少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2009/12/29 

「大人になったら働きたくなるのかなあ」と言っている人がいたらしい。どういうつもりで言ったのかは知らないが、答えは「働くのが大人というものである」というだけのことだろう。働かない人間は大人じゃないんだよ。例外として「資産のある人」というのはいるが、「資産のある人」が働かずに「大人」と見なされるのは、「資産のない人」が働くことによって「大人」とみなされることよりも、ずっと難しい。まあそれは余談。

「働く」という気にならなければ決して「大人」にはなれない。「大人になる」という状況が、放っておいてもいつか自動的に訪れてくれるわけではないのである。「大人になったら働きたくなるのかなあ」などと言っているうちは、いつまで経っても大人になどなれないのだ。
 僕はよく、「大人は“さみしい”と言っちゃいけないんだよ」ということを言う。「さみしい」を言わないのが、大人ということである。同じように、「大人は働いていなくちゃいけないんだよ」もある。働くのが、大人ということである。
 どうやら僕にとって大人の定義というのは「さみしいと言わない、働いている人」ということらしい。「さみしい」を言わないでいられる強さ(もしくは鈍感さ)を内面的に持っていて、せっせと働く勤勉さを外面的に持っていることが僕の思う大人の条件だ。

 そうすると、平気で「さみしい」を言えてしまう、働いているんだか働いていないんだかよくわからないような僕は、ちっとも大人ではない。別に大人になろうとも思わない。「慎みを持った子供」でいられたら、それでもいいと思う。馬車馬のようにでも働く気はあるが、「さみしい」を言わないで強がっているつもりはない。五十になっても八十になっても「さみしい」を言っているのかもしれない。それでけっこうだ。「さみしい」を言って、「そうか、よしよし」と言ってくれる人がいつまでも周りにいてくれるように、そのために生きていこうと思う。
 僕のことを好きでいてくれるすべての人たちが、「そうか、よしよし」を言い続けていてくれるから、僕はいま生きていられる。「子供」と言われようがなんだろうが、「そうか、よしよし」が言ってもらえるような能力を、または魅力を僕が持っていられるうちは、僕は「さみしい」を言い続けていようと思う。

 お分かりのことと思うが、ネット上に文字を書き込むという行為は、すべて「さみしい」を言うことと同義なのである。大人はそんなことしない。ネットなぞに個人的に文字を書いている人間は、全員が「子供」だ。
 断言する。

2009/12/28 

 20日、普通列車で大阪へ。十時間くらいかかる。一泊して翌日早朝に出立し、自転車で国道308号線の暗峠を越えて南下、法隆寺へ。さらに南下して飛鳥周辺に達し、天香具山で「国見」。北上し天理市を通って奈良へ。友達と合流して、喫茶「黄色いにんじん」とおでん屋をはしご。自転車で2時間ほどかけて山に登り一泊。そこから大阪へ戻り、すっかり馴染みとなった家庭料理屋で酒を飲んで、寝て、また鈍行で東京へ帰る。クリスマスイブにはしゃいで、「木曜喫茶」を朝まで営業して、一度家に帰り昼にはまた電車に乗って奈良。漫画喫茶で一泊。翌日朝、天理教の祭礼を見学させてもらい、神殿と周辺を見て回り、奈良に戻って少し友達と話し、奈良公園周辺を散策。風呂に入りガストで飯を食い、漫画喫茶に戻って寝て早朝すぐに出る。大和西大寺まで平城宮跡を突っ切って歩き、近鉄で伊勢神宮。外宮、内宮と歩いて巡り、また徒歩で伊勢市駅。そこから電車で東京まで。これが27日の深夜。

 というような一週間でした。
 そういうわけなのでやることたまってて困ります。
 いろいろ書きたいこともあるのですが。

2009/12/24 

 今年もユニコーンの『雪が降る町』を延々と聴き続ける季節が始まりました。
 また27日くらいまで旅に出ます。
 やらねばならんことを幾つか保留して、楽しいことばかりをやっていたら、幸せがぼんやりと胸に灯って、背中が焦げて少し匂った。


 信じられないことだけど、「ファンレターください」と言ったら、本当にくださった方が何人かいらっしゃいます。メールだったり葉書だったり封書だったり様々の形で。こりゃーもう、ほとんど自慢になります。本当にありがとうございますもっとくれ。いずれももちろん、ちゃんと読ませていただいておりますが、メールはすぐにも返せる現代っ子な僕なれど、自堕落と無精のため「お手紙」へのお返事は遅れがちです。本当に申し訳ありません。そういうわけなんでとりあえずお返事にかえて、何か書きます。

 最近、とある事情があって急に「mixi」を退会しました。
 Twitterやブログも実際、やっていないようなものです。
 そしてこのサイトには現在掲示板がありません。
 ゆえに僕と連絡やコミュニケーションを取るには、電話か、メールか、手紙か、木曜日に「無銘喫茶」に来るか、の四つしかなくなってしまいました。
 もちろんその逆も然りです。
 なんかやっぱりそのほうが楽だし、楽しいような気がします。
 連絡手段なんかもっと少なくてもいいような気がします。
 当たり前のことだけど。

 僕は、そう、毎週木曜日には新宿ゴールデン街の「無銘喫茶」でバーをやっているのですが、「常連さん」の中には連絡先をまったく知らない方がたくさんいます。それはなかなか楽しいことです。
 今日もお店だったのですが、クリスマスイブということでいつもよりたくさんの方に遊びに来ていただけました。僕は、「あー、なんという原っぱだ」と思ったものです。「原っぱ」についての詳細は橋本治の『ぼくたちの近代史』を参照してください(講演)。みんな五回くらい読めばいいと思う。講演は最低でも十回は聴けばいい。
 ここに詳しく書こうかと思ったけど、まあ、お店を引退したら書くことにします。
 無銘喫茶に居心地のよさを感じる人は、おそらく「原っぱ」を作っていくことができる人なんだろうなあ、というようなことです。

 ここからは私信ですが、えー。岡田淳さんはすばらしいですね。
 ちばてつや先生の『テレビ天使』はどう考えても名作です。ピンとこないというのは一切信じられないので、そちらの意見のほうがむしろお聞きしたいです。『ユキの太陽』は、ピンとこなくても仕方ないと思います。あれは。
 僕は確かに、ちばてつや先生の初期作品をプッシュし過ぎていた感はあります、個人的な思い入れが強すぎるのと、あまりにも顧みられなさすぎて腹が立っていたので。実際は全てが「超名作!」というわけでもないのかもしれませんが、『テレビ天使』は、僕は“客観的に見ても”心から傑作だと思っています。もちろん、全部大好きだし、面白いんですけどね。
 にしても、『テレビ天使』を「ピンとこない」と感じる人がいるというのは、いや、そりゃたくさんいるんだろうけど、僕にとっては新鮮だなあ。そうなのかあ。うーん。不思議なもんだなあ。まあ、少しでも「身構えて」読んでしまうと、受け付けないだろうというのはあります。あまりにもストーリーが(今も、たぶん当時でも)型にはまりすぎていて、そこを批判的に見ようと思えば見られそうなものだから。しかし、王道というものをこよなく愛する僕としては、あれはもう最高なのです。
『テレビ天使』は、いちど感情移入してしまえばどう考えても泣いてしまう(今でも僕は泣く)が、「ちょっと引いて読む」をする、もしくは「流し読み」をすると、「ふーん」ってなもんなのかもしれません。うーん。そんなやわなもんじゃないと思うんだけどなあ。まあ、この作品が現在死ぬほど入手困難であるというのは、「ピンとこない」人が多いからなんだろうけど。あー。
 僕は『テレビ天使』を読むと、漫画ってすごいなあと思いますよ。漫画表現って、これでいいんだと思いますよ。

 年末の28日か29日くらいに、「ジャッキーさんが『雪が降る町』を陶酔しながら歌う様を神妙な面持ちで静聴する会」というのを開くつもりです。練馬か新宿あたりで。参加希望者はご連絡をー。

2009/12/23 

 三日ぶりにTwitterを見たら、僕についての言及がたくさん書き込まれていて、そのいくつかは事実とかけ離れていたり著しい誤解が含まれていたりわけのわからない批判だったりしていた。インターネットというのはだいたいこういうものだ。わけても、Twitterのような軽薄なサービスは特にそうなる。

 一つだけ目を見張ったのは、≪(ジャッキーさんは)「自分がおもしろい(あるいは頭が良い)とみなされるべき」ということにこだわり過ぎなのではなかろうか。悪く言えば外聞を気にし過ぎ、良く言えば恥を知っていると言えば良いのか……。≫という書き込みだった。これを誤解だとか、わけのわからない批判だとか言うつもりはない。ただ、ハッキリ言ってこの文は意味がわからない。前半については「そうなのかなあ……」と思うくらいだが、後半がよくわからない。なにがどうなって「~こだわり過ぎ」が「恥を知っている」に繋がるのかと。彼が“Twitter脳”に侵されていて文章力を低下させてしまっているのか、それとも僕が理解力に乏しいだけなのか。

 その他の書き込みはいずれも的外れに思えた。特に、「日本語版のTwitterを使っている人(僕のこと)に、Twitter(による日本語力低下についての)批判をしてほしくない」という意味の書き込みには困惑した。100%冗談で言っているのだと思いたいが、そうでなければいよいよ気が狂っているとしか思えない。日本語版のTwitterを使っていることがどうして僕の主張(の説得力)に関わってくるのか、いっさい不明。

 あと「バクマンの話をしているときのジャッキーさんは本当につまらなそう。僕もよく似たような態度を取るけれども」というのは、普通に読んだら「ジャッキーさんはそのくらい露骨にバクマンが嫌いである」という意味に取られかねないので、誤解を招くと思う。やめてほしい。もしも誰かが(あるいは、僕が)バクマンの話をしている時に僕が「つまらなそう」に見えたのだったら、なにかの偶然か、「あー僕バクマンは最初のほうしか読んでないから入っていけないや」と思っているだけという可能性もあるのだから、それがわかるような書き方をしてほしい。書くのだったら。
 この書き方だと、「僕はバクマンが嫌いだ」が全世界に広まっちゃうじゃないか。もしもこの書き込みが「ジャッキーさんはバクマンを読んでいないらしいので、バクマンの話題になったときのジャッキーさんは本当につまらなそう」という意味なんだったら、そのように書くべきだ。これの前半を省略しちゃうから、意味が分散するんですよ。Twitterの「140字制限」の恐ろしいところって、そこなんだよ。容易に誤解が生まれる。


 で、こういったようなことを大声で言いたくなっちゃうところが「自分が面白い(頭が良い)とみなされるべき、ということにこだわりすぎ」に繋がってくるのかもしれない。僕は「そうなのかなあ」と思うくらいだけど、「そうだ」と思う人もいるのかもしれない。でも、どうしてそんなことを全世界に向けて書いちゃうんだろうね。
 ネット上で発言する人は、全員が「プチ公人」みたいになって、何を言われたって文句言えないぞ、ってことなんだろうか。そうなんだとしたら、仕方ないけど。だけどせめて、批判は「ネット上の発言に対して」だけに絞って欲しいものだ。あんまりネット上に、「ネット上で公開していないプライベート」を持ち込みたくはない。いや、そりゃね、冗談に役立つなら、つまり、面白ければいいんだけど。


 さて。僕は僕の価値観においては明らかに面白くて頭もよいのだが、もしかしたらそう思わない価値観の人もいるのかもしれない。僕は僕のことを面白くて頭がよいと思わないような価値観を否定したい。だってその価値観は、僕の価値観の中では、たぶんいっさい“正しくない”のだから。
 そういう意味においては、≪「自分がおもしろい(あるいは頭が良い)とみなされるべき」ということにこだわり過ぎ≫というのは妥当な言い方かもしれない。確かに、「自分を面白い、頭良いと思ってくれるような価値観の世界に生きていたい」というのが僕の願いだもの。だけど、そのことを指摘して何の意味があるわけ? それを“良く”言いたいの? “悪く”言いたいの? どちらでもないの? よくわかんない。
「推敲段階でアウトプットできるのがTwitterのいいところだ」とか言う人がいたけどさ、推敲段階でテキトーに出力しちゃった内容についてだって、その当事者はけっこう重たく受けとめるもんだよ。テキトーな発言にもちゃんと責任持ってよね。
 僕がここに何を書いたって、僕のことを好きな人はドキッとするんだもん。テキトーなことは書けないじゃない。書いちゃいけないじゃない。僕は書くけどね。「これはテキトーなことですよ」という逃げを打ちながらね。我ながら最悪だけど。
 でも「テキトーなことですよ」という宣言(このサイトの場合、フィクションですよと言う逃げ)もしないで、テキトーなことはさすがに書けないよ。 別に逃げを打てばいいってことじゃなくて、それすらしないのは、ねえ。テキトーな、思いつきを垂れ流して、「誰かを傷つけているかもしれない」ということに、無自覚でいるということでしょ?
 もしかして、Twitterというサービス全体、いやインターネット全体が、「テキトーなことですよ」を前提としているから、言う必要がないっての? それならそうと言ってほしいなあ。

 実はここからが本題なんだけど、僕は、たぶんここにいろいろなことを書くことによっていろいろな人の心をざわざわさせているのだろうと思う。十年間ずーっとそんなふうだ。正直言って、それを防ぐ手立ては、「サイトを閉鎖する」「何も書かない」のほかには何もない。と思う。今や。
 たとえば僕がここに「明日はクリスマス。恋人とデートしてきます」などと書いたら、僕に片想いしている女子は「ざわ」ってするわけ。そういう人がいればだけど。あるいは、「○○な人が嫌い」と書いたら、知り合いなら、「自分のことかな?」って少しは絶対に思う。ネット上にものを書くってのはそういうところが非常に難しく、面倒くさい。
 サイトを始めて最初の何年かは、そのことをむしろ利用して、他人の心をざわざわさせることを楽しんでいた節もあった。今思えばなんとひどい。(実は最近もそのようなことをやっていないではないが。)
 五年くらい前から、きゅうにここに何も書けなくなって、何度も閉鎖まがいのことをしてしまったのは、そういうことを深く考えはじめたから。他人の心をざわざわさせることが嫌になってしまったから。でも最近は、「できるだけ、大切な人をざわざわさせないような書き方をしよう」を心がけながらやってみている。たぶん全然できてはいないわけだが、これはもはや自分の背負った業のようなものだから、ざわざわする人たちは直接文句を言ってもらうか、諦めてもらうしかない。
 僕はインターネットのそういうところ、つまり「読んだ人の心に何らかの影響を与えてしまう」という部分と向き合って、時に戦い、時に感謝しながら、細々と続けていきたいと思っております。ま、そのうち心が折れて、また更新しないようになるかもしれないけど、それはそれで。
 自意識過剰と思われるかもしれないけど、本当にけっこうそうなんで、そういうことにしてください。


 Twitterでキャッキャしてる人たちはそういうことを、どういうふうに考えているのですかね? もう少しくらい自意識過剰になってもいいんじゃないかと思うんだけども。

 2015/12/14 非常に重要な文章である、気がします。しかしまずは、6年前の僕のあまりにも不遜で偉そうなのを反省します。言いたいことはわかるけど、ちょっと烈しいですよね。それにしても僕は、ここから6年経ってもなお、この「ざわざわ」という問題に決着をつけられておりません。「何も書かない」も選べないし、「諦めてもらうしかない」と開き直ることも、できません。書くべきか、書かざるべきか、あるいは何を、どのように、書けばいいのか。いつも迷い、悩んでいます。でも一つの希望があるとすれば、これを読んだ誰か、特に若い人が、何かを感じたり考えたりしてくれることです。ある種の知恵を育んでくれることです。「知り合いの文章」というのは、読みやすいものなので、僕のことを知っている人の中には、僕の文章を楽しんでくれる人がいるはずだし、僕のことを知らない人でも、たまに「読者です」って連絡をくれたりもする。それが大きな意味で「教育」とか「みんな仲良く」ってことに繋がっていくのだとしたら、いいなと思う。それを望んでサイトはなかなか閉鎖させないし、このように過去ログのサルベージにも励んでいるというわけです。よろしければ、お付き合いください。

 20~23日まで関西方面に行っています。更新でけません。

2009/12/19 忘年会→BNK→ボニーピンク

 トカトントンじゃないが、場で、面白くない話を誰かがしていると「どうでもいいな」と思えるような瞬間が立ち現れて、態度もあからさまに変わる。半年か一年に一度くらいしか起こらない現象。これをイスファハーンと呼ぶ。

 イスファハーンは短ければ数分、長ければ数時間にわたって続く。イスファハーン時の僕に話しかけるのは自殺行為である。確実に僕の中の「あとで殺すリスト」に組み込まれる。イスファハーンから覚醒すると怒りの感情は完全に失われるため、実際に殺されることはほとんどない。が、イスファハーンが数時間続くような場合は注意が必要だ。二時間くらいを過ぎると僕の精神は暗黒にのみ支配され、自分が何をやっているのか全く分からないようなトランス状態に入る。気がつけば周囲の人間を殺害していたということは一度や二度ではない。気がついたときにはあたりに十数体の死骸とハッサン・カンの妖術を用いた形跡だけが残っていたこともあった。

 僕はプライドが高いため、根拠なく、理不尽に小馬鹿にされるとイスファハーンが発動する。冗談であろうとなかろうと関係ない。自尊心が損なわれたと感じた瞬間、イスファハーンは動き出す。イスファハーンは誰にも止められない。僕自身コントロールが効かない。マティラム・ミスラの魂が前世から呼び出され、言語中枢が掻き乱される。

 そんなことはどうでもいい。祈るだけだ。イスファハーン。



 というわけで気分がすこぶる悪い。幸いにして今日から旅に出る。今日から僕はたぶんずいぶんと違ったふうになる。見知らぬ他人のために生きようとするなら、魔界との契約を断ちきらなければならない。このまま妖怪たちを相手に論語を説いていてどうなる。僕は地上で、未来を担っていく子どもたちに、夏目漱石を教えなければならないのだった。ああ、しかし、すこぶる気分が悪いです。

2009/12/18 女を説得なんかできない

 今日、最も印象に残った言葉。とある大学の先生の言だという。
「女を説得なんかできない。女を説得できると思っている時点で、お前はまだ若い」
 仰るとおりです先生。
「説得」っていうのはつまり「理屈で攻める」であって、理屈の通用しない相手に向かって「説得」をしようってのは無茶である。
 昨日の日記に照らすと僕はおそらく「説得できるような女」を求めているのであって、それというのはじつに無茶な要求であろう。

 この言葉を教えてくれた相手が、もう一つ興味深い話をしてくれた。
 それは「新興宗教にはまってしまった友人」の話。
 彼は実際にその宗教団体を訪れ、儀式を見聞きし、「これはまずいだろう」と思って、友人を「説得」しようと試みたらしい。「これは真っ当な宗教じゃない。いわゆる“怪しげな新興宗教”だ」と。
 が、「そういうことじゃないんだよなぁ」とか「やっぱり神ってのはいると思うし」とか、よくわからない、的外れな、「理屈じゃないんだよ」という類のことを言って、聴く耳を持たなかったようだ。

「女を説得することはできない」という話から、宗教の話に流れたのは、もしかしたら必然があったのかもしれない。

「みんな自分の聖書を一冊ずつ持ってんの」とは、川本真琴さんの『早退』という曲の、サビに出てくるフレーズだ。二番では「みんな自分の神様そっと隠し持ってんの」になる。この曲は初期(1stのころ)の彼女の曲の中では最も“スゴイ”曲かもしれない。残念ながらアルバムには未収録で、1stシングル『愛の才能』のカップリングでしか聴くことはできないが。(DVD『早退』でライブは見られます。)
 ここに出てくる「みんな」というのは「十代半ば~せいぜい二十代前半くらいまでの女の子」を指すのだと“思える”。それは川本真琴さんという若い女性が歌っているからそう感じるだけかもしれない。歌詞の一人称は「ぼく」だから。しかし「~てんの」などに見られる口調(文体)は明らかに女の子のそれで、いわゆる「ボクっ子」もしくは性的に転倒がある人の歌なんじゃないかとも思わされる。(そう考えるとまた深みが出てくる。)
 まあこの歌における「みんな」が誰をさすのかは、解釈の幅として置いておくとして、「自分の聖書」「自分の神様」という表現はそれにしても衝撃的だ。僕の思うに、女の子ってのはたぶんみんな「自分の聖書や神様」を持ってんだろうなあ。だから「説得」がきかないんだ。
 理屈じゃなくて、信仰のほうを大事にするからね。だから自分のついた嘘を本当だと思い込むことができるし、事実をねじ曲げて自分なりの真実を作り上げることだって簡単にできる。

 男が「理屈」という武器を持って、彼女たちの「聖書」や「神様」に対抗することは、はっきり言って無謀だと思う。超存在の前に文明は無力である。もしかしたら「聖書」や「神様」は、男たちが作り上げた「理屈」というシステムに、女が対抗するための、最後の防衛手段なのかもしれない。
 そうであるとしたら、僕たちはいつまでも「理屈」などというものを振りかざしているだけではいけないのだ。じゃあどうすればいいんだろう、ってのは、僕はまだ若いのでわからないみたいだ。

 2015/12/14 『早退』はその後、シングル集に収録されました。

2009/12/17 必要と恋愛2

006 【書評】佐藤直樹『暴走する「世間」』 いちばんわかりやすい「世間論」


 ↑ゆうべ一晩中ガストに入り浸って興奮しながら読んだ本。のレビュー。を書いた。

 僕はこの本のことを非常に面白いと思ったんだけど、何かを面白いと思えば思うほど、孤独感は増していく。漫画とか音楽とか、手軽に鑑賞できるようなものであれば「読んでみてよ」「聴いてみてよ」をすれば「うん、いいね」が容易に返ってきて、「面白い」「美しい」「素晴らしい」が共有できる。それで幸せな気分になって、「僕は一人じゃないんだ!」なんて思いに浸ることだってできるんだけど、何百ページもある文字ばっかりの本だとすると、そうもいかない。
 まず読むのに時間がかかるんで、気安く「読んでみてよ」などと言えない。誰だってそれぞれ生活があるのであって、五時間も六時間もかかるような本をすすめたり貸したりなどできやしない。それに活字の本というのは、軽い小説なんかなら別かもしれないが、「面白い」と思えるためにはある種の知識・教養などが必要だったり、その人の生き方や考え方や思想によって読み方・感じ方も変わってしまったりすることが多いので、「誰が読んでも面白い」ということが言いにくい。僕が読んで面白くても、他人が読んで面白いかどうかはわからないのだ。
 何時間もかかるような、しかも面白いかどうかもわからないようなものを、大声で「読め」と言うなんてのは、とてもできたものではない。
 しかしあまりにも感動してしまった場合は、「レビュー」という形で不特定多数に示して、「もし興味が湧いたなら……」といった姿勢でそっと差し出すことくらいならできる。僕が書評のようなものを書くのは、だいたいそういったような時だ。本ってのは、勧めたいけど、なかなか勧められないようなものだから。

 で、本題ってのは何かというと、「そんなのヤダ!」である。本を読んで、面白いと思って、「孤独感」を増幅させて、それを少しでも和らげるために、本を読んだのと同じくらいの時間をかけてレビューを書く……別に書くのは嫌いじゃないんだけど、書いた時間でもう一冊面白い本が読めたのかもしれないし、面白かった本をすべてレビューするのは時間的に不可能だし、書いたところで完全に徒労に終わってしまうかもしれないし。
 僕は「共有」したいのだ。「面白い」を、「美しい」を、「素晴らしい」を。あらゆる正の感情を共有したい。それはもちろん、「僕の好きな人と」である。もちろん、僕が「面白い」と思うようなものってのはたいがいが「正しい」ことなので、全国民、全人類と共有したいというのもあるのだが、それは理念の話で、感情レベルでいえば、「好きなあの子と」「気の合うあいつと」わかりあいたい、なわけだ。

 たとえば恋をしまして、ある女の子のことを好きになる。僕はその子と、「ある本の面白さ」についてわかりあいたい。かりにわかりあえなかったら、そのことについて話し合いたい。そういうどうしようもない欲望を持ってしまっているのである。誰もがどこかで諦めてしまうような不可能に近い願いを、僕は未だに持ち続けてしまっているのである。それは僕が、面白い本を読むたびに「自分はものすごく孤独なのかもしれない」ということを感じてしまうからだ。その孤独が嘘であることを祈って、「わかりあいたい」というどうしようもないことを思うのだ。

 少し前に、「必要と恋愛」という題の文章を書いた。人間同士が結ばれるのだとしたら、それは「必要」というもので結ばれなければならない、ということを前提として、「恋愛感情だけで結ばれるのは嫌だ、必要がなきゃ、いやだ」というワガママを発露させただけの、しかし、名文であった(たぶん)。
「必要で結ばれる」というときの「必要」は、「僕にはあなたが必要なんだ」という時の、恋愛感情を充足させるための「必要」を言うのではない。もっと実際的なもの。
 たとえばもし僕が八百屋さんだったら、奥さんもその八百屋で働いてもらいたい。そういう「協働」こそが、生活上の「必要」であり、「お前がいないと困るんだ」の実際的な在り方であると思うのだ。もちろん自分が八百屋で、奥さんがサラリーマンであったとしても、何らかの「必要」で繋がれていればそれでいい。恋愛という、精神病のような、一時的な虚妄の感情(ここではそう言い切ってしまおう)だけで結ばれているなんて、不安定もいいところだ。日本人には、そういうのは合わないだろう。
 日本語には「子はかすがい」なんて言葉がある。これはわかりやすい。もしも子どもができたら、夫婦は「子を育てる」という目的において協働する。両親のどちらかが欠ければやはり子育ては大変になる(僕は強くそう思う!)。そうすると夫婦の間には恋愛感情とは別の次元の「必要」が生まれる。これが「かすがい」になって、絆は保たれていく。……ただし、子どもが独り立ちする時までに別の「必要」を見つけておかなければ、「恋愛感情もなくなり、子育てという協働も終わった」という状況になって、熟年離婚というのが起こる。「子はかすがい」はいいが、「子だけがかすがい」であると、そういうことになるのだ。
 別に僕は、やがて恋愛感情がなくなることを前提としているわけではない。自分の性格から言って、相手が自分に恋愛感情を向けている限りは、僕はその人を愛し続けるだろうと思う。恋愛的に。永遠に。しかし相手が「恋愛やーめた」になったら、僕はいとも簡単に「あ、そう。僕もやーめた」になるだろう。僕はたぶんそういう人間なのだ。
 で、「やーめた」になったときに、「必要」という絆がなかったら。「恋愛はもう終わったのだし、この人と一緒にいても別に何もいいことがないな」になる。そうなったら僕は離婚するかも知れない。恐ろしいことだ。そんなことは絶対にいやだ。
 離婚などという、悪しき、忌まわしき、恐ろしき状況に陥らぬように、僕は「必要」を抱きあえるおなごを捜しているのである。若いうちは「恋愛」が、「セックス」が、「子育て」が、「必要」を成してくれるだろう。それらが終わってしまった後に、ちゃんと確固たる「必要」の残るような相手を僕は求める。
「恋愛の賞味期限は最大で四年」なんつう言葉を聞いたことがあって、僕は恐ろしいことに、このことを半分信じてしまっている。四年以上も僕のことを「恋愛として」愛し続けてくれた女の子なんて、たぶんいないからだ。片想いなら、それは幻想のようなものだから十年でも二十年でも続くかもしれないが、双方向的な「恋愛」という状況になったとき、四年以上も愛してくれた人は、いない。それは非常に不幸なことだろう。世の中には恋愛関係が四年以上も続くということはザラにあるはずだから。
 恋愛関係を四年以上持続させることは難しい。おそらく「恋愛感情」だけで四年以上というのは、たぶん無理だ。「恋愛感情」と「必要」なるものが相互に補完し合ってこそ、恋愛は美しく、末永く続いていくものだろうと僕は思う。
 たとえばの話、僕は藤子不二雄の漫画がめちゃくちゃ好きだ。といって、かりに好きな女の子が藤子不二雄に興味を示さなかったところで、僕はその子のことを嫌いにはならないだろう。藤子不二雄どころか、あらゆる趣味も話題も感性も合わなくて、常にすれ違いを繰り返していたとしても、僕は、いや僕らは「しばらくは」恋愛感情を持続させることができると思う。恋愛とはそのように不可思議なもので、ほとんど精神病のようなものだから、根拠なんていらない。でもそんな状態はきっと長くは続かない。それこそ四年以内には滅びるだろう。
 必要なのは何かといえば、「必要」なのだ。具体的、実際的な「必要」だ。「最大で四年」という、「根拠がなくても愛し合える期間」というのは、「必要」を探し当てるための猶予期間なのだ。セックスで繋がれている期間や、子どもによって繋がれている期間も、同じように猶予期間だと思う。それらが終わってしまう前に、僕は、僕らは、何か大切な、かけがえのない「必要」を、見つけ出さなくてはならない。そうでなければ破局か、惰性が待っている。

 では、僕にとって「必要」とは何だろうか? それはたぶん、「面白い」「美しい」「素晴らしい」を共有することだ。それさえできれば、僕は何も要らない。要らないんだけど、そこにさらに「恋愛」や「セックス」や「子育て」が加わったら、関係としてもう最強じゃないかと思う。何もすべてをわかってほしいわけじゃない、「本当に大事なところが二つ三つ」くらいでもいい。大事なのは、「わかりあえるかどうかを検証するための素養」がお互いにあるかどうかだ。僕の場合、その「相手に求める素養」ってのは、「教養」と言われるようなものなのかもしれない。
「教養」ってのは何か、ということについて僕の現在の結論を言えば、「自分と世界との関係や距離を把握し、理解するために必要な知識と、思考の方法」だ。(この定義は、阿部謹也先生の教養論と、それをまとめ、解説した浅羽通明先生の論考が基盤になっている。)
「自分と世界」というのは、もちろん「自分と好きな人」でもある。恋愛をすれば世界は「好きな人」一色に染まるのだから、ほとんど「世界=好きな人」みたいなもんだ。そうだとすれば、僕が女の子に求める教養とは「その子と僕との関係や距離を把握し、理解しするために必要な知識と、思考の方法」だ。そういうものを持っている人と僕は結ばれたいし、僕もそのようなものを身につけるための努力は惜しまない。惜しまないから、本を読んだり、人と話したり、ものを考えたり、ずーっとしてるんです。

 よく誤解されるけど、僕は本を読むことに快感なんか感じない。そりゃ面白いことが書いてあれば気持ちがいいが、そんな本なんか10冊に1冊あればいいほうだ。あとの9冊は、きついウィスキーを飲み干すようにつらい思いして読んでいる。坂口安吾が『不良少年とキリスト』で、酒は酔っぱらうためにのんでいるのであっておいしいから飲んでいるのではないという意味のことを言ったが、僕が本を読むのは、それと同じことだ。べつに楽しいから読んでいるのでもない。酒だって、おいしい酒はおいしいもんだが、基本的にはめちゃくちゃうまいというようなもんでもない。みかんジュースのほうがおいしい。酒が無条件でうまいと思うならそれはアル中だ。僕は昔から「活字中毒」という人種が信じられない。手段と目的が転倒しているからだ。それは「中毒」と名のつくほとんどのものについて共通するだろう。

 そういうようなふうに僕は生きている。同じような姿勢で生きている女の子がいて、「わかるわ」なんて言ってくれようもんなら、僕はもうその子に求婚してしまうかもしれない。

 2015/12/14 いくつか注記しておきます。「正しい」という言葉をこの時期の僕は多用しますが、もちろん客観的に絶対正しいことなんてあるわけがありません。そのくらいのことは若い彼にも十全にわかっております。彼はただ、「主観的に正しいと思うことを、客観的にも正しいことであればいいなと願い、その検証を重ねていく」という姿勢を、とろうとしているのです。そしてその姿勢のことを、祈りの態度を、「正しい」という言葉に封じ込めて、多用しているようなのです。当時の僕はたぶんまだ、こういうふうには言語化できていなかったと思うので、今書いておきます。それから、離婚について。「悪しき、忌まわしき、恐ろしき」と言っていますが、これはちょっと……。僕は、離婚というものを「すべきでない」と思っているのではありません。「しないにこしたことはないが、すべきときはすべきである」という考えです。言い方を変えれば、「うまくいかなかったら離婚もやむを得ないけど、結婚する時には別れることなんか考えないよね?」というぐらいのことです。だから、「結婚するからには別れたくない!」という意味で、「悪しき、忌まわしき、恐ろしき」と書いています。離婚を経験した人やその家族を責めたり忌んだりしているつもりはありません。ご承知くださると幸いです。また、最後の、「同じような姿勢」というやつですが、こう言うとなんかちょっと、「同質な人間」を求めているみたいで、嫌ですね。同じなんてことは、ないもんね。弁護してみると、「どっか大事なことでちゃんと通じ合えている」人がいいな、というだけのことだと思います。

2009/12/16 

「Twitter」なるウェブサービスに加入し始めた友人たちが、皆一様に日本語力を低下させている。僕にはもう彼らが何をしゃべっているのかがわからないのである。恐ろしいことだ。
 この数年、サイトを閉じてTwitterに引きこもる人や、「サイト(ブログ)のアドレス」としてTwitterアカウントのURLを貼る人が実際にかなり増えている。僕としては本当にやめてほしいものだ。
 いちいち書いているとキリがないので書かないが、僕はいくつもの理由からTwitterが嫌いである。どうしてあんなものを皆、有り難がって、無批判に受け入れているのかがわからない。Twitterを歓迎している人たちは、いったいどういう根拠で、どういう点を礼讃しているのだろうか。

 どんなものに対してであれ、「肯定派は言葉を尽くさず、否定派は無駄と言えるほどの言葉を尽くそうとする」傾向がある。
 僕は本当に、ほとんど無駄みたいに言葉を使って、Twitter上でTwitterを否定しまくっている(Twitter上でやるのは、Twitterの外から批判するのとはまた違った意義があると思う)のだが、肯定する人は「何言ってるんだこの人は」とか「いいもんはいいんだよ」程度のことを思っているのだろうか。誰も僕に反駁してくれない。
 Twitter上でTwitterを批判している僕は、ハッキリ言って「宗教団体の内部からその宗教の教義を批判する」をしているようなもんで、そりゃどう考えても黙殺される。黙殺されるっていう事実を受けて僕は、「ああ、これは宗教のようなものなんだろうか、それとも本当にここの人たちは何も考えていないのだろうか、もしくは僕が単に“うざったいバカ”になっているというだけのことなんだろうか」なんてことを思う。本当に、僕がこんなに言葉を尽くして悪口を言っているのだから、もっと反駁するなり、批判するなりしてほしいものだ。僕だって僕の言っていることが完璧な論理に貫かれているとはさすがに思っていないのだから、突くべき穴はいくらでもあるだろうに。
 肯定も否定もしないで、なんとなくメリットを感じてTwitterを使っている人が多勢だと思うんだけど、それが退廃してるって言うんだよね。

「陳腐というのは凡庸ということです。凡庸ということは、ザラにあるということです。ザラにあるんだから、別にそれをいやがることもないんじゃないかというのが、現代の最大の退廃なのです。」(橋本治/青空人生相談所)

 2015/12/14 こういう僕の姿勢を僕は好きです。この頃「Twitterのシステム」に対して唱えていた批判を、忘れたくないし、それはけっこう的を射ていたと今でも思う。ただ、Twitterはもう、洗濯機やエアコンやインターネットと同じように、定着しましたね。定着すると、もう、仕方ないです。洗濯機やエアコンやインターネットには負の側面がありますが、それを言ったってもう、どうしようもないのです。ただ、忘れてはいけない、とは思います。いつかはその「負」は克服されるべきなので。

2009/12/15 

「旅行ってのは計画を立てている時がいちばん楽しい」ってのは一面、真理だと思う。でもそれって言い換えると「綿密に計画を立ててしまった旅行は、やってみると楽しくない」ということでもある。やっぱりタビっつうのは、行き当たりばったりがいいんかもしらんね。「一見すべきよし、人々のすすむるによりて、尾花沢よりとつてかへし、その間七里ばかりなり」とは『おくのほそ道』に見られる表現だが、芭蕉は立石寺へ参るために三十キロ近くの道を「とつてかへし」たわけである。
 いま、奈良県の主立った旧跡を自転車で巡る旅行計画を分刻みで立てていて非常に楽しかったのだが、「待てよ。これって今は楽しいけど、実際にやってみたらすっげーつまんねえんだろうなあ」と思ってしまったのだった。しかし限られた時間の中で行きたいところへなるべく多く行くためには「朝八時の拝観開始と同時に法隆寺に入りたいので大阪を発つのは午前五時か六時くらいにしないといけない。午後○時には奈良駅に着いていたいのでそれまでに飛鳥と天理を回らなければいけない」というような「縛り」を作らなくてはならなくて、仕方ないといえば仕方ないが、ちょっくら辛い。「たった一日では吉野までは行けないなあ」とか、諦めなきゃいけないことも出てくる。金と時間がほしいものです。

 なんか最近、他人からも指摘されるくらい「歴史」というようなことにかぶれている。直接の原因は、とある「古今東西の美術品を山のように所蔵している方」のお宅にお邪魔して、凄まじいものをたくさん見てしまったこと。
 やっぱり「本物」ってのは力があるなあ、ということを思いつつ、しかし「土地や文脈から切り離されて“形”だけになってしまったモノ(本来の文脈から離れて“美術品”などと呼ばれてしまっている古代の遺物)にどの程度の価値があろうか」なんてことも思うのだ。別に「切り離してしまうこと」自体を悪く言っているのではなくて、時間的にも空間的にも「本来あるべきところ」を離れてしまったものの「意味」や「価値」を考えるには、それ相応の知識が必要だ、というのである。歴史を知らずして、“美術品”の「文脈」を理解することは不可能である。「これはウル第二王朝のものだ」と言われて、それがいつの時代の、どこにあった、どのような王朝なのかがわからなければ、その「モノ」が本来どのような文脈に置かれていたのかを考えることはほとんど無理なのである。文脈がわからなければ、鑑賞はできない。芸術としての“形”を愛でることはできるけれども、僕は芸術家ではないから、“形”だけを愛でるよりも、何らかの形での「理解」ということがしたい。“美術品”なるものを理解する上で、歴史をよく知ることは大切なのだ。それは橋本治の『ひらがな日本美術史』あたりを読むと痛いくらいよくわかる。

 で、なんで奈良に行こうって話になるのかというと、あのあたりに行けば「極力土地や文脈と切り離さないようにして保存されているモノや建築」がたくさんあるはずだから。「切り離されていない状態」を知らなければ、「切り離された状態」から本来の文脈を復元することはできないんじゃないかと思うので、そういうことを体験し、考えたいのである。

 それにしても、「土地や文脈から切り離されている」という点では同じはずなのに、美術館で見るのと、先述した某氏のお宅で見るのとでは、趣が全然違う。美術館に置かれているとやっぱり「美術品」さえ通り越してもう「商品」になっちゃってる感がある。ガラスケースの中に入ってしまったりしていて。某氏のお宅ではガラスケースどころか、手さえ洗っておけば直接触ることさえできるのだし、「お金」っていうものが介在していないため、美術館で見るのとは体験としてまったく異なる。本当に、希有な時間を過ごしたものだ。
 もちろん「世界の土器展」や「古代エジプト展」も素敵なんだけれどもね。行ったし、行くし。

2009/12/14 

 結局、「かわいい女の子の生写真を鑑賞する」ことによって淋しさを埋めることにしました。それにしても今日はなんだか腰が痛い。背中と言ったほうがいいかもしれないような位置。まだ今よりも若い時分から年に一回くらいそんな日がある。何も手に着かず困ったもんである。


 そんなこんなで何もしていなかったところへ電話が入った。「以前にこの近くで流星群を見たって言ってましたけど、どこで見られますか」というような意味のことを言うので場所を教えて、「うちの近くまで来るんなら連絡くれよ」というような意味のことを返したら、連絡どころか直接うちまでやって来た。
 厚着してねぶくろ持って、とあるスイミングスクールの駐車場に寝っ転がる。ちょっと前まで一面に曇り空の広がっていたのが、零時すぎたら途端に星天、観測には絶好の条件になっていた。
 二時間くらい星を見ながら、くだらない話をした。曇りがちになってしばらくしてから、寒いのでと僕の家に戻り、それから七時近くまでいろいろの話をした。
 この相手は、僕よりずいぶんと年下なのだが、ややこしい話がちゃんとできて、とても楽しい。同い年くらいだったらもっと楽しかったかもしれない、と思う。(「同い年じゃなくて良かった」と思わないのが、僕の僕らしいところだ。)

「教養」のある(かしこい)女の子がいいよねー、というようなことから、「では教養とは何だろう」という話になった。言い換えれば「どのような女の子だったら、僕たちは満足するのか」という、非常ーに男性本位な話題だ。
 正直言って、「僕ら」が満足するような女の子なんてそうはいなくて、「なぜそうなってしまうのか」という話もした。中学生くらいだったら確実に女の子のほうがかしこいし、面白いんだが、どうして「女はバカだ」なんてことを、いつしか男は思うようになるんだろう。
 たぶん、「男の目」というものを意識していく中で、どこかで女の子は「かしこさ」なるものを捨ててしまうんじゃないか、というのが今の僕の考えである。男ってのは「自分よりかしこい女」を愛するのが苦手だから、そういう女は敬遠されてしまう。「男はバカな女が好き」ってこと。あるいは「(男の多数を占める)バカな男には、かしこい女の良さがわからない」でもいい。そのことがわかるから、女の子は「かしこさ」を捨ててしまうのではないか。ただ、では「どこで」「どのように」捨ててしまうのかというのは、わからない。
 言えるのは、「かしこさ」を捨てなかった女の子は、いわゆる「女の幸せ」というものを獲得しにくい。それでみんなこぞってそれを捨てようとするのだが、「捨てられない」という業を背負った人間も、やはり一定数いるのである。そういう例が知り合いにいくらかある。

 ずいぶん自分勝手なことを言ってしまったが、僕の主張は「かしこい女の子がモテないのはおかしい」である。だから僕は「かしこい子が好きだ!」ということを声高に主張していくことに最近はしている。最近はというのは、僕にも「白痴萌え」の時期があったからだが、やっぱり白痴(ここでは、かしこくない女の子のこと)はいかん。彼女らは秩序だったものの考え方ができないから、容易に感情に流されて、容易に不誠実なことをする。容易に論理を組み替えて、勝手に事実を捏造し、自分の不誠実を正当化してしまう。……そういう子もいる、と逃げておくが。
 ところでさっきから言っている「かしこい」とは何かというのだが、やはりこれは「教養がある」と言い換えてもいいものだということにここではしておこう。この話題はそこから始まったのだから。で、それじゃ「教養」ってなにさ? というと、これがわからない。「教養」に関する本をずいぶんと読んでいる僕だが、しかしやっぱりわからない。とりあえずの定義として、「考えるための材料と、考えるための方法をたくさん持っていること」というふうに、僕は思っている。そういう子、いないもんですかね。
 女の子ってがんこだからな。


 ところでこの日記は「これ、書いていいのかなあ」という不安とともに書かれたものである。なぜならば、僕以外の第三者が出てくるから。この男の子の知り合いがもしもこれを読んだとしたら、何か困ったことが起こるかもしれない。慎重に書いたつもりではあるが、この男の子がいったい何者であるのか、わかる人にはわかるかもしれないのだ。かりにこの男の子が、「本当は家にいたことになっている」のだとしたら、とか、この男の子に彼女がいて、その子が「知性や教養なんかとは何の縁もないような子」だったとしたら、とか、考えるとやっぱり、「ああ、自分以外の第三者のことを書いてしまうのは大変に難しいことだなあ」と思う。
 インターネットにものを書くってのは、そういうことにまで気を遣わなければ本当はダメなんだ。僕は⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。とか言って誤魔化そうとしてるんだけど、これは本当は非常に危険で、誠実でないことなんだろうなあとも思っている。で、こういうことを微塵も考えないで、ネットに、特にTwitter(発言を誰かに「お気に入り」されてしまったら、自分の意志ではその書き込みを消せなくなる)なんかに第三者に関することをサクサク書き込んでいくような人を心底から軽蔑する。
 今回は、これがフィクションである可能性を提示しつつ、彼との信頼関係と「運」を信じてそのまんま書いてしまうが、こんだけの内容を書くのにでも「凄まじい葛藤」があったということを、インターネットに何事かを書き込もうという人間すべてにわかっておいてほしい。

 2015/12/14 前半部にちょっと首をかしげたくなるところもあるが、最も言いたかったことであろう「かしこい女の子がモテないのはおかしい」ということには同意である。いや、「かしこい女の子がモテないのだとしたらおかしい」ということに、同意である。実際、かしこい女の子は魅力的だ。だから、現実的にはおかしくはないはずなのだが、すべてのかしこい女の子にそのタイミングが容易に訪れるかというと、そういうわけでもないので、「おかしい」という状況はけっこうある。かしこい女の子は、絶対に優しいし、いい子なので、モテなくてはならない。しかしなかなか、必ずそうなるとは限らない(なにしろここでは内面以外の要素が検討されていない)。難しいものだ。あまり単純に語ることはできないが、当時の僕がこれを書きたくなったという気持ちだけは、今の僕もわかるな……。

2009/12/13 

 いまだ常に誰かに相手してもらっていたい僕は最近よく淋しいのだが煙草は吸わないし酒も一人では飲みたくないのでどうしようもない。猫か熱帯魚でも飼っていればこのような無為な孤独感に悩まされることもないのであろうが今のところその気もない。仕方ないから般若心経でも覚えて唱えようかと思っているとりあえず。桑田二郎先生の『マンガで読む般若心経』(廣済堂文庫 名作!)を読みながらフムフムして「かんじーざいぼーさつ」とかやってる。
 山口貴由先生の『悟空道』も並行して読んでいたら般若心経の引用がいっぱい出てきてワーやっぱり今の僕には般若心経が必要なんだ!
 とかいうことを人に言ったら「……それはあんまり人前で言わないほうがいいよ」と言われた。般若心経を読んだり唱えたりする人はやっぱりちょっと怪しくって危ない人なのだ。
 ではみなさんはどうやって淋しさと闘っているのだろうか?
 あんまりパソコンとか携帯電話とかに頼りたくないではありませんか。
 僕はできれば、そういう逃げ場はこのサイトだけにしたいと思っていて、あとは猫とか熱帯魚とかでなんとかなるんだったらなんとかしたい。ちょっと前だったら「マンガを描く」ってのを実際にやってた。かの名作『さみしい』はそのようにして生まれたものだった。
 しかしマンガを描くってのはエネルギーが要るし、一度描いてしまうと「以前に描いたものよりも質を落としたくはないな」なんて思って気にしちゃって自由には描けなかったりする。困った。その点煙草なんかだったら、「以前よりも上手に吸おう」なんてことが起こらない。素敵なことだ。だけど煙草のような麻薬に頼ろうという気にもならない。同じ麻薬なら女がいい女女女がほしいギャー。
 幸い今は休みなので、実家に帰って『がんばれ元気』でも読もうかなとはちょっと思っている。

2009/12/13 

 松本人志監督作品『大日本人』をようやく観た。それからレビューを幾つか読んだ。ああいう作品を「ダメだ」と断ずることのできる人は「確固たる自分」というものを持ちすぎていて柔軟性がなくなってるんじゃないの?


 今日は実に頽廃的な時間を過ごした。朝から米を炊き、みそ汁を作ってあったにもかかわらず、食べたのは夜であった。近所の中国系食品店で「こしひかり100%」と騙されて買った米があまりにも質が悪い。しかもどういうわけだか、食べても食べても減らないような気がしてくる。それもやっと、あと二合くらいで終わりだ。はやく新潟県あたりのおいしい米が食べたいものよ。
 まあそのなんだ、「食べものっておいしいよね」とか言ってる僕がこんなことを言うのもなんだが、米の美味い不味いってのはやっぱりあって、どうせならうまい米が食べたいですよな。
 ただ、そんなまずい米を、「まずいなあ」とか思いながら食べているのかといえばそんなこともなく、「うん、まあこんなもんだ。うまいうまい」とか思ってホクホク食っているのだから僕はやっぱり幸せな人間である。
 要するに、新鮮な魚を焼いて食うのは死ぬほどうまいが、缶詰の魚だって立派にうまいのである。僕はグルメではないから、それで充分だ。900円出して食べるラーメンはたしかにうまいが、インスタントラーメンだって存分にうまいのである。

 魂の宿ったブロマイドに願掛けて断とう。
 神の宿った神社に願掛けて、大好きな魚を断つかわりにおっかさんの病気をよくしてくれと頼むみたく。
 御真影を奉り、偶像崇拝しよう。
 愛してしまうくらいに。
 神の実存を忘れるくらいに。
 その頃に再会すればいい。


 そろそろ『雪が降る町』の季節です。
 邪推と不安へ⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
 おお、なんだかテイストがグッド・オールド

2009/12/12 

 我が家はどうもごちゃごちゃしている。こんなごちゃごちゃした家は理解しにくい。いったい誰がこのような家の僕を愛してくれるというのだろうか。
 ごちゃごちゃした家を理解するのは大変だからなあ。

2009/12/11 

 恋愛ってすっげー主観的なもんだから、どれだけ途轍もない熱量を持っていても、それは第三者には届きづらい。「好きだー好きだーおれはあの子が好きだーうおおおおおお」とか叫んでも、当事者でなければ「ふーんそれで」にしかならない。だから「ラブ・ソング」ってのはたいていくだらない。その主観を自分に置き換えても違和感を感じないような人、つまり「共感」できるような経験のある人にしか共感できない。それで「できるだけ多くの人に共感できるラブ・ソング」が、人気のあるラブ・ソングということになる。当たり障りのない恋の歌である。
 ところが一部のラブ・ソングには、「主観」の内容について歌っているというよりは「エネルギー」そのものについて歌っているようなものがあって、そういう歌をこそ僕は愛する。僕が最も愛した歌い手のことを思い浮かべてみると、さもありなんというのである。

 僕もそのように愛を語ることができたら、と思ったんだが、『まなびストレート!』への愛情を綴った原稿用紙100枚近くにわたるあの文章は、まさにそれなんじゃないか。

2009/12/10 すいません怒りました。

 色んなところで「僕って怒らない人なんですよーゲヘヘヘ」とか言っている僕だが、先日久々に怒った。「なんという言行の不一致。これだからダブルスタンダードだとかって批判されるんだな」と少々反省したが、本当はこれっぽっちも気にはしていない。
 なんで怒ったのかというと、簡単にいえば、「友達が、僕の秘密を、その秘密を知らない人の前で、ほのめかすような言動をした」というだけのこと。
 僕が「怒らない」というのはキャンペーン上の言い方ではあるが、「めったに怒らない」のは確かで、今回も「怒った」というよりは「やや強めの説教」というくらいの温度だった(と僕は思っている)。我を忘れてギャーギャー怒る(激昂する)というようなのは、もう十五年以上ないのではないかな。(他の人だってそんなもんなんだろうけど、大人げない人ってのはいるよね。)
「激昂する」ってのはないけど、「カチンと来る」くらいのことはある。といってもここ五年くらいの間に僕が今でも覚えているほど「カチンと来た」のは、両手で数えられるくらい少ない。その一例をご紹介。

・友達が、うちに遊びに来て、僕のフトンで寝て、フトンを片づける素振りすら見せずにそのまま帰ろうとした。(お前はお母さんに感謝したことがないだろう! と説教した。)
・友達が、僕の自転車を借りて、軽い事故に遭って壊して、一言も謝らなかった。(まあ彼は彼で“問題解決”のほうに一生懸命だったのだろう。)
・女の子と食事をしていて、その子がごはんつぶを何粒かお椀に残していた。(ご飯つぶを残す人間ってどういう育ち方をしてきたの?)

 といったふうに、ごく下らないことばかり。ポイントは、「自分が迷惑した、不利益をこうむった」ことに怒ることはまずないということ。自転車を壊したことに関しては「仕方ない」で済ますけど、謝らないことに対してはカチンと来る。つまり「自分の倫理観から外れたことをした人に対して説教する」という色合いが強い。基本的に僕がするのは、「怒る」というより「叱る」なのだ。
 ただ相手が目上の人だと、「叱る」ができないから、より「怒り」に近づく……いや「憎しみ」と言ったほうがいいか。僕は「三〇過ぎてどうしようもない人」を心から憎んでいるのだけれども、それは僕の側から「説教」ができないから。目上の人を「叱る」はできないから、仕方なく「憎む」になる。
 逆に明らかに相手が目下だと、「まあ年下だから仕方ないよな」になって、あったか~い目で見守るだけだったりする。つまり「甘やかす」。だから僕が「怒る=叱る」をするのって、たいてい「対等(に近い関係)の相手」。上に挙げた三例はすべてそう。
 そりゃ、後輩や年下の友達に対して説教をすることは、もちろんあるんだけれども、明らかに目下であると「圧力」が「理屈」を上回ってしまうことがあるので、あんまり気は進まない。

 で、今回の「僕の秘密を~」っていうのは、「完全に対等な相手」だった。だからこそ遠慮なく「怒る」ができたわけだが、今回は第三者がいたので、ちょっと空気を乱してしまった。あーあ、自分らしくない。
 だってその人の言葉を一秒でも早く遮らないと、その「秘密」のヒントになるようなことをぽろりと言ってしまうかもしれない。そういう恐怖があって、ついつい語気が強まってしまった。「頭おかしいんじゃないの?」とか。
 僕はそいつのことを信頼して「秘密」を話したわけであるのに、それを知らない第三者の前でほのめかすようなことを言うというのは、信頼への裏切りでもあるわけだから、「こいつが僕の大切な友達であるとしたら、もしかして頭おかしいんじゃねえのか?」と思うのも必定である。頭おかしいのでなければ、黙っているはずである。
 まあ、こいつはけっこう間抜けなところがあるので、「この『秘密』は、このメンバーの前でなら別に喋っていいことなのだろう」と、のほほんと考えていたのだと思う。つまり「まさかここに、この『秘密』を知らない(知らせたくないと僕が考えている)人間がいるとは思っていなかった」わけだ、たぶん。罪のないやつだぜ本当に。だからこそ厄介でもあるのだが……。

 今回のケースが若干異例だったと僕が思うのは、「秘密がばれたら困る」という、自分の不利益に関する感情が存在していたからだ。それは、その「秘密」が自分だけの問題ではなく、他の人も関わってきてしまうからなのだが、それにしても単純な「倫理観」以外のところで怒るっていうのは、ちょっと珍しかったかも知れない。
 でも基本的には、「俺はお前を信頼して秘密を話したというのに、こんな場でそれをほのめかすようなことを言うのは、裏切りである」という、やっぱり倫理観に関わってくるようなことが第一にあるわけだから、僕の怒りってのは一貫性があるのだなあ。
 で、「秘密」とは何かというのは、もちろん言えません。ヒントは「ムエタイ」です。

2009/12/09 

 夜の新宿に我ら“背徳の三魔天”が超現、平穏な街の喫茶店「珈琲貴族」の一角に“ミサ”の祭壇を誂え、焼け爛れた咽頭から絞り出される血塗られた音楽で祀り上げた。山羊の血液を極限まで純化して作ったどす黒い汁を“誓杯”に注いで飲み下し、神々の死肉と臓物を喰らい、永遠へと近づきつつある己の生命に“闇笑”を捧げた。

 ニコチン中毒はアル中や薬物依存とほぼ同じであるということを証明するような場面を目の当たりにしてショックが隠せない。
 昨夜遅く“三魔天”が一人である“鵺”と共にある女性をディス・リスペクトしていた。吾輩こと“惹”が彼女にとって“致命的”な一言を発したその瞬間、パニック状態に陥った彼女は自らの鞄の中を漁り始めた。いったい何が起こるのかと思って見ていると、取り出されたのは一本の“煙草”であった。
 彼女は震える手先で“それ”を口に咥え、表情も覚束ないまま火をつけた。深く吸いこむ。するとどうだ、それまでの手の震えは消え、憮然とした表情を取り戻し、「で、それがどうかしたんですか?」などと平静の言葉を吐くのである。開きかけた瞳孔の輝きが夜の闇に映え、見るもの全てを石化させてしまうような力をさえ感じさせた。

 彼女は「不安」や「不安定」を“煙草”という麻薬によって埋めることに慣れきっているのである。なんらの抵抗もない。我が知己“鵺”と吾輩こと“惹”は戦慄した。これは、うつ病者が抗うつ剤を服用する状況と何も変わらないのではないか――。
 ある種の鬱病者は、何か少しでも嫌なことがあると(不安や不安定を感じると)手元の薬をバリボリと手当たり次第、飲むものなのである。実際そういう人もいるのは間違いない。「偏見だ」と言われたら「ああ偏見さ」と答えるが、実際そういう人もいるのだから仕方ない。
 それと同じような状況が、煙草をめぐっても存在するようなのである。ある種のニコチン中毒者は、何か少しでも嫌なことがあると(不安や不安定を感じると)煙草を吸わずにはいられないようなのである。それで精神の健康が保てるのならば良いのかも知れないが、しかし要するに身体の健康と引き換えに精神の健康を得ているわけであって、それは「心身の健康」とは言えなかろう。麻薬の力を借りなければ「精神の健康」を保つことができないというのは恐ろしいことだ。


【今日おぼえたこと】
 ポッラキス エタウマサ ティスィ ポテ ロゴイス アテーナイウース エペイサン ホイ グラプサメノイ ソークラテーン ホース アクスィオス エイエー タナトゥー テーイ ポレイ
(ソークラテースを訴えた人々がいったいどのような言葉で彼がアテーナイにとって罪を持っているとアテーナイの人々を説得したのか、しばしば不思議に思っていた)
 うーん、こなれた訳文が作れないなあ。クセノポンの『(ソークラテースの)想い出』の冒頭の文だそうです。“鵺”に教えてもらいました。実は三年ほど前にいちど覚えたものなのですぐに暗記しなおせました。
 僕は古代ギリシャ語を何も知らないのですけれども、それでもこういうのを覚えるときにはある程度の語釈と文法的関係を把握しておくと楽。それをしないと一瞬で忘れてしまう。思い出すための契機がなくなってしまうから。
「エ」がドイツ語で言うところの「ge」にあたるとか、隣接する言語をヒントに新たな言語を理解していく楽しさというのは、おそらく「オタク的な知」の根底にあるものと同じで、これがなくて「ただ知識を詰めこむことだけが楽しい」というようなのは単なる「オタク」ではあっても「知」という要素はない。と、思う。


 ところで⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

2009/12/08 

 文章の上手な人は少ない。読む人にすんなりと意味を伝えられるような文章を書くのは難しいことらしい。女の人は特に「わかりやすい文章を書く」が苦手な人が多いように思う。支離滅裂で、言葉の繋がりが非常に悪い、非論理の塊のような文章。
 男の人の中にも「わかりやすい文章を書く」が苦手な人は多い。小難しくしたいのかなんなのか、わけのわからない単語を果てしなく書き連ねているだけの文章。
 そういったような文章がどうして生まれるのかといえば、「自分はわかっているのだから他人が読んだってわかるはずだ」という思いこみだと思う。自分は自分の読んでほしいように読むことができるが、他人は自分の読んでほしいようには読んでくれないのだ。だから「誰が読んでも同じ意味になるような書き方」というのが必要になるわけだ、文学作品でないのなら。
 で、どうしたらちゃんと文章を書くことができるようになるのかといえば、「本を読め」になるのだろうが、しかし本をたくさん読んでいるような人でも書けない人は書けない。「文章をたくさん書け」とも言いたくなるが、それをしていても書けない人は書けないし、両方していても書けない人は書けない。
 もう「わかりやすい文章を書けるようになろう」と心がけて、地道に努力していくしかないのです、結局は。なんだこの結論。でもそうなんだ。そうやって心がけている人なんて、実はほとんどいないんだ。

2009/12/07 世界史VS日本史

 僕は高校三年生のとき世界史が大好きで、「日本史選択してるやつとかなんなの?」と(もちろん冗談で)豪語しているくらいだった。大学では(日本)文学を学ぼうとすでに決めていたが、「世界史のほうがおもしれーじゃん」と、すんなり世界史のほうを選んでしまった。
 大学(国文学科)に入ってみると、世界史選択なんてほとんどいない。みんな日本史。やはり国文学を志す人は日本史をやるようだ。確かに、日本史についての知識が中学レベルで止まっていた僕は大学で勉強しなおさなければならない部分もあったのだが、そんなことよりも「世界史を知っている」ことの強みのほうが大きかったと思う。
 国文学科に入ったからには日本史は「勉強しなくてはならない」から、やる。国文学科に入ってしまうと世界史は「勉強しなくてもいい」から、やらない。ここで「じゃあ日本史をやっておいたほうが楽だ」となるか、「じゃあ世界史をやっておかないと、必要に迫られないから一生勉強できないなあ」となるか、というのが、性格というか、知的好奇心の有無を示しているのかもしれない。
 僕がこのころ「日本史よりも世界史」と思っていた理由はもう一つ。「だって日本って世界の一部だから、世界史の一環として日本史をやればいいじゃないか」だった。世界史の中に日本は登場するが、日本史の中に「世界」は登場しない。「日本と直接関係のあった国」しか出てこない。まあ、教科としての「世界史」が、基本的にヨーロッパやアジアの一部、すなわち日本と比較的関係の深い地域を中心にやるという問題はあるのだけれども。それと「世界史とは覇権国の歴史である」ということも、あるんだけど。

 で、現在はどのように考えているかというと、結論はこう。「ふつうの人は日本史をやるべきだ。学問や勉強が好きな人(知的好奇心のある人)は世界史をやったほうがいい。」
 ふつうの人は日本のことをよーく知っておいたほうがいい。生活や人生において役立つ(出会う)のは日本史の知識のほうが多いし、むやみに外国かぶれになったって何もいいことはない。日本を知り、愛すためには、日本史はやらなければならんでしょう。

 ところで高校の必修の日本史って、なぜか「近代(せいぜい幕末くらいから)」だけを取り扱うことが多いんだけど、あれってどうなのかね。世界史も、なぜかフランス革命あたりから教えたりする(うちの学校はそうだった)。
 近代ってのはほとんど外国の歴史じゃない。「日本史の、もっとも世界史と隣接する部分」が近代なのだから、日本史と世界史を同時に教えるのならば確かにそれは効率的なのかもしれないが、本音としては「近代的な価値観を教えたい」なわけでしょう。それはそれでいいんだけども、いいんだけども……。それはほとんど「倫理」か「道徳」の授業であって、果たして「歴史」と言ってしまってよいのかどうか。だいいち「近代の価値観を教える」というのは「外国の価値観を教える」でもあるわけで、「日本古来の価値観を教える」がどこにもないわけね。もちろん、「現代につながった経緯を教えるべきだ」という考え方にも同調はするけれども、するけれども……。
 そうなると結局は「日本史も世界史も、どちらも全時代を高校で必修にすべき」ということになる。時数的には大いに無理があるのかもしれないけれども、そういうことにしかならない。公民的分野を潰してでもやるべきだろうと僕は思うんだけどな。

 知的好奇心のある人は世界史をやったほうがいい、というのはどういうことかというと、知的好奇心のある人っていうのはだいたいどんなことにでも興味を示してしまうわけで、その興味の対象が「世界史的な知識」を必要とする場合は非常に多いし、「考える材料」として「世界のこと」を知っていると非常に便利だということもある。それにそういう人は、日本史のことなんてのは本を読みながらふつうに生きていればある程度身についてしまうし、必要に迫られれば自ら学ぶこともできる。中学レベルの知識はあるわけなんだから、基礎の基礎はできあがっているはずで、あとはその上に「自分で学ぶ」を積み重ねるだけ。知的好奇心のある人はそれができるから、それでいい。
「世界史」の授業によって、「広く浅い基礎」を土台として築いてしまえば、知的好奇心のある人はどこからでも「学びを積み上げる」ことができる。土台がまったくないと、「積み上げる」が困難になる。
「日本史」しか知らないと、日本のことだけがやたらとうずたかく積まれるような状態になる。ふつうの人はそれでいい。でも「いろんなことが知りたい」と思っているような人にとっては、土台はできるだけ大きいほうがいいわけだ。いろんなものを同時に積み重ねていって、それらを関連づけながら新しい知識や考えを開いていくというような行為が、知的好奇心の旺盛な人にはできる。塔を一本一本完成させていくのではなく、「一本の塔を作ってはいるのだけれども、ほかの塔の土台もすでにできているのだから、たまにそっちのほうに行って塔を高くして、それをヒントに今作っている塔のほうも改良していく」というようなことをしたほうが、楽しいんじゃないだろうか、と。

 全然本題のほうにいかないわけだが、問題はさて、なんで僕は世界史が好きなのだろうかという話。
 を考えてみたら答えはあっさりと出た。僕は昔から世界史が好きだったのだ。

 友達から勧められて今、『古代エジプトうんちく図鑑』(芝崎みゆき)という本を読んでいるのだが、「あれ、これは知ってるぞ」と思うようなことがどんどん出てきた。もちろん世界史でやった内容でもあったりするのだが、それだけではない。なんだろうと考えてみたら、それは学習まんがだった。たかしよいち原作の「まんが世界ふしぎ物語」というシリーズを僕はもしかしたら就学前から読んでいて、そのシリーズがやたらと古代エジプトをプッシュしたものだったため、古代エジプトに関する知識は知らないうちにけっこう身についていたのだった。
 思えば、僕が「年齢ひとけた」のころから読んでいた本の中には、世界史を思わせるようなものが多い。藤子・F・不二雄の『T・Pぼん(タイムパトロールぼん)』なんかはその最たるものだろう。この作品には日本史に関連する話もあるが、圧倒的に世界史が舞台になることが多い。藤子F先生というのは、世界史の人なのである。F先生が日本の旧跡を訪ねて回ったという話は聞かないが、ピラミッドなど海外の遺跡を訪れていたということはかなり有名な話だ。A先生もヒットラーや毛沢東について描いていたりする。藤子きちがいの僕が世界史好きになるには必然があったのだ。
 ドラクエ3が大好きだったというのも、もしかしたら関連がある。あれは「世界史ネタの宝庫」だから。世界地図がそのまんまマップになっているようなゲームで、ポルトガの黒コショウの話なんかは完全に大航海時代のパロディだ。「信長の野望」には、ちっともはまらなかった。
 学習まんがにしても、我が家には世界史方面のものはあったが、日本史方面のものはなかった。もしも我が家に石森章太郎先生の『まんが日本の歴史』があったならば、事情はもっと変わっていただろうが。
 しかし日本史のほうへの興味も失わなかったのは、なんといっても小学二年生のときに手塚治虫の熱狂的なファンになっていたことだろう。手塚先生はバランスの取れた人で、日本史と世界史のどちらもよく知っているし、それぞれを巧みに交差させて作品を作ったりもする。手塚先生のおかげで僕は日本史を知らない「世界史バカ」にならずにすんでいるのだろうと思う。

 2015/12/15 ちょっと乱暴ですね。公民を潰してでも……っていうのとか。それと、近代の歴史は確かに「外国の価値観」が強くなってくるとは思うけど、一方でそれ以前の歴史っていうのは「権力者の歴史」という側面が強くなりすぎる。貴族社会だったり武家社会だったり。それも問題といえば問題で、結局は「教科書をもうちょっと根本から組み立て直しません?」ってことになるんじゃないかな。

2009/12/06 想像力に勝る現実はない

「想像力に勝る現実はない」
 最近ことあるごとに口にしているこの言葉は、もともと友達の麒麟さんという人が言っていたことで、たぶん高校生か大学一年生くらいの頃に初めて聞いたと思うんだけど、それからずっと僕の中に住み続けている。

 どういう意味なのかというと、「何か悪いことが起こってしまいそうな時、人間は想像力を果てしなく働かせて“最悪の事態”を想定するが、現実にその“最悪の事態”や、それよりも悪いようなことが訪れることはない。人間の想像力というのは、それほどまでに巨大である」ということ。
 もちろんこの言葉は、「想像力のない人」には適用できない。「想像力のない人」の目の前には、平気で「予想していたよりも悪い事態」が訪れる。訪れて、パニックになり、さらなる“最悪の事態”へと突き進んでいくこともよくある。
 想像力が巨大でありすぎるがゆえに「想像力に勝る現実はない」という言葉は機能するのであって、乏しい想像力の前に、この言葉は意味を持たない。だから僕はこの言葉が好きだ。
 そういうふうに僕はこの言葉をとらえてきたんだけど、最近さらに解釈が深まってきた。「なぜ、巨大な想像力を持つ人の前には“最悪の事態”が現れないのか」ということについて、考えたのだ。それは「想像力のない人よりも、“最悪の事態”の“最悪”の程度が甚だしいから(甚だしく最悪な想像ができてしまうから)」というだけの意味ではない。
 単純な話、巨大な想像力を持つ人は、想像力を働かせて“最悪の事態”を回避するように動くことができるんである。早めに想像力を働かせておけば、「心の準備」をする余裕だって生まれる。

 そう、だから「想像力に勝る現実はない」というのは、決して楽観的な言葉ではない。「巨大な想像力を常に持っていなければならない」という戒めなのだ。想像することをさぼってはいけない。想像しなければ、それを避けることだってできないのだから。

2009/12/05 A

 どうして、女の子っていきなり怒り出したりするんですか?
 と、いきなり書くと「そうでない」女の子がムッとするかもしれないし、男だって「激昂する」ことは、ある人にはあるのだから(僕はないです)、不適切かもしれない。でも、「どうして、女の子っていきなり怒り出したりするんですか?」なんてことを言いたくなったような経験は、これまでに何度もあるわけで、どうしてそれが「女の子って」になるのかという理由も、たぶんちゃんとあるのですよ。

 女の子って、「怒る」ときに、「泣く」という行為が付随する場合が、男に比べてずっと多いんですよね。もしかしたら本人はそれを「泣く」という行為だと思い込んでやっているのかもしれないんだけど、実は多くの場合「怒る」が本質にあって、「泣く」はオマケだったりするのです。
 本人は「泣く」だと思っているかもしれないけれども、その行為が周りに及ぼす影響というのは、「怒る」と変わらないだろうと思うのです。この場合、女の子は自分の主張を通そうと思って「泣く」をやります。この言い方がまずければ、「思わず泣いてしまって、“結果的に”自分の主張が通ってしまう」でもいい。「主張を通す」という言い方に納得できなければ、「相手に妥協させる」とか「相手を謝らせる」とか「ものごとをウヤムヤにさせる」でもなんでもいいんだけど、とにかく「泣く」をすると、その場の主役、悪く言えば勝者になれてしまうのです、女の子の場合。これは「怒る」をやり通すこととあんまり変わりません。

 基本的に人間は、頭で考えることのできる生き物なので、「怒る」をしなくても主張を通すことができます。通らない場合があるとすれば、相手が「考える」を放棄しているか、無視している場合です。「放棄」や「無視」に対抗するために、「怒る」があるのです。たとえば子供は「考える」の外側にいる存在だから、「怒る」が時には必要なのです(僕は、これが苦手です)。
「怒る」とは、本来そういうものであると僕は思っています。(そうであってほしいという意味ですが、ここではこれで通します。)
 ところが女性の場合(あえて限定してますが、論旨を明確にするためです)、「怒る」がこのような形で出てこないときがあるのです。上で書いたのは「論理を放棄、無視している相手を打ち破る」ための「怒る」ですが、それに対抗するための、「論理を放棄、無視する」ための「怒る」があるのです。どちらも「論理をぶっ壊す」という意味では同じです。前者は「相手と同じ(非論理の)リングに上がって殴りとばす」をするわけですから。なのでわりと冷静な怒りかたではあります。そこまで感情的ではない。
 男性と女性のけんかは、多くこの「論理を放棄、無視している相手を打ち破るための『怒る』」と「論理を放棄、無視するための『怒る』」のぶつかり合いだったりします。最終的に勝つのは、もちろん女性です。女性は「怒る」に「泣く」を盛り込んでくるからです。あるいは「ヒステリー」や「ノイローゼ」を。(だいぶ偏見に満ちてきましたが、まあひとつの思考のモデルだと思って許してください。)
 論理を放棄、無視するための「怒る」は、もちろん「感情的」なものです。論理を打ち破るのだから、論理的であるわけがないのです。ゆえに、「泣く」「叫ぶ」「狂う」「走り去る」などといった行為が付随しがちです。本質的には実は「怒る」なのですが、そちらの行動が目立ってしまうがゆえに、「泣くことによって怒っている女の人」は、「泣いている女の人」のように見えてしまうのです。

「論理を放棄、無視する」ために「泣くことによって怒る」のは、基本的に女の人です。単純に女の涙のほうが強いからです。「叫ぶことによって怒る(怒鳴る)」のは、女の人でもいます(ヒステリーです)が、男の人のほうが多いと思います。男の人のほうがたいてい声が大きいし、迫力もあるからです。
 女は泣くことによって主張を通す。男は怒鳴ることによって主張を通す。
 最近は、あんまり後者の例は見られないような気もしますが、「ワレどこ見てあるいとんじゃニーちゃん」の類はこれだと思いますし、思春期の少年が親に対して怒鳴り散らして暴れるのも、こんなもんだと思います。僕の最も嫌いなパターンです。
 で、「怒鳴る」と「泣く」だとどっちが勝つのかといえば、くり返しになりますが「泣く」です。まあ、そこに愛情のようなものがあればですが。なければ「泣けばどうにかなると思ってんじゃねえぞ!」とか言って、「怒鳴る」が勝利することもあるかもしれません。僕は正直そう言ってしまいたいのですが、目の前で泣き出すような相手というのはやっぱりある程度の愛情を持っている相手であることがほとんどなので、できません。

 まったく、「泣く」ってのは厄介だ。本当は「怒る」をしているだけなのに、「泣く」にしか見えないから、泣かれる側は大人しく敗北するしかない。もちろん「泣く」に対して「怒る」で対応することもできるけれども、心優し~い僕はそんなことできなくて、「なだめる」「あやまる」「フォローする」になるのです。
「泣く」に対して「泣く」で対抗するのも、よけい収集つかなくなって馬鹿らしい。誰かが泣いたとき、泣かれた側はその時点で泣いた側よりも「大人」になってしまうので、大人の対応をしなくてはならない。先に泣いたほうの勝ちです。女同士だったら二人とも泣いてウヤムヤになるってことがあるのかもしれませんけど。(どうなんですか?)

 あるきっかけにより、これまで僕の前で泣いてきた女の子のことを次々と思い出してしまって、そういうことを思ってしまった。
 僕は涙を飲みたい人なのですが、飲みたくなるような涙と飲みたくならないような涙があるんですね。「泣くことによって怒っている」ような時の涙って、ぜんぜん飲みたくならないです。


 ところで、僕は「怒らない」のです。この話は長くなるので割愛しますが、「怒らないからダメなんだ」というようなことを言われたことがあります。女の子から。僕もそれで納得しました。女の子っていうのは、「感情をぶつけ合うことによってわかりあう」っていうことを当たり前にする人種だから、それがないと「わかりあう」を実感できないんだと思う。ことに僕のようなわけのわからん人間が相手だと、「感情を見せてくれない」というのは、とても怖いんだろうな。僕がもっと泣いたり、怒ったりしていれば、「ああ、この人は本気の感情を私に向けてくれている」なんて女の子は思ってくれたりするんだろうけれども、僕はふだん赤信号にしか怒らないし、人前で涙を流すとしたら一緒にアニメ見たりしてるときくらいだろうと思うから。
 ここ数年で、人前で号泣したというのは、「なんでみんな宇宙船サジタリウスを愛してくれないんだよー。宇宙船サジタリウスを愛していないような人たちが人口のほとんどを占めるような世界に生きていたくないよー。うわーん」なんて内容でした。これは本当の話です。僕が嗚咽しながらそんなことを真面目に言っているのを傍で聴いていた女の子は、きっと「なんだこいつ……キチガイか……」くらいのことは思ったことでしょう。「この人とはもう終わりにしよう」とか思ったかもしれません。そのへんはよくわからないけれども、僕はそういうわけのわからないことでしか感情が動かなかったりします。
 僕がサイボーグだというのは、体力面だけでなくて、そういう「感情のなさ」みたいなのもあるんだろう。心外だなあ! ただ単に、全身で演じてしまうだけだというのに。

 2015/12/15 これを書いてから6年が経ち、僕も大人になりましたので、最近は「『泣く』に対して『泣く』で対抗」ということをしています。「あーもう、これは泣いちゃったほうが楽だ!」ってことが、わかったんですね。もともとは泣いても解決しないんだって思って高校生の時に一切泣くのをやめたんだけど、それも極端だった。泣くべき時は泣けばいいよね。ってか、怒ることが苦手なんだったら、代わりに泣けばいーじゃん、って。そういう変化もあって、この文章の内容については、今の僕からはちょっと異論はある。でも、これはこれで面白いからいい。それにしても僕は本当に感情を出すのが苦手だ。ほんの数日前もそれでギクシャクすることがあった。正直に何かを言うことが未だにできない。長い長いリハビリです。がんばっています。まずは、泣きます!

2009/12/04 友達はいつでもいいもんだ

「Twitter脳が・・・くそがッ・・・!」

 とか言いながら男三人で酒を飲む。
「ジャッキーさんは、もっと自分の力を信じればいいんですよ(意訳)」
 というような意味ともとれなくもないようなことどもを言われ、「自分を… 信じる…!? きれいごとぬかしてんじゃねーーーーっ!! この世に自分ほど信じられんものがほかにあるかあああっ!!」という横島先生(『GS美神』)の言葉を思い出した。

 怖い怪物がやってきて、そいつが世界征服をしているのです。しようとしているのです。この国なんかはもうほとんどそいつの領土です。怖いです。
 この怖いものを「灰色」と呼ぼう。
 そうやって考えると何かがわかるような気がしてきますね。

2009/12/01 先輩誕生日おめでとうございます。

 毎年お祝いしているこの誕生日は藤子・F・不二雄先生のお誕生日でもあります。
 BGMはクレイジーケンバンドで『RESPECT! OTOSAN』

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