少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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 12/1(日)14時~ おざ研一周年

 ↑イベント的な感じでやるんで、よかったらおこしくださいませ。
 ショップカードできましたのでお渡しします。それとお知らせもあります。

2013/11/29 金 Ale?

「この人は」という直観が、確信になる時ほど、嬉しいことはない。
 小さい頃からずっと好きだった岡田淳さんという作家が、今でも一番好きな作家だというのも、とても嬉しい。
「この人は、いろいろ問題があるけど、でもなんか、気になるんだよなあー」と、いろいろギクシャクしながらも付き合いを続けて、ある時にパーッと、「おお、この人は!」となるようなことも、ある。それも嬉しい。「出会い直した」ような感じになる。「あー、仲良くしててよかったー」と。The day after.
 ものごとは気長に構える。直観はとりあえず信じる。
 その過程で、なるべくは手を抜かない。常に疑う。
 僕が素敵な友達に恵まれているのはそういう姿勢でいるからだと信じます。
 手を抜いたり、甘えたりして酷い目にあったこともけっこうあるので、そんなにうまくできてるわけじゃないけど。

2013/11/28 木 「自分」など無い!→じゃあ「自分」ってなんだ?

「自分」ってなんだ?
 そんなもんはありません。
 そういうふうに考えてみます。

 かつて、「恋愛」というものを定義しました。
「ないものを、あると思いこむことが恋愛だ」というものです。
「恋愛」なんていう、都合のいいだけの関係に実体はありません。
 ねつ造品です。
 好意を持つ相手がいて、その人と何らかの素敵な関係が持ちたくて、でもその中身が今は何にもないから、とりあえず「恋愛」という関係をねつ造して、「ああ、私たちは恋愛という関係にあるんだ、だから仲良くしていていいんだ」と思いこむ。それが恋愛の仕組みだと僕は言います。
 相手との間に、幻想的な「恋愛」を措定して、「恋愛しているからには、こうであるべきだ」「こうであるはずだ」と思い込み、その思い込みに沿って感情や肉体を動かしていくのです。
 恋愛の対象は常に、個人が勝手にでっち上げた「恋人」や「関係」であるから、現実とは乖離しています。しかし、「じゃ、僕らはこういう風にでっち上げていこうね」という双方の暗黙の合意により、恋愛は一時的に安定します。(この状態の時に、中身のある「関係」を築きあげられるかどうかで、二人のその後は決まってくるのだ、と思います。が、このことは今回の筋とはあまり関係ありません。)

「自己愛」という言葉があります。
 これは「自分への恋愛」のことです。
 恋愛とは「ないものを、あると思いこむ」ことなので、「自分への恋愛」というのは、「自分の中にはないものを、あると思いこむ」ということ、なのです。
 すなわち、「愚かなくせに賢しらである」とか、そういう類のやつです。
 特に根拠もなく、「おれはすごい!」とか思いこむのは自己愛です。自分への恋愛。ないものを、あると思っている。思いこんでいる。これぞ恋愛、と僕は思います。

「ないものを、あると思う」
 それが他人や、他人との関係に向けられれば、恋愛であり、自分に向けられれば、自己愛。
 それで僕は「恋愛など無い」と言います。ないから、でっち上げるのです。だから、あると思う人には「ある」のでしょう。この点は宗教に似ているのかもしれません。
 そして、「自分など無い」とも思います。
「自分」なんてものは、ないのです。それなのに、あると思おうとするから、悩む人は悩むのだと思います。
 最近、複数の女の子から、「自分はからっぽだ」という言葉を聞きました。
 そりゃ当たり前です。自分なんてないんです。あったとしても、そこに「中身」と言えるようなものは、なくていいのです。でも、「あるはずだ」「あったほうがいい」と思ってしまうから、「からっぽだ」と悩みます。
 では、いったい何が「ある」のでしょう?

 それは「関係」です。今の僕はそういう立場です。
 個人なんてものは、ありません。ただ「関係」だけがあります。
 人間というのは「人の間」と書きますが、本当にこれはよくできた言葉で、「人」というのは「人の間」そのものでしかありえないと僕は思うのです。
「人間」=「人の間」=「関係」です。
「からっぽ」であるような人たちの間に、「関係」があって、その「関係」の中にだけ、「中身」といえるようなものはある。
 そして、「個性」とか「自分」といったようなものは、誰かと「関係」をつくっていく際の、癖だったり、能力だったり、するのでしょう。

「自分がある」「自分がない」という言葉は、僕もうっかり使います。(つい数日前も使っています。)
 どういう意味で、僕はこれらの言葉を使ってしまっているのだろう、と考えました。たぶん、「関係」を作ることを上手にできることが「自分がある」ということで、上手にできないことが「自分がない」ということなんです。たぶんそういう意味で僕は、これらの言葉を使っています。
「関係」を作ることが苦手な人は、「自分がない」。他人との間に何もない、何も作れないということだから。

 人というのはみんなからっぽであって、中身とは「関係」の中にだけあるものです。それがわからないと、本来からっぽである自分をじっと見つめて、そこに幻を見ようとしてしまいます。そして都合良くでっち上げた「自分」なる像を振りかざし、それを他人に押しつけます。そんなところに「関係」なんか生まれようがなく、やっぱりその人は「自分がない」ということにしかなりません。
 人はからっぽです。からっぽだから、人との間を生きるのです。人との間でしか、生きていられないのです。

 個人としての「自分」なんてものは、ありません。
「自分」とは、「関係」そのものです。
 そしてもちろん、「他人」というのも存在しません。
「他人」も「関係」そのものです。

 恋愛や自己愛は、それをわきまえない人が落ちていく陥穽です。
 たぶんわけがわからない人にはまったくわからないと思いますが、できればしばらく覚えていて、何かのヒントにしてください。

2013/11/27 水 ボトルキープの闇

 飲み屋に行くと、バーテンダーの背中の棚に、同じ銘柄の焼酎やウィスキーのボトルがズラーッと並んでいる光景をたまに目にします。それぞれに「ヨシオさん」みたいな名前が大きく書いてあります。これは「ボトルキープ」という文化が最も平凡な形に純化して現れた例です。
 ボトルキープとは、何千円か出してボトルを一本買って飲んで、飲みきれないぶんはお店に置きっぱなしにして、次に来たときにまたそれを飲む、という仕組みのことです。ボトルキープしてあれば一円も払わなくていいのかというとそうでもなく、「ボトルチャージ」というお金が別途かかったりします。
 けっこう多くのお店で、「うちの店でボトルキープできるのはこの銘柄だけだ」みたいなルールがあります。ルールがなくても、みんな暗黙の了解で同じ銘柄をキープしているのかもしれませんが、なぜか相当な割合で、最初に書いたような「ズラーッ」が見られます。
 お店としては、同じ銘柄を一気にたくさん仕入れたほうが、一本あたりの原価が安く済むので嬉しいのでしょう。一個50円、三個100円みたいなのがお酒にも多少あるのだと思います。また、ボトルキープはこの銘柄、と決めておけば、「あーごめんなさい。その銘柄いま、ないんですよ」とかいうことがほとんどなくなるので都合がいい。などなど、様々な理由で「うちでボトルキープするならこの銘柄!」という雰囲気になるのだと思います。
 しかし、そのー……。そんなに同じ銘柄ばっかり飲んでお客さんは満足なのでしょうか? たいていのお店のボトルキープ銘柄は、「あまり名前の知られていない、すごく安くて無難な味がする焼酎」とか、「みなさんおなじみのあのウィスキー」と相場が決まっています。そういうものを来る度に飲む人っていうのは、さて、何のためにお酒を飲むのか?
 もちろん酔っぱらうためなんですね。きっと。そういう銘柄をボトルキープして飲む人が、いったいどういう人かっていうのは、なんかちょっと、いろいろ想像してしまいます。
 で、そういう人たちが、ズラーッと並んだボトルのぶんだけ、この店に通っているのかと思うと、「ウアー!」って気に、僕はなったりするのです。
 同じ銘柄のボトルが、ズラーッと並んだ飲み屋さんには、その銘柄だけを酔っぱらうためにひたすら飲み続ける人たちが来ます。ズラーッと並んだ数だけ来ます。そう思うと、この世の闇を感じます。
 僕にもうちょっとお金があったら、好きなお店で好きな銘柄のウィスキーでもキープさせてもらって、ちびちび飲むのは実は夢です。でも、それが「なんとかの蔵」みたいなよくわからない焼酎で、バーテンダーの背中にズラーッと並べられてしまうような感じだったら、ちょっと進んではキープしないと思います。(そもそもそういう店には行かない。)

2013/11/26 火 実感、ふたつのこころ

「頭ではわかるんだけど、実感が伴わないからわからない」
 というのって、よくありますね。
 昨日の話に関連するんですけど。
 僕もよく、「あ、こういうことだったのか! 実感した!」って、なります。
 でも最近は思うんです。それって本当に「実感」が問題なのか、と。
 ただ、わかってなかっただけなんじゃないかと。

「まるで体と頭に心はふたつあるように」と、Amikaさんはデビュー曲の『ふたつのこころ』で歌っています。「自信がない日も見失う時もいつでも 磁石が指すように 求める場所には たどり着ける ふたつの心でいつも強く願うなら」。

 頭とか実感とかいうのではなく、ただ、「わかる」というのが非常に難しいのだということです。「実感した!」なんて言い訳じみた言い方ではなくって、「よくわかってなかった!」と正直に言うように、これからはしていこうと思います。

2013/11/25 月 タイミングの話(桃栗三年、柿八年)

 誰かが悩んでいて、そこに誰かがやってきて、何かとても当たり前のことを言って、悩んでいた人が「ああ、そうか!」とやたら感動して、「ありがとう!」なんて感謝する感じの光景を、最近何度か見た。
 その一言は、本当に当たり前のことで、「言われてみれば」くらいのことで、ありふれてもいるから同じような意味のことはこれまで何度でも耳にしてきたはずなんだけど、言われた人は目から鱗が落ちたような気になって、「すごい!」とか「ありがとう!」とか思う。
 ここではその言葉の意味なんてあまり問題ではないのかもしれない。いや、意味はもちろん大いに問題なんだけど、その「意味」なんてものは、これまで色んなところで接してきたものだし、だから自分の中にもすでにあったはずのものだから、別に新情報でも何でもなくって、そういう意味ではその言葉の「意味」にはそれほど意味はない。

 なんかボスがいて、僕が五回殴って、それから別の誰かが一発殴って、それでボスが死んだとする。僕の五発には意味があったのかなかったのか、わからない。ボスを倒したのは六発目の人だ。僕の五発の蓄積があったから六発目で死んだのかもしれないし、僕の五発は急所を外していて何の意味もなかったのかもしれない。そういう感じ。
 僕が五発殴って、全然倒せなくって泣いてたら、六発目の人がパーンってやって、その人が勇者みたいになる、っていうのは、なんだろう。僕のコブシが弱かっただけなのかもしれないから、「ああ」つってまた泣くしかない。

 意味に意味がないときに、意味があるのは唯一、タイミングだけ。いいところでサッと来れば、倒せる。失恋したり、彼氏とうまくいってない女の子のところに行って、ちょっと優しい言葉をかければ一回くらいセックスができる。そういうのがタイミング。
 このときの「優しい言葉」に意味なんかありません。もちろん意味はあるんだけど、それは教科書に載っているものだから。みんな知ってる。タイミングがあるだけ。

 人間は、ただほしい言葉をほしがるだけだ。その時に、そのタイミングで、「ほしい言葉」をくれる人をありがたがる。そういうもんだ。意味を吟味することなどない。ほしい意味がちょうど来たときに、「これだ」と思うだけ。
 どんな意味が投げかけられたって、その時に必要でなければ、「ふーん」で済ませる。その時に必要であれば、ゴミ箱から拾って投げつけられたような言葉にも、「おおー!」と思える。それがタイミング。

 もちろん、意味を吟味することを徹底しようとする人もいる。ただしそういう人でも、日によってそれができない時がある。それもタイミング。
「自分」がない人はタイミングに依存して生きる。僕は「タイミング」に出くわすと、自分の未熟さについて思います。「ああ、自分がなかった!」と反省する。
「どうしてこんなに当たり前のことに今まで気づかなかったのか」って、思うのは、やっぱり未熟だから。意味を吟味していなかったから。よだれ垂らしてタイミングを待っていたから。
 それでもいい、とは思う。あまり気を張りすぎても仕方ない。辛いだけだ。そういう能力も、誰もが持てるわけではない。
 僕だってそうやって成長してきたと思う。何度も何度も「未熟だった!」と顔を赤らめながら。

 桃栗三年、柿八年。桃や栗は種を植えてから実をつけるのに三年が必要だ。柿は八年かかるという。種をまいて、毎日水をやって、ニコニコしてたら、誰かがやってきて、ちょうどいい肥料をまいて、実ができて、「おれが肥料をまいたおかげ!」なんて言われたら、「うーん」。「僕にちょうどいい肥料をまく甲斐性がなかったからいけないんだけど……」と反省しつつ、「最近肥料の本を買って勉強し始めたところだったのにな……」とも思い、「でもそれじゃ遅かったのかな……やっぱり彼があのタイミングで肥料をあげたから、良い実がついたのかな……」とかって、落ち込んでしまう。
 三年だか八年だかの水やりも、肥料をまくという甲斐性を知らず、甲斐性のある誰かに手柄を取られる。「半分ずつな」なんて言われる。納得できないなーとか思う。その人が肥料をまいたおかげで、立派な実がなったのは、それはそうかも知れない。でも誰も、その人が肥料をまかなかったときに、どういう実がなっていたのかは、知らない。
「水だけで育てるのもいい」と思ってたりもした。「でもやっぱり肥料とか要るのかな……」と思ったりもした。「雑草は抜いたほうがいいのか?」とかも悩んだ。「もともと肥沃な土地ではないし、このままの土では美味しい実はならないのかも?」とかも思った。「どこまで手を加えたらいいんだ?」「美味しい桃をつくるには、実がなりはじめたら袋とかかけるほうがいいんだよね?」とかとか、いろいろ考えた。
 そういう三年であり、八年というのは、あって、しかし食べる人にしてみれば結果がすべてだったりもする。「この柿おいしくない」なんて、平気で言われる。
 その木はそのとき、何を求めていたのだろう。本当にその肥料を求めていたのだろうか。今となってはわからない。どうしようもない。歴史にIFはないのである。

 でも別に絶望する気もない。タイミングが重要なのは未熟だからだ。タイミングの力を借りて熟していって、いつか意味だけの世界で幸せになれるよう、努めていくだけだ。
「この世で一番大切なことはやっぱりタイミング」って小倉優子さんが歌ってた。それはそうなんだ。でもそれは、小倉優子さんが若い女の子だったからなんだ。

2013/11/24 日 友情が天才

それから、頭悪いからわかんないカード、高校中退カード、メンヘラカード(特に後の二つ)
の乱発は止めようと思う。
これは何度もやめようと思うのに便利すぎてよく使ってしまう。
凄い速攻性があって、みんなやさしくしてくれるのだもの。許してくれるんだもの。
でも即効性があるってことはそれだけ大きな意味を抱えてるということで
そういう風に大きく印象を変えるようなのをガンガン使うのはよくないと思う。
わたしの印象のために。
趣味のこととか書きます 2013/11/25 サクラダさん

「あ、髪切ったんだね、似合ってるよ」
「わー。それ超かわいー。センスいいね!」
「そんなことないよー。○○ちゃんのほうが××だよー」

 ってのも、「便利なカード」です。
 だけどありふれたカードです。
 サクラダさんという人の持っているカードはたまたま「レアカード」で、それで余計に使いたくもなるのでしょう。
 彼女は普段、さほどレアでないカードも使っていますが、「これはあたしのカード! 大切なカード!」と思うことで、カードに付加価値を持たせ、そのカードを使う自分を肯定しているように見えます。(これはけっこう重大なことですが割愛します。)

 しかしカードで会話されるというのは必ずしも気分のいいものではないですね。
 カードは、どんなものであれ潤滑剤です。
 潤滑剤とは、滑りの悪い時に使うものだから、カードを使うということは、「滑りが悪い」ということを表明しているようなものです。
 使われたほうは、「ああ、滑りが悪かったんだな」と思います。それで落ち込む人は落ち込みます。「だから潤滑剤を使われてしまったんだ……ああ……」と。

 仲がよい、と思ってる人に、「そんなことないよー。○○ちゃんのほうが××だよー」とかいった、定型の、使い古しのカードを突きつけられたら、「あれ……?」ってなるんじゃないものでしょうか。「あ、髪切ったんだね。似合ってるよ」くらいだったら、女の子の間では当たり前の中の当たり前かもしれませんが、でももっと仲の良い相手同士だったら、もっと具体的なコメントが出てくる……こともあるよなと、男子たる僕は思います。「あー、短いと○○になって××だねー。いいと思う」みたいな。少なくともそっちのほうが、カード感(潤滑剤感)はなくって、言われたほうは仲の良さをより実感できるんじゃないかと、僕は思うのです。男子だしよくわからないけど(ご意見募集)。その場で具体的なコメントが浮かばなければ、すっと出る即効性のある言葉はやっぱ「カード」になるかな、とは思いますけども、そうまでして何かを言う必要というのも、あるのかないのか……。んまあ、前向きな会話はあったら楽しいから、それはそれで、問題のないときはいいんです。これは本当にそう思います。別にそういう定型的な会話を悪く思ってるわけではありません。
「定型を楽しむ」という文化も世の中にはあるもんだし、身体によくはないとわかっていても間食に甘いものやスナック菓子を食べてしまうみたいな、そういう潤滑剤としての存在ってのは大切かもしれないんで、「カード」自体を悪いとは思わないのです。しかし。ストレスたまってきたから甘いもの食べちゃえー! を繰り返して太って絶望してストレスたまる、みたいな循環はとてもよくあって、それを断ち切るには「根本」なるものを考えたり感じたりする必要があるわけです。

 カードには、すでに内容が書いてあって、「ほら、見て。読んで」って差し出すだけのものです。心がこもろうはずはありません。「ああ、またサクラダさんが、頭悪いとかメンヘラとか高校中退とか言ってるよ」と、話を聞く気もなくなります。僕も同じような話を何度もしてしまう癖があり、「ほとんど聞いてなかった」なんて真顔で言ってくる人(なんていいやつなんだ!)もいたりするので、我が身を振り返り反省しています。ただそれを「便利なカード」として意識したことはありません。なんか、それを話すことが嬉しくて言っちゃうケースがほとんどですね。サクラダさんでいうと彼女の愛する弟さんの話に近いかと。

 上に例として挙げられているカードのうち、「頭悪いからわかんない」を使われたら僕は、けっこう嫌な気分になります。これは、「あなたは頭がいいから」という、話者へのイヤミにも聞こえるし、「あなたの話は聞く気がないから、定型文(カード)で返しました」という投げやりな姿勢にも見えるし、「わからないのでもう話さないでください」でもあるし、「どうしてこんな頭の悪い私に難しい話をするんですか?」という責めにもなり得るし、「頭悪いんだからしょうがないじゃーん」っていう開き直りだったりもし、……枚挙にいとまがないくらい、嫌~な印象を僕は受けます。
「あ、この人は自分とまともに向き合う気がないんだな」という感じです。「頭悪いからわかんない」という言葉の内容が、というよりも、それが「定型文」であるからです。一度なら「そうか……」となるだけですが、二度、三度となって「定型文」であることがわかると、「あああ、そうなのか……」です。「もう喋らないほうがいいんだな……」となります。僕はこの言葉を直接向けられたことはありませんが、目の当たりにすれば「ひどい」と思います。「定型文投げつけて逃げるなよなー」と。

 ここから本題なのですが、
「凄い速攻性があって、みんなやさしくしてくれるのだもの。許してくれるんだもの。」
 というところに最も引っかかりました。
 言わせてもらえば、「そんな言葉で優しくしてくれたり、許してくれたりするのは、仲が良くないからだよ」という感じです。相手がろくでもないか、相手との間に大した関係が築かれていないからです。そりゃ、仲が良くない相手にはそういう突っぱね方をしたって構いませんが、僕や僕の友達はみんなサクラダさんが好きだったり、少なくとも仲良くしたいと思っているはずなので、そういう向き合い方をされたら、淋しくなります。だから、優しくしたり許してあげたり、しません。絶対に。「ふざけんなよ、俺らに対してそんな手の抜き方をしないでくれよ」です。
 その「カード」が、すでにギャグとして定着していればそれで「どっ」となってハッピーなのですが、そうでもない段階の時には、ちょっと。「ひっでー手抜きだな」と思うのみです。もちろん、そういうカードを使わせるところまで彼女を追い込んでしまった側にも責任というか、そうなった理由はあるので、別に彼女が悪いということでもないのですが、あとで振り返るのだとしたら、その「カード」なるものの持つ意味について、じっくり考えたほうが、いいような気が、します。
 これまで、「カード」ごときでサクラダさんに優しくしたり、許してあげたりした人は、まあ、その、どういう感じの人だったんでしょうか。僕は少なくとも、絶対にそんなカードごときで優しくしたりしません。僕は相手を人間だと思って話しています。カードダスと話しているわけじゃない。サクラダさんは他人をナメているそうですが、まったく、生身の言葉を投げかける人に対してカードで返すのは非礼です。いろいろ事情はあるのでしょうが。そしてカードに対して「優しくする」とか「許してあげる」だのといった汚れたカードで返すのは、卑劣です。そういう人たちがサクラダさんのカードを、一時しのぎの優しさで肯定してしまったから、いけないのではなくってか。いやー、勝手に想像で言ってますけど。本当に優しい人だっていたんだとは思いますけど。

 僕はそれらの「カード」の問題点は、別にサクラダさんの「印象」が大きく変わるからダメだってんじゃないと思います。彼女もたぶんわかっていて、「そういうふうに自分の利益と絡めて考えないと、これは直らないだろうな」とか思っているんじゃないかと勝手に思いますが、なんか僕のほうもあれこれ考えちゃったので、とりあえず書いてしまいました。

2013/11/23 土 優しくって偉大

 嫌なことを思い出さないために、それに関連するものをできるだけ排除するような姿勢は、僕が覚えている限りこれまで一度もなかった。これまでは全部受け入れていたと思う。「まあ、そんな日もある」で済ませていた。その証拠に僕の携帯電話には、以前にいろいろあった人たちの連絡先がすべてそのまま残っている。でも今回は消した。一応アーカイブはしておいたけど。
 なぜ完全には消さないのかって、きっとそんな気分も一時的なものだろうから。何ヶ月、何年かすれば、何も感じなくなるのかもしれない。今は辛いから目にしないようにする。気持ちよりも環境から、無理にでも変えていくことをすでに学んできた。ひとまずは逃げる。ただ、向き合わないようにしているわけではない。向き合うべき時にはいくらでも向き合うが、突然目の前に出てくるのは心臓に悪い。ゴキブリのようなものだ。見た時は驚くが、退治しなければ後々に泣きを見るだろう。ゴキブリホイホイやホウ酸団子やなんかを大量に置いたり、バルサンを炊いたり、部屋や水回りを綺麗にしたり、そういうことを今はしている。ゴキブリのよく出る部屋には、用がなければ立ち入らない。
 トラウマが薄れてきた頃には、勇気を出して入ってみよう。数年ぶりに立ち入ったらゴキブリのパラダイスになっていて、しかも誰かよく知らない人間の死体が腐って転がってるようなことには、ならないように、できる限りのことはする。

 今はもう黒いものを見るだけで少なくとも数秒間、まるで使い物にならなくなる。ほんの些細なことでさえ。でも必要があればいくらでも立ち向かう覚悟くらいはあるよ。優しくて偉大な僕として。

2013/11/22 金 千年前の丸顔と漫画

 名古屋の徳川美術館に行ってきました。
 源氏物語絵巻という、12世紀前半~半ばくらい(今から900年弱前)に成立したとされる絵巻物が目当てです。国宝に指定されていて、保存のため年に一週間、しかも数点に限ってしか展示されないものです。
 僕は源氏物語絵巻が好きです。ひょっとしたら源氏物語そのものより好きなんじゃないかと思います。源氏物語は現代語訳や漫画訳ですら読むのが大変ですが、源氏物語絵巻の絵は、ちょっと見ただけで伝わるものがあります。
 僕が源氏物語絵巻を好きな理由は単純で、出てくる女の人が丸顔だから。この丸いタッチが日本人の心に千年近くも引き継がれ、手塚治虫の才能として結晶し、藤子不二雄先生らとによって「日本を代表する顔」(鉄腕アトムもドラえもんも丸顔)として定着したのだと僕は思っています。僕の好きな88年から95年くらいまでの子供向けアニメの線も、元を辿れば源氏物語絵巻だと僕は思っているのです。
 源氏物語絵巻の絵が後世に影響した、というよりは、「日本人の文化や感性は、丸顔を愛した」ということだと思います。何もしなくても自然と丸顔になっていった。それは「紙と筆」を使っていたせいかもしれないし、国民性が関係するのかもしれないし、あるいは日本人は他の民族に比べて丸っぽい顔が生まれやすかったとかいうことなのかもしれません。よくわかりませんが、少なくとも千年前に手塚・藤子の線のような丸顔が愛されていたようだということは、源氏物語絵巻を見てなんとなく感じられるのです。

 ただ……ミッキーマウスもスヌーピーも丸いじゃないかと言われてしまえば困ってしまいます……、「だから日本でもミッキーやスヌーピーは大人気なんだ」とか……無理があるかな……。セサミストリートもパワーパフガールズも丸い……。うーん。子供向けは丸いもんなんだ、という普遍性は、あるわけなんですけど……。お母さんの体は丸っこいもんだし。でもドラえもんくらいまん丸に丸いのは海外にはほとんどないよなー。
 とかいろいろ、欧米の絵画の歴史を考えてみたりしながらウンウンうなってたら、こんなHPを見つけました。「全日本丸顔協会」いやー、いるもんですね。僕みたいな人が。この協会は主に生身の人間を扱っているようですが、最新のブログでは「ゆるキャラ」についての言及もあるので、今後に期待できそうです。
 詳しいことはこれから研究していきたいと思いますが、少なくともこの協会の人は、「丸顔は日本の宝」みたいに考えているようです。そういえば日本の国旗もまん丸だし、やっぱり日本と丸顔というのは切り離せないもんなんじゃないかな(単純)。

 子供は丸っこいものが好き、というのはおそらく、東西を問わずあるのだと思いますが、日本人の「丸顔」に対する愛情の質は、どこの国や地域にもそうそうないレベルのものなんじゃないかと、思います。ほかの国の人はたぶん、丸は愛しても、丸顔はさして愛さない。とか。
 日本で漫画が愛された理由も、そこにあるんじゃないかなという気もするんです。すっと描いた丸っこい顔を愛する国民性。以前に浮世絵展を見に行って、その「漫画のような線」に驚いたことがあります。源氏物語絵巻を見たときも似た感想でした。「これは漫画じゃないか!」です。千年前からこういう線を洗練させ続けてきた国なんだから、そりゃ漫画も発達するよな……と。
 ヨーロッパでは早くから写実的な絵が発達していきましたが、写実的な絵は描くのに手間がかかって、とても何十ページ、何百ページに及ぶ漫画なんて描いていられません。その点、デフォルメを効かせた単純な絵というのは少ない手間でたくさん描けます。たくさんの絵を使ってストーリーを表現することもしやすくなります。日本とその他の国との違いは、デフォルメの洗練の違いなのかなとか思ったりもします。
 簡単な絵をたくさん描く、という価値観は、もしかしたら日本古来の「諸行無常」といった考え方と結びついているのかもしれません。「どうせ儚く消えてしまうんだから、時間をかけて描いたってしょうがないよね」みたいな。

 雪が溶けて僕たちは春を知る
 同じことただ繰り返す
 でも青春はただいちどだけ
 僕たちが投げたキスは
 ゴールを旋回して出発地点へ戻る

 ずっと言いたかったワガママを搾り出すように言った。
 こうして少しずつ人間のようになれたらいい。

 いま『通電少女 おしおきかなっ!?』というお話を考えていて、それはもしかしたら自分のそういうところが材料になるようなものなのかもしれないなと、ふと思ったり。お話を書いている限り僕の人生には一切の無駄がない。それは救いだと本当に思う。この日記もそうだけど。

2013/11/21 木 (NICE VOCAL)

 水曜の夜、仕事を終えてたこ焼き屋に行ってお酒を一杯だけ飲んで、角のハイボールがあまり美味しく思えなくて、本屋に行って、ついてきてくれた女の子と駅で別れて、皿屋敷さんと打ち合わせの電話をしながら歩いていたらゴールデン街にたどり着いていた。「月に吠える」でジャックダニエルとワイルドターキーと、ぶり大根を頂いた。マスターとけっこう実りのありそうな具体的なことを話し合ったりして、日付が変わる頃に、友達が働いているお店へ顔を出した。ちょうどボジョレーヌーボーが解禁だったので三杯ほど頂いた。イベントごとってのは楽しいもんだなと素直に思った(僕も大人になったもんです)。
 そこで仲良くなった男の人と、向かいのお店へ。「小沢健二が好きなら、ぜひ行こう! ここの店をやってる子は、本当にオザケンが好きなんだよ!」と言うので、期待して行ったら「ジャッキーさん!」とか言われて、知り合いだった。でも小沢さんの話をしたことはなかったと思うので、「うわー、もう、なんでも繋がってるなあ」と、ほかの色々なことを含めて思った。とても良い大きな音で(相当上質なアンプとスピーカーがある)小沢さんの曲を聴いて、ウォッカを宮城県のザオーホワイトチーズドリンクで割ったものを二杯ほど頂いた。それで結局午前五時くらいまで飲んだ。
 本当はいろいろやるべきこともあるし、飲まずに帰ろうと思ったんだけど、何か直感があって、回ってみた。そういう日はやはり何かある。あった。その直感というのはたぶん、職場を出る前に読んでいた雑誌のせいで、「92年頃は青山のMIXで酒ばかり飲んでいた、それが自分の原点の一つだ」みたいなこと(超大意)が語られていた。そのイメージに従っただけなんだけど、従うべきものっていうのはある。もちろんその記事というのは、小沢さんの記事で、そこからもう繋がっていたというわけ。

 20歳(よく19歳って言われるんだけど、20歳のはず)の時から通い始めたゴールデン街だけど、それはもしかしたら、いや、もしかしなくても「青山のMIX」みたいなもんで、そんなに酒は飲まずにコーヒーばっかり飲んでいたけど、間違いなく原点みたいなもんで、僕の好きなお店はもうないんだけど、時々は自分を叩き直しに行きたいもんで。

2013/11/20 水 こうかん法則

 許すのは許されたいから、なのかもしれませんし、許すからには許されたいな、と考えているのかもしれませんし、それらも嘘ではないのですが、しかしやっぱり「これをしてあげたんだから、自分も同じくらいのことをしてもらわねば」という類の「一回は一回」感は、あまり好きではありません。「仕返し」と発想が同じです。
 右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい、なんてところまではさすがに行きませんが、泣いて逃げ出すこともできるし、殴った相手を抱きしめてあげることもできるし、あるいは本当に必要ならば殴り返すこともできるし、そういったいろんな方法へ自由に向かって行けることが僕にとっては望ましい状態です。
 よいことを「倍返し」するのも、あんまりよくないような気がします。返すとか返さないとか、そういう片想いの応酬みたいなことはそもそもあまり意味がなくて、コミュニケーションの潤滑油としてのみ捉えたほうがいいのではないかと思うのです。
 キャッチボール、というのも善し悪しなのです。結局は一方通行の積み重なりです。その中で何かを素敵に育むのは、けっこう難しいものです。
 手を繋いで歩く、ということが恋人同士で行われるのは、キャッチボールではない「一つ」の何かを、二人の間に育もうとしているということなんだろうと、思います。
 キスだってみかん(専門用語)だって、キャッチボールじゃないです。松笛くんのいう「B」(超専門用語、だ液の交換)は、ちょっとキャッチボールっぽいですが、あれは「二人で体内の成分を交換する」なので、キャッチどころの騒ぎではありません。まあこのへんは割とどうでもいいです。割と。大事だけど。

 僕は恋人同士でプレゼントをしあうということがずっとピンとこなかったです。何をあげていいかわからない。「あげる」とか「もらう」ということ自体、あんまりピンとこなかった。だけどあげる側としては喜んでもらえば嬉しいし、もらう側としては何をもらっても気持ちだけで嬉しい。プレゼントは「嬉しい」を生むし、記念の品が増えていくことはとてもとても素敵なことだと感じます。
 へたくそだけど、何かをあげたりもらうことは好き。どんなものでも嬉しい。ガムのあたりでも何でも。はずれだとちょっと「?」ってなるけど。それで「あげる・もらう」について、べつにピンとはこないまま、ピンとくる必要もないだろうと、特に何も考えず、あげたり、もらったりしています。
 ただ単純に、そういう気持ちで、「よいこと」というのはするもんだし、実際そういうふうに世の中は動いています。たぶん。見返りなんていうものは、考えるも考えないもなくって、ただみんなが「嬉しい」を生むために、「よいこと」をしています。「嬉しくなりたい」とか「嬉しくさせたい」ということではなく、それをすれば「嬉しい」が生まれることを当たり前に知っているから、当たり前に、何も意識せずに「よいこと」をします。

 人は、「嬉しい」とか「楽しい」とかが、ただ当たり前に生まれることを知っています。ただ、知らない人や忘れている人もいるでしょう。
(このあたりは次に書くお話のテーマになりそうだとここまで書いて思いました。「なぜ、人はあまりに酷いことを平気でできるときがあるのだろう?」というのは、北九州の連続監禁殺人事件について調べていた時から心の中にあって、だからそれを材料にして何かを書きたいと思ったのでした。「嬉しい」とか「楽しい」とかの発生についての回路みたいなものが、狂わされてしまうと……とか。たとえば通電によって。)


 交換、交歓、交感、好感と、「こうかん」には色んな字が当たります。
 この四つの熟語を見ていると、今は何かをわかったような気分になります。

2013/11/19 火 倍返し、仕返し、八つ当たり

「やられたらやり返す。倍返しだ!」
 というフレーズが多用されるドラマが、とても人気があったようです。なんたる野蛮で、邪悪な言葉だろうかと思います。
 自分がされたことは、相手にしてもいいんですか? 「一回は一回」とか、「同じ苦しみを味わえ」とか、健全ですか? 僕は悲しくなりますよ。
 もっとひどくなると、他人からされたことを、ほとんど関係のない別の他人にしてしまう人もいます。これは「八つ当たり」って言います。
 僕はなんか、仕返しと八つ当たりを両サイドから喰らったような感じがして、ずっと泣いているわけですが、それは「やられたらやり返す。倍返しだ!」の精神が、この世の中のどっかに息づいてるからなんだと思ってしまいます。だから『半沢直樹』は、あんなに視聴率がよかったのかな、とか。
 みんなハムラビ法典好きですよね。同害復讐法。「眼には眼を、歯には歯を」って。あんなに人気あるの、変ですよ。僕だって好きだったけど、小学生までで卒業したほうがいい考え方だと、思います。でもみんな好きなんです。いつまでも。だから「倍返しだ!」が受ける。

 仕返しについて、僕が不毛だなあと思うのは、冤罪の時です。誤解によって生じた痛みや苦しみを、仕返しによって解消してしまったら、それは「八つ当たり」になってしまいます。最近僕が傷ついたのは、別に誤解によるものではなかったのかもしれないけど、思い込みとか、そういう雑音がたくさん入っていたのは間違いないような気が、本人としてはするのです。でも雑音の種をまき散らしたのは確かに僕で、悪いのは僕だといえば僕なんです。とても反省しています。思い出して、やり直します。そしてもちろん「仕返しの仕返し」のような、世界一くだらないことをするつもりは、今のところありません。「八つ当たりに対する粛清」は、したいけど。
 一般論として、人間は誤解をしたり、思いこんだりします。人と人とが正確にコミュニケーションを取るのは、思いのほか難しいことです。だから慎重に「かもしれない運転」を続けて、軽はずみな「仕返し」はしないほうがいいと思います。「倍返しだ!」って言ってせいせいして、何になるのでしょうか。傷が他方へ移るだけのことです。
 仕返しをされてしまうような人にも、事情があるのです。家族がいるのです。仕返しをするのなら、そのあたりを熟考した上で、行うべきです。

 僕は運転を間違えました。いくら運転がうまいと自分で思っているからって、指一本で運転してたら、同乗する人たちは不安になるでしょう。でも僕は、楽しかったからなのか、楽だからなのか、かっこつけてなのか、指一本での運転を続けていたんです。それは本当に反省しています。
 それで、「しっぺ返し」を食ったんでしょう。後続の車に追突されました。いつの間にか同乗していた人たちは後ろの車に乗っています。僕の車は崖から落ちる一歩手前でガードレールの端っこに引っかかって止まりました。
 後ろの車で、どんな話し合いがあったのか僕は知りません。「いいよいいよ、やっちゃおうよ」っていう合意があったことだけはわかります。言葉にしなくても、そういう空気はあったのでしょう。「だってあいつ、あんなにひどいことしたんだしさ」「楽しいしね」
 そういうことはとても邪悪ですがあまり強く非難する気にはなりません。それが人間だと思います。だからこそいろんなものが人間には必要なのです。それは時には約束であって、時には誠意の表明です。あるいは信じる心です。信じられないからこそ信じる。信じられると思ってしまったら、もう信じる必要はありません。「信じられる」と思えば「信じる」は形式だけのことになって、何の意味も持たなくなります。良い「関係」を維持するための工夫や努力をしなくなります。「だって信じてるから」で済ませて、手を抜きます。そういう気分が僕にはあったかもしれません。それがとても幸福だったことを否定しません。
 でも、そんな幸福はやっぱりまやかしなんです。

 いろいろ書いてしまいますがこのようなこともいつか優しさの中に消えていくのでしょう。そういう人生を選びました。ほんとうのさいわいに向けていくらでも苦しみます。そのために苦しむことは、それほど嫌ではありません。

 仕返しや八つ当たりに転嫁しないで、受け止めて、痛みなんて夢で包んで鮮やかに、ただ優しさを抱きしめるのです。

2013/11/18 月 夜の美しさ

 夜の美しさを知ったのはいつだっただろう。
 きっと空なんて眺めていなかった。
 美しい夜は包み込む夜だ。

2013/11/17 日 夢中で駆け抜けるけれども

 もっと大切な人のために少し大切だった人を捨てた。
 何もかもを欲しがったって仕方ない。
 人生には引き算も必要だ。
 そこにいかにメリットがあろうと。
 メリット以上のものがあるのだと僕は信じたい。
 欲望以上のものがあるように。
 快楽以上のものがあるように。

2013/11/16 土 外的要因

 環境を変えないと人間は変わらない。
(環境とはあらゆる外的要因のこと。)
 目に見えている風景・光景が同じであれば、続いていることはそのまま続いていく。
 常にそれは車輪のように。

2013/11/15 金 僕らは歩くよ どこまでも行くよ

 なんだか知らないが白髪になってね。
 仕事をしていたらラジオから突然『愛し愛されて生きるのさ』が流れてきて、一同仕事の手を止めて聴き入っていた。「この町の大衆音楽の一部」なんて言葉を実感する一瞬。どう考えてもこの会社が異常なわけだけど。従業員の90%が小沢健二さんのファンだという。(社長が、そういう人しか引っ張ってこないのだ。僕もその一人。)

2013/11/14 木 嬉しい

 2009年度に中二だった子たちがもう高三になっていて、久々に会っても仲良く話せたり、当時とはまた違う関係ができあがったりしている。今日は女の子が二人おざ研に来てくれた。ノリは全然変わってなくて、ぴーちくぱーちくしてたけど、それでもやっぱり成長はしている。四年前から僕は二人のことが大好きだったけど、学校を退いてからはほとんど会わず、連絡も取らなかった子たちだったので、とても嬉しい。
 最近は「嬉しい」ってことばかり言っているような気がする。今夜もたくさんの人が「木曜喫茶」に足を運んでくれて、久しぶりに会う方もいたし、先週初めて来てくれた人もリピートしてくれた。すべて嬉しい。
 悲しいこともたくさんあり、嬉しいこともたくさんある。人生というのはナワのように、いいこと悪いことが絡み合っている。
 だとすれば、いいことばかりでできたナワは切れやすい。均等に絡み合っているからこそ強固。なんかもうとっくに先人が言ってるはずのことだけど、だからこそこう思えることが誇らしい。

 夜中に映画『バブル・ボーイ(2001)』と『ようこそおちこぼれカレッジ(2006)』を、復習のような気持ちで観た。
 最も好きな映画を訊かれたら、必ず『バブル・ボーイ』を挙げる。確か2006年に出会って、それからたぶん10回は観ていると思う。日本では劇場未公開、DVD・ブルーレイ化もしておらずVHSのみの作品だが、本当に素晴らしい。僕がたまにする「許す」という発想は、たぶんこの映画のラスト・シーンに影響を受けている。
『ようこそおちこぼれカレッジ』は原題を『ACCEPTED』といって、副題らしきものとして「REJECT REJECTION」というのがある。拒絶を拒絶する。あらゆる大学から拒絶された落ちこぼれたちが、自分たちで大学を創ってしまうという筋書き。破天荒だが、完璧なシナリオ。映像や演出の面では『バブル・ボーイ』に敵うものではないけど、僕のためにあるような物語だ。『まなびストレート!』にけっこう似ている。これも日本では劇場未公開、ビデオ・DVD・ブルーレイすべてなし。地上波とCS放送のみという、これまたレアな映画。観たいという方は声をかけてください。
 この二本を三人で観たんだけど、どちらも気に入ってもらえたようでよかった。特に『バブル・ボーイ』は反応がよくて、やっぱり名作なんだなと思った。
 単純に、そういうことも嬉しい。

2013/11/13 水 午前四時

 この日付、このタイトルで余りにも落ち込んだ日記を書いてしまった。そのまま寝て、午前八時頃に目を覚まして悩んで消した。数時間しか載っていなかったけどたまたま見たらしい二人の友達が心配してコメントをくれた。とても嬉しかった。
 僕は落ち込みながらも前向きのつもりだったけど、鬼気迫るものはあったかもしれない。ご心配をおかけしました。落ち込みながらも前向き。この半月ほどはずっとそんな感じです。

 この続きはまた数日後にこのスペースに更新すると思います。

 更新します。(2013/11/20)

 アンダーでビロウな話ですが性病検査に行って参りました。消す前に「病院に行ってきました」と書いたのはそういうことです。なんか誤解されてたらすみません。13日に行って15日に結果が出ました。ということはこれも15日に書いています。インチキです。まあ一度消してしまったので。
 本当にアンダーでビロウな話ですが僕はノットヒューマン的なことを欠かさない人なのです。「望まない妊娠」みたいなことは小学生の時に『死神くん』を読んでから、「望まないからな~。だったらそうなるべきじゃないよな~。でもしたいからな~。でもまだ望まないからな~」とか思って、いたのです。ふてくされてばかりの十代も、分別のつき始めた二十代も、だいたい同じような感じで、ほぼ徹底してデュレックス生活を送っておりました。実際のメーカーは神奈川県っぽいものが多いですが。(こういう話もたまにはいいよね。)
 性病というものに対してもそれなりの気を遣っていて、それがゆえ知らない人と行きずりの……みたいなことは避けます(まあ当たり前か)。風俗も行きません。お金払ってリスク背負って、って、煙草吸うのと同じようなもんだよなーとか、なんだか両側から怒られそうなことを思っております。
 それでも29年間生きていればいろいろあるわけで、そりゃ見るからにリスキー、みたいなことはしたことがありませんが、ないがゆえに検査も行ったことがなかったのです。注射や採血は好きじゃないし、やっぱり怖いし。
 ということで行ってきました。結果はHIV、梅毒、B型肝炎、C型肝炎、淋病、クラミジアはとりあえず今のところ陰性でした。「だから今ならジャッキーさん安心ですよ~。よっといで~」って感じでは別にありません。逆です。

 少し話は戻りますが僕は煙草が吸いたいのです。親が吸ってたからなのか、もうずっと禁煙してるような感覚です。煙草を吸ったらどれだけ楽になるか、気持ちがよくなるか、ということを定期的に考えます。喫煙習慣を持ったことは一度もないのに。でも「健康に害が」「周囲に影響が」「お金が」なんてことを考えると、「たかが一時の快楽のためにリスクを負うことはない」とマジメに考えてしまうんです。
 何より、「煙草吸う男の人がステキ」みたいに考える女の子と付き合いたいとは思わないっていうことなんだと思います。個人的には、煙草を吸うかっこよさとか、文化のようなものはあって、それは悪いものではないとも思うのですが、僕は別のかっこよさとか文化の世界にいればいいよなとも思っているのです。
 風俗に関して、だいたい同じ感じなのです。違うのは単価と活用頻度くらい。煙草のほうが安くて手軽。行きたくないわけでもない。でも「健康に害が」「周囲に影響が」「お金が」ってところで踏みとどまりますね。理性圧勝というか。
 僕は「風俗に行っているような男の人ってステキ」みたいな感性の子と付き合いたいとは思いません。しかしとりあえず世の中には「風俗に行くことが普通だったりかっこよかったりする文化」は存在します。人によってメリットもあると思います。でも僕は別の文化で生きています。
「何事も経験」って言葉もある通り、そういうものを経験してみたほうがいい、という考え方もあります。風俗通いなんかザラにあって、ザラにあるんだからそんなに嫌がることもないんじゃないか、っていう、現代の最大の退廃に呑み込まれてしまうことも、ないとは言えません。ただ僕は退廃なんて嫌いですからね。平凡な顔をした退廃は、特に。

 なんてことを五日前(15日)に考えていたのでした。

2013/11/12 火 少年Aは「いい日に」散歩

16
このノートの罫の中で
いま書いている文字の中で
僕は父の切腹を介錯してあげよう
父の首は銀座和光のショーウィンドウに
曝す
(谷川俊太郎/少年Aの散歩)

 僕はお父さんのことが大好きだから、この一節に決してそのまま共感はしないけれども、だからこそちょっと見方を変えてみると、銀座和光のショーウィンドウに飾られるくらい僕のお父さんは偉大なんだよなとか、思ったりします。お父さんは切腹などしていないものの、もしそうなったら介錯くらいはするかもしれない。それくらい好きです。
 田舎者だし貧乏人だし、見栄っ張りでもないものだから、銀座などにはそうそう行かない。用があって初めて立ち寄った和光で、「ここに父の首が」なんて考えたりする僕は、谷川俊太郎さんの「少年Aの散歩」という詩が本当に大好きなのです。

 大阪の、釜ヶ崎に関連したあるイベントに俊太郎さんが来ていて、思い切って「少年Aの散歩好きです」なんて告白をしてしまったのを思い出す。無数に(本当にたくさん)ある詩の中で、どれだけの記憶や思い入れがあるのかなんて、わかりゃしないけど。俊太郎さんは「そうですか、ありがとうございます」とだけ言ってくれた。

 この白いキャンバス(かっこつけた言い方)の上に散文をしたためる行為を「散歩」と呼びたくなったのはいつからだろう。日記タイトルを「少年Jの散歩」としたのは2007年の4月らしい。ちょうど大学を卒業して無職になって、心機一転の時だった。6・3・3・4の学校というレールを脱けだして、どこへでも散らばって行けるような生き方に切り替わった瞬間だった。就職活動もしないで、ぶらぶらと歩き始めた、そんな時。
 2007年のはじめに『まなびストレート!』と出会い、夏にはずっと憧れていた人と知り合うことができて、それらから色々なものが繋がっていった。「ああ、繋がる、繋がる」と、毎日のように感動し続けていたのを覚えている。「僕の22年間にはちゃんと一貫性があったんだ」と信じることができた。何もかもが一本の線に繋がった気がした。
「線」がはっきりしてくると、それとまったく交わらないような生き方の人たちとは疎遠になる。この頃に、そうやってなくなった関係が幾つもあった。どれ一つとっても大切なものはなくて、悪く言うつもりはないけど新陳代謝のように、すっきりと細胞が入れ替わったような気がする。その感じは現在でも続いている。淋しい別れも時にはあるけど、納得できない別れはない。
 無職になって自由になって、「自分」なるものがあの夏に結晶した。そんな気がする。それを核として、少しずつ肉付けしたりして再構築されたものが、その途上のものが、今の僕だ。
 19歳で立ち止まった。20歳の時は狂っていた。21歳で冷静になり、22歳で気がついた。23歳には学校の先生になって、「取捨選択」をたくさんした。24歳でついに小説が書けるようになった。処女作である『たたかえっ!憲法9条ちゃん』は、5年近くの時を経て来春出版される予定である。25歳、26歳、27歳、28歳は、ある意味でくすぶっていたのかもしれないが、その意味づけは後の自分がするだろう。ひょっとしたら、24歳から25歳にかけての時期に、人生で最も大切な出会いをしているのかもしれない。小学校二年生の時に『宇宙船サジタリウス』を見て、それから『まなびストレート!』を経て現在そして未来に繋がる「線」を、より強固なものにさせる出会いを。そのために一見「くすぶり」に見えるような期間があったのかもしれない。そういうこともおそらく、この先の未来が決めることなんだと思うけど。

「少年Aの散歩」の収録された詩集を初めて手にしたのは、2001年の5月15日くらいらしい。16歳と半分。奥井亜紀さんが『大樹』を出したちょっと後。
 同じ年の9月30日には、「少年Aの散歩」の一節を日記に引用している。10月3日にも同じ箇所を引用している。

《本当に大切なことは何万年来不変です。そしてどうでもいいことはもう言い尽くされていると思うんだけど。》

少年Aさん、そんなことを言われたら言葉を失ってしまう。けど、
僕はもう少し追い求めてみようかなと思う。言い尽くされているどうでもいいことを言い尽くすために僕は生きる。
(2001年10月3日 103の一番長い日)

 そういうふうに捉えていたんでしょうね。そして12年以上経った今も、「言い尽くされているどうでもいいことを言い尽くすために僕は生きる」をやっているのかもしれない。「本当に大切なことを言おう」ではなくって、「どうでもいいことを言い尽くそう」になる姿勢は、やっぱり僕だなと思う。『ローラースケート・パーク』っていう小沢健二さんの歌の影響もたぶんある。
 このちょっと前に「本当に大切なこと」について語っている箇所があって、驚くほど今の僕と繋がっている。9月だからまだ16歳。いやー、ブレがないとはこのことですな。

2001.9.29(土) 携帯テロリスト

人間として、そして男として僕に欠落しているものはきっと少しだけ良い意味で僕の長所であることと、
僕が悩んだり苦しんだりするのが大好きな理由をほんのちょっとだけ、なんとなくわかった気がする。

そして最近よく考えていた、自分が本当は何を考えているのか、という謎。
これもぼんやりだけど、手がかりがつかめてきた、かな。
実はここ最近に僕の考えていたことが本当に大切なことじゃなかったのかもしれない。
本当に大切な真実は余計な思想を必要としない。
胸の中から喉の奥を通って脳の中心へ向かい無駄なく真っ直ぐに進んで行く。そんな感じ。
余分なところを通らずに直線的な細くて透き通った言葉がまったく自然に出てくる。
たぶん、それは大切なこと。
10年後にしか言えないこと。
だけど僕はきっとそんなに長い間待っていられないからまた言ってしまうんだろう。

大切なことは絶対に曲げられない真理。
悩んだり、迷ったりするいとまもなく、それは惜しげもなくそして寄り道もせずそのままに表現される。
だから、真理を捜し求めているようではまだまだ、真理を手にすることは絶対にできないということになる。
僕はきっとそれだった。
つまりそれは本当に大切じゃなかったってことだろうか。・・・それはわからない。
だけどひとつだけわかってるのは、それが僕にとって大切だったってことだけ。
【指示語の 読解は 出題頻度が 高い】

 何が繋がっているんだ? と思う人もいるかもしれない。でも僕は、驚くほど「繋がっている」と思った。それは言葉の意味だけに限定された話ではなくて、今こうやって書いている文章と、「激似」だっていう、そんだけでもなんか、すごい、いい。
 本当に大切なことは、言葉にできない。だから「どうでもいいこと」を言い尽くす。「真理を捜し求めているようではまだまだ、真理を手にすることは絶対にできない」と昔の僕は言う。きっとその通りで、だからこそ口にされることはすべて「言い尽くされているどうでもいいこと」。真理の声を叫ぶために、どうでもいいことを言い尽くす。そういうことにほぼ直観的に、僕は気づいていたらしい。

「言い尽くされている」「どうでもいいこと」を、「このノートの罫の中で 今書いている文字の中で」表現する。「でも書くことの速度がへんにゆっくりでいらいらすることがある」。そして「それが嘘か本当かは 僕にだってよく分からない」「そう書いてみることが 僕の散歩の意味だというだけ」だ、と。(すべて詩「少年Aの散歩」から引用)

 そんな散歩を僕はずっと続けております。
 そもそもページの背景を白、文字を黒にしたのは「ノート」や「キャンバス」をイメージしたのです。『まなびストレート!』の第三話「月曜日じゃ遅すぎる」で、「真っ白なキャンバス」って言葉が出てくるのですが、学園祭をどうしようかって話になったとき、何も決まってないから、真っ白だから、何でも描き込めるって言うんですね。hideの『ROCKET DIVE』だったら「何にもないってこと そりゃ何でもアリってこと」。真っ白な、ノートだったりキャンバスだったりってのは、本当に自由なんです。あらゆる可能性がある。「すべての色を含んで未分化」(小沢健二さんの「無色の混沌」より)でもいいです。当時は黒い背景に白い文字ってサイトも多かった(侍魂とかそうですね)んだけど、それだとちょっと、後ろ向きだなあって。どす黒いものを、せめて少しでも白くしようみたいなのってよくわからないから、白いところから、無限に広がっていく感じにしたかった。「なんでもあり」がテーマだから、掲示板も「Ez mixed BBS」って言ってるんでございます。未だにそのまま。
 それがだんだんと、「散歩」っていう形にまとまっていった。その着想は「少年Aの散歩」という詩の内容そのものにあったのでした。「思索して、書く」ということを、「散歩」とした谷川俊太郎さんの感覚に、僕はだんだんと共鳴していったようです。

 銀座和光から遠く離れて、ずいぶんと長い散歩をしてしまったような気がします。僕にとってそれだけ重要な詩で、いくらでも重要なフレーズなのだということです。小沢健二さんも和光中学出身だし。和光というのは「才能や知恵を隠す」というような意味があるそうです。うーん。ちなみに名古屋で和光といえば「メガネの和光」です。関東の「和光メガネ」とは別の会社のようです。

2013/11/11 月 兄

 兄から豪華な食事をご馳走になった(とりしげ)。△のニットと梅のリキュール(ほしこ)をもらった。西なんとかさんを連れて行った。音楽と服と昔の話をした。
 彼はどんどん偉大になっているので、僕も負けないようにしたいなと、気持ちを引き締めました。

2013/11/10 日 人生観が将棋

 小学生の時に将棋が好きになって、中学1年生か2年生くらいの時までたくさん指していた。とにかくおじいちゃんが目標で、勝てるようになってからは急激に意欲がなくなり、誰とも指さなくなった。身近にもっと強い人がもしもいたなら、僕はひたすら将棋に打ち込んでいたかも知れない。確か3年生の時、大嫌いだった理科の先生と指したら圧勝して、「お前はアマチュア初段くらいの実力がある」と負け惜しみのような賞讃を頂き、それでとりあえず将棋への熱は冷めた。
 実力としては、アマチュア初段なんてとんでもない、もっとずっと弱いと思う。でも好きだったし今でも好きだということは確かで、将棋というものは実に自分の性に合っており、骨身にしみ込んで人生観そのものになっているようなところもある。と、今日あらためて思った。

 将棋は、一手一手を積み重ねていくものだ。しかも自分だけで積み重ねるものではない。自分が一手指せば、相手も一手指す。その繰り返しである。だから一手一手の背負う「責任」というのは非常に重たく、一手間違えたら即、命取りなのだ。
 ただ将棋の面白いところは、「ちょっと間違えたくらいでは、バレない」のである。相当な実力者でなければ、多少のミスは見逃してしまう。どんなミスもまず見逃さないという人がいれば、その人はプロになれるかもしれない。
 ただし、これも面白いところだけど、どんなに強いプロでも常に「最善手」は指せない。もしも双方が最善手だけを指していれば、勝負がつかないからだ。指した時はそれが最善手だと思っても、手を重ねていくにつれて、ぼろが出て、「しまった」なんてことになることが多い。
 将棋で、指してすぐ「しまった」と思うのは、本当に初心者の頃だけだと思う。ある程度手が読めるようになってくると、すぐに失敗とわかるような粗い手は指さなくなる。それが失敗であったということは、しばらく経ってから明るみに出るのだ。
 そして「しまった」と思った時にはもう遅い。「待った」はきかないのだ。仮に「待った」ができたとしても、一手戻すくらいでは全体の状況は変わらない。一手一手の積み重ねで、少しずつ少しずつ有利不利が出てくるのが将棋だ。たった一手では何も変わりはしない。気づいた時には「あ、不利だ」なのである。少なくとも僕程度の実力だと、そうなのである。

 人生も、一手一手の積み重ねだ。その時その時には、その一手の善し悪しはわからない。時間が経って初めてわかる。そしてその時にはもう手遅れである。「待った」はそれこそ本当に、きかないのだ。
 しかし、将棋において「あ、不利だ」と思った時にすることというのは、一つしかない。「有利なほうへ持っていこうとする」だ。「不利だから諦めよう」というのは、将棋にはない(と思う)。「やや不利になってきた気がするが、どうしたら有利になるだろう」を考えて、逆転を狙うのが勝負である。こうなると、それまで以上に気が引き締まり、異常な集中力を発揮して、あっと驚く逆転劇が起きたりもする。
 生きていれば、「あ、不利だ」とか「失敗だ」「もうダメだ」「翼が欲しい……」とかいろいろに思う。その時に考えることは一つしかない。「じゃあ、どうすればよくなるだろう?」だ。それを考えるしかない。
 不利になってしまったのは、自分のこれまでの一手一手が杜撰だったからだ。どれだけ最善と信じていても、結果は残酷で、有利不利は生まれる。だがそこで諦めないで、それこそ最善を尽くして戦いきることが、次回以降の対局に生きてくる。
 将棋には「感想戦」という文化があって、「この手は悪かったね」とか「ここでこうすれば、どうなっていただろう」とか話し合いながら、今したばかりの勝負を再現する。解説者などの第三者がするのではない。今戦いを終えたばかりの、当の対局者たちがそれをするのだ。二人でともに「反省」して、次に活かそうというわけだ。こんな勝負事はまずほかにない。将棋界の最も美しい一面だと思う。

 本当に、そういうもんだよね、人生も。と思う。これは僕が将棋が好きだからそう思うのだろうし、そう思うような人間だから将棋が好きなのかもしれない。でも僕はきっとそういうふうに生きている。
「ああ、もうおしまいだ。この勝負には勝てない」と思うことはある。それでも諦めずに戦って、もしも負けたなら潔く太い白旗でも揚げて、高らかな敗北宣言を掲げよう。そしてしっかりと「感想戦」をして反省して、その後に活かしていく。
 ちなみに将棋では負けを認める時に「参りました」と言ったり、無言で頭を下げたりする。負け時は負けるほうが決めるのである。そういう潔さも大切だ。
(書いてから思い出したけど、感想戦と「参りました」が美しいというのは、たしか羽生さんあたりが著書に書いている。まったく同意して自分の考えだと勘違いしてしまうくらい、本当にそういうことなんだと思ってくださいませ。)

 僕は杜撰な手をたくさん指してしまった。その中には美しかったり、魅力的なものもたくさんあったはずだ。だからこそ杜撰さに気づけない。杜撰さはじわじわと効いてきて、いつの間にか取り返しのつかない「不利」が目の前に突きつけられる。「どうしよう」といったんは思うが、将棋を愛する僕はそこで長考に入る。とにかく考える。それで「こうだ」と思える、その時に信じる最善手を指す。戦況は変わるかもしれないし、変わらず負けてしまうかもしれないが、それで絶望して終わりというのではなく……将棋の精神に則って、学習していくのだ。そして、「いつか自分のサカナを食うために、今日を戦う!」みたいな感じで、未来のためにまた新たな戦いに繰り出していくのだろう。
 ま、戦いってのは大げさかもしれないけど。喩えが将棋だからそうなってしまった。

 今のうちに自分で言っておくけど、事情を知ったら誰もが僕のことを「カッコイイー」って思うと思う。わかってくれる人がたった一人だけいたらそれでいいから、無闇に人には言わないけれども。
 カッコイイったってある程度は自分の蒔いた種……杜撰な指し方の招いた結果なんだし、別段えらくもない。「100点差をひっくり返して勝つより、1点も取られないで1点取って勝ったほうが偉い」みたいなことが『逆境ナイン』に書いてあった。100点差をひっくり返した自分に増長するよりも、まず100点も取られてしまった自分を反省しよう、という。まさにその通り。だから「自分ってカッコイイナー」とはまあ、ちゃんと思っておくけれども、それで増長したり慢心したりというのは、意味がない。まず、恥じるべきだ。失敗したのだから。
 ここから、僕は成功するよ。そのために人生というのはまとまった時間が用意されているのだ。最善手はない。だから将棋は美しい。常に「最善と信じる次の一手」を考え続けるのが、将棋の美学なのだ。

2013/11/09 土 泥まみれの健次郎を愛すること

 ドラマ『3年B組金八先生』(第5シリーズ)を喩えにして語りますので知らない人はふーんとか思いつつレンタル屋へどうぞ。

 兼末健次郎という子が3年B組におりまして。
 この子が母親を包丁で刺すんですね。
 仕事人間で家庭を顧みない父と、長男ばかりを溺愛する母と、引きこもりになってしまった長男(雄一郎)との四人暮らしです。
 そんな家庭環境の中で、健次郎は色々と負担を押しつけられて、グレてしまいます。表ではよい子を装いつつ、裏では3年B組を恐怖政治によって統率しています。
 雄一郎はやがて母親の精神的な支配に耐えられなくなり、家を出ようとします。それで騒動になり、包丁が出てきて、止めに入った健次郎が、もみ合っているうちにお母さんを刺してしまいます。
 引きこもりでない、愛されていない弟のほうがお母さんを包丁で刺してしまったのです。

 健次郎がお母さんを刺したのは健次郎のせいじゃないですね。でも、健次郎はとても悪い子です。家でいい子でいるために、クラスの人たちをたくさん傷つけました。お母さんを刺したのは、たくさん人を傷つけたことの象徴みたいなもんだと思います。
 お母さんは健次郎の罪を一身に背負いつつ、自らの罪を傷によってあがないました。
 みんな悪いんです。お父さんも悪いし、お母さんも悪い。雄一郎や健次郎は、どうしようもなかったのは確かだけど、してはいけないことをたくさんした。
 僕はお父さんなのか、お母さんなのか、雄一郎なのか、わからないけど、健次郎を産み出してしまった。
 僕が刺されたのかどうかはわからないけど、健次郎は人を刺してしまった。
 健次郎をそうさせたのは僕です。

 金八は健次郎の両親に対してこう言います。「泥にまみれた子ですが、どうぞ愛してやってください」と。第5シリーズの中でも特に印象的なせりふの一つです。
 両親は健次郎を泥の中に突き落とした。泥まみれで汚いから、愛してやらない。しかし、両親の心の平安のために、進んで泥まみれになったような、親思いのけなげな健次郎を、愛してやらない理由などないではないか。金八はそのように言っているのだと思います。
 健次郎は僕のために泥にまみれたのかもしれない。そう思えば、僕が健次郎を愛さない理由などない。
 はじめは難しいのかもしれないけどね。
 僕らがあのドラマから学べることは少なくないと思うんです。
 先に立たない後悔は後で役に立てよう。
 そのために芸術や学問はあるのですよね。
 娯楽なんかにはしたくない。

2013/11/08 金 全国30人の読者

 このサイトの読者がなんと山口県にもいて、その弟さんが昨夜の木曜喫茶にきてくださった。兄弟揃って読んでくださっているそうで、光栄の至りです。そういうことがたびたびあるから嬉しいですね。やはり全国に30人くらいはいるのです、隠れた読者が。
 僕のほうもそういうのが嬉しくて嬉しくて、長崎まで会いに行ってみたり、高校の頃からたびたび見てますという二十代の方と東京で会ったり、メールが来れば長文で返したりと、「仲良くなれたらいいなー」という素直な気持ちをもって生きています。
 そもそも、このサイトを読んでくださるということは、僕の考え方とか姿勢とかに少なからず好感を持って、共感してくださっているということなのだから、仲良くなれて当然なのです。どんどん友達を増やしていきたいです。
 その、来てくれた読者の方に、その場にいた人が「実際に会ってみてどうですか?」と訊ねたら、「思ったより優しそう」みたいな答えが返ってきた。ガガーン、やっぱり僕は怖いとか厳しいとかそういう感じに見えているのか。実際の僕はダブルピースしてウェーイとか言ってる感じ(真実)なんで、あんまりこう、構えないで会いに来てほしいなと思います。近年ここに書いていることはちょっと堅めの内容が多いので、そう思われるのも仕方ないとは思いますが……僕はただの善良人間です。

 リンクにも貼っている「世界に親切」の管理人さんも、「誤読の発明」の管理人さんも、そもそもこのサイトを見てくれて、それで会いに来てくれたり連絡をくれたりした人たちです(そうだったと思う)。年はちょっと離れてるけど僕はいい友達だと思ってます。そういうふうに周りに好きな人が増えていくことが本当に僕の生きがいです。
 SNSとか(だけ)ではなく、このサイトを経由して僕を知ってくれた人には、かなり特別な感情を持っています。ナインティナインは、「テレビでいつも見てます」よりも「ラジオ聴いてます」のほうがずっと嬉しいとよく言ってる、そういう感じ。覚えてなかったんだけど僕はかつてこのサイトを「代表作」と呼んだらしくって、まあそれは間違ってはいないかもしれない。

 読んでくださってる人、すぐにとは言わないので、いつか、お茶でも飲みましょう。幸いにもおざ研とかいう場所があって、僕はそこにいます。おざ研は2015年の8月31日をもって終了する予定ですが、その後も「いる場所」を絶やす気はありません。僕はいつまでも「行けば会える」という存在でいたいです。「知らない人がいると緊張する」という方は、個人的にまた。メールください。
 本当に、僕はダブルピースしてウェーイみたいな感じの人で、ドラえもんとか読んで大爆笑してるような、普通の人です。もちろんいつもダブルピースしてるようなテンションの高い人でもありません。普通にしてます。場が盛り上がればダブルピースします。喫茶店で「へー」とか言いながら喋るような人です。見世物のような面白さはたぶんなくって、ただの人です。ただの人として、会いに来てみてください。ぜひぜひ。

2013/11/07 木 好きと税金

 ある女性ライターが、「私はフリッパーズ・ギターに入りたかったんだ」と言っていたそうだ。その人はあまりにも小沢さんのことが好きで、こじらせて、ニューヨークまで追いかけて行って雑誌に書いた。そういう「好き」ってよくないなと僕はちょっと思った。
「好き」って気持ちは自然だけど、振り回されてはいけない。「好き」ってのは「興味を持つ」というだけのことであって、二人がどういう関係になるのかは、二人の問題であって自分で決めてはいけない。
 自然にそうなるものだ。時には勇気を出すべきかもしれないけど。どんな人のことを思い描いても、うまくいっていると思える関係はそういう感じだし、「失敗したな」と思っても、「これからは自然に」と思うことができる。うまくいかなかった関係は、やっぱり自然にそうなっている。どれだけ向こうが僕のことを求めていても、いや、求めてくるからこそ、崩れてしまう関係はある。それはそうだ、彼らは僕のことを人間として見てくれていないのだから。
 人間として接することだと僕は思う。どんな人に対しても。それは有名人でも恋人でも。有名税なんてもんはないし、恋人税なんてもんもない。税金なんてなきゃないでいいんだ。二人で決めて、背負うべきものはあるのかもしれない。それは二人の問題だ。

2013/11/06 水 責任の所在

 いろいろあるけど僕は元気です。
 岡林信康さんの『絶望的前衛』という曲は、十代の僕に多大なる影響を与えました。日記を見ると、2002年の6月には少なくとも岡林のことを書いているので、17歳の僕は『狂い咲き』というアルバムを、それこそ狂ったように聴いていたと思います。耳をいつもすませて、今に繋がる大切な音楽たちを、吸い込むように浴びていた時期です。
 僕は絶望する。過去を振り返る。それは未来を産み落とすためなんだ。それが『絶望的前衛』の歌詞の大意です。後ろを向きながら、後ろに何かを産めば、それは前に向かった「未来」になる。マイナスかけるマイナスはプラスみたいな、そういう洒落た表現でもあります。
 僕は「産み落とす」人なんだな、と思います。さすがにそろそろそのことを、僕は胸を張って言いたいです。岡林もたぶんそういう人で、若い頃はいろいろと無茶苦茶なことをやっていたみたいです。自由恋愛とか言って女の子を泣かせまくったりとか、自著にも書いてあります。ワガママをやって、その報いを受けて、反省して、絶望して、しかしそれは「未来を産み落とす」ための食糧になるという、そのような流れは『君を待っている』なんていう女々しい歌を聴くと感じられます。
 岡林は確かに酷い男だったでしょう。でも彼は魅力的です。「芸のためなら」なんて言葉もありましたが、まさにある時期はそういう人だったと思います。太宰治も、かなり無茶苦茶なことをしたでしょう。その報いなんだかなんなんだか、内縁の妻が義理の弟と密通したことがわかって、それで心中を図ったら、女性のほうだけ死んだとかってのがあって、でもそれは太宰が作品を作り上げるための原料とか工具とかになっているのだと思います。『ヴィヨンの妻』なんてのは、そういうことがどこかで効いている作品でしょう。太宰治はたぶん、そういうようなことは無数にあったと思います。それで、あんなに女性の描写が上手いんでしょう。
 岡林や太宰なんていう、真に偉大な人たちと比べるのはおこがましいとは思うけど、僕も彼らと同じく「産み落とす」人なんだというのは、事実だと思うし、そのようにしていきたいと思います。だから、僕はどんなことがあっても大丈夫なんです。芸の肥やしなんてことも言いますね。
 でも、たとえば僕の家族になるような人に肥やしをぶっかけるようなことは、あんまりしたくはありません。そこで葛藤なわけですが、その葛藤さえもが、僕にとっては食糧になるのです。というか、そうしなくてはなりません。

「信頼をもって会いに来た人にいきなりビンタを食らわしたり」っていう、小沢健二さんが1stアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』のライナーノーツで使った表現を、僕は女の子から二度ほどぶつけられたことがあります。僕がビンタをしたって言うのです。そのことについては反論しません。しかし、フリッパーズ・ギターのファンだった人の中には、『犬』を聴いて、ビンタをくらったような気分になった人は、たくさんいたと思います。勝手にビンタくらってるのです。そういうもんなんです。だからって、勝手にビンタされてしまう人がたくさんいるような状況に開き直るようなことは、積極的にしたくはありません。でも、それをある程度見越すというか、認めなければ、小沢さんでいうと『犬』『球体』『Eclectic』『刹那』『毎日の環境学』『うさぎ!』『おばさん~』といった作品はできっこないのだとも、思います。そこはまた、葛藤です。
 ワガママだとは思いますが、「人生はバランスで何かを勝ち得て何かを失ってく」(H Jungle with T『FRIENDSHIP』)のです。この曲は「それでも 未来を担うかけらでも 男としたら狙ってる」と続きます。「いつからか描く夢 遠い日の平和になってた 走っても走っても追いつきそうもない世の中を とにかくお前を守ろう とにかく明日を迎えよう」とも言います。で、サビは

吠える時もある 心が寒くて灯し火絶やさぬために
逆らうこともある 時代が必ず正しいとは限らないから
逢える時が来る いつか こんな時代を生き抜いていけたら
報われることもある 優しさを手抜きしなけりゃ

 です。ダウンタウンの浜ちゃんが、小室哲哉プロデュースで出した曲ですが、僕は本当に好きな曲です。そんなに売れませんでしたが、まあ、わかる気はします。僕が共感するようなものなんだし。
 こうやって正当化して、人を傷つけることを是とするわけでは、ないつもりです。が……正直な気持ちはこんなもんです。
 それでも、自分のための妙なこだわりはバカバカしいから、消すべきもんは消したいと思っています。

 小説は発売される方向で動いています。これが本当に世に出たら、僕はいよいよ「そういう人」としてそういう顔をしなければなりません。名実ともに「産み落とす」人です。一応は。だからちょっとここで、ちゃんとあらかじめ確認しておきたかったのです。

 いろいろ書きたいことはあります。来月くらいには一気に書くと思います。それまではこの煮え切らない感じをぜひ、楽しんでいただけたらと思っています。

【資料】

絶望的前衛/岡林信康

僕は前なんか向いて生きたくない
僕は後ろを向いてしか生きられない
振り向かないで泣くのをやめて笑うことなんかしたくない
過ぎ去ったことと向かい合ってめそめそしたいんだ

それが僕にとって生きることなんだ
それは僕の後ろに未来を産み落としたいため

それが僕にとって生きることなんだ
それは僕の後ろに未来を産み落としたいため



君を待っている/岡林信康

僕が君を愛しているように 誰かを愛せるやつはいないんだと
それほど僕は君のことを 愛しているつもりだったんだ
だけど今振り返ってみると 愛してなんかいなかったんだね

まるでお節介なお袋みたいに 僕のそばに縛り付けて
君が自分の足で立って 歩き出そうとしていたのを
いつも邪魔してたのは僕だった それが愛だと思いこんで

愛してなんかいたんじゃなくて 僕のものにしたかっただけの
間違いだらけのわがままな僕に 君が答えてくれなかったからと
あんなにひどい裏切りがあって あんなにつらい別れがあった

行き先も告げずに僕の前から 去って行った君に今ごろ
こんなことを言っている僕は 少しも変わってないわがままな僕か
愛することと縛り付けることを いつか取り違えてたままの

今 僕のそばにいる人が なくては生きられない僕なのに
今 僕のそばにいる人が なくては生きられない僕なのに
なぜか僕は君を待っている なぜか君を僕は待っている


両曲とも、ライブアルバム『狂い咲き』より

2013/11/05 火 信じられないからこそ関係が大切

 それを連想させる全てのものを僕の目の前から、そしてこの世界から消してほしい。その気持ちを最もよくわかるのは君のはず。もしも大切な過去だと思うのならそのままにしておけばいい。それは僕の態度でもある。もしも不要だと思うなら全て廃棄してしまって欲しい。そんなものはただの願望に過ぎないから、僕は静かに笑って我慢します。
 忘れたいことでなく、美しいと思うなら、それは価値のあるものだから、それでいいんです。僕はそれは引き受けます。ただゴミのように浮かんでるだけのようなものなら、探して、しらみつぶしに、消していってください。
 視界の隅に映るだけで一瞬目の前が遠くなるのです。それはまさしく不快です。不快くらい、別にどうってことないので、僕は正気に返れば少し悲しんで、対策を打って、それでいいんです。

 僕はもう何も信じてはいません。でもたぶん、「何も信じない」という態度こそが、僕がずっと言っている「関係を愛する」なるものの究極です。人やモノや、言葉を信じることはできません。だからそれらの間の「関係」をのみ愛し、育むのです。
 十代の時、すでに僕は「何も信じられないのだろう」と思っていました。しかしそれが確信になったのは最近です。それまでの十年間は僕は、「それでも人を信じたい」みたいな青さで、甘さで、生きていました。人なんてのは信じられない。だからこそ「関係」をちゃんと見つめて、それを愛し、育てなくてはならないのだと思います。
 人はどれだけでも邪悪になるのです。美しい人なんていません。美しい関係を育もうという美しい意志だけがあるのです。それを持っている人と僕は泣きながら笑いながら暮らしていきたいと思います。

2013/11/03 日 29

 長野にいます。掘り進んできました。
 白骨温泉という、松本駅から松本電鉄で終点のしんしましままで行き、そこからバスで一時間ほど走ったところにある観光地で、友達の代理で働いているのです。一日だけ。まことにあったまるお湯でございました。おすすめです。どこの旅館かは個人的にお訊ねください。
 都会の喧噪から離れて……思うことは特に東京にいる時と変わりません。しかし変わったこともあるのかもしれません。変わらないということへ変わったのかもしれません。よくわかりませんが、僕の人生は一つのクライマックスを迎えようとしています。幾つかの要因によって。29歳になりました。
 29歳といえば、当時イラストレーターをしていた橋本治さんが『桃尻娘』で小説家としてデビューした年齢です。単行本になったのは30歳と8ヶ月くらいのことのようです。
 また、小沢健二さんでいえば8cmシングル群『Buddy』『指さえも』『ある光』『春にして君を想う』(最後のシングルCD)の発売が29歳です。29歳を最後に、小沢さんはシングルCDの発売をしていません。また、1stアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』が『dogs』と改題され再発売されたのも29歳の時でした。
(誕生日に、この8年間兄のように慕ってきた友達から、「29歳になりたての頃っていうとBuddyのレコーディングしてるくらいの時かな」とさらっと言われて、強く友情を感じたものです。)
 小沢健二さんは、29歳の時に拠点を東京からニューヨークに移したようです。
 そんな年齢になってしまったので、僕の人生にも大きな転機が訪れたようです。長い間「転機読み」を続けてきた僕ですが、ついに今かなと思えたということです。29歳。僕にはこの数字が美しく思えてなりません。
 三重野瞳さんの現時点での最新アルバム『2930 縲怩ノくみそ縲怐xは、彼女が30歳になる直前に発売されたもので、僕が「好きな女性ボーカルのアルバムトップ10」を作るとしたら、きっとその中に入るであろう名盤です。29歳の彼女の魅力がぎゅうぎゅうに詰まっています。
 29。奥田民生さんも29歳の時にソロデビューし、『29』というアルバムを作っています。『愛のために』や『息子』なんかが入ってるやつです。『ハネムーン』『愛する人よ』『30歳』『人間』なんて曲もありました。なんか想うことがあったんでしょうかね……?

 今が転機と僕が思う理由は幾つかあって、いずれも不透明なものではありますが、「透明にするための確かな活動」が伴ったものです。
 決心しました。
 決心というものについて語り出すときりがないので、また別の機会にします。
 すべては決心に付随するのだ。

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