少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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 31日です。僕は元気です。
 木曜□行ってきます。

2013/01/29 火  誰にも向けられていない歌

 僕は「外に向けて歌われる歌」が好きです。
「内に向けて歌われる歌」が好きではありません。

 斉藤和義という人の『歌うたいのバラッド』という曲が方々で名曲だと囁かれているので聴いてみましたがピンときませんでした。最初は歌詞が気にくわないのかなと思って歌詞を読んでみましたが別に嫌いというほどではありません。メロディや演奏はグッとくる感じがします。
 スタジオ録音版を聴いたあとにライブ映像をYoutubeで見て、なんかちょっとわかった気がしました。斉藤さんはそのライブで、始終目を伏せて(ほとんど閉じて)歌っていたのです。たまにギターの手元を確認するくらいで、客席やカメラのほうを見ることはありませんでした。
 この人は何に向かって歌っているのだろうと僕は思いました。そして僕がこの曲を好きになれない最大の理由はこれであろうと結論しました。おそらくこの人は自分に向かってしか歌っていないのです。僕が好きな歌手はみんな、誰かに、あるいは何かに向かって歌っているように思います。
 インターネットのあるページに、「『歌うたいのバラッド』はスターダスト・レビューの『木蓮の涙』に並ぶ名曲だ」というような意味のことが書いてあったので、その曲も聴いてみました。スターダスト・レビューのこの曲を僕は知らないわけではなかったのですが、別に好きではありませんでした。ライブ映像を見てみたら、やっぱり誰に向かっても歌っていないタイプの歌でした。ちなみに徳永英明さんを僕が好きにならないのもたぶん同じ理由でしょう。あの人も目を閉じて歌うタイプの人です。(もちろん、目を閉じているかどうかが判断の基準だというわけではありません。わかりやすい例だというだけです。)
 たとえば小沢健二さんや尾崎豊さんは、とにかくどこかへ歌を届けようとしています。それでけっこう届いているのではないかと思います。そういう人を僕は歌が上手いと思います。主に魅力的であるという意味で。中村一義さんも僕は好きです。先日の武道館ライブでは、全身から歌を届けようという意志を強く感じました。

 世の中にはたぶん、「誰かに向かって歌われた歌」が好きな人と、「誰にも向けられずに歌われた歌」が好きな人がいます。僕は完全に前者です。後者もたくさんいるでしょう。もしかしたらそっちのほうが多数派なのかもしれません。いや、たぶんそうだと思います。「誰にも向けられずに歌われた歌」のほうが、聴いてて疲れないので。
 アニメでもマンガでも、なんだってそうだと思います。誰にも向けられていないもののほうが受けます。疲れないので。もっと疲れてもいいんじゃないかと思います。

 僕は歌でもアニメでもマンガでも、「人間」と切り離して考えたりはしたくないので、はなから人間としての付き合い方を拒絶しているような作品に対して好意は持てないのです。

2013/01/28 月  (何度も君の)名前を呼ぶ

『疾風!アイアンリーガー』という93年のアニメを観ていて、気づいたことがあります。それは「名前を呼ぶ」ということの異常な多さです。どんな作品だって名前くらい呼ぶでしょうが、このアニメはおそらく特に多いと思います。たとえば、こんなようなやりとりがあります。(適当に創作します。)


「うわーっっ(敵のタマでダメージを受ける)」
「マグナムエース!!」
「大丈夫だ……このくらいっ……」
「マグナムエース……」
「うっ……(痛がる)」
「無理をするな、マグナムエース」
「マッハウィンディ……」
「俺たちがいるじゃないか。お前はもう立っているだけでいい」
「マッハウィンディ……」
「マッハウィンディの言う通りネ! ミーたちに任せるヨ!」
「トップジョイ……」
「それがしもサポートしよう」
「十郎太……しかし、俺はまだ諦めるわけにはいかない!」
「マグナムエース……俺たちを、信じてくれよ!」
「そうだよ、マグナムエース」
「キアイリュウケン、みんな……」


 みたいな感じですよ。それほど誇張してないですよ。
 それぞれのキャラクターの名前がちょっと変だから、「名前を呼ぶ」がより際だつってのもあると思いますが。

「名前を呼ぶ」ってのは大事なんですよ。僕も学校の先生をやっていたので何度も実感していますが、生徒たちにとって「名前を呼ばれる」ということは何よりも巨大なコミュニケーションです。いま文化祭やなんかで、連絡先を知っているほど仲良くはない生徒に会うと、かなりの割合で「わたしの名前、わかる?」みたいなことを言われます。それで名前を呼んであげると、それはそれは嬉しそうな顔をしてくれます。(だから、生徒の名前というのは忘れるわけにはいかないのです。)久しぶりに会った生徒に対して、「フルネーム覚えてるアピール」みたいなのをさりげなくすると、かなり驚かれたりとか。名前は大事だなーって、その度に実感します。(ただ、「あえて名前を知らない(呼ばない)でいる」という関係にも意味はあると思っています。)

『アイアンリーガー』では、とにかく名前を呼び合います。絆を確かめるかのように。上の例だと、最初の「マグナムエース」は「大丈夫か!?」という意味で、次の「マグナムエース」は、「意地をはりやがって……」というような意味だと思います。その次の「マッハウィンディ……」は、単なる応答。その次の「マッハウィンディ……」は、「そんな……みんなに悪いし……俺が立っているだけではチームが勝てるかどうかわからないじゃないか。それにしてもお前、優しいな」くらいの意味か、あるいはほかにも含まれているでしょう。
 このアニメではそういうふうに、様々な内容のことを、名前に封じ込めて語らせているのです。それは見方によれば「手抜き」ということにもなるのでしょうが、「言葉なしで語り合う男同士の絆」を表していることにもなりますし、「観る側の想像力に信頼を持って委ね、またそれによって想像力を育てる」ということにもなると思います。
 ここを含めて、というか、ひょっとしたら中心として、『アイアンリーガー』は本当にすばらしい作品だと思います。今の人が見ても充分、いや十二分に面白いと思いますので、ぜひとも。バンダイチャンネルに登録すれば1000円(月額)で観られますよ。

2013/01/27 日  「○○が終わったら××する」をしない

 忙しい時などは、「○○が終わったら××する」という発想になりがちです。人から借りた漫画(ごめんなさい)や、読んでくださいと言われている小説(ごめんなさい)など、「今忙しいから……」なんて言っていたら、なかなか取りかかれません。この日記だって、「今日は忙しいから明日かなー」とか思っていると、次の日も同じことを思っていたりして、一週間くらい平気で経ってしまいます。そういうことはもう、やめにしたいなと思っています。
 おざ研のショップカードならぬ研究所カード(名刺みたいなの)を作りたいと思っているのですが、それもなかなか進みません。デザインの得意な友達や後輩に頼もうと思っていて、「ま、今度会ったときに」とか言っていると、永遠に「今度」が来なかったりします。そういうのももう、やめたいです。すぐにでも、簡単なものでいいから作っちゃおうかなあとも思います。でもやっぱり上手な人に頼ろうかなあとも思うので、未定ですが。

 思い返せば受験のとき。高校三年生になったはじめのころに決めたのは、「受験終わってから××しよう」という発想を禁じることでした。「何も我慢しないようにしよう」と。それはとってもよいことだったような気がします。「受験終わってから」では、高校三年生という輝かしい期間を再体験することはできないもんですから。(演劇部の合宿にも、参加して本当によかったです。)
 そういう精神が、大人になって失われてしまうのは、まずいですね。仕事がいくら忙しかろうが、時間というのは自分で創り出すものなんだから、「終わってから」なんてのは言語道断。それはスケジューリングに見せかけて先送りしているだけに過ぎないのです。誰も何も、自分のためには待っていてなどくれないのです。ただ待っているものだけが待っているのです。

2013/01/26 土  けん玉と人生

 木曜の夜からけん玉を始めました。最初は大皿にすら載せられなかったのですが、おざ研や仕事場で三日ほどがんばってみたら、おなじみの「もしかめ」も少しだけ続くようになり、玉を剣先にさす「とめけん」「ふりけん」も、時折入るようになりました。
「身体が覚えていく」という感覚を久々に味わったような気がします。「こうかな?」とやってみて、「こうじゃない」が続き、何十回めかの「じゃあ、こうか?」で「できた!」となる、この繰り返しで少しずつ少しずつ上達していきます。
 ただ、僕はとてもかしこい大人なので、「身体で覚える」の率は子供よりも低いでしょう。だからこそ、けっこう順調に上達しているのだと思います。「身体で覚える」に加えて、「頭で考える」をほどよく織り交ぜると、「こうかな?」の精度が上がるのです。
 将棋の羽生善治さんがどこかで、「今は昔より“読める手”は少なくなったかもしれないが、“はじめから読まなくても良いとわかる手”が増えてきた」みたいなことを仰っていました。
 けん玉にしても、子供なら「こうかな?」を千回繰り返してやっとできるようなことでも、大人なら百回でできてしまったりするのかもしれません。九百回くらいはたぶん、「やらなくても無駄とわかる手」なのではないかと。もちろん、それを直観的にわかってしまう子もいて、そういう子が「けん玉が得意」になるのではないかなとか。
 では、「こうかな?」を千回繰り返すことが無駄なのかというと、それはただ順序が違うというだけのこと。おそらく千回繰り返すことで、「無駄とわかる手」を推測する力を育てるわけです。僕もけん玉以外の何かで「無駄とわかる手」を知る力をつけ、その上でけん玉に臨んでいるからこそ、それなりに順調にけん玉の力をつけていくことができているのでしょう。子供の時は、どれだけやっても玉を剣先にさすなんてことできませんでした。それは、その時の僕にとってけん玉がそれほど魅力的ではなくて、千回繰り返すということをしなかった、ということでもあるのかもしれませんけども。

 具体的な話をすると、けん玉の「持ち方」。子供のころはたぶん、「持ち方を変える」っていう発想がありません。そういうところでは、子供には意外と「自由な発想」というものがないのです。むしろ妙にこだわってしまうところさえあります。ところが、「うまくいかないな」と思ったときに、思い切ってけん玉の持ち方を変えてみると、とたんにうまくいくようになったりします。僕も大人になったものです。良い意味で「こだわりを捨てる」ということができるようになると、何事もうまくいくようになるのだと思います。

2013/01/25 金  「懐かしい」

「懐かしい」って言葉にはつい敏感になる。
 僕は『あまいぞ!男吾』(1986~92年の漫画)とか『宇宙船サジタリウス』(1986~87年のアニメ)とかが大好きです。連載・放映当時は人気がそれなりにあったので、知っている人はそれなりにいます。そういう人に男吾やサジタリウスの話をすると、「ああ、懐かしいね~」「あったね~」「面白かったよね~」という反応をいただくことが多いです。
 そんなとき、何とも言えないさみしい気持ちになります。

「懐かしい」は、あらゆるものを過去にする力を持っているように思えます。
 久しぶりの友達に会って、「懐かしいね」「こんなことがあったね」と言い合うのは楽しいですが、そういう「過去だけの関係」というのは、正直に言って、さみしいのです。
 過去を共有しながら、それぞれの未来に向き合えるような関係が素敵だと思うものですから。

 この前、岡田淳さんの作品が大好きな人と出会って、「初めて会ったのに私たちは同級生のようですね」と言い合ったのだけど、もしその時に僕たちが「岡田淳さんの作品って、とっても面白かったよね」なんて会話ばかりをしていたならば、その言葉は本当にただ陳腐な言葉になってしまっていただろうと思います。僕たちは岡田淳さんの作品を過去として(また現在としても)共有しながら、未来のことを語っていたはずなのであります。
 同級生として岡田淳さんのことを話していた時、「懐かしい」なんて言葉はなかったでしょう。「『びりっかすの神様』で、こんなシーンがあったじゃない?」と言えば、「懐かしい!」ではなく、ただ「うん」とだけ答えて、その続きを待つ。未来を待つ。未来を待つための「うん」があればいいのであって、「懐かしい!」という終了宣言は不要なのであります。

2013/01/24 木  木曜□

 木曜□でした。
 たくさんの人にご来□いただいて嬉しい限りです。
 知らない人が四人も来ました。
 そのうちの一人の方に、「ここって、なんか法律にふれるものを吸い込んだりする場所じゃないですよね?」みたいなことを言われた。そういう見方もあるのか。
 うちはピースフルです。大丈夫です。
 それにしても初めて来てくださった方が楽しんでくださるのはとても嬉しいことですね。
 そういうわけなので勇気を持ってどうぞ。

 どういうことをしているのか、というと
 まあ、なんか飲んだり食ったりしてます。
 それでしゃべったりしてます。
 なにをどれだけだれがしゃべるのか、とかは
 適当です。
 そういう場です。
 その場にいる人によって何もかもが変わります。
 みんなはみんなのことを考えてそこにいます。
 もっともらしいことを言えばそういう世界の理想みたいな状態に一時的にでもできればと思ってはおります。

2013/01/23 水  みんなと同じみんなとちょっと違うこと

「みんなと同じこと」に満足できない人は、「みんなとちょっと違うこと」を探したり食いついたりするんだけど、そこで手抜きが起こると、とても安易な「みんなとちょっと違うこと」に満足するようになってしまう。とても安易な「みんなとちょっと違うこと」は、手が出しやすいがゆえに人気になって、「みんなと同じ」と似たようなものになってしまう。それが「みんなと同じみんなとちょっと違うこと」。
「みんなと同じみんなとちょっと違うこと」は、たいてい安易である。安易だからこそ「みんなと同じ」がついてしまう。そこに思考はない。そうである人はそうであることを自覚したほうがいい。
 つい、そう思う。

2013/01/22 火  田川ミ『ちちこぐさ』

 ブレイドオンラインというHPで、田川ミ先生の新連載『ちちこぐさ』が始まりました。
 田川ミ先生は、2009年春の四季賞(月刊アフタヌーンの新人賞)で審査員特別賞を受賞した方です。その時の『ドッヂ』という短編が僕は大好きで、こんな文章まで書いたほどでした。今読み返すとすっごい恥ずかしいのですが、これも当時の味ということでそのままにしております。この度、それ以来の新作が登場ということでとても楽しみにしておりました。
 新作『ちちこぐさ』は、薬売りの男性が小さな子どもと二人で行商をする、という設定なのですが、この第一話というのが、「出産を控えてヒステリー気味になっている女性が、自分よりも仕事を重視している(ように見える)旦那に対して恨み節を言う」という状況と、「妻の出産を控えてどうしたらいいかわからなくなっている男性が、とりあえず(自分たちの未来のために)仕事に没頭してみている」という状況によって生じた夫婦のすれ違いが、いかにして調整されていくか、という物語。これから子どもを作る可能性のある全男性・全女性が考えるべきテーマらしいのでございます。
 細かいことを言い出せば、僕が「好きだ」と思える要素はほかにもたくさんあるのですが、「ここ」に注目した、というのが、僕はそれだけで素晴らしいなと思います。僕も男性として生きてきて、女性とうまくいかないことというのはたくさんあります。その何割かは、「ここ」の問題と根を同じくしているような気がするので、大変参考になるのです。
 よかったら読んでみて、そしてフォームから感想を送ってくださいませ。人気がなければ打ち切られ、単行本も出ない、ということもないではないと思いますので……。正直言ってブレイドオンラインの読者が好むとはあまり思えないので、ここの読者様のような浮動票をどうにか持っていきたいなあと……宜しくお願いします。もちろん読んでみて、面白かったらということで……。

 1/24(木)に木曜□、1/26(土)に研究会(木曜□とまったく同じです)があります。19時から朝までの間、適当な時にきて、座りながら固体や液体を体内に入れる会です(入れなくても別に構いません)。木戸銭を千円くらいいただいていますが、出世払い・後払い等も可です。教育研究所なので特に十代にはとても優しいです。飲食物は持ち込みですが偉い人たちが持ってきてくださった飲食物がたんまりあるので、手ぶらでも問題ありません。新宿方面にお立ち寄りの際は、ぜひおいでください。その場に好意的な人であれば、どなたでもご来所ください。尾崎教育研究所
再放送 2009/09/06 一目惚れについて
2013/01/21 月  歩いてみると + 世の中の希望について

 新潟県の新津というところへ行った。こないだまで新津市だったのが新潟市に統合されたらしい。新潟駅から信越本線の各駅で25分くらい。快速だと最初に止まる駅。
 13時からそこでちょっとした仕事があったのだが、ちょっとだけ早く着いたので、30分ばかり散策してみた。
 僕がどこか知らない土地に行くとき、楽しみにしているのはもちろん風景だ。「見たことのない風景」もいいが、「どこかで見たような風景」に出会うとちょっと興奮する。ぶらぶら歩いて僕はいろんな地方のことを思いだしていた。たとえば富山県の高岡とか。同意が得られるかわからないけど。
 街でも山でも道路でも、どこへ行ってもどこか日本だと感じる。良い意味でも悪い意味でも。
 もちろんスターバックスを見てうれしい気持ちにはならない。「どこかで見たような」どころか、「完全に知っている」だから。「どこかで見たような」が僕はうれしい。どこであれここは日本だと感じられるからだと思う。それは風景でも人でも何でも同じだ。ふとしたきっかけで「どこかで見たような人」に出会えば泣きたくもなる。

 新津駅前の地図をたよりに、最寄りの神社に行ってみることにした。諏訪神社という、なんてことない、どこにでもあるような神社だった。しかしなんてことなかったのは雪だった。新津はそれほど積雪の激しいところではないらしく、境内にはうっすらとだけ雪が積もっていて、鳥居から本殿に至る参道に人の通った跡がついていた。その跡は鳥居の右側から本殿の右側に向かってまっすぐに伸びていた。つまり、「本殿への道」は参道の真ん中についていたのではなく、参道の真ん中からかなり右に寄ったところについていたのである。
 神社の参道は神様の通るところだから、人は真ん中を歩いてはいけない。端っこを歩きましょう。そういうことを知識として持っている人は少ないわけではないだろう。しかしそれがどのくらい実践されているのかというのは、わからない。参道はふつうコンクリートで固められていて、足跡の残るものではないからだ。しかし雪の積もっている時は違う。人の通った跡ははっきりとあらわれる。
 その「本殿への道」以外のところの雪は実にまっさらで、誰も参道の真ん中を通った者はいないように見えた。
 真ん中を歩いてはいけない、という決まり事を、そこを通る誰もが知っているわけではないかもしれない。もちろん最初に歩いた人は知っていただろう。しかしその後に歩いた人はわからない。日本人の「右へならえ」精神が、すでについている足跡をなぞらせたのだとも推測できる。そういうことのあらわれとして考えても興味深いし、もちろんこの地方の人たちの信心深さということを考えても面白い。歩いてみるといいことがあるものだ。

 そこから特にあてもなく、商店街のあたりをぶらぶらしてみると、「まちの駅ぽっぽ」というお店(?)を見つけた。道の駅なら自転車旅行でよくお世話になっているが、まちの駅とは。入ってみることにした。
 中を一通り見て、おまんじゅうと手ぬぐいを買って、レジにいた方と少し話してみた。ここは新津の商工会が「中心商店街の衰退、来訪者の減少に歯止めをかける」ために作った、なんというのか……まちの人たちの……なんというのだ……トイレがあって、持ち込みのできる休憩所があって、安価で食べ物や飲み物も提供されていて、手作り品や特産品の委託販売もしていて、1時間500円で会議室を貸していたり(夏と冬は冷暖房費として+100円だという)、5円コピーやタクシーを呼ぶサービスがあったり、いろんなパンフレットが置いてあったり、よく見ると壁はギャラリーになっていたり……よくわからないが、そういうところだった。
 商工会はほかにも、C57(しごなな)という駄菓子屋もやっているとレジの方が教えてくれた。ほんの近くだったので行ってみると、確かに駄菓子屋でもある(駄菓子もブロマイドも完備)のだが、昔懐かしいけん玉やベーゴマなどのおもちゃもたくさん売っているし、たこ焼きも売っているし、奥はやはり休憩所というか、見た目だけだと居酒屋のようになっていた。また、なぜかリボンの騎士の映像が流れていたりもした。「昭和」というのがテーマらしい。けん玉を買って、急いで駅に戻った。
 一言でいって、この商工会の取り組みは魅力的だと思った。僕がやりたいことというか、やるべきことはこういうことなんだろうとも思った。僕は新宿なぞという都会で、有料の「休憩所」みたいなもんをやっているが、理想はもしかしたら、「ぽっぽ」や「C57」のような形なのかもしれない。きっとそうだろう。
 そんならなんで東京なんかにいるんだ? っていうことなんだけど、たぶんそこがポイントなんだろうな。良くも悪くも。良くも悪くも。

 そして仕事。仕事というのは、いろんな仕事をしている人に会って、話を聞く仕事。毎年この時期にやっているのだが、今年は、長野とか宇都宮とか新潟とか岩手とか、地方へ行くことが多い。
 この仕事をしていると、世の中には希望ってあるんだというふうに思えてくる。もちろん全員ではないけど、何人かに一人は、とても素敵なお話を聞かせてくれる。僕が特に「素敵だ」と思う人はみんな、「○○をもっとよくしたい」とか「○○を守りたい」とか、具体的な目標をどこかに持っている。「たくさんの人に笑顔を与えたい」とか、「誰かの役に立っていたい」といったささやかで抽象的な想いも素敵ではあるが、具体的な強い想いを抱いている人の、「何かを変えようとする意志」や「何かを守るために何かを変えようとする意志」というのは本当に心に響く。とりわけ「地域」とか「子供」とか「未来」といったものに対して、前向きに取り組もうとしている人の話は素晴らしい。
 そういう人たちの話を聞くと、「この人たちのいるところは、絶対に素敵な方向へむかっている」という確信を抱く。誰もが彼らのように生きて行けたら、悪いことはほとんどなくなってしまうのではないか? とさえ思う。そんなことはきっとあり得ないけど、夢想する。
 希望はどうしても、一人ひとりの生き方の中にしかない。本当にそう思う。希望を背負って生きている人たちの多くは、次なる希望を創り出そうとして懸命に生きている。たとえば町おこしの仕事をしているある人は、子ども達への教育を変えていくことで村の文化を守っていこうとしていた。たとえばある小学校の養護の先生は、子ども達の心身を健やかにするために、地域や保護者や祖父母との関わりを大切にしていた。彼ら・彼女らの仕事は、少しでもより素敵なサイクルに未来を載せようとしている。
 新津の商工会がしていることだってそうだ。
 そういう人たちと出会う時に、「どこかで見たような人」だと思う。とても良い意味で。再会のような気持ちで泣きそうになる。むりやりつなげてしまえば、あの参道の足跡のように、彼らは一つの道を歩いているのだ。……なんかこれ、魯迅の『故郷』の最後のほうみたいな話だけど。僕もその道を歩いていたい。そして歩く者が多くなれば道になる。「参道の真ん中は歩かない」という決まり事を知らなくても、すでに道があれば誰だってそこを歩く。これが希望ってものだろう。

 僕は東京にいる限り東京でできることをする。必要があればどっかに行くのかもしれないけど、僕がやるべきことはもしかしてここにしかないのかもしれないとも思う。わからないからとりあえずここにいる、というのが本音だけど、そういうのがわかるということはそれほど必要がないだろう。

2013/01/20 日  健康厨速報+

 まだきれいな水の出るシャワーが届いていないので、最近おふろから出る前にブリタ浄水器にお湯を入れて頭からかぶってる。そしたらなんか調子がいい。やっぱ水なんだなーって気がする。
 木曜日はもちろん木曜□だったんだけど、一晩を通じて5人の来□がありました。5人とは少ないような気もするし充分な気もします。ただし赤字です。毎日やって、毎日5人くらい来るのも理想的な気はしますが、僕は毎日立てないので誰かやってください。
 無銘喫茶で木曜喫茶をやり始めて、最初の2年くらいは一晩に4人くらいなのはよくあった。最初はそんなもんでよかろうと思う。少しずつ成長していけばいいのだ。そのためには人を集めなければならんので、4月の超文学フリマで新刊を出したいなと思っております。ちーと忙しいからいつ書けるかってとこもあるんだけど。最新作から二年経つとさすがにまずいので……。

 想像力の話は実はもうすでに少し違う形で書いてしまった。あとは何を書いてないんだっけな。また歌について考えてしまったのでそれを書きます。歌はそれにしてもいろんなところに繋がっている。なんだってそうだが。

 さてみんなセンター試験お疲れ様。
 受験が終わったらまた集まりましょうね。

2013/01/15 火  健康厨としての自覚を

 近年冬場は忙しいので、健康厨としての自覚を忘れそうになります。非常勤講師をしていた時はちょうどよい忙しさでありました。特に二年目は週に四日、それも一日に数時間程度しか労働らしい労働をしていなかったのです。十四時くらいに帰ったりしてました。あるいは何の用もないのに放課後まで残って、子供らとひたすら遊んでいました。まことに楽しかった。あの緩さはあの学校ならではのものだったと思う。そういう意味では大好きですよ。給料は激安でしたが、割高ではあった気がします。
 健康厨なので玄米甘酒を10000円ぶん注文しました。一番好きな飲み物は水、二番目がお茶(各種)、三番目に甘酒か上とうの日本酒が来ます。たぶん。
 健康厨だから様々なところにお金をかけることにしました。
 健康厨だから早寝早起きがしたいけど難しいですね。
 ラジオ体操生活を最近サボっていたので再開いたします。
 と思ってやろうと思ったら寒すぎて不可能だった。夏の朝はいいですなあ、本当に。十時過ぎると極悪だけど。
 でもがんばる。
 健康厨だから長芋と野沢菜を食べます。
 野沢菜を食べながらお茶を飲みます。
 昼間には緑茶、夜中にはほうじ茶を飲みます。
 ゴボウを干してお茶にする活動も復活したいと思います。
 きれいな水の出るシャワーとか買います。

 小学生の時アニオタだった(なんと正しい当時の小学生であろうか!)から小学三年生の時に好きだった『疾風!アイアンリーガー』ってアニメを観ています。
 いいアニメです。
 恥ずかしくなりそうなほどにベッタベタに王道なんですが、恥ずかしくなんてない。むしろ泣いてしまう。そういう「素直な作品」が僕は好きです。
 そういう素直さは失われてはいけないです。

 健康厨なので深夜アニメは観ません。
 放映中のアニメをよく観ている人は、アニメに対する「面白い」のハードルが低いんじゃないかと僕は疑っています。あるジャンルを好きになると、そのジャンルを好きであるということを楽しみたいがゆえに、評価が甘くなるということが絶対にあります。アニメを作るには手間がかかるので、それほど多くは供給されませんし、TV放映されるものなら短くても一三話あって、三ヶ月くらいはその枠を占有します。「一つも面白くないので観ない」とすると、三ヶ月間アニメを楽しむことができなくなります。だからアニメに対する評価が低くなるんじゃないか、とか思うんです。
 ジャンプも同じです。全部つまらなかったらジャンプ読む意味がなくなっちゃう。ジャンプ読んでいたいから、「○○は面白いよ」ってつい言っちゃう。でもそれがもしコミックビームに載っていたらわざわざ読まないでしょう、ってレベルのものでもジャンプに載ってたら面白いとか言っちゃう、そういう曇った感じがあるのではないかと。
 それほど面白くもないはずのアニメや漫画で時間を潰すくらいなら、全部面白くない! ってもう言っちゃって、過去の作品を漁ってみるのも楽しいと思うんですけどね。
 健康のために寝ます。

2013/01/14 月  僕は冷たい人間です。

 僕はいまいち「熱さ」に欠けている。
 昨日「慎重で賢い」という言葉を書いたけど、僕は極度に「そこ」にいようとしてしまう。
「理屈を抜いたもの」に夢中になることができない。
 ワンピースや球技大会に夢中になれない。
「理屈を抜いたもの」に熱くなれるということは、「理屈を軽視する」ということでもあると思うので、どうにもそれが僕には難しい。
(「理屈を抜いたもの」と、「理屈を踏まえた上で、それを超えたもの」はたぶん違う。)

 この「理屈を抜いた感じ」をなんと呼ぼう。
「人情」とでも呼ぶか。僕には人情がない。
 たとえば僕は「ボランティア」ってことがピンとこない。
「寄付」とか「義捐金」とかも。
「そんなもんくだらねー」なんてもちろん思ってもいなくって、むしろそれにピンとこないような自分をこそくだらないと思うくらいだ。地震のあとも、結局被災地には行かなかった。行きたいとも思ったが、行く理由は特にないとも思った。「行ってどうする?」とブレーキがかかって、どうしても慎重になってしまう。江頭2:50さんなんかは、たぶん本当に人情のある人で、地震があった直後に「とにかく行かなきゃ」とトラックで駆けつけたらしい。そういう心が僕にはない。
 そういう種類の想像力が僕には欠けていて、それは欠点かもしれない。
 お金をどこかに出したとして、それがどのように回って、どこに届いて、どう使われるのか、などと、くだらないことを考えてしまう。よくわからないから、想像できないから、その気にならない。それなら自分でそのルートを作るなり、明らかにさせるなりすればいいのだが、そういう努力をする動機となる肝心の人情が僕には不足している。「何に使われるかわからないけど、とにかく出せるだけ出そう」といった気持ちも、わいてこない。「それはそれとして、自分がするべきことは何かな」ということばかり、考えてしまう。
 そういった意味で、僕は冷たい人間です。

 猫も特別好きじゃない。
 猫を愛せるのは、人情のある人間だと僕は思う。
 不透明なものを信じられるのが人情なのかもしれない。
 猫のようなアニメも愛せない。
 だから『けいおん!』は好きにならない。
『エヴァンゲリオン』のように、理屈を抜いたようなものを愛せるのも人情かもしれない。
 片想いができない。幻想を抱けないから。
 男兄弟の中で育ったにしては、女の子に幻想を持っていないんだねと言われる。幻想っていうのがそもそもよくわからない。僕は「女の子」のことがあまりにもわからなくって、高校生くらいまで幻すら見えていなかったので、必死に考えて、観察して、交際して、本読んで、勉強して、なんとか女の子なるものをわかろうとした。今もまだその途中だ。幻想を抱いている暇なんかない。
 不透明なものは「わからない」で止まって、人情によって埋めようとは思わない。猫や二次元キャラクターや好きな女の子の気持ちや内面を捏造して愛でたりできない。『エヴァンゲリオン』の内容を自分勝手に解釈することもできない。
 二次創作に興味が持てない。勝手に考えたりできない。不透明なもの、「わからない」ものに対して不用意に答えを与えることができない。
 慎重に歩くしかない。

 妄想が苦手だ。
 空想も苦手だ。
 幻想はない。
 想像しかできない。それもある程度、身近な範囲での。
 人情ではなく、僕は「義理」の世界でしか生きていないのだろうか。
 そこまで冷たいとも思わない。
 僕が大切にしているのは何か?
 それはやっぱり「友達」に象徴される、人との繋がり、関係ということしか思いつかない。
 結局それしかないのだなと、思う。
 そこだけは前提として、「大切なものである」とインプットされていて、時に理屈を超える。「友達」にまでならば、僕の想像力はじゅうぶん届く。
 それより遠くなると、もうわからない。

 選挙も僕の想像力の届かないところにあって、「票を投じる」ということに今のところまったく興味がない。熱くなれない。冷たいと自分でも思う。
 生きづらいよ、それは。

 何かを信じ込む、ということができないのだ、たぶん。
「信じよう」と思わなければ、何も信じられない。
 だから僕は信じるに足るものを常に探している。
「信じられる」と思えなければ、信じられない。
 だけどそう簡単に「信じられる」なんて思えないから、「信じたい」という願いや祈りをたくさん、ずっと持ち続けている。疑いながら。

 もちろん楽しくありません。

 なんか朝方のテンションで↓みたいなこと書いてしまった。
 まあ、本当に、占いみたいなもんなんですよ。
 そういえば友達のあ君(あという名前なのです)に、「ジャッキーさんの言うことは占いみたいなもんじゃないかって思うんですよ!」とか言われた。確かにそうかもしれない。
 わいは占い師や!

2013/01/13 日  おいああういえとあああああああ

 なんかずいぶん前に2008年度に中学3年生だったとある生徒からメールが来て、っていうのもどういう経緯でメールが来たのかは忘れた。当時僕は生徒に自分のメールアドレスを教えるというようなことにはけっこう慎重だったから直接は教えてないような気がするけどもしかしたらなんかの拍子でどっかで教えたのかもしれない。それはまあどうでもいい。その時からどのくらい経ったのかも忘れた。そんで去年のいつだったかにまたメールをちょっとして、なんだかこう、特に内容もないメールだったような気がする。「どうしてこの子は僕なんかに興味を持っているのか?」と珍しいことを考えたりした。これに関してはあとでまたちょっとだけ触れる。

 それでその子から新年になんだかまたメールが来た。「一瞬会えないか」というようなことだったので是非とも会いたいと思って会うことにした。ちょうど木曜だったからおざ研に来てもらうことにした。それでけっこう夜遅くにやってきた。
 駅まで迎えに行くともう一人いた。同じクラスで2008年度に教えていた子だった。僕は二人とものことをよく覚えている。どんな名前で、どんな子で、どんな話をしたかをだいたい覚えている。けっこう、かなり多くの生徒に対してそういうことだけは記憶している。学校の中で起こったことはなぜだか記憶が濃い。でもやっぱ、僕が「こいつは好きだな」と思うような子に対してそうであるだけで、どんなやつとの会話も覚えているということはない。この二人に関してはけっこう覚えている。ただ、二人ともそれほど高い頻度で話していたわけではないから、覚えている内容量はそれほどではないのだが。さてここで便宜をはかってメールくれたほうをO、その子についてきたほうをAとする。別にイニシャルからとったわけではない。

 二人は好対照だった。Oは僕の授業をほとんど覚えておらず、Aは僕の授業をほとんど覚えていた(驚くほど覚えていた)。進路もまったく違い、キャラクターもたぶん違う。ただ波長の合うところはあるのだろう。そして二人とも中三のクラスが好きだと言った。
 Oはどうやら「自分」というものをすでに探り当てているようだった。確立していると言ってしまうのは早いかも知れないが、礎はもうある。数えなら(数えるなよ)二十歳なのだとは言っても、今どきその年で「自分」を持っているというのは珍しいのかもしれない。
 さっきその子のブログを全部(と言ってもこの一年半で二十回くらいしか書いていない)読んだ。しっかり書いている。整理されているとは言い難いが、ちゃんと「自分」はある。これを整理するためには書き続けることが肝要なんだがなーと思うが、もう半年放置されている。もったいない気もするが、どっちが良いのかは僕が決めることではない。僕は読みたいけど。
 メールや電話で接していても、「こいつは自分で生きてるな」と思わされた。不必要にこちらの顔色をうかがうということがない。もちろんうかがうべきときにはそれはできるんだろうが、「不必要に」うかがうということはたぶんない。僕に対して一般的な気の遣いかたをすることに意味がないことはちゃんと知っているのだ。腰の引けた感じもない。どっしりとしている。別に鈍感だとか図太いとか、安定しているということでもないが、芯がちゃんと存在している。このあたりは気をつけて書かないと「全然わかってない」と思われてしまうので難しいのだ。芯とか軸とかがいくらあっても、ブレるもんはブレるんで、芯のある人が常に強い顔をしていられるというわけではない。辛いことがないわけではない。しかし自分という芯のある人は、自分で調整ができる。Oはそういうことがもうできる。んだろうなということはちょっと思った。
 Oはある時期の記憶がいろいろとごっちゃになっていて、そのせいもあって僕の授業のこともほとんど覚えていないという。Aが「こんなことを(僕が)言っていた」と言っても、特に思い出すでもなく、「そうなんだ」という顔をしていた。僕なりにその現象を解釈すれば、彼女には記憶しておく必要がなかった、ということなのかもしれない。彼女にはすでに自分があるから。
 自分があって、それをもとに調整することができる人は、時として人の話を聞かなくなる。と書くと誤解を招くかもしれないので言い換えると、「自分にとって必要か不必要かを瞬時に判断して、不必要だと思えばその話は記憶しない」ということかもしれない。「自分」という軸があれば、それを基準にして情報を配置できるが、「自分」がない場合、情報をどこに配置していいのかわからないから、「とりあえず持っておく」をする。もちろんそこで取捨選択がないわけではない。「この話は面白いぞ」と思って、「必要だ」とは思うのだが、「どこに置いておけばいいかわからない」から、「とりあえず持っておこう」になる。そしてそれは、長い時間をかけて「あるべき場所」を探すことになる。いわゆる「頭のいい人」ってのは、そういうふうに生きているのだと思う。Aは本当に頭のいい子だ。「とりあえず持っておく」をたくさんしている。そしてそれらを、おそらく長い時間をかけて自分の中にしみこませていくだろう。そしてどんどん賢くなっていくだろう。そしてその過程において、ひょっとしたら僕の言葉は必要だったし、これからも必要としてくれるのかもしれない。
「自分」があって、だからそれを基準にものを置く、という姿勢は危険でもある。危険でもあるが、そういう人は魅力的でもある。「自分」を持つ、あるいは知るということが遅くて、そのためにおびただしい情報量をため込んでしまう人間は、慎重で賢い。僕はたぶんこっちのタイプだ。そして危険で魅力的というのは、たぶんすんたん(友達ね)みたいなタイプだろう。
 慎重で賢い人間は、分散する。危険で魅力的な人間は、分散しない。僕はともすれば「危険で魅力的」だと思われてしまうのかもしれないが、本当はそうではない。僕は慎重で賢くて、分散している人間なのである。危険で魅力的で分散しないのは、すんたんである(そういう友達がいるのです。興味があったら左上のボックスから検索を)。
 OとAがどうであるかというのは、ほんの1時間か2時間程度話しただけだから実はわからない。ただ二人は僕に上記のようなことを考えさせた。上にいろいろ書いたのは、占いのようなものだと思ってください。

 Oが僕に連絡をくれたってのは、本当に嬉しいことだ。Oにとって僕がどういう存在であるのかということを考えると、ちょっと不思議である。なんとなく会ってみようと思っただけなら、いい感覚だと思う。そういう感じを大切にして生きていってほしい。
 Oとはしばらく会えないが、Aとはそのうち会うかもしれない。そういう状況も、好対照だ。Oのほうはどっちに転んでも自分なりの生き方をするだろう。Aはわからない。まだまだ話し足りない。せっかくだから、たまに会って話を聞かせてほしいと思う。慎重で賢い人は、それだけ揺れやすいけど、手を抜かないで、ズルしないで、なんとかやっていきましょう。

 2013年の僕のテーマは「再会」でもあるかもしれない。去年に無銘で会って、それきりになっていた人とも、ネット上で再会を果たした。とても喜んでくれた。さい先のよいスタートだ。再会。それ以上のよろこびはない。
 どれだけよく会う人とでも、まるで再会したような気分になることはある。
 自分とだって会いなおすようなことはあるのだ。

2013/01/08 火  まつもと

 この前の記事、「優しい文章」って言われた。しかも男の人に。すっげー嬉しい。
 明日はお仕事の都合で松本に行きます。
 少しでも時間があれば祖父母にいきなり会いに行くと思います。

 あまり書けないですみません。昨日たくさん書いたので読んでください。過去にもいろいろいっぱい書いているので、適当な言葉を左上の検索ボックスから検索してみて、適当に読むのも面白いかと思います……!


2013/01/07 月  田川ミ先生おめでとうございます

 最近驚いたことといえば田川ミ先生がブレイドオンラインで連載を始めるというニュースです。田川先生は『ドッヂ』という作品でアフタヌーン四季賞の審査員特別賞を受賞した方です。
 過去にこんなものを書きました。『ドッヂ』論
 田川ミ先生について書かれた文章としては今のところ最長でしょう。たぶん。
 最後に僕はこう書いています。

 僕は『ドッヂ』が大好きで、正しいと思うし、美しいと思うし、「善い」と思う。常にこういう作品が世の中に満ちていればいいと思う。田川ミ先生には、これからもすばらしい作品を期待します。編集部からは「スケールが大きくて、もっと“複雑”な」作品を望まれるのかもしれないけど、それを満たしながらも、しかし熱く正しい作品を描けるだけの魂は、きっとお持ちでしょう。いつまでも美しい作品を! 受賞コメントに「読者のみなさまの心に残るような作品を描きたい」とあったので、きっと「そうなる」だろうなあ、と安心しながら新作を待ちこがれております。

 それからもう、3年と8ヶ月くらい経ちました。
 まさか田川先生の新作が読めるなんて。
 素敵な作品だったらいいなあと思います。
 卒業制作の『やとのさと』(わざわざ八王子まで友達のぺ~こくんと読みに行った)もすばらしかったので、きっと大丈夫でしょう……!

2013/01/05-06 土-日  名古屋記録 長いからまあ少しずつ読んでください

 5日の早朝、荻窪駅まで4キロほど蹴り板で走ってJRに乗り、昼過ぎに名古屋に着きました。この歳になってもまだ新幹線に乗る気にはなりません。
 金山駅から堀田のシダックスまで蹴り板でまた走りました。今度は2キロくらいかと思います。10分もかからず着きました。

 蹴り板はすばらしい乗り物ですよ。いちどは流行ったのに、廃れたというのは、なぜなんでしょう。当時は「実用」というより「ファッション」という要素が強すぎたんでしょうか。ただ「実用」として見れば、少なくとも都会ではものすごく便利なものなのですが。電車にもスーパーにも持って行けるし。
 僕が乗っているのはJD RAZORというメーカーのMS-130Bというやつ。重量2.8kgで100kgまで耐える優れもので、折りたたむととても小さくなるしストラップ付きで肩からかけられるし、とても便利です。これで信号もたくさんある8キロの道のりを30分で走ったこともあります。疲れますけど。ふだんはだいたい、4キロ20分くらいの計算で走るとちょうどいい感じです。
 最近また同じメーカーから良いのが出たみたいで、ほしがってます。ポンポン買っても仕方ないですが、用途ごとに二台くらい持っててもよいかなとは思ってます。靴のようなイメージで。
 僕は電車もバスもタクシーもあんまり好きじゃないし車も運転しないので、旅行先や実家で「足」がないとけっこう困っちゃいます。でも自転車を持っていくのは大変だから、最近は蹴り板ことキックボードを電車に乗せて持っていきます。歩きながら折りたためるし、座席の下に置いておけるし、改札も通りやすいし、何かといいのです。

 さて堀田のシダックス(カラオケ屋)で高校の後輩(いつまで彼は「高校の後輩」なのだろうか? リンクしてるしひろりんこさんと言っておこう)と、高校の後輩(いつまで彼女は「高校の後輩」なのだろうか? リンクしてるしcotonecoさんと言っておこう)と合流し(こんなことを書くとこの人たちがいつどこでだれと何をしていたのかが全部わかってしまうので普段はほとんどそういうことは書かないようにしているのだが、いいじゃないかすんだことだし、「書ける」ということの重要さも一応あるのかもしれない)、歌を歌いました。

 歌は好きですな。歌うのも聴くのも好きですな。しかし意志のない歌は好きじゃないですね。自分で歌ってても、「あーこれは意志がない」とか自分で思うときがあります。
 カラオケのダメなところはね、「文字をなぞる」をしていれば歌になってしまうことですよ。あの、文字の色が左のほうからちょっとずつ変わっていくの、あれって確かにあんまりよく知らない曲を歌うのにはいいのかもしれないけど、「オフ」にする機能もつけてほしいな。あれのせいで歌が消化試合っていうか、「こなす」感じになっちゃうことって多いですよ。メロディと歌詞をなぞるように歌われる歌ってのは、ぜんぜん気持ちよくないです。歌は心ですから。
「歌は心」って、もう太古から言われてるような言葉だけど、真理というか、これ以外に言いようがない気がします。「歌は心をこめて歌うものだ」だと、ちょっと違う気がします。心を「こめる」とか「こめない」ではなく、「歌は心」なんです。そうとしか思いようがないのです。もう、説明うまくできないですけど。
 音程が取れてるとか、声が出てるとか、そういうことではなく、歌のうまさというのは「意志」だと思っているんです。「意志」が見えることが、歌の条件なんじゃないかと。
 口から発せられる音の一つ一つに、意志はあるか。
 抽象的ですけど、そういうような。たとえば奥井亜紀さんとかAmikaさんの歌を僕が好きなのは、たぶんそこです。素敵な意志がすべての音に宿っているように思うから。
「え、でも、歌は心だとか、意志を歌に宿らせるだとか、どうやったらそうなるの?」って言われたら僕にはよくわかりません。ただ、僕は僕なりのやり方で、そうなることを願いながらカラオケとかで歌ってます。かなり真剣に。
 僕が「あーこれは意志がない」と自分で思うのは、あんまり好きではない曲を歌っている時。好きな曲は、歌詞の意味とかがよくわかってなくっても、それなりに意志がこもるものです。と、思います。こないだ三重野瞳さんの『Dearest』という曲を歌ってたらふいに涙がこぼれました。「あーこれは。どういう歌だかよくわかってなかったし、今でもよくわからないけど、この歌はよいな」とか思いながら、それなりに歌ってたら、なんか知らんけど泣けてきました。もしかしたら、勝手にわかっちゃったような気分で歌ってても、あんまり意味はないのかもしれないです。「わかんないけど、これはこういうふうに歌いたい」って歌ってみて、「あ、これは……」ってなって、じんわりと泣けてくるようなのは不思議です。
 誰かのことを考えながらラブソングを歌うより、誰のことも考えずにラブソングを歌ったほうが、歌はうまく歌えるような気がするというような感じです。僕は『Dearest』を歌いながら誰のことも考えてはいませんでした。でもたぶんそれはちょっと嘘で、僕はきっとたくさんの、無数の他人や、何人もの友達のことを考えていたのでしょう。きれいに言えば。

 そんなことを思いながら歌っていたら高校時代からの友達(すんたん)が乱入(乱入でした)してきたので、「あーこれはまた違う意志になるな」とか思って、BUCK-TICKの『スピード』とか中村一義さんの『ショートホープ』とかを一緒に歌ったらやたら楽しかったです。
 PIERROTの『PHYCHEDELIC LOVER』とかは、わりと誰かのことを考えながら歌います。(誰のことも考えないこともあります。)「君がこれまで失くしたものを僕がまた創り出そう」なんてのがサビの歌詞ですが、こんなこと言われてみたいし言ってみたいもんですね。僕は言いますよ。そのまま言ってもパクリにしかならないからそんな言い方はしないですが。
 そいからやっぱkannivalismやbaroqueの歌は僕にとってはなんだか特別です。どちらも怜くんという人が歌ってるんですが、こんなに歌を大事にするヴィジュアル系(?)ロックバンドはほかにないです。意志という意味で。メンバー(圭くんだったと思う)が「怜は日本一のボーカリスト」とか前にどっかで言ってたはずで、それを聞いた時は「自分のバンドのボーカルをそんなに褒めるのってすごいなー」って思ったくらいでしたが、最近は「あれはたぶん本気なんだろうな」と思ってます。『リトリ』と『我伐道』うたいました。どうしても怜くんの真似みたいになりがちなので、真似になんないためにはひたすら楽しく歌うことだなって思っていつも楽しく歌っております。
 実際に聴いてもらっても、たぶん僕が何を言っているのかよくわからないと思います。「は? 何がいいんだ?」という人のほうが多いような気がしますので。特にCDとかおすすめはしません。ただ、このDVD(APPLE-CHING★PO-PO-EPISODE-SHIBUYA-AX-FINAL、カスタマーレビューはなぜかまったく別のDVDのレビューだらけで意味不明です)を最初から最後までじっくり見たら僕が言いたいことはわかると思います。あとこの本(鬱病ロッカー、いつのまにか文庫化してた)もおすすめします。
 とりあえず『リトリ』だけ貼っておきますー。
 最後はドアノックでした。(僕のせいではありません)
 あと自分が歌ったので覚えてるのはAmikaさんの『住宅』とか、堀江由衣さんの『CHILDISH LOVE WORLD』とか。
 みんな歌が好きな人たちでよかったです。(ここが大事)

 愛知県民の心の味、すがきやに行きました。僕は特製ラーメン(420円)のポテトサラダ&五目ごはんのセット(280円)とソフトクリーム(150円)を注文しました。すがきやで850円というのは大豪遊です。ラーメン一杯なら290円。
 ラーメンとソフトクリームはもちろん同時に食べます。すがきやに行ったら騙されたと思ってやってみてください。
 すがきやは新瑞橋のピアゴ(元ユニー)に入っていました。ダンジョンのような作りをしており、しかも人がほとんどいなくて閑散としていました。すがきやに一時間以上はいましたが、お客さんは僕たち以外に一人もいませんでした。近くにイオンができたせいだと思います。イオン、よくないぞ!

 それから母校に行きました。そして五常の隣のコメダ珈琲店に行きました。
 閉店まで話しました。3時間くらい?
 後輩二人はすんたん(僕の一つ上)と初対面でした。
 僕が勝手に呼んだ格好です。(まさかカラオケから参加するとは思わなかったが。)昼に電話で「あーじゃあ夜にね」とか言っちゃった。実際は昼のうちに来たけど。
 こういうのが非常識なのか僕にはよくわかりません。
 同じ高校の三人(すんは演劇部の繋がりで、高校が違う)だけでしっとりと楽しんでも良かったような気はする。
 でもそれは夏にやったよな、というような気もする。
 でも夏と正月とでは何もかもが違うような気がする。
 しかしそこにすんたんがいるというのはまた何もかもが違うものである。
 すがきやの途中か、コメダのあたりで合流すれば美しかったような気もしつつ、しかしカラオケから一緒だったことこそが重要だった気もする。
 そのへんはよくわからないし、たぶんどうでもよい。
 こういうことがどうでもよいだろうと思えるのは大切だと思うので思うことにする。我々のために。実際、実はなんとも思っていない。もし嫌だったら申し訳ないなーと一方で少しは思いつつ、別にいいだろ何でも、とも思っている。なぜならば僕と彼らの関係はこれからも良好なまま長く長く続いていくという確信があるから。です。

 すんという人は面白い人で、遠慮とか気後れということをまずしない。だからだいたいどんな場に呼ぼうが彼のほうは問題ない。いかにアウェーでも彼なりに楽しんでくれる。しかも彼の場合、自分のペースを決して乱さない。無意味に「空気」に従ったりはしない。誰と会わせてもほとんど同じ調子で、しかしそれでいて「まったく同じように振る舞う」ということではない。つまり何らかの調整はある。その調整はうまいのかうまくないのかわからないが「意識されない正確な文法」があって、酒が入っていなければまず狂わない(と思う)。
「誰にでも同じ態度で接することしかできない」のとは違う。精密な微調整がある。「どうすれば楽しくなるかなー」という微調整だと思う。しかもちゃんと「場」を意識した楽しさを考えている。ただし、そこがろくでもない「場」ならば自分の楽しさを優先するか、場を壊してでもろくでもある場に変えようとするだろう、たぶん。それをする価値もないと思えば何もしないかもしれない。誰か呼び出すか、帰って酒でも飲むか詩でも書くでしょう。いや、すべて僕が勝手に言ってるだけで実際どうかは知らないが、僕からみればそんなイメージの人です。
 一言でいえば面白いんで、いろんな人に会わせてみたいと思って、実際そのようにしています。この人を楽しめるというのはそうとう高度な生きる技術だと思うし、この人と楽しめるというのもなかなかすばらしい感覚だと思います。

 こういう人もいるんだよ、と友達に紹介するのは、もしかしたら何らかの意味で教育なのです。どこをどう巡り巡ってそうなるかはわかりませんが、どこかで何かの意味を持つ気がします。その本人にだけではなく、関わるあらゆる人たちのうちの誰かをも。もちろんその人や誰かの子供も含めて。
 きれいにいえば。

 すんカーで送ってもらって車内で話したり雅-miyavi-さんの映像を見るなどした。僕は名古屋が好きである。実家が好きです。矢田川はベストリバーです。


 帰ったらお父さんがワインを出してくれた。僕が飲むとお父さんは少し嬉しそうなのです。きれいに言いました。
 で翌日。
 寝てたら兄のこどもたちがきました。
 で遊びました。
 長女とは前に遊んだことがあって、彼女もそれを覚えていたようで、今回も仲良くしました。第一子長女は下の子ができた瞬間から第一子長女であって、幼稚園児にして4人も下の子がいる彼女はすっかりすでに長女です。僕は第一子長女(つまりきょうだいに対して「姉」という立場でしかない人)と仲よくなることが非常に多く、この場合も漏れなくそうであって、下の子たちとも遊んだのですがやはり馬が合う(?)のは長女でありました。
 僕は四人兄弟の末っ子なんで、そういう人はやっぱり長女と相性が良いようですね。特に年下の長女との相性は最強だということです。※ただしソースは2ch

 その長女を見ていると、「しっかりしなきゃいけないけどやっぱり甘えたい。でもしっかりしてなきゃいけないから甘えることはできない」という普段の葛藤が「おじいちゃんとおばあちゃんが下の子のめんどうを見ていてくれる」という状況において解放されて「私は下の子の面倒を見なくてもよくなった。でもおじいちゃんとおばあちゃんは下の子の面倒を見てくれているから甘えられない」という葛藤に変わって、その解決策として「なんか暇そうにしているおじさんがいるぞ。とりあえずこのおじさんと遊ぼう」を採用したものの、やっぱり「甘える」ということは難しいから「話を聞いてもらう」とか「見ていてもらう」ということをもって「甘える」に代えてしまおう、というような気持ちの流れを感じます。勝手に。もう一回読んでください。
 勉強したりピアノを弾いたり、っていうのを僕が見てる前では黙々とやるんだけど、僕が見るのをやめるとぱたりとやめてしまう。「見る」ということは長女のような精神性の前で重要度を増すんだなと思います。下の子は放っておいても好き勝手なことやってるけど、この子は放っておくと下の子の面倒を見ようとしてしまうのです。「見る」とか「相手をする」ということによって彼女は「長女」から解放されて、やっと「女の子」として行動できるのかもしれません。
 だから「長女に優しくする」というのは、「見る」っていうことで充分なのかなとか、思います。抱きしめる、甘やかす、なんでも時には大事でしょうが、「見る」だけで成立する癒しや教育もあるんですよね。きっと。それほど近い間柄でもないのなら、やたらに抱きしめたりはできませんし。(僕もこの長女を抱いたことはおろか、触れたことすらほとんどありません。触れなければならないような粗相をしないので、触れる必要が特にはないのです。触れたといえばあやとりを教わった時くらいです。※もちろん彼女から僕が教わりました)

 とかなんとか思いながら、友達の家へ。
 子供が生まれたばっかりです。
 彼の家に結局半日いました。
 赤ちゃんはすこぶるかわいく、奥さんも素敵な子で、一刻も早く結婚したくなりました。中学からずっと仲良しでいる友達が奥さんと子供と幸せそうに暮らしてる、っていうのはすばらしいものですね。一つのダメージも受けることなく、夢と希望だけを胸に帰ってきました。
 彼とは年始にファミコンやるのがなんとなくの定例になっているのですが、今回は『COCORON』というのを中心にやりました。初めてやりましたが名作ですね!
 おくさまにおすすめの本をたずねられたので、岡田淳さんの『びりっかすの神様』を推薦しておきました。願わくは赤ちゃんが大きくなったときに読んでくれたらということで、ごちそうしていただいたお礼に贈ろうかと思っています。もう毎年岡田淳さんの作品だけを誕生日プレゼントとして贈り続けたいくらいです。しばらくはもっと小さい子むけの絵本のほうがよいのだろうけど。
 あと夜回り先生の話をした。いいんだよ。
 昨日までのことは、いいんだよ。
 スマートホンにかえることをすすめられたのでそのうち変えると思います。(今年の目標)

 帰って寝ました。お父さんとお母さんがいて泣きそうになりました。
 両親大好きアピールをひたすらすることも「何らかの」教育になるかもしれません。それでさみしさやつらさが増すような境遇の人もいると思うけど、お父さんお母さんが健やかであることが子供への最大の教育であることはたぶん間違いないと思うから言いまくります。

 5~6日 名古屋に行きますー。

2013/01/04 金  再会

 昨夜、おざ研の木曜□に、4年前の教え子が二人やってきた。
 詳しくは帰ってきてから書きます。
 去年の秋にふらりと木曜喫茶に来てくれた女の子とネット上で再会できた。
 これも嬉しいことです。
 本当に、僕は出会い、再会するために生きているようなものです。
 また、初対面なのに再会としか思えないような出会いもあります。
 想像力の話もほとんど忘れかけているので書かなければな。
 正月休みもそろそろ終わりにしたいです。
 体力を戻さないと。

2013/01/03 木  ホイミン

 今年の抱負はホイミンです。
 ホイミンというのはドラゴンクエスト4というゲームに出てくるモンスターの名前で、「ホイミスライム」という種族です。
 ホイミンは、「人間になりたい」と願うモンスターでした。
 でもホイミンは人里に出るでもなく、森の中の井戸の底の洞窟の奥で、じっと誰かを待っていました。井戸の中に人が迷い込んでくると、洞窟の奥から囁くように「こっちへ おいでよ」「そっちじゃ ないよ」「そっちへいくと かえっちゃうよ」と、道案内(?)をします。……ただ、これはホイミンの台詞ではなく、「そらとぶくつ」というアイテムの声だとか、その他のモンスターの声だとか、いろいろ解釈があるようで、言われてみれば確かに、道案内に沿って歩いていくとホイミンの居場所ではなく「そらとぶくつ」のある場所に行き着くわけで、なるほどホイミンじゃないようにも思えるのですが……そんなことはどうでもいいです。ホイミンの声ってことにします。
 この声がもしホイミンの声だって考えると、なかなかすばらしいのです。
 そうすると、ホイミンは井戸の底へやってきたライアンという戦士(ホイミンの登場する第一章の主人公)に、彼の求める「そらとぶくつ」を手に入れるための道案内をしてあげている、と解釈できます。「自分のところに導く」のではなく、「他人が求めているところへ導く」なのです。自分のことを二の次として、ライアンという他人のことをおもんぱかっている。
 そう思うとホイミンというのはかなり「いいやつ」です。
 しかも、彼がするのは道案内だけで、具体的な助けもしなければ、強制もしません。「そっちへいくと かえっちゃうよ」とは言いますが、「かえるな」とは言いません。
 ホイミンはライアンと出会うとこのように言います。
「ぼく ホイミン。いまは ホイミスライムだけど にんげんになるのが ゆめなんだ。ねえ にんげんの なかまに なったら にんげんに なれるかなあ……? ぼくを なかまにしてよっ。」
 ホイミンは人間になりたくて、そのために人間の仲間になりたいと思っています。たぶん、暗い井戸の底でずっとそう願っていたことでしょう。そういう強い願いがありながら、何よりも先に「そらとぶくつ」への誘導をしてあげるのです。なんていいやつなんでしょう。
 ライアンの仲間になったホイミンは、「ホイミ」という回復魔法を使って彼をサポートし、ともに悪を倒します。そして、第五章で再び登場するホイミンは、人間の姿をしています。善行に善行を積み、その行いが神か精霊ルビスかに認められて、人間になることができたのでしょう。なんたるいい話。

 僕はこのホイミンのようでありたいと思うわけです。
「こっちへ おいでよ」「そっちじゃ ないよ」「そっちへいくと かえっちゃうよ」という、強制力のない道案内を、洞窟の奥から一人さみしく続けていきたい。いつかライアンと出会い、やがて人間になることができたらと願いつつ。まずはホイミとか使えるようになって。

 何も憎まないようにしよう、と僕は新年を迎える瞬間思ったのです。
 夜回り先生が、「昨日までのことは、いいんだよ。」という言葉を使っていましたが、なるほどそうだよな、と思います。昨日をヒントに、明日をめざして、今日を生きるのが人生なのです。「誰かの過去でもあり得るようなもの」を憎んではいけない。それは誰かにとっての生きるヒントなのだから。僕は「それがどういうヒントであり得るか」を考え、語る人になろう。それはホイミンがしたことと重なるような気がする。
 何かを憎むということは、ほぼ「誰かの過去を憎む」ということになってしまいます。そうではなくって、「誰かの過去」が見えたなら、そこから「未来」を考える、というふうにしないと。しかもホイミンのように、お節介にならないような、ささやかで緩やかな形で。
 今年の抱負はホイミンです。
 図工の先生ホイミンをめざします。

2013/01/02 水  

 いろいろあってなかなか何も書けません。
 整理ついてきたらまたいろいろと。
 明日はおざ研開けますよ。新年の挨拶にどうぞ。
 正月と言えば甘酒と雑煮。

2013/01/01 火  晴れたれば鮮やかれ

 晴れたれば。今年もよろしくお願いします。
 樽酒ってなんであんなに美味しいのでしょうね。
 神社三つはしごして樽酒2、甘酒3、豚汁1、お汁粉1いただいてきました。
 寒いので帰ってきました。
 今年は博愛をテーマに、できるだけ多くのものを愛したいと思います。
 憎しみからは何も生まれないことにようやく気がつきました。
 少しずつがんばります。
 ゴールデンボンバーはあやまんJAPANのようなものだと思います。
 ももクロはDir en greyみたいなもんだと一瞬思いましたがDir en greyはデューク・エイセスと共演したりしないので違いました。

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