ結果も違って、読んだあとの行動も違う」ということがあって、それでいろんなズレが起きてしまうのだと思う。僕はけっこう特殊な空気の読み方をしていて、それがうまくいくこともあれば、全然いかないことも多い。たぶん僕は常識外れの読み方をしている。常識を身につけたい。

 これも予防線というか、過剰なところかもしれないけど……これ、文字にしたらどうしても難しく考えすぎてるみたいに見えるけど、感じたことをむりやり文字にしたらどうしても難しそうになるというか……。写真の真似して絵を描いたらどうしても描き込みを緻密にしてしまうというか……。デフォルメすればいいんだけど、それだけの度量がなくて。デフォルメするにはむしろ五倍くらいの時間がかかってしまうので……。
 この文章もなんだか鈍い。もうちょっとリハビリします。

2014/04/06 日 しゃぼんのらいぶ

 シャボンのライブいってきた! ヒステリックブルーのボーカルTamaちゃんとドラムたくやくんが組んだユニット? バンド? です。
 来ていた知り合いは自分を含めてぜんぶで六人。いやー、いい友達に恵まれたものだよ。
 僕にヒスブルを教えてくれた十四年来の良き知己すみすくんは、残念ながら観覧を辞退(?)したけど、ちゃんとチケット発売直前に「俺の代わりに行ってきてくれ」とメールをくれたし、終演後には僕からメールいれた。ヒスブルについて話す彼は本当になんというか、もう本当になんというか。なんだか彼と友達でいてよかったと思った。僕は彼がカラオケで『Reset Me』歌ったのを聴いてヒスブルが気になりはじめたのである。
 ライブの一曲目がその『Reset Me』だったのも、なんというか本当にもう、なんというかだった。
 全体の感想は、「僕がみたかった風景はこれだった」というのと、「ボーカル、いい!」「ドラム、最高!」であります。
 特に『カクテル』という曲の、出だしの歌を聴いて、「本当にすばらしいなあ」と思ったものです。トークもね、二人なかよさそうで。嬉しかった。
 印象に残ったのは、たくやさんが『夢の途中』という曲を自画自賛してたという話(Tamaさんがばらしてた)とか、「たくちゃんは天才やからなあ~」とTamaさんが何度か言っていたこと。昔からそうだけど、この人たちは素直に自分たちの曲を褒めるね……。そこが本当に好きだ。へんに謙虚すぎるよりずっとカッコイイ。僕もこのまま自分のことを褒め続けよう。適切に。
 難しいことを言うつもりはべつにないけど、なんだか希望がありますね。僕が生きていくための、糧の一つとしてヒスブルもシャボンもあって、それがこのままずっと、永遠に続いていくだろうという予感がした。

2014/04/05 土 立川四月五日

 はー。自伝でも書こう。内面を中心に。
 他人が読んでもよくわからないと思いますが、なんというか鈍りを戻すリハビリのために。

 最初期……すぐ泣く、すぐ怒る
 幼稚園……なじめない。極度の人見知り
 小学校低学年……友達あんまりいない。他人とのギャップを痛感
 小3……最もすさんだ時期。殺人も計画
 小4……この頃、もとから低かった社会(教室)的地位がさらに下降。先生も嫌いで、どうにもならない。すぐ泣き、すぐ怒るといじめられるし得がないと気づき、意識的に感情をおさえ始める
 小5……おもしろキャラへの転身。一方、家庭内では暗いまま
 小6……小学校でほぼ天下を取る(一つ下の学年を除く)
 中1……保健室の先生のせいでグレる。キャラとしてはおもしろ系
 中2……ふつうの友達ができはじめる
 中3……人間関係良好。卒業式直後、同級生の悩みをきき、何もしてあげられない無力さに直面して精神崩壊
 高1……初恋により精神崩壊
 高2……いろいろあって精神不安定
 高3……受験により精神不安定。たぶんこのあたりでやっと学校の自分と家庭の自分との差が縮まりはじめる(一人暮らしになってから、さらに縮まる)
 大1……精神不安定につけこんだ新興宗教団体(二団体)からの精神攻撃により精神崩壊
 大2……精神崩壊のすえ恋愛に逃げ込み精神大崩壊
 大3……悟りを開き、「恋愛などない」の初期状態に
 大4……進路が特になくぼんやりと不安を抱く
 大学卒業後……「まーなんとかなるだろう」と思ったら実際なんとかなった。先生になったり同人誌を作ったり木曜喫茶を続けたりしたことが自信と実績になり、どうにか精神が軌道に乗る。しかしその軌道は必ずしも美しく安全なものではなかった。途上でいろいろとふらついたが、そのたびにバランスを取ってきた。一人でバランスを取ることは慣れている。ただ誰かとともにバランスを取っていくことは苦手であり、よく考えたら生まれてから一度もそんなことはしたことがない。良くも悪くも僕は「一人」で生きてきたのであろう。そのことのツケが最高潮に達したのが去年だと思う。んで爆発、大怪我した。これまでのやり方はもう通用しないとわかった。そして今年、不調なのだ。なーるほど。なるほど。わっかった。

 よーするに、今は、昔と違って「他人や社会との協調」を考えてるってこった。当たり前でわかりきった結論だったが、全体像を見ると説得力がある。それまでがあまりにも「一人」すぎた。はっきり言って僕は自分の身を守ることだけを考えて生きてきたのだ。大学を出た年くらいから、ようやく「自分以外」のことを考えられるようになった。(だから小説も書けるようになった。)
「自分以外」のことを考えるには考えるんだけど、それと「自分」とは、あんまり関連づけていなかった。「両方を考える」にとどまっていて、そこはあまりよくない意味で「分けて考える」をしていたのだ。
 僕には基本的に「私たち」という観点がない。人間は独立した一つのものであって、徒党を組むとしたらそれは何かの目的を達成するための一時的なものに過ぎないというふうに思っている。それはあまり変えるつもりがない。
 それならば、僕が考えるべきことは、「私たちについて」である。僕はあまり、「私たち」になる気がない。しかし、「私たち」の中に参加すべき時はこれから多くなるだろう。たとえば、結婚相手の家に入っていくこと。これは僕は全然嫌ではないし、それをすること自体はさほど難しくもない。しかし、上手にそれをするのは技術的に簡単なことではない。僕は「私たち」ということに関してはまったく素人なので、どうしたらいいのか感覚的にはわからないのである。
 僕はこれから「私たち」について学んでいかなければならない。
 そして、「私」と「私たち」との折り合いの付け方を真剣に考え、修練していきたい。これは僕のような生き方を選んだ人間のさだめであり、義務であろう。
 僕は自然にはそれができない。そういう障害を持っているのだと言っていい。すっと「私たち」に入って行けるようならば、幼少時代にもっと友達がいた。
 僕の伴侶も、友達が多かったほうではない。だから彼女はたぶん、彼女なりの「私たち」についての考えや技術を持っていて、それはおそらくそれほど万能なものではない。お互いに特殊な「私たち」観があるので、僕らが「私たち」になるのは、すぐにはやや難しいのだと思う。
 ただし、僕と「万能な私たち観」を強固に持っている人とが結ばれて、果たしてすんなりと「私たち」になれるのかといえば、たぶんまあ、不可能というか、そもそも結ばれないのである。むしろ、僕らの組み合わせは僕にとっては奇跡的にやりやすいものである。(マジ感謝Yeah)
 家族に関することだけではなく、仕事についても、友人関係についても、僕は「私たち」であることに困難を持っている。たとえば、社員旅行にどうしても行けない、とか。友達とはうまくやっていると思うが、「私たち」が重層的に存在している場においては、やはり混乱する。(わかりにくくてすみませんが、こんな表現しか今はできません。暇な人は考えてみてください。)
 それは一言でいえば「わがまま」ってことで、僕だって「わがまま」と言われるような状態でいたくはないんだけど、どうしたらいいのかっていうのは、けっこう難しい。変わるということは、本当にエネルギーが要る。

 さて……上記の文章に限らず、ここ数週間の僕の文章には、何かおかしいところがあるかもしれません。もしかしたら、誰かを怒らせたり、悲しませたり、誤解させたりすることも含まれているかもしれません。その辺のことがぜんぜんわからないくらい、僕は混乱し、鈍っています。本当にすみません。そのうちまた、鋭くなってくると思いますので、もうしばらくおつきあいください。なんかそういうふうに楽しんでもらえたらとも思います。
 そういうふうだからこれは未だに「散歩」なのです……。

2014/04/04 金 勘が鈍ってる

 心身ともに体調すこぶる悪く、何もかも鈍っている。
 いろんなものが少しずつずれていて、非常に困る。
 人と話していても、うまくいかない。
 歴史に残る不調。

「ハイパー・トニック・セツノーナル」を読み返していたら、11月にこんなことを書いていた。

占いのようなものではないかと思う。
わからない時に、お伺いを立てる。
神託のような。
インスピレーションの答えを、文字によって得る。

 僕は詩を書くのだが、「なぜ書くのか?」というと、たぶんこういうことなのだろうと思って、上記の文を書いた。(ちなみに本記事は現在非公開である。)
 あまりに不調なので、神託の目当てもあって、さっき一本書いてみた。
 本当に、このページに向かうときの僕は笑えるくらい神託である。
 何も考えていない。
 心のどこかからわき出てくる水のような棒をそのまま文字に変換しているような感じなので、ほとんど書き直すことなく、いっぺんに書く。
 ほかの人が詩というものをどのように書くのかは知らないが、僕はもう、何が出てくるか自分でもまったくわからない。
 だいたいは、生活の中でふっと詩っぽいフレーズが浮かんだときに、それをそのまま流し込んでいく。数行で終わる時もあれば、今日のように数十行に及ぶこともある。
 今回は「自分が何者なのかを探していた」という最初のフレーズがなぜか浮かんだので、「あー」とか言いながらその続きを考えたら、「迷うたび愛したり」が出てきたので、書いてみようと思った。タイトルはその時点でぱっと思い浮かんだのをつけた。
 できあがったのを心理分析のつもりで読んでみると、けっこう面白い。
 このような性質とできかたをしているものなので、僕以外の人が楽しめるとはあんまり思わないのだが、それでも気に入ってくれている人はなぜか五人くらい(印象)いるので、甲斐がある。
 ちなみにこれを書き始めた2002年くらいから、だいたいやり方は変わっていない。そもそもは「意味のない詩を書こう」から始まったと思うんだけど、最近はずいぶん意味っぽい感じになってきている。でも「意図」は相変わらずない。(この辺のことは前にどこかに書いた。)

 やっぱ30を目前にしてるからなんでしょうかね。
 そう思われるのは恥ずかしいからイヤだけど。
 Don't trust over thirty.なんて言葉があります。僕があまりにも鈍ってる(このことを言い訳にしてるのも、よくないんだろうけど)ので、そのようなことを先日ついに言われてしまいました。「鈍ってるだけなんだ……許してくれ……」としか言えません。本当に今の僕は鈍っている。鈍っているので、鈍らないように努力することができない。どんなアドバイスっぽいこと言われても、それができれば苦労しないとしか言えない。僕だって心の中では、鋭くありたいと思っているし、鋭くないまでも、鈍って人に迷惑をかけることはイヤだと思ってる。また、「鈍るだの鈍らないだの考えず、自然に生きているのが一番」だということとか、いろんなことを考えてもいる。でも、実際なにもうまくいかなくて、じたばたしている。
「うまくいく、うまくいかない」みたいなことも、考えるべきではないのかもしれないけど、考えてしまう。全方位的に考えるから、どの手も選べない。まさに「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなる」……これが最も重たい病だ。
 あと「予防線を張りすぎ」というのも言われた。これは文章にしてもそうだろうな。嫌われたくないし誤解されたくない。昔はそういうことがまったく怖くなくて、「誤解するやつはしとけ」って思ってたんだけど、それで酷いめにあったり、大切な人が離れていったりしてしまうことを経験すると、どうしてもそうも言っていられなくて。でも実際、誤解を恐れない態度はカッコイイし、僕は自分が格好良かったと思うので、それを考えて誤解を恐れない態度をしたほうがいいかなとも思うんだけど、なかなか折り合いをつけられない。
 要するに考えすぎているのだろう……。
「あんまり考えない」「感覚的に生きよう」と思うのも、「考えすぎている」の一環であり、この病は本当に重い。僕が心を閉ざしたのは小四くらいだと思うんだけど、その頃から積もり積もったツケが今ごろまわってきた。感情の出し方や、使い方がまったくわからん。
「子供と同じ」ってのは高校生くらいからずっと言われてるよ。回数は多くないから、言われたタイミングはほとんど全部覚えている、と思う。そうそう、子供なんだよ。感情に関しては小四で止まってるんだから。
 十九歳くらいの時に「もっと素直になろう」って決心したんだけど、それがそれほど良い方向には行っていないみたいだ。なんかもっと、「自分らしく」っていうことを重視したほうがいいのかもしれないなあ。
 自分がどのような態度でいればいいのか、皆目わからん。
 感情の発散方法を知らないから、ストレス量がハンパないのかも知れない。カラオケでも行くか~。

2014/04/03 木 お父さん誕生日おめでとう

 今年も照れくさくてお父さんにおめでとうメール送れなかった……来年こそは! っていうかあとで送っておこうかな。

 ところで相変わらず「世界に親切」(20歳男のサイト)とか「誤読の発明」(17歳男のサイト)が面白い。なんで面白いのかっていうと、「若いから」「(僕と)同性だから」「趣味がある程度似ているから」「感性もある程度似ているから」みたいな、要するに「自分(の若いころ)と近い」っていうことなのかもしれないけど、ひろりんこさんと同じで、近いからこそ差異が面白いというか。なんというか「よくわかる」し、だからこそ「その発想はなかった!」という時にも悔しかったりしたり。まったく違う感性だったら、別に悔しくはならないもんね。そもそも考え方が違えば、その発想はなかった! ってのは当たり前。でも考え方がそれなりに似ていて、その「筋(すじ)」の上で「その発想はなかった!」がきたら、「負けた」ってなる。ひろりんこさんには負けすぎて「負けた」とすらもう思わないですね。(劇団ヨイショ)

 20歳男はがんばれば早稲田くらい入れたと思うんだけど早々に勉強を諦めて川越みたいな名前のところにあるあまり有名ではない大学に行きましたが、17歳男はどうなるんでしょうか。見たところ勉強する気はあるみたいだし、特に行きたいところがないなら「最低でも早慶」くらいに考えていいんじゃないでしょうか。是非とも東京にやってきてもらって、一緒に遊びたいものだ。
 そういえば最近久々に受験生に勉強を教え始めた。勉強って、僕とかニートさん(僕とかたいきずなで結ばれた友達)にとっては勉強イズすべて役立つ教養でありオモチャであり、どの科目でも例外なく楽しい。だから何をやってもそれなりに捗るんだけど、それはけっこう特殊なことで、多くの人には嫌いな科目とかあるし、そもそも勉強自体が嫌いだったりもする。
 その受験生はまともに勉強をするのは初めてで、受験勉強の膨大さも初めて知った。そんな彼が僕に言ったのは、「みんな、本当にこんな大変なことをやってんの? こんな膨大な勉強をやってきて、なんでみんなあんなに何も考えてないの?」という、まことにもっともなことば。そうなんだよね、大学生とか、いわゆる「大卒」の大人たちって、受験勉強を経験したうえ、さらに大学でも勉強してるわけなんだけど、それがいまいち人生や人格の豊かさに繋がってはいないってケースが、どうやら多そうだよね。

「セワシ理論」ってのがある。東京から大阪に行くとして、飛行機で行こうが車で行こうが新幹線で行こうが船で行こうが、結局は大阪に着くのである。(てんとう虫コミックス『ドラえもん』1巻「未来の国から はるばると」参照)しかもその乗り物の中で、何をしていても着く。自転車でも徒歩でもちゃんと着く。自分にとって最も心地よく、豊かな方法で行くのがいい。
 東京から大阪に行くなら新幹線でしょ? って発想しかない人は、新幹線しか選べない。船でしょ? って思ってる人は、東京発大阪行きのフェリーがないことを知って、困ってしまう。
 東京から大阪に行くときに、どうやって行くか? 最適な方法などもちろんなくて、場合によって選ぶしかない。僕は賢さとは、東京から大阪まで行くルートや方法や楽しみ方を、自由自在に考えて、実行できることだと思う。受験勉強や大学の勉強において、ちゃんとそういう賢さを培っていけると、人生や人格の豊かさに繋がっていくのだと思う。
 しかし賢さや、その先にある豊かさというのは、別に受験勉強や大学の勉強で培わねばならないものではない。勉強とかいうものは、東京から大阪に向かう方法のうちの一つでしかない。
 もし、今のところ新幹線しか浮かばないようなら、「東京駅からのぞみに乗って、二時間弱眠って新大阪駅に着く」以外にも、新幹線を使った方法というのはいくらでもあるということを考えればいい。

 うーん……もうちょっと自由に書きたい。(リハビリ中)

2014/04/02 水 なんとかにバターを

「くっだらねーなー」
 僕は呆れていて、まるで怒っているかのようだった。この「いかめしいっぽい」世界は、少なくとも1976年くらいから変わっていないらしい。もうすぐ40歳なのに……と僕はほとほと呆れているわけである。
 もう、セックスとか頽廃とかは、よそうよ。
「なんとかにバターを」とか言ってた時代から、ちっとも変わっていないんじゃないか……。僕は本当に呆れはてた。ある新作小説の中で「なんとか」と「バター」が同じ行に記されているのを見て、「結局そういうことなのかよ」と思った。偶然なんだろうけど、とても象徴的だ。
 僕はもう、「セックス」というのは古いんだと思っていますよ。セックスは普遍的なものではございません。それを証拠に、千年前の僕らはセックスなんて言ってなかった。そろそろ「セックス」という言葉から離れて、実情に即した表現を考えたって構わないだろうと思うんですね。それが(明石家さんまさんが世に広めたと語り伝えられる)「えっち」という言葉とか、(とよ田みのる先生が『ラブロマ』の中で鮮やかに発表した)「みかん」っていう言葉だったりもするんでしょう。
 たぶん表現は昔から生まれては消えていて、たとえば80年代から90年代にかけて「C(シー)」「エッチ」「一発」「寝る」などなど、いろんな言葉がじゃんじゃん流行ってきた。00年代に入るとさらに多様化して、文化ごとにはっきりと使われる用語が変わってくる。「セクロス」や「みかん」、最近だと「パコる」とか。この中にはすでにほとんど使われなくなっているものもある。そういうふうになってると思うんですよ。平安時代は「あふ」や「みる」だったとか。
 76年はきっと「セックス」の時代だったと思う。今だってもちろん、性行為について客観的に語る時には「セックス」ってのは現役なんだけど、「セックスを描写する」ということになると、さすがにもう「ださい」の域に達してるんじゃないかなあ。よっぽどの仕掛けや意味づけがない限り。
 いま新作の小説を読んで、「セックスが描写してある」と、やっぱりうんざりとしますよ。もちろんそれは「性行為が描写してある」という意味じゃなくて。たとえば僕は読者として、「みかん」が描かれてたら感動する。「えっち」ならほのぼのするけど、そろそろ飽きかけている。「シー」だとこそばゆい感じになる。そして、どんな言葉でも形容できそうにない性行為が描かれていたら、「おおー!」ってなる。
『ラブロマ』を読んだとき僕は、「なるほど、これがみかんなのか!」と感動したし、僕の書いたものでいえば『おなちん』の性行為は今のところ名前がないんじゃないかと思っています。『39条ちゃん』のラストのあれも、別に性行為ではないけど、やっぱり名前がたぶんない。どちらもとても気に入っています。
 39条ちゃんといえば「クジラとセックス」なんだけど、「セックス」ってのはもはや、そのくらいのパロディにしちゃわないと使えないようなもんだと、個人的には思っているのですよ。
 ……ただそれは、作風とか好みとか、そういったものでもあるので、もちろん「これはセックスだから駄作!」とかいったことではございません。ただ、「ああ、この人はセックスを描くようなものが好きなのか……」とかみたいな気分には、なる。「なんか寂しいな……」「結局は1976年くらいの感覚を未だにひきずってんだな……」とか。1995年までの感覚を死ぬまで引きずってしまいそうな僕が言うのもなんですけど。
 そういうふうな分け方・分かれ方もあるんだよなーと改めて思った。

 セックスともうひとつ、頽廃。それももう、いいじゃないですか……。許してください……。
 セックスやドラッグに溺れるのは格好良くないのです!
 それと「下品」ということにも、もっと敏感になってほしい!
「下品なこと言っちゃう俺(私)カッコイイ」みたいなのも、もう、終わらせましょう!
 女の子がエロかったり下品だったりすることを赤裸々に言ったり書いたり描いたりしたら偉いみたいなのは男女差別ですからね?
 それもこれも、もう終わったことなんですよ!
 終わったことを知らないだけなんです。
「あー、またやってんのか」って思われてるんですよ。
「新しいだろー!」って見せびらかしたモノが実はぜんぜん新しくない、みたいなことなんだと僕は思う。
 これだけ移ろう世の中で、「現代を切り取る」みたいなのは、中途半端にやったってダメなんです。要素が多すぎてそう簡単にはっきりと切り取れないです。流れも速すぎて切り取った瞬間にもう古くなります。うま~くやんないとたぶんダメで、Twitterとかmixiとかそういうことを描けばいいって問題じゃないんです。
「特殊な語り口で……」みたいなのも、たいていは口調がちょっと特徴的なだけだったりする。こないだ「文体」って日記で書いたけど町田康さんとか村上春樹さんが既にいるんだから、よっぽどじゃないとそれの亜流にしかならないでごんす。

2014/04/01 火 散らりずむ

 一年が経ち、また、半年も経った。変わらないのは音だけである。頭の中で鳴り響く音は千変万化、しかし耳に流れ込む音は永遠に変わらない。それが自然であり、それが人間の営為というものである。
 相変わらず僕の頭の揺れ方は同じ。眠ったぶんだけ爽快で、眠ったぶんだけ頭痛がひどい。雨が降れば水に濡れ、夜になれば、世の中の音の総量が減る。そして僕は十年前にも、あるいは二十年前にも聴いていたような歌を耳に流し込むのでありました。
 歩く感触も、日差しを受ける感覚も、ずっとずっと続いていく。秋や冬や春、部屋の中にいると、足の先が冷たくなる。夏だけに裸足でいられる。
 時間などない、と言い聞かせてみる。するとわかる。自分が本当は何に刻まれているのかを。あるいは波打っているのかを。僕が気にしているのは一つだけである。あの子が無事でいること。僕のことを愛し続けていてくれること。だから僕の胸は常に張り裂けそうである。刺激ではなく膨張によって。絶対に失うわけにはいかないのだ。
 恋愛などない、と思ってみることで、自分が本当は何に翻弄されているのかがわかるのである。そういうことは非常に多い。「自分」などない、と思ってみることで、自分とはどういうものであるかを、知ることができる。
 本当は何もないのだ、と仮定してみる。たとえば一つの言い方として、「あるとしたら関係だけがある」。それがたぶん空とか縁起とかいうものの一つの解釈になると思う。また、「Echology」というのもそういう意味を持っている。(このことは2006~8年ごろによく言っていた。)
 妄想と恐怖と不安とに支配されている。翻弄されている。これらに共通するのは、「その対象は本当は存在しない」ということだ。すべて、想像力を基盤としているのだ。想像力は、大切な力だと僕は思う。しかし、どこかに書いたように、想像力というのは「こわい」。だから、基本的にはそんなものを発揮させたくはないのである。しかし僕の想像力はここ一年だか半年くらいほとんどいつも暴走気味で、おばけや亡霊をたくさん連れてくる。それを勝手にこわがっているのは、自分で自分の首をしめているだけなのだ。世の中の精神的な苦しみは大概がこの類だと思う。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という。「魔王がいるこわいよ」「ぼうやそれは狭霧じゃ」とかって歌詞が『魔王』って歌曲にある。ぼうやは結局「魔王の娘が~~!」とか言いながら死んでいくわけだけど、あれって解釈としては「魔王なんか本当はいないんだけど勝手にこわがってぼうやは死んだ(恐怖のあまりショック死)」ってのも成立するですよね。魔王の声も、ぼうやの心の中で鳴っている声であり、枯れ葉のざわめきがそのように聞こえてしまったという……すなわち、想像力の仕業だとすると。
 魔王が、もし、いなかったのだとすると、ぼうやはこわがり損で、死に損。そういう死に方って、ありふれているのかもしれない。しかし、「魔王なんかいないよ」という楽観的で客観的な言葉が、ぼうやのようなこわがりやさんに通用するのかといえば、難しい。だって、魔王はいるのかもしれないのだし。友達が実は魔王であった、ガハハハ! なんてことも世の中にはよくある。
 人間は、あのお父さんのようにもなれるのだろう。何もこわがらない図太い人に。だけど「そんなのはいやだ!」っていう謎の感情を、ある種の人たちは持ってしまう。「こわがらないことがこわい」というところに達してしまうような人が、たしかにいる。(参考文献:藤子・F・不二雄『大予言』)
 さあ……それで果たしてどうしよう。仕方ないから、いるかどうかもわからない魔王のために、常に刀をぶら下げて、神経質に街を歩くしかないのだろうか? それがどのくらい疲れるかっていうのは、想像するだにうんざりする。ドン・キホーテ、そろそろちゃんと読んでみたほうがいいのかもしれない。
 ともかく、美しそうなことを言えば、今年も桜が咲いている。もうすぐに散っていく。それを見ながら、「こういうことでしかないのだ……」とか、目を閉じてひげでも撫でながら言えるようになれたらなあ。なんかもう少しって気もするのです。海とか空とか宇宙を眺めて、「自分はなんてちっぽけなのか!」と思っちゃうようなのが、僕にはずっとできないでいる。せっかく豊かな想像力を、途中式にばかり注いでいるからなのかな。式を書いてたら、実はそれが魔法陣になってました!! みたいなこと、これまでにもあった気がするし、期待するわけじゃないけど、無駄じゃないとは思っています。

 過去ログ  2014年3月  2014年4月  2014年5月  TOP