少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2014/03/33 水 文体

 文体ってのはあって、それはそのまま文章の魅力に直結するんだけど、文章において文体ほど照れくさいものはない。カッコイイってことは、カッコつけちゃってるってことでもあるわけで、カッコつけちゃうってのはやっぱ、一度カッコ悪いと思っちゃったらカッコ悪くなっちゃうんすよ。この「すよ」とかもね、「ね」とかもね、文体を文体っぽくしてしまう特殊な要素なもんだから、いっぺん意識し始めると、なんか使うのが恥ずかしくなってしまって、「このままだと町田康みたいになる~」「村上春樹みたいになる~」とかってジタバタもがいて、結局「すよ」とか「ね」とかをそぎ落とした、すっきりスマートなものになっていく。ここ数年の僕の日記は大半がそうだった。
 文体に対して意識しすぎて、「特殊な文体は恥ずかしい」とかって思いすぎると、だんだん無個性な(書いてる本人にはそう思える)文体になっていって、ある一つのプレーンな「型」にはまっていくようになる。僕とひろりんこさんの文体が似てしまう(僕はそう思う)のは、たぶんそういう順序。どっちかが真似したというのではなくて。(ただし、二人とも近年の橋本治さんの書くプレーンな型に少なからず影響を受けているのは確か。文体をそぎ落としていくと、どうしてもああいうふうになってしまう。)
 で、もうなんかそれは、強くなりすぎた格闘家が、「かかってきなさい」とか言うんだけどまったく構えとかとらなくて、敵が「ばかにしやがって!」とか叫んで襲いかかろうとすると「す、スキがない……」みたいになるっていう、カッコイイカンジに僕はとらえております。
 でもその強くなりすぎた格闘家の構えっていうのは、自然体であるがゆえに絵にならない。強くなりすぎた格闘家が弟子入りしてきた若者に「いつでもわしに襲いかかってくるがよい」とか言って、若者はトイレとかお風呂とかで襲いかかるんだけどすべて返り討ちにあい「ホッホッホ。甘い甘い。殺気に満ちておるわい」とか言われちゃう。自然体でいることがすでに「構え」になってしまったような達人は、どっからどう見てもただの弱そうなおじいちゃん。でもめっちゃ強い。それはカッコイイんだけど、いざというとき以外はカッコよくない。でもそれがカッコイイ。それは一つの理想ではあるんだけど、他にもカッコイイものはある。
 たとえばドラゴンボールの悟空の構えって面白い。たいてい片手を前に出して構えるんだけど、その手はよく見るとグーじゃない。人差し指と中指をちょっと開いてる。やってみると確かに合理的な気もするけど、でもたぶんどっちかっていうと見た目の問題だろうな~と思う。これとかこれとかこれとか、めっちゃ開いております。原作の本編でもけっこう開いていると思います。
 悟空のこの二本の指。「美しい文体」とはこれではなかろうか。これが悟空の文体である。鳥山明先生の文体と言ってもいいかもしれない。こういう美しさが宿っている文章をこそ、「美しい文体」と呼びたい。
「強くなりすぎた格闘家」の自然体も、悟空のようなカッコイイ構えも、どちらも美しく、素晴らしい。あ~。がんばりま~す。

2014/03/32 火 ただいま

 PEACE$TONEというユニットの曲をいろいろ聴いてる。『不死鳥~フェニックス~』という曲の歌詞に、性懲りもなくハッとした。歌詞はこの動画のページで見られます。
 ときおりこういう、直球というのか、ひたすらまっすぐで前向きな歌や言葉や、物語に惹かれることがある。そんな自分が素直だとも思うし、こんなふうに限られたタイミングでしか素直になれない自分は、ふだんよっぽど素直じゃないんだなと思ったりもする。
 ただ、この曲の歌詞が単に前向きだから、ダウンしかけの今の僕が思わず惹かれてしまっただけかっていうと、そういうわけでもなくて、僕が喜ぶのにはやっぱりそれなりの理由がある。
 たとえば「溢れ出してくアイディア 新しい計画を練ってるだけで 歓び満ちて」なんてのは、僕の大好きなパターンにぴったりはまってる。名画『雨に唄えば』で、「溢れ出してくアイディア」によって「新しい計画を練」り終わった直後の朝に「歓び満ちて」歌い出される『Good Morning』という名曲。
 この歌詞に続くサビ「I find a brand new way 新たな道を さぁ行こう」ってのも、やっぱり『雨に唄えば』を思い出させる。別に名画を連想させるから良いってのではなくって、普遍的な歓びの歌なんだなあってことが言いたいんだけど、オタクだからどうしても引用したくなっちゃう。ごめんなさい。
「いつだって軌道修正 何回も繰り返して 手にしてく汚れた設計図は きっと 間違ってなんかない」……まあ本当に、そうですよねってしか言いようのない、完璧な意味の言葉。こういうものに説得力を持たせるのが、音楽とか、歌(そしてそこに宿る人格)の力だって思うので、この人たちの歌は僕にとって素敵なものだといえるんだろうな。

 僕がたびたび引用するKannivalismというバンドの曲も、そういうまっすぐな力に満ちている。僕を素直にさせて、「本当に、その通りなんだよな」って思わせてくれる。こんな応援歌みたいな歌詞の曲を、僕が素直に好きだって言えるのは、この曲がこういう歌に裏打ちされているからなんだな。僕にとって「説得力」ってのは、こういうところから生まれているようだ。このライブでの『Life is』の映像Youtubeにもあり)を見て、「かなわねえなあ~」って僕は思ったものですよ。(この動画は、一つのドキュメントとしてもとても面白いので、8分くらいありますが是非どうぞ。実はこの前後がまた本当にいいわけなんですが……それを収録したDVDが本当に素晴らしいのです。)おまけ:リトリ
 で、そういう説得力を感じるツボっていうのは、どういうわけなんだか人によってまちまちらしくって、あるアイドルに感じる人もいれば、あるバンドに感じる人もいて、もしくはなんかいろいろ、それぞれ好きな何かに感じている。
 その「説得力」が伝えてしまうものの善し悪しは、理屈をいえばいろいろあって、僕は僕の信じたものを愛し、ある人たちは僕の信じないものを愛していると言えるわけですが……それはそれとして……「説得力」っていうのは、存在する。
 僕は「説得力」なんてもんが本当は嫌いだ。「説得力」は理屈をかき消す。正しさとか妥当性よりも、力を持ってしまう。だから、「説得力」はできるだけ怪しんだほうがいいと思っている。しかし「説得力」は歴然とある。
「歴然とある」というような言葉は『9条ちゃん』にも何度か登場するんだけど、それもまあ今はそれとして。「説得力」は歴然とあり、僕だってそれに突き動かされることがある。誰だって「説得力」のツボを持っている。
 そのツボを押さえられたら、終わりだ。うまく、タイミングよく、そのツボを押す人間が現れたら、誰だって籠絡させられる。僕はそれに悲しんできたし、今でも悲しんでいる。しかし、そのツボを持つなとか、押されるなと言ったって、どだい無理な話だ。それは歴然とある。
 違う力で対抗しなければならないのだ。

 ああ、僕はそれに勝てはしない。そう言ってずっと悲しみ続けてきた。勝てない……それはそうだ。しかし『寄生獣』でミギーも言っていたな……。「例えばお互いの戦力を“強さ”や“大きさ”だけで比較するのではなく、“形”や“色”や“におい”でも比べてみる……。どうだ?」
 佐藤春夫先生が詩について言っていたのを連想させる。言葉の意味をではなく、形や色やにおいなどを問題にするのが詩なのだという。
「佐藤春夫は何よりも先に詩人である」とかつて芥川龍之介は言った。僕が何よりも先に何であるかは、実のところまだわからない。(たぶん「何よりも先にオタク」なのだと思うが。)自分が何よりも先に何かであるならば、その「何か」であることに対して素直でありたい。そしてそこから刀でも引き出してやる。

空は果てしなく色艶やかに涼し気に世界を嘲笑ってる
僕は闇の中で見つけた光に向かって刀振りかざしながら
空は限りなく色艶やかに舞い踊り世界を洗い流す
僕は闇の中で見つけた出口に向かって君だけの手を握って嘲う

 ……PIERROTとかいうバンドの『Smiley Skeleton』(※真のピエラーはこのPVを見てちゃんと笑う)とかいう曲の歌詞。なぜか僕を「説得」させるためのツボはこういうところにもある。
 暗闇から手をのばし、光魔法キラキラによって自然界から剣を引き出して、君だけの手を握って笑うみたいな、そういうカンジで……。

「闇の中で光に向かって刀振りかざすとかカッコイイ~。でも超ダッセエ~」とか言いながらニヤニヤしている僕は、そういうツボを持っている。そんで二言目には「だけど死ぬほど正しいワァ~」とかほざいてる。
 不安がある。最も大切なものでさえ、揺れる切っ先のように不安定だ。だども……全身のツボを刺激され続けられながら、ニヤニヤ笑ってカッコつけることが僕の生きる趣味だね。そんで見事に折り合いをつけますよ……楽しく。

2014/03/31 月 お~い!きゅんま

 僕も男の端くれですから漫画を読むと自分がそういうものになった気分になります。『まんが道』でガンマン映画を見終わった直後の満賀や才野がガンマン気分になって「ダン! ダン!」ってガンマンのまねごとするような感じで、僕もついさっき「最終回で主人公が暗殺される幕末を舞台にした漫画」を読み終わったため、すっかり気分がそうなっています。
 中村橋の桜並木から舞い散る桜の花びらが、僕とすれ違うたびにはらり、はらりと真っ二つに分かれて落ちていきます。
 真夜中にジョナサンの脇から出てきた軽トラックが急に速度をゆるめ、僕の傍らで止まりました。ゆっくりと窓を開ける運転手。僕は刀に手をかけて、「ふうっ」と一息。運転手さんは「手袋、落ちたよ」と教えてくれました。僕は「ありがとうございます!」と深々と頭を下げ、軽トラの行方は誰も知らない。
 ジョナサンを背にして道路を渡り、公園の横の通路を抜けようとすると、雑木林の影から二人のちんぴらが躍りでてきました。
「金を出せ」とはさすがに言わないまでも、僕のほうをじろじろ見てきます。僕は刀に手をかけ……ようとしたのですが、そこに刀はありません。
 いやな汗がふきだしてきました。ちんぴら二人が僕の行く手をふさぎます。すでに足を止めていた僕はまた「ふうっ」と息をつきました。
 ちんぴらの一人は「こんにちは」と言いました。真夜中なのにです。これは何かの合図だろうと思いました。僕は「あ、こんばんは」と返しました。
 声をかけてきたほうのちんぴらはニヤリと笑って、僕に斬りかかってきました。当然、僕は後ろへ飛んで避けます。僕は刀を持っていないので困りました。「なにをする!」僕は大声で叫びました。数秒後、目の前の団地に明かりが一つ増えました。
「いきなりなにをするんだ!」僕はまた叫びました。一つ、二つとまた明かりが増えます。「ちっ」と叫んでちんぴらは走り去りました。
 僕は恐ろしくて、その道を通るのをやめ、ジョナサンの道路まで引き返しました。そこで僕は思い出しました。あの軽トラは、もしかして……。
 そう思って、その場に僕は数時間立ちつくし、いつの間にか朝になっていました。僕の手元に朝刊が運ばれてきます。僕はそれをゆっくりと読んで、「ああ、また朝になってしまった」とつぶやいて、朝のシフトに出勤しようとするおなじみのジョナサンのウェイトレスさんはくすっと笑いました。
 僕は家に帰って郵便受けを探り、届いているはずもない朝刊を探したものです。

2014/03/30 日 春夏秋冬

 うぎゃー! つらいよー! 死ぬ! ガー!
 僕だってツライ! だけどみんなもツライ! 誰かが元気にならなければいけません! 元気になれるヤツから、甘えを捨てて行かなければ、この世の中は成り立っていかんのです!
 どうするか? 僕はもう書くしかないのです。
 僕には読む能力と書く根気があります……そこに頼って生きていくしか我々の道はありません。

 しょせん男は一人!
 他人をアテにしたらいけません。
 信用は丸投げと同じ!
 他人に押しつけてはいけません。
 人を動かすのは金と強制力です。それがないところに何かを発生させるには、時間と気長さが必要です。自然に発生するものを待つ心。
 金と強制力のないところに無理矢理何かを発生させても、泡沫に消えるのです。自然に発生したものだけが、緩やかに続く可能性を持っています。恋愛をはじめ、あらゆるものがそうです。

 今ここにあるものが自然にできたものならば、それを人工の力でぶちこわしてしまうのは愚かなことです。

2014/03/24 月 むちうち

 あの~。たのしくゆかいに書きたいとは思うんですけど、それが一番体力を使うんですよね。尊敬する橋本治さんと数十秒だけお話できたことがあって、「『シネマほらセット』とか『アストロモモンガ』みたいな、ばかばかしいのも楽しみにしています」なんてことを言ったら、「ああいうのがいちばん体力いるんだよ~」と。なるほどなあ~そりゃそうだ、当たり前だ。笑わせるのって大変だし、笑わせることを第一の目的とせずにただバカバカしいことをやるのはもっと大変だ。そういうわけでこの日記もなかなかバカバカしいほうへいけないのであります。

 それはそうなんですけど病気になりました。19日の早朝から病人です。原付でガーってやったらボーンてなってムチウチです。
 それで整骨院に通っています。めっちゃ気持ちいいですね……。めっちゃ気持ちいいです。
 数日何もできず、とりあえず漫画くらいは読めるようになったのが昨日です。『七色いんこ』読みました。千里刑事かわいいです。
 僕が演劇や文学に興味を持ったのはこの作品のせいも大きいでしょうね。大きいです。

2014/03/23 日 俺が妹の結婚式をぶどうの季節まで待つわけがない

 いつもゆかいな僕ですが、ネット上だとちょっと怖いらしいので、このホームページももうちょっとやわらかくしていきたいと思います。
 それで同様の悩み(?)を抱えるひろりんこさんと相談して、「タイトルをラノベっぽくしてみたらどうか」という話になりました。確かに「少年Aの散歩」ってのはちょっとかたいですね。ってわけでとりあえずタイトル画像を作ってみたわけですが……



 とまあ、このようなものしか作れませんでした。
 実際、でも、こんなカンジのふんいきの文章でやっていけたらなーとか思ってます。
 別に僕はこわくないのです。ツイッターやってる人はフォローしてください。(ほら怖くない。)

2014/03/22 土 さぁ、素直に。

 20日、21日の二日間で、僕はずいぶんと素直になった。そして素直ということが「自由」と直結していることを知った。
 僕の考える「自由」の基礎は尾崎豊の『自由への扉』である……ということはもう、前提として。(さんざん書いてきた。)

 それでその、みんなが素直でいることを認めることから始めなきゃいけないよね~、なんてことを今さら思ったのでした。

 自由というのは求めるものであって、所与のものではない。……すでに与えられたものではなく、手に入れたい、そうでありたいと向かっていくもの。
 すっげー単純にいえば自由はゴールであって。ではスタートに何があるのかといえば、それは「素直」なのかもしれないのです!
「完璧に自由! フリー!」っていうのはまあ、無理なんでしょう。「最終的にはこうなってるのがいい!」って思い続けてるのが、ベタだけど、いいのでしょう。
 これは「自由」にしても「正しい」にしても、そうでしょう。だけど、だからといって「じゃあ自由も正しいも存在しないんだから無視! 考えない! 意味ない!」とかって思うのもちょっと違うってのね、たぶん。
 宗教っぽくなってくるけどやっぱり「最終的には解脱!」みたいな感じで考えるのが、いいというか、そういうふうになっているんだろうと思う。

 素直になる。そしてみんなが素直であることを受け入れる。
 素直じゃない子は素直にさせる。
 そっからようやく何か始まるんですね。

 素直に出てくる言葉に耳を傾けて、それを判断する、ってことをちゃんとしないと、だんだんわかんなくなっていくんです。それはそうだ、『レヴァリアース』にも書いてあった。

 でもそっからどうしたらいいか。
 素直に「人を殺したい!」と叫ぶ人に対して。
 どうしたらいいんでしょう。

 素直になったけど僕はただ今まで通り、「それはこういうものだ」と言っていくと思います。「あなたが人を殺したいのは××だからではないですか?」とか。
 素直さが、自由というゴールに向かって行けるかどうかは、いろいろなことが決定します。それをアシストするのが教育ってもんですね。おそらく!


 素直&自由といえば『age.』という曲。リンク先を一分くらい聴いてると流れます。その後、アルバム全体が通して聴けるので、興味ある人はどうぞ。名盤です。そしてよかったら何か、購入してください。このDVDが最もオススメです。また、ヴォーカル怜くんの本『鬱病ロッカー』も、名著です。本当です。(どうぞ信じてください。)これを読んでから例のDVDを見ると、ちょっと想像を絶する感じの気分に浸れます……と思います。

2014/03/21 金 モノ売るってレベルじゃねえぞ!

 名台詞

2014/03/20 木 小沢健二さん今日テレフォンショッキング出演した

 昨日書いたのは「見る前」にしか書けなかったことなので、「見た後」に思ったことを少し。
 義理堅いっていうとそれで終わっちゃうけど、やっぱりお祝いとか、はなむけとかみたいなのは大切だし、それを大切にしている人はカッコイイです。
 小沢さんがわざわざ「タモリさんと、スタッフのみなさんへ」って言ったのは、とても大事なことだと思います。あれは、きわめて個人的な音楽でした。「誰に」「どういう気持ちをこめて」歌ったのかが、とても明瞭。そんな個人的な音楽でも、視聴者も他人事じゃない。みんなタモリさんや、いいともが終わってしまうことに対してそれぞれ何かを思っているから、すっと聴ける。とても感動する。
 それはたぶん、昔の人が友の旅立ちに際して漢詩や和歌を詠み、それを聞いたぜんぜん関係ない人が感動する、みたいなのに近いんじゃないかな。
『僕らが旅に出る理由』が名曲だと言われるのは、そういう日本人(あるいは東洋人? あるいは人間?)の感覚が、そのまんま入っているからなのかも。

 音楽というものをいぶかしく思うことは、とてもたくさんある。「NO MUSIC, NO LIFE」なんて言葉、嫌う人は嫌う。でも今回の、このテレフォンショッキングに流れていた音楽は本当に素晴らしいです。小沢さんがはなむけの歌を歌う。タモリさんがじっとそれを聴く。これがまさしく美しさというやつだな、と思いました。

 とても個人的には、タモリさんが音楽を聴いている姿は、うちのお父さんがジャズのレコードを聴いている時の姿を思い出させました。一流(二人ともそうだと僕は思っている)のジャズマンとして、音楽を聴く姿勢というのが共通しているのかもしれない、とか。

 演奏するほうも、聴くほうも、とてもかっこよくて、こんなことって滅多にないよなと思ったものです。少なくとも、テレビの中にはあんまりない。結婚式とか、そういうところにあるようなものでした。
 そういう意味で、僕は「やられた」と思います。ふつう「メディア」の中にはなかなか存在させづらいものを、小沢さんとタモリさんは存在させてしまいました。そこには確かに「人間」がいたのです。音楽の力ってのは本当に、凄いところではあまりにも凄いのだと、素直に感動いたします……!
 僕が昨日、感じていた、喉もとに引っかかった「何か」っていうのはこのへんのことなんだけど、杞憂というやつでした。やっぱり、この人たちは凄いね、美しいねって、本当に心から、正直に言います。

2014/03/19 水 小沢健二さんあすテレフォンショッキング出演

 あす3月20日の『笑っていいとも』テレフォンショッキングに小沢健二さんが出演するそうで。僕の周りは揺れております。
 みんなそれぞれにいろんなことを言うわけです。小沢さんもタモリさんも大好きな僕はもちろんとても楽しみだし、明日は見ようと思っています。しかしなんか、こう……どうも、「何か」が喉元に引っかかっているような感じがあるのです。むちうち(疑惑)のせいか風邪っぽい症状が出てるのもありますが……。
「好きな有名人」が久しぶりにテレビに出るのだから、直線的に素直に、喜べばいいだけのことで、「喜びをほかの誰かとわかりあう!」とか歌ってればいいだけのことだと、思う一方で、頭のヒマしてる部分がそれとは別にいろいろシャーッと考えちゃったりするのです。
 それは何かというとやっぱり「有名人」って何だ? という問題。ほかのことに置き換えてみると、奥井亜紀さんやAmikaさんや、岡田淳さんがテレフォンショッキングに出てきてもそれほど嬉しくはないですね……。もちろん嬉しいことは嬉しいし、それで新しいファンが増えるっていうのは素晴らしいことだと思います。
 小沢さんの場合は、たぶんこのあたりのことをすっごくよく考えているから、ある時期からテレフォンショッキングではギターを弾いて歌を歌うっていうスタイルを定番にしているんだと、僕は思っています。公式HP「ひふみよ」のTOPにも今、明日はそういうスタイルでやる予定だと書いています。
 なぜ小沢さんが、テレフォンショッキングでギター弾いて歌を歌うのかっていうと、小沢さんが歌手であるということを、小沢さんもタモリさんも、深く強く意識しているということなんじゃないかと、単純に僕は思います。
 もし奥井亜紀さんやAmikaさんがテレフォンショッキングに出るなら、やっぱり僕は話すよりも歌ってほしい。それは僕にとって彼女たちが「有名人」であるよりも前に「歌手」だからです。

 僕はドラえもんが好きですが、アニメのドラえもんは見ていません。15年~20年くらい、まともに見ていないのではないかと思います。ひねくれた見方ですが、アニメのドラえもんは「宣伝」でしかないようにさえ思っています。質の善し悪しや、面白い面白くないはさておき、とりあえず原作の『ドラえもん』とは似て非なるものです。それでさほど興味はありません。だから、べつにアニメのドラえもんがいつ終わっても構わないといえば構いません。でも、アニメがやっているおかげで、子供たちはいつでもドラえもんを知っているし、ドラえもんのことが好きです。そのことが僕は何より嬉しいです。アニメを見て、原作に手を伸ばす子供たちがいれば最高だし、そうでなくても、知っている、好きであるということが僕にとって幸せです。アニメのドラえもんは、「続いている」「やっている」ということが何よりも大切で、質とか面白さとか、「原作と比べてどうか」ということは、それほど問題ではない、と今の僕は思っています。
 たとえば小沢健二さんがビストロスマップとかに出たら、けっこう多くの人が見るので、それはアニメのドラえもんのような意味での「宣伝」になります。95年ごろの小沢さんは、そういう出演の仕方もよくしていたと思います。そのおかげで、今小沢さんの作品を知る人が、かなり多いのです、たぶん。
 芸能界というのは、「いる」ということがとても重要な場所です。それはアニメのドラえもんが「やっている」ということとけっこう近いです。「オザケンってどこに消えたの?」なんて言葉は、十年くらいずっと言われてました。もし、たとえば96年にF先生が亡くなった時にアニメのドラえもんが終わっていたら、今ごろは「ドラえもん? あったね~」なんて言われてるかもしれません。
 テレフォンショッキングの主たる機能は、「いる」ということの表明(宣伝)じゃないかと僕は思います。もちろんテレフォンショッキングだけじゃなく、テレビ(特に地上波)というのはどこかで「いる」ということの表明としての機能を必ず持ちます。
 そのテレフォンショッキングで、ギターを弾いて歌を歌う、ということをメインでやるというのは、有名人として「いる」という表明をするだけでなく、「作品」や「芸術」といったものを表明するということにもなります。意外と、それをする人はけっこう少ないのです。

 友達や、ネットに書き込んでいる人たち(みんな小沢さんに興味を持っている人たち)の反応を見ていると、テレフォンショッキングに期待されていることは幾つかあるようです。
 たとえば、「姿が見たい」「話が聞きたい」「演奏と歌が聴きたい」「タモリさんとのからみが見たい・聞きたい」という感じ。視聴者としての素直な欲求です。
 テレビとは何か、ということをここでちょっと考えてしまいます。

 僕は『ふたりはプリキュア』『ふたりはプリキュア Max Heart』というアニメが好きです。いわゆる「初代プリキュア」とか「なぎほの」と呼ばれる、いちばん最初のプリキュアです。
 僕は彼女たちのことを、きわめて人間だと思っています。気が狂ってるかのようですが、本当にそういう意識を持っています。だから、二次創作同人誌でエッチなものがあれば、ものすごく嫌な気分になります。「お前らは、中学校の同級生の女の子のエッチな漫画を勝手に描いて、それを印刷して値段つけて売るのか?」と言ってやりたいです。(僕のような人間にとって、彼らがやっているのはそういうことです。)
 キュアブラックとして活躍する美墨なぎささんが、もしテレフォンショッキングに出たら、ということをちょっと想像します。僕は、まあ、見るかもしれないですけど、なんか変だな……と思います。タモリさんが「初めて変身したのって、そんなに前なんだ? すごいね~」とか言って、なぎさ(愛と敬意を込め、以下呼び捨て)は「そうなんですよ~」って照れ笑いをしたりするのかもしれませんが、そういうのに僕は大変な違和感を覚えますね!(真面目な話です、念のため)
 プリキュアは有名人といえば有名人なんですが、「有名人」である前に「プリキュア」であって、「美墨なぎさ」という中学生なんですよ。だけどテレフォンショッキングに出たら「有名人」になっちゃう感じがあるんです。たぶん本当になぎさがテレフォンショッキングに出たら、きっとスタジオにザケンナーが現れて、「本番中なのに……ありえなーい」とか言ってると、会場にいた(もしくは電話の前で待っていた)雪城ほのかさんが急いでやってきて手を繋いで変身、その場でプリキュアマーブルスクリュー、それで番組終了(いいともー!)っていう感じの展開になると思います。そういう感じだと、とてもいいです。
 この展開は、小沢さんがギター弾いて歌を歌うのと同じ(と言うと乱暴だけど、そこそこ近い)ことなわけです。なぎさはプリキュアとしてテレフォンショッキングに出演したことになるのです。
 でも、テレフォンショッキング、というかテレビの限界ってのはここまでで、歌手としての小沢健二さんや、プリキュアとしての美墨なぎささんは出演できるけれども、「人間」としての彼らは、出演するのがきわめて難しいです。
 四十数年間生きてきた、一人の男性としての小沢さんや、ベローネ学院に通う女子中学生としてのなぎさは、なかなかテレビ、それもテレフォンショッキングのような形式の番組には出演できません。『ふたりはプリキュア』という作品内においてさえ、「プリキュアとしてのなぎさ」が出演していると僕は思っています。
 僕はなぎさに会ったことがなく、生身のなぎさを知りません。そういう意味では、「人間としてのなぎさ」は存在しません。しかし、もしもどこかに、「生身のなぎさ」がいたとしたら……ということを僕は常に考えています。そして、その「生身のなぎさ」に対して、僕は勝手に気を遣っています。たとえば、こういう文章の中で、小沢さんに対する気の遣い方と、なぎさに対する気の遣い方は、あんまり変わりません。「ベローネ学院」ってのは個人情報なわけだから、あんまり書かないほうがいいのかもしれませんが、そういうことを言い出すとあまりにも気狂いじみてきてしまうし、作品内で明かされていることでもあるので問題ないかなという意識です。しかし、彼女の人格を侵すようなくだらない邪推や妄想だけは絶対に書きたくありません。このあたりは小沢さんに対しても、誰に対してもまったく同じです。(じゃあどこまでどのように書くのはよいのか、というバランスは、本当に難しいのですが……。)
「人間としてのなぎさ」がどこかにいる、ということを考えると、なぎさに対して気を遣うようになります。同じように、「人間としての小沢さん」がどこかにいる、と考えたら、やっぱり小沢さんに対しても気を遣うようになるわけです。(こうやって小沢さん小沢さん言ってること自体が、気を遣ってないように見えるかもしれませんが、そこは何とか許していただきたいです……。いろいろと天秤にかけた上で、検討や妥協をそれなりに重ねた上でこれを書くことを決めているのです、一応……。)
 人はテレフォンショッキングに、たぶん原則として「有名人」を求めますし、そういう登場の仕方しかできません。どんな人でも、「タモリさんとのトーク」によって「有名人」として平板化されてしまうのです。そこへ小沢さんは「ギターを弾いて歌を歌う」ことによって、「歌手」としての登場も強行します(今回もそうなると思います)。タモリさんも歌手としての小沢さんを理解し愛しているから、それを好意的に見ているだろうと僕は思っています。しかし小沢さんは少なくとももう一つ、「人間」だったりもします。それはさすがに、テレフォンショッキングには登場できない姿だと思います(※翌日追記:そうとばかりも言えなかったかもです)。おそらく、どんなメディアを通じても登場できないでしょう。別に登場すべきでもないと思いますが、その存在を忘れてしまえば、失礼なことが起きやすくなります。なぎさに対してと同じように、「どこかにいる」と思うことは、大切なのではと思います。
 ところで、小沢さんがコンサートや「おばさん」みたいな活動を好んでしているようなのは、「メディア(中間にある「媒体」)」がほぼ介在しない表現方式だからかもしれないと、思ったりします。

 長くなってきたので今日はここで。この続きとして、また「遠近」の話を書く予定です。僕がなぜテレフォンショッキングに対して絶妙な思いを抱いているのかということには、この「遠近」なる感覚がかかわっているようなのです。それとこの問題は最近書いてる「平等」にもかすっていますが、それはもしもまとまったら書くかもしれません。

2014/03/18 火 むちうちと金

●むちうち疑惑
 がらにもないことはするものではない。ひろりんこ先生から譲り渡された原付(かっこいいリトルカブ50th)にたまに乗るのですが、18日、家に帰る途中で意図せぬ急発進をしてしまい、身体がS字状にひん曲がり、以来身体の調子が悪いです。ググっても出てこないのでわからないのですがなんかの漫画(たしか手塚漫画、おそらく『ブラック・ジャック』……わかる人おしえて)にムチウチが出てきて、それ以来「ムチウチってのがあるんだ」という認識はあったため、ちょっと今怖いです。明日(20日)整骨院にでも行こうかと思っています。お金が……って思うのですが、正しい金の往き道と信じて。

●名古屋人の金銭感覚(というか僕の場合)
 これについては既に書いたか、ひろりんこ先生が書いたかしている気がするので詳しくはアレなのですが、またちょっと新しく思ったことがありました。名古屋人は、というより自分の場合でしかないのですが、僕は基本的に「××代を○万円以内に抑える」というケチり方はしないんです。計算することはもちろん、気にすること自体が面倒なのです。
 名古屋人はケチだと言いますが、僕のケチり方は、「常にすべてをケチる」です。心のどこかでいつも「ケチる」を念頭に置いています。「○万円までに抑える」って考え方をしちゃうと、「○万円までにおさまればいくら使ってもいい」になってしまうので、それはしないのです。使う金は少なければ少ないほどいいので、とにかく一円でも節約する、ケチるわけです。
「○万円に抑える」をやってると、ついつい「○万円」そのものになってしまうんです。で、臨時支出が発生したときに、そのぶんがまるまる赤字になってしまいます。
 そのように常にケチり続けていると、いつの間にか貯金がたまっています。それに対しても、「とりあえず○万円ためよう」とか「○万円たまったら××に使おう」とかは思いません。なんとなく、貯まるに任せています。で、何かお金が必要になったら、そこから捻出するというイメージです。
 こうすると、ストレスがないわけです(僕にとっては)。まあ自然に、お金を気にせず生きていけます。
 ところがこの方式には欠点があります。お金が貯まっていくペースをコントロールしづらいのです。たとえば例の「おざ研」ですが、これは2015年の夏くらいになくなってしまう予定なのです。その後はなんか飲食店でもやろうかな~とかぼんやり思ったりもするわけですが、新宿でお酒も出してって考えたらいろいろ調べるとやっぱり少なくとも△万円くらいポーンと出せる状態じゃないと不安があるなーとなってくるのです。△万円というお金を真顔で出すためには、□~◇万円くらい貯金がほしいなと名古屋人たる僕は思ってしまいます。その額を僕の収入で貯めるのにはかなり計画性が必要です。これが僕はじつに苦手です……。(そもそも今からだとかなり厳しく、コーラものまずクリームもなめない生活になるでしょう。9条ちゃんが五億部売れたらいいわけですが……。)
 うーん。無意識に自分かひろりんこ先生が過去に書いたことをなぞってしまっているかもしれません。むちうちのせいだってことにしておきます……。

 2014年3月11日

 僕の小説『絶対安全!原子力はつでん部』が電子書籍化しました。
 Amazonで買えます。Kindle、iPod・iPhone、Androidなどで読めます。
 もう電子書籍でしか読めないので、この機会にぜひ。
 3月11日発売で、311円。311冊売れたら何かします。

 自分で言うのもなんだけど、読み返したらとてもいい作品だったので、本当にぜひとも。作品については、ノンポリ天皇ブログ(当時の記事はこれとか)やAmazonの内容紹介をごらんくださいませ。
 古いブログを漁ると、はつでん部の制作日誌も出てきます。「制作日誌」タグからさかのぼってください。
 この作品は本当に、多くの人に読んでもらいたいです。

2014/03/07 金 平等下衆

 職場で、誰がいくら貰ってて、それは不公平であるというようなことを、愚痴るような人ってのはいて、あー平等主義ってのはこういうところが醜いんだよなと思う。
「よそはよそ、うちはうち」ってのは真理で、「分けて考える」という理屈を生活的な観点からたった一言であらわした箴言。「それはそれ、これはこれ」も似たようなものだが、こっちはちょっと抽象的すぎて実感しづらい。「それがそれで、これがこれなのは当たり前じゃん」という感想も出てきてしまう。一方「よそはよそ、うちはうち」というのはきわめて実際的で、いろんな事情によってそうならざるを得ないということでもあるわけなので、「それを言われたらもう仕方ない」という雰囲気さえある。(と僕は感じる。)
「自分は自分」「オレはオレだから」という、いわゆるこう、男らしい……インテリ(「頭いい」)側の人からは「ヤンキー」とか「DQN(ドキュン)」とか言われてしまうような感じの言い方も、「よそはよそ、うちはうち」のように非常に実際的である。
 たとえば日本を代表する超硬派ヒップホッパー、ケーダブシャインさんは『オレはオレ』(歌詞)という曲を出している。
「よそはよそ、うちはうち」と言うお母さんも、「オレはオレ」と言うヤンキーも、インテリからしたら「ぜんぜんものを考えてない」人たちなんだと思うけど、彼らの主張は「論理的思考」の代わりに生活とか直観とかにしっかり裏打ちされている。
 彼らは「平等主義」というものから、意外と外れていたりする。平等を唱えるのはけっこうインテリなのだ。算数ができないと平等かどうかの計算もできない。子どもが「○○くんの家にはファミコンあるよ(だからうちにも買って)」みたいに不公平を叫ぶのは、学校で算数を習っているからかもしれない。(暴論のように聞こえますが僕はけっこう本気です。)学校に通っている子どもというのは、どちらかといえば「インテリ」側なのだ。
 学校から脱落(脱出)したヤンキーや、学校や会社から離れてひたすら「生活」の中に住み着いた専業主婦は、「インテリ」から離れ、独自の考えを身につける、のかもしれない。
 日本を代表するヒップホップトラックといえばまずドラゴンアッシュの『Grateful Days』だと僕は思う。「俺は東京生まれHIP HOP育ち 悪そうな奴はだいたい友達」のアレである。この曲の中で「カバンなら置きっ放してきた高校に」というリリックがあって、これぞ「論理的思考」からの脱却を歌っているのだと僕は勝手に思うわけである。
「俺は東京生まれ……」から始まるジブラさん(このパートを歌ってる人)のリリックは、要約すると「ヤンキーだった俺だけど今はラップで成功して東京代表トップランカーだぜ!」みたいなことで、古くは矢沢永吉さんの自伝『成りあがり』のような、ひとつの「成功物語」なのだ。ここに「平等主義」はないし、「論理的思考」も特にない(と思う)。
「成りあがり」や「一攫千金」は平等とは無関係だ。「勝てば官軍」の世界。「嫉妬する奴はすればいい。俺は成功者だ」という開き直りがある。(ここで開き直れるからこそ彼らはヤンキーなのである。)

「生活」の中に入っていくこともできず、「成功者」として自己肯定することもできない、どっちつかずで気弱な男女が、最後にすがるのが「平等」である。

 藤子・F・不二雄先生の『征地球論』という短編にこういうことが描かれている。人生というレースにおいて、スタート地点では平等は叫ばれないが、勝敗が明らかになってくるにつれ声高く平等が叫ばれるようになる、というのだ。
 インテリはヤンキーを嫌う。なぜかといえば、ヤンキーは結果として「成功」してしまうからだ。失敗したヤンキーはヤンキーではなくなる。成功しているからこそヤンキーなのだ。喧嘩の弱いヤンキーが成立しないのと同じことだ。インテリはヤンキーの成功をやっかみ、平等を唱える。また、失敗したヤンキーに対しては上から目線で同情し、また平等を唱える。

「誰がいくら貰ってて、それは不公平である」という平等主義は、成功していないか、自分を成功した存在として自己肯定できない人から出るため息である。あるいは、「よそはよそ、うちはうち」と言えるくらいに、「うち」を肯定できないし、「よそ」も肯定してあげられない、嘆きと憎しみに親しんだ人である。「よそ」と「うち」を、あるいはどちらか一方だけでもせめて肯定することができれば、醜い平等主義は消えると思う。
「オレはオレだから」と言えるほどは自分に自信がなく、「オレはオレだから」と言う人間を認めてあげるほどは心に余裕がない。また、そういう人間と折り合いをつけて生きていくほどの能力もない。そういう人は、とにかく「平等」を叫ぶしかない。「なんで?」という疑問形を永遠に唱えて生きていくしかない。「なんでうちにはファミコンがないの?」と叫ぶだけでファミコンが降ってくるわけがないし、そういう人間が魅力的であるとも思えない。そこからは早めに脱けだしたほうがいいと僕は思う。
 ただ、それでファミコンを買ってあげてしまう平等主義の親がいるのも事実であって、それが最も巨大な問題なのかもしれない。買ってあげるなとは言わないが、それは「買ってあげる」という形で平等を実現させるということであって、まあ、そういうことなんだと僕は思います。

2014/03/06 木 巨大かつ構造的な(やわらかな)洗脳

 客観的に異常であるような状態にあって「これでいい」と思ってしまったら、洗脳を疑うべきである。ただし「客観的に異常」ということを証明することは難しいし、だから本人は異常であるという自覚ができにくい。
「これは異常かもしれないけど、僕(ら)にとってはこれでいいんだ」という形で自覚をする人もいる。新興宗教にもいるだろうし、芸能界にもいるだろう。これを洗脳と言うのかどうかは知らない。しかしここにはそういう「構造」がある。「異常だけど、自分にとって利益があるんだからそれでいいじゃない。」
「大資本が世の中を動かしていくと、これまでにあった豊かさや多様性というのは失われていくよね。それってこれまでの目から見たら異常だけど、でもやっぱりイオンやユニクロは便利だし、これからはそういう世の中になっていくんじゃないの」とか、「僕らが自動車やスマートフォンの恩恵を受ける代わりに、環境が汚染されたり、世界のどこかで誰かが苦しんでいるのかもしれないけど、そんなことを気にしていたら日常生活が送れない。とりあえずそこは分けて考えることにしよう。ひとまずは気楽に、楽しく生きるのが先決」とか、そういうのもたぶん、「異常」かもしれないような状態の中で「これでいい」と思ってしまうことだったりする。
「異常」に気づいてしまった人が、その「異常」に対して「これじゃいけない」と強く思ってしまったら、どうなるか。Apple社に勤めていた知人が小沢健二さんの『うさぎ!』を読んで、「仕事やめようかな……」と本気で悩んだという話をむかし聞いた。確かに『うさぎ!』は、Apple社のようなイメージのものを肯定的には描いていないだろうから、そう思うのもわかる気はする。でも、読んだからといってそうはならない人もいる。
「これじゃいけない」と思ってしまう人の中には、「世の中はこれじゃいけない、世の中は悪い、だから自分も、世の中の善い側面にだけ属していなければならない」というふうに、思い詰めてしまう人がけっこういる。
 そこをうまく分けて行くことが、気楽に生きていくコツなんだろうとは思えど、そこをまったく無視してしまっていいのか? という葛藤を持つのは、まともな神経だと思う。そこで、どうバランスを取りながら、何をするのか……というのが、肝心になってくる。
 生きるだけでもいいし、子どもを育てることでもいいし、あるいはもっと全然別の、自分の信じる何らかのことでもいいと思う。

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