少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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 24日から数日間の日記は紛失しました。

2009/11/23 銀狼怪奇ファイルの日

 朝も早くからガストに閉じこもって読書。
 昨日美術品パワーを浴びたおかげで久々にやる気が出て来た。
 心が美術なので橋本治『ひらがな日本美術史』読む。
 埴輪に関する記述が、僕の描く漫画の解説のようで、驚いた。
 橋本治の文章を要約するなど不可能に近いのだがやってみる。
 少々乱暴に、僕の「読みたいように読んだ結果」を書くので、必ずしも本文と照らして精確ではないことをお断りしておきます。しかも僕の考えを勝手に書き加えたりもしていますので要約とは言えないのかも。

【1】
 子供にとって目の形は、開いている時の「丸」と閉じている時の「線」しかない。
「線」が吊り上がれば「怒り」か「笑い」だし、垂れ下がれば「泣き」か「笑い」。
 目が「丸」であればそこに特別な表情はない。
 子供にとって表情があるとは、目が「線」になっているということだ。

【2】
 一方、大人にとって目とは「意味」であり、大人の顔は「個性」の表示である。
 大人の目が「線」になっている時は「極端な感情」を表すときで、その時には「個性」は消えている。
 大人にとって表情(=個性)があるとは、目が「線」になっていないということだ。

【3】
[「人間の目には一々を識別するような表情があって、顔を描くということは目を描くことである」ということがはっきりしてしまった段階で、子供には絵が描けなくなる。子供の目は「瞳」だけを捉えればいいようなものだから「黒い丸」ですむが、大人の目は、その黒い瞳を画定する「白目」を描くことが必要になるからだ。]
(埴輪のように、くり抜いた「丸」で表現されるような目は、もちろん子供の絵である。)

【4】
 江戸の町人には子供を表現する技術がなかったのではないか? 町人は武士や知識人と違って「硬直せざるをえない立場」ではなく、「好き勝手をやる権利」を持っているだけの存在だ。「硬直せざるをえない立場」の人には「童心」が必要だが、そうでない立場の人には必要ない。
(つまり、大人でなければならない人は「童心」を持つことができるし、それが必要にもなるのだが、大人であるとか子供であるとかいうことから自由であるような立場の人は、そもそも「童心」などという概念とは無縁である。)

【5】  江戸の町人の間では、大人はそのまんま子供でもありうる。また子供はそのまんま大人でもありうる。埴輪とは「子供はそのまんま大人でもありうる世界」の産物であろう。

 ……と、わかりづらいわけなんですが、本文はもっとわかりづらいです。


 僕の漫画は今のところぜんぶ「私漫画」とでも言うべきようなもので、わかりやすく言うなら「エッセイ漫画」に近い。いつも自分(と重なるような人物)が主人公で、他人はほとんど出てこない。
 で、その主人公はどういう顔をしているのかというと、まさに埴輪みたいな顔をしている。でっかい丸の中に丸が三つ書いてあるだけのような、そんな顔。時に丸の形が歪んだり、線になって吊り上がったり垂れ下がったりするけど、埴輪の範疇を決して出ない。単純明快な、「子供の顔」。
 だから個性なんてのはそこにはない。表情はまさに「笑い」「泣き」「怒り」くらい。だって、「丸」か「線」でしかないような目で表現できる感情って、そのくらいだもの。

 主人公=僕がどういうやつかというと、自分で言うのも妙だけど「子供がそのまんま大人であるようなやつ」であり、「大人がそのまんま子供であるようなやつ」。
 武士や知識人のように「硬直せざるをえない立場」ではなくて、どちらかといえば江戸の町人に近い。自由人とでもいうか。

 そのような僕を絵で表すときに、まるで埴輪のようになるというのは、実はすごく意味のあることだったのかもしれない。

 つまり僕は、大人であるけれども子供でもあるようなもんだから、「埴輪」が描けるのです。また、「埴輪」として描かれることもできるのです。【3】にあることを敷衍して僕なりに考えると、たぶん「子供には大人の絵が描けない」し、「大人には子供の絵が描けない」ということなんじゃないかと思う。

 埴輪のようなものを子供が作ることは技術的にできない。しかし埴輪のようなものを大人が作ることも感性的にできない。埴輪のようなものが“普通に”存在するためには、「大人がそのまんま子供であり、子供がそのまんま大人である」ような世界でなくてはいけないんだ、ということ。

 つまり僕が描いている漫画はもしかしたら「埴輪」のように奇跡的な存在なのかもしれないのだ。橋本治は埴輪について「美術史以前の『幸福な表現』」という言い方をしている。そういえばわりとマジメに漫画を描いているとある人が、僕の漫画を評して、「自分にはもうこういうのは描けない」というような意味のことを言った。その人はたぶんいつからか橋本治のいう「美術史」の中に入っていってしまったから、「幸福な表現」なるものを失ってしまったということだろう。

 僕はずいぶんと長く「絵が描けない」ことをコンプレックスにしていて、妙なイラストや漫画を描くようになった最近でさえそれは消えないままであったのだが、「これは埴輪なんだ」と思った瞬間に、ほとんど解消されてしまった。ああ、じゃあ別にこれでいいんだ。「美術史」のほうへ入って行こうとは思わない。僕は考古学的な絵を描いていったらそれでいいんだ。うん。


 来月、僕の漫画短編集を自費出版で出す予定なので、そうしたらこの文を改訂して解説としてまとめて「文」にアップしようそうしよう。↑を読んで僕の漫画が気になった人は、ぜひ本を買って下さい。


 で、『ひらがな日本美術史』を読んだ僕はテンション上がって、そのままペンにぎり『幸せの花びら』という漫画を描いた。4ページ。なかなかうまく仕上がったように思う。『お風呂』とか『おもたい くるしい』とか『さみしい』とかいう大傑作をものしてしまった僕は「正直あれ以上のものはもう描けない」と思ってウーウーうなっていたのだが、とりあえず自分で及第点を出せるくらいのものは描けたのでよかった。


 と、こういう文章を書くときっと「なにこいつそんなに自分好きなの? アピールうぜえ死ねよ」とか思われてしまう。それがわかってて僕がどうしてこういういけ好かないことを書いてしまえるかといえば、僕の絵や漫画に本当は微塵の価値もないことを知っているからです。つまり僕が今やっていることは「これは非常にいいうんこだ」とか言ってるようなものであって、まったくくだらない。ただ、「うんこを良いと言う」ということがなんだか楽しいからやっているのです。「ものは言いよう」とか「こじつけでもつじつまがあえばそれにこしたことはない」というようなもんです。知っている人は知っているんですが、僕の書く漫画ってのはホントにひどいんで。ただの棒人間ですから。1ページ書くのに5分もかかってないですから。だから許してください。


 それから知人から借りた村上春樹『1Q84』上巻と、これまた友達から借りた泉和良『エレGY』を読んだ。前者は「小説とは筋を読むだけのものではない」ということの典型で、後者は「小説とは筋を読むものだ」ということの典型であるように思えた。村上春樹は正直やり過ぎで、この作品は1000ページ前後あると思うんだけど、「筋を読ませる」ことだけを考えるならば確実に300ページ以内に収まるだろうなあ。
『エレGY』は、正直言って全体としては「けっこう面白いな」くらい。泉さんのことをよく知っている人ならばとても興味深く読めただろう、私小説的な色彩はかなり強い。あるいはフリーウェアゲームとかに関する知識がまったくない人にも面白く読めたと思う。「フリーウェアゲーム作家」という題材はたぶん日本文学で初めてだろうし、その世界を知らない人なら「ふむふむ」とグイグイ引き寄せられるようなものだったろう。
 僕みたいに中途半端に泉さんやフリーウェアゲームとかのことを知っていると、そのへんのことはもうどーでもいいので、どうしても「筋」とか「表現」とかに目がいく。そうなると、この小説は僕にとってはそんなには面白くない。と思いながら読んでいた。
 ところが、ラスト近くがべらぼうに面白い。滝本竜彦先生の推薦文が帯に書かれているけれども、これは『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』のクライマックス・シーンを読んだときの感覚に似ていた。疾走感と、表現の巧みさ。そして何より、「二人称の演出」。

 僕はこの「二人称の演出」に弱いのだ。効果的に使ってあればの話で、なんでもってわけじゃないけど。『ネガハピ』で言うならば、「先輩の置き手紙」。手紙やメールといった「二人称」が作品の肝心な部分に据えられていたりすると、僕はけっこうしびれちゃうのだ。二人称というからには「二人きりの会話」とかでもいいんだけど、どっちかというと「会話」よりももっと閉じた、「孤独な二人称」である手紙やメールのほうが好み。孤独であるがゆえに、そこには「混じりっけのないまっすぐな気持ち」の現れていることが多いからだ。「会話」にはどうしても、照れだの、周囲への配慮だの、色んなノイズが入り込むし、じっくりと言葉を吟味することもできない。
『エレGY』のラストでは、Eメールが実に効果的に使われていて、かなりグッときた。そのあとのリサイタルのシーンも、とても美しい。
 さらに、ラストのラストでは面白いことに「二人称」どころじゃなくて「究極の一人称」が使われている。「孤独な一人称」と言ってもいい。
 ずばり、それは「メモ」だ。
 日記ですらなくて、「メモ」というのは、なかなか新鮮だった。
 300ページあるけどがんばれば30分くらいで読めると思うので、このラストを味わうために読んでみるのも悪くないと思うデス。ちなみに、好きな人はとことん好きな物語だと思う。僕ももうちょっとであぶない。滝本さんは、たしかに好きそうだ。


 それから堀切直人『原っぱが消えた 遊ぶ子供たちの戦後史』を読み進める。めっちゃ面白い。


 ちゃんと日記書こうとすると時間かかる。予定が一時間半も押した。ごめんなさい。

2009/11/22

 現実逃避がとにかく好きだ。眠るのはお金もかからないし、直接には誰にも迷惑かからない。だけども、ここんとこいっぱい寝てるぶん、今夜はちょっぴり何かしようと思っていたのだ。
 しかし。すっごくやる気になっている時でさえ、面倒と思えるようなことがあればすぐに眠たくなってしまう。まるで『トカトントン』のようだ。それを防ぐためにお茶を淹れて飲んでいるわけだし、これから風呂にも入ろうかというところなのだけれども、条件反射のようになってしまったこの癖はすぐには直りそうもない。加えて、川崎まで往復60キロ以上ままちゃり漕いだので疲れたといえば疲れた。今すごくとても眠たい。


 そもそも今日は昼近くまで寝ていたのだった。十一時ごろに起きて、昼前には家を出ていた。友人の誘いで、おびただしい数(と質)の古美術品を所有している方のお宅にお邪魔することになっていたのだった。
 そこで何を見せていただいたかということの詳細をすべて語ることはできないし、語ってよいのかどうかもわからないので語らないが、八時間ほどずっと古今東西の美術品を見ていた。品に係わるお話はもちろん、雑談の一つ一つさえたいへん密だった。
 そういうわけで心が美術なのである。

【名言】
・古い美術品というのはたいてい自分よりも長生きであるから尊び、敬い、大切に扱うべきである。
・現地で売っているものがいちばん怪しい(偽物が多い)。

 日本でいえば国宝級のものばかりを数多、見せていただいて、一日にして僕の目は肥沃な三日月地帯のごとく肥えてしまった。他にもいろいろとすごい、ものすごい体験をさせていただいて、本当に感謝です。特にあのワインの味は、一生忘れないでしょう。

 これまでで最も「世界史をやっといて良かった」と思った時間だった。もうかなり忘れかけてはいたけれども、都市のだいたいの位置とか、王朝や治世者の存在した場所や時代とか、歴史のなんとなくの流れや、種々の断片的な知識とか、そういったことをおぼろげでも覚えていたおかげで、「西洋古典をはじめとして歴史や文献や古典語等に異常なほど詳しい人たち」の会話に混じっても、彼らの言っている意味がだいたいはわかったし、美術品を愛でるにあたっても、その背景が大まかにでもわかるので、本当に助かった。「ポンペイで埋もれたプリニウスの博物誌によると~」なんていきなり言われても、「ああ」と合点できるのは、大学受験で世界史を大まじめにやりまくったおかげ。特に文化史は大好きだったもんだから、美術の方面のことでも言われればなんとなく「あー」にはなるわけです。N田先生ありがとう。
 そりゃまあ美術品なんてのは、背景云々を知らなかろうが鑑賞はできるわけなんだけども、知っていたら知っていたでものすごく鑑賞の幅って広がりますですよね。たとえばその、極端な話、「これはいつごろの作ですか」と問うて、「後漢だねえ」とか答えられたときに、「へえ。ゴカンというのはどこの国の、いつごろのナニなんでしょうか?」なんて聞き返さねばならんようなことになったら、ちょっと不便ではあるわけで。何にしても教養ってのはあればあったにこしたことはないよなあと思った。実に思った。僕は幸い「あー後漢つったら二〇〇〇年近く前かなー」というくらいは一応ポンと出てくるのではあるから、まあ日本人の平均からしたらたぶんマシなほうだとは思う。(嘆かわしいことだけれども現代の日本人っていうのはそのくらいには教養ないよね?)

 最近、「どちらかといえば世界史よりも日本史を選択すべきなのかもしれない」と少し思い始めていた(ただし自分が世界史で受験したことはまったく後悔していない)ところだったのだけども、これで少し揺り戻した。やっぱりね、日本史なんてのは、わざわざ大学受験でやんなくたって日本でマジメに生きていればなんとなく身につくようなものなのだ。僕は日本史を学校ではほとんどやらなかったけれども、まあそれなりに知らないわけではない(だいぶ弱いのは確かだけども……)。
 ところが世界史ってのは、扱う範囲が広すぎるがゆえに、学ぼうと思わなければちっとも学べない。世界史を選択しなかった人は「パルティア」とか「フェニキア」なんて言葉を聞いても、ローマ史や交易史やなんかに興味のある人以外はほとんど何も想起されないでしょう。なのでせっかく選択するんだったら世界史のほうがいいよな、やっぱ、と今また考えている。日本史なんてのは知ってるのが当たり前だし、テストで問うなんてのは本当はナンセンスだよなー。
 やらねばならんのであれば、義務教育で日本史をかなり詳しくやって、世界史は教養を求める人のために高校でみっちりやるという感じが理想かもしれない。中卒でも日本史は完璧に知っている、というのは理想といえば理想なんじゃないか。ただ、中学生のキャパシティってのは限りがあるから、そんなことはたぶん不可能というか、やっても誰も覚えてないとか、そういうことになりそうだけど。
 まあだから、結局今のような感じが限界なのかしらね。本当の理想は「日本史も世界史も必修にする」だと思うけど。日本史と世界史という分け方をするのなら。
 あとの問題としては、「世界史=西洋史=白人中心の世界観」になりがちな部分をもうちょっとどうにかしたいような。

 話は逸れたけど、歴史を学ぶことは美術を鑑賞する上でも大切な一要素にはなるし、ものを考えるということは歴史=過去に定点を置かなくてはできない。現在だけでものを考えようとするのは、ここんとこずっと顕著な傾向で、それだから僕はmixiとかTwitterとかが大嫌いなんだよね。

2009/11/21

 脳みそがぶっ壊れるかと思うくらい寝て、目が覚めたら不埒なことばかり考えて、また全身が痛くなるまで寝て寝て寝倒す。

2009/11/18

 くそっ。更新できない。
 詩。

2009/11/16 速報

 兒玉怜『鬱病ロッカー』読んだ。
 全国民必読の名著。
 僕が精神疾患や薬に対して抱いている想いや考えが、ここにほとんどそのまんま形になっている。しかも壮絶なまでの説得力を持って。


 004 【漫画】ジャンプ新連載『ねこわっぱ!』第一話――鳥山明と神使ブーム


2009/11/13 

 僕は一応教育者ということになっているのでそのような話をたまには書きます。
 ここに教育に関して二種類の考え方があると思ってください。「できる子の能力をさらに伸ばす」のと「できない子の能力を底上げする」です。この二つをまったく同時にこなすことは難しい、というより不可能に近いと思います。ので、どういうバランスでやっていくか。もしくは「どちらを取るか」ということが、教育する側として重要になってきます。
「教育する者」というのは、学校の先生に限りません。大人であれば、いや自意識のある人間であれば全員が、何らかの形で教育者であらねばならないと僕は思います。よく言われることでは、教育には「学校教育」「家庭教育」「社会教育」という区別があって、後者二つは教育の専門家でない人たちが主に行うものだとされています。
 正直、前者のほうが圧倒的に楽なんですよ。できる子は自ら進んで吸収して大きくなってくれるので、教える側は多少の助言を行った後、間違った方向へ進まないよう見守っているだけでいいのです。
 ところが後者は、そういうわけにはいきません。できない子は、できないからこそできない子なのです。できない子ができるようになるには、教えるほうも教えられるほうも並大抵の努力では足りません。

 わかりやすくするために、話題を「勉強」という面だけに絞りましょう。
 前者を優先する立場というのは、「勉強ができない子は、できないんだから仕方ない」を前提にしています。ので、「勉強のできない子は勉強で身につくような知識や論理的思考能力をあまり必要としない職業に就かせる」というふうになるはずです。
 ところが現代日本では「勉強ができない子」なんてのは基本的に存在しないことになっているのです。9割以上が高校に行って、その半数以上が大学に進むような社会には、「勉強ができない子」というのは存在できません。もちろん本当は存在するのですが、ごく少数なので軽視され、差別されます。「勉強ができない子というのは社会に存在を許されないのだから、勉強ができなくてはならない」という強迫観念に日本人は侵されているため、「勉強ができない子」の存在はできるだけ隠蔽され、「本当は勉強ができないけど勉強ができるような顔をしている子」が大量発生しています。それが現在です。
 だから、実のところ「勉強ができない子は、できないんだから仕方ない」にはなりません。それで「すべての子は、勉強で身につくような知識や論理的思考能力を必要とする職業に就くことができる」という幻想が生まれ、しかし同時に「本当は勉強のできない子」が増えているのです。
「できないのに、しなければならない(できることにしなければならない)」という状況がいまあって、「できない子の能力を底上げする」というのは、これを打破するための方策だというわけです。そんなことをするよりは「できない子はできないんだから仕方ない」をキッパリ言うようにしたほうが本当はいいはずなのですが、どうもそちらのほうがずいぶん難しいことのようです。

 本音を言えば、僕は「すべての子は勉強ができたほうがいい」と思っています。勉強は、できないよりはできたほうがいいです。もちろん勉強だけにバランスが偏ってはよくないし、「知識を応用して自分でものを考える」ができないような半端な学び方では意味がないとも思います。ここでいう「勉強ができる」は当然、「要領よく点数が取れる」を意味するのではなく、「効率的に知識を吸収でき、それを応用するための思考力もある」です。
 全員が優れた思考力を持ち、自分で知識を仕入れて自分でものを考えることができるような世の中は理想です。ただし現状、そんなことは無理です。
 中学校くらいになると、もうすでに「できる子」と「できない子」の差は歴然で、できない子をできるようにさせることはほぼ不可能です。「できるようになる可能性のある子」や「できているように見えるだけの子」もいますが、そのことを考えてもやっぱり、中学生の時点から吸収力や思考力を底上げすることは無理でしょう。倫理観や、あらゆる感性についても同じです。中学生から変えようと思っても、できたとしてかなり難しいです。
 小学生ならどうか? と考えても、「現在の教育体制じゃちょっと無理」だし「現在の家庭や社会の有り様を考えるとかなり難しい」ように思います。ここは専門外なので想像に過ぎませんが。

 結局、「底上げ」なんてもんは空想なのです。まず無理です。それをやろうとしたら、たとえばすべての新生児を国の監視下に置いて考えられる限りの「よい教育」を施してやる、などの強引な処置が必要です。(それをしたって「できない子」は生まれるような気がしますが。)
 そのように「底上げ」は絶望的なので、賢明な教育者は「できる子を伸ばす」のほうに行きます。
 僕の身近な人を例に出すと、早稲田大学の石原千秋先生なんかはまさにそうだと思います。僕は彼の『教養としての大学受験国語』を高校生の時に読みました(そしてその一年後に大学で文学を教わることになります)が、読書が大好きだった僕が読んでさえ、あの本は難しかったです。彼の著作はすべて、中学生向けのものにしても小学生向けのものにしても難しくて、もともとある程度の力がある人でなければ役に立たないどころか、読み通すことさえできないでしょう。
 僕は彼が「できない子のための国語の本」を出してくれることを望んでいますが、おそらくそれは叶わないでしょう。だってそもそも「本を読む」っていうのは優秀な人しかしない(できない)んだから、「できない子のための本」というのはまず、ありえない。それでも期待は捨てませんけど。
 橋本治さんが『いちばんさいしょの算数』という本を出していますが、あれこそ希有なる「できない子向けの本」だと僕は思っているのですが、どうも成功しているようには見えません。どうなんでしょう。

 梅田望夫さんは「上を伸ばすことに興味がある」と明言しています。『私塾のすすめ』という本の69ページあたりです。こういうふうに割り切ってしまったほうが、教育というものを考えるにあたっては、非常に楽しいし、気が楽です。
 僕は職業柄、そんなふうに割り切って考えることはできません。「全体の底上げ」をはからないことには、仕事になりません。それに上にも書いたように僕の理想は「みんなが充分な吸収力と思考力を持つ」なので、できれば「底上げ」のほうに肩入れしたいものです。だって、みんなが頭よくなんなきゃ、みんなが「自分の頭でものを考える」をするようになんなきゃ、どうしようもないじゃない。世の中はずうっと、永遠にこのままふらふらしているしかないじゃない。こういうことを考えると絶望的な僕の頭はすぐに、「ま、無理だけどね」になって、「頭のいい人たちがテキトーに動かしていけばいいじゃない」にもなるのですが、しかしそれでもやっぱり「自分の頭でものを考える」人は一人でも多いほうがいいと思うから、教育などという途方もないことをたまには真剣に考えてみたりもするわけです。
 映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』でアムロはシャアに向かって「貴様ほど急ぎ過ぎもしなければ、人類に絶望もしていない!」と言いましたが、まさにあんな気分です。
 しかし確実に言えることは、僕なんかがちょっとがんばったったところで中学校のクラス一つも「底上げ」できません。少なくとも、できている実感はありません。クラスの一割か二割くらいだったら、僕との出会いによって何か変わった子もいるだろうという自負はないでもないですが、それじゃ「底上げ」とは言えないので。なんだか徒労のような感覚に襲われるときもあります。どんな話をしようと、「全員が耳を傾ける」という状況は教室ではまずありえないですから。

 そいじゃどうしたらいいのか? っていうところで僕は止まっているのですね。僕は授業で、「僕だったら面白いと思うような話」を、せいぜい面白おかしくやっています。時折は授業内容から離れて単純に面白い話、ためになる話、アニメやマンガの話、ちょっと難しい話、いろいろします。自慢じゃないですが国語の先生としてはかなり面白い授業をしているはずです(テクニックはまだまだですが)。それはもちろん「できる子を伸ばす」になっているはずだし、ほんのちょっとは「底上げ」にも貢献している「はず」です。そう思わなくては、やってられません。ただ、ほんのちょっとなんです。
 だいいち僕は「面白い授業をする」ことは死ぬほど得意ですが、「それを生徒に聞かせる」ことは不得手です。あいつら放っておくとずーっと喋って遊んでいるので、面白いとか面白くないとか、そういう次元の話ではないのです。僕はあんまり怒ったりしないし、迫力も威圧感もまったくないので(だからこそ怖いと言われたりもするが)、力づくで授業を受けさせるということが全然できない。だから時おり崩壊状態になったりもする。この辺は単純に力不足ということなんですが、かりに授業が滞りなく進み、みんなある程度話を聞いていたとしても、僕一人の力ってのは微力です。十教科あったら十人の先生が「底上げ」のために全力を尽くしてくれないとだめです。
 もしすべての先生が充分な能力とテクニックをもってそれをしたとしても、果たして「底上げ」が実現されるかどうか、わかりません。教員ってのは、そのくらい手応えのない仕事だと思います。テストの平均点が上がることが必ずしも「底上げ」ということではないだろうので、わかんないのです。

 僕がもしもこのまま今の仕事を続けていくとしたら、やるべきことは「面白い授業をやり続けること」で、課題は「全員にちゃんと話を聞かせること」です。
 で、もしも僕が現職を退いたら、どうなるんでしょうか。
 今書いたようなことは、どんな職に就こうとも考え続けるだろうとは思います。
 たとえば『9条ちゃん』のような形で。

2009/11/11 

 熱く語る僕ですが本当のところはどうだっていいんです。照れ隠しのためだけに言ってるのではなく。僕はたぶん、元来恐ろしいほどに冷静な人間で、あらゆる感情や思考は完璧に近い冷静さの上にちょこんと乗っかってるだけのような感じだと思うのです。

 こういう人間は考えることそれ自体が楽しいだけで、実際に本気で訴えたいことなんてないんです。人一倍巨大な理想を抱えてはいますが、根底には冷静な諦めしかありません。諦めながら、ワガママをぐだぐだ言っているだけなのです。「コアにあるのは子供の頃の正しいこと」ってのは間違いないのですが、その正しさが世の中のどこにも実在しえないらしいということは、存じております。

 存じておりますが、「自分はなにを正しいと思うだろう」は常に考えています。自分の正しいと思うことと現状とのギャップがどの程度であるかということが気になるからです。その過程をこういうところに書いています。それだけです。理想が叶えばいいなと願いながら、「本当はオレが正しいんだが、お前ら多数派に合わせてやろう」とか思っています。「できればみんな僕と同じことを考えてほしいんだけど、そういうわけにもいかないしなー」と。「あー。この考え方が多数派になればなー」と……。そのように僕は穏和であり、冷静であると思います。

 僕は実はもうずーっと冷めているんですね。さすがに親とかが係わってきたら感情は大きく揺さぶられるでしょうが、そういう例外を除けばだいたいいつも冷静です。僕はオタクだから、面白い漫画やアニメ等に接していると熱くはなります。熱くはなりますが、それは冷静の上の熱さなんですよね。対象はフィクションですから。二次元ですから。それは本当にいつだってそうで、誰と話していてもだいたい常に冷静です。冷静だし、実はあまり主観的にものを考えません。感情も動かしません。それだもんだから、よく「目が笑ってない」とか「何考えてるかわからない」とか「怖い」とか「人をバカにしているでしょう」とか言われる。別にそんなことなくて、ただ単に常に冷静であるというだけだと思うんだけど。
 冷静であるというのは、たぶん「根底では相対主義的である」ということです。「客観的」と言ってもいいです。数日前に書いた化粧が云々という文章は、感情論のように見えて、実は感情論じゃないんですね。感情で(主観的に)書いているのは「僕はすっぴんが好きだ」というところだけで、あとの部分は、「とりあえず考えてみたらなんとなく辻褄が合ってきたから面白くなってきて書いた」というだけであって、訴えたいことでもなんでもないんです。全然本気では書いてない。根底では相対主義的(客観的)である僕は本当は「誰が化粧をしようがしよまいが別にどうでもいい」と考えています。熱く語っているように見えて、べつに何かを訴えたいわけでもない。面白いから書く。そんなようなもんです。

 と、書いてみましたが、これが妥当な言い方かどうかは僕にもわからないのです。このように書いてみることが、僕の散歩の意味だというだけ。

2009/11/10 公的懸賞金制度

 市橋達也という人が死体遺棄の容疑で逮捕されたようです。
 僕が毎週木曜に立っている店(歌舞伎町ゴールデン街の無銘喫茶)には、もう二年くらい前からこの人の指名手配ポスターが貼られている。毎週見てるもんだからなんだか妙な親近感をさえ抱くようになっていたんだが、いつの間にか懸賞金が値上がりしていて、最近きゅうにこの人の話題が増えたと思ったら、あっけなく捕まった。
 懸賞金は一千万円。死体遺棄容疑で一千万ってのはすごいなあ。「もちろん殺人もしてる」ってことなんだと思うけど、公的懸賞金がかけられた他の事件をすべて調べても、一千万という金額は最も大きい。いったいどうしてこの事件ばっかり? やっぱり「被害者が外国人」ってのが大きいんだろうか。
 勘ぐるなら、二年前に成立したばかりの公的懸賞金制度が「効果的な制度である」ことを示すために、市橋容疑者はどうしても捕まえておきたかったということでもあるんだろうな。警察の……というかお上の関心事はたぶん「犯人を捕まえる」ことよりもむしろ「公的懸賞金制度の効果を立証する」ほうにあったんじゃないかと邪推してしまう。懸賞金が高いのは、「見つかりそうにないから」ではなくて、「見つかりそうだから」だったような気もしなくもない。というのも、2008年6月までは、この事件は「公的懸賞金のかけられた事件の中で、最も最近起こった事件」だったから。「見つかりそうなんだけど、なかなか見つからないなー。懸賞金高くしちゃえ! もっと新しい事件は、もうちょっと値段を据え置いて様子を見よう」というようなもんだったんじゃないかと。
 今回の市橋逮捕劇ですでに国民に周知されたと言っていいかもしれないが、公的懸賞金制度が「効果的である」ことが立証されたらどうなるか。なんか日本が西部劇みたいな世界になったりするんじゃないだろうか。というのは冗談半分としても、うまく説明できないながら、何かが変わっていくような気がする。
「ネット探偵」と言うべきような、炎上したブログの管理人の個人情報を調べ上げて曝しちゃうようなヒマな人たちは、賞金がかかっているとなればけっこうな力を発揮するかもしれない。そのうち「賞金稼ぎ」のような人たちも出てくるかもしれない。そしたら警察ヒマになります。市民が警察みたいになっちゃう。
 つまり正義感のある市民が、本当に警察の真似事をやれてしまうような世の中になっていくんだろうか? その善し悪しはようわからんが、公的懸賞金制度が「効果的だ」となれば、変わっていくものはあるんだろうなとは思う。という雑感。

2009/11/09 完全教祖マニュアル レビュー

 003 【書評】架神恭介・辰巳一世『完全教祖マニュアル』

 お友だち(と言い張る)の架神恭介さんの新刊が出て、読んだら途轍もなく面白かったのでレビュー的なものを書きました。レビューはべつに読まなくてもいいので、ぜひ本を買って下さい。新書がたくさん置いてあるようなお店ならたいていあるんじゃないかなー。ちくま新書です。

2009/11/08 

 化粧というのは僕にとって永遠のテーマの一つなので懲りなくまた考える。
 出発点として「僕はすっぴんが好きである」があって、僕の思考はそこから出発し再びそこへ戻ってくるように働いていく。前提と結論がまず最初にあって、その間を埋めるために思考があるという、ひたすらに恣意的な考え方である。要は「好きなものを好きだと言うための正当性をどうにかして確保したい」であって、島本和彦先生ふうに言うならば「こじつけでもつじつまがあえばそれにこしたことはない」(『逆境ナイン』)。つまり好きなものを好きだと胸を張って言うために僕はこじつけを積み重ねていくのだ。そんな卑怯なやり口を「思考」などという大仰な言葉で表し、「僕は正しい」ということを必死になって言おうとしているのだから、僕が化粧について語るときあらかた全ての女の子が嫌そうな顔をするのは当然のことだと言っていいだろう。好みの押しつけでしかないのだから。そういうことを一応踏まえた上であえて言うと僕は化粧が基本的に嫌いである。

 現代日本の女性の多くが日常的にしている化粧は、大正期以降に広まったらしい西洋的な化粧である。「化粧した白人の顔に近づけるための化粧」である。わりと僕は日本人らしい顔が好きなので、そういった化粧は好きではない。日本人が「化粧した白人の顔」に近づこうとする理由がまったくわからない。(そんなに白人が好きだったら白粉でも塗ってりゃいい。)
 日本的な化粧と言えば白粉とかお歯黒とかになるようだが、僕はそういった姿に性的な興味を持たないので、これは却下である。
 そういうわけで消去法的に「何もしない」がいいと思うのである。

 もうちょっとマジメな話をするか。
 白粉やお歯黒というのは、完全に平等な化粧である。誰がしても同じ顔になるのである。現代で言えばガングロとか、キャバ嬢系(age嬢系)の化粧も同じように平等色が強い。だから彼女たちは革新的のように見えて実は復古的なのかもしれない。顔の均整が取れていない、または白人的でない顔立ちをしている人がそういった平等的な化粧をする人の中には多いように感じる。「化粧した白人の顔に近づけるための化粧」は、ある程度均整が取れていて「頑張れば化粧した白人の顔に近づけなくもない」人が好んでする傾向にあるのではなかろうか(と勝手に思う)。ただ平等的な化粧(白粉とかガングロとか)というのは現代の個人主義的社会ではとても目立つし、かといってすっぴんも逆に目立つ場合があるから、「目立ちたくないな」と思っている人はどちらかといえば「化粧した白人の顔に近づけるための化粧」の類を無難に施すのであろう。面白いことに、個人主義的な化粧がむしろ没個性で、平等的な化粧のほうがより個性的であるという逆転が現代日本では起こっているらしいのである。これはどれだけ日本がアメリカ的なものに侵されているかという証明であろう。

 近世まで、いや近代の初めまでどうやら日本の女性たちは化粧といえば平等的な化粧をしていたらしい。この「平等」は「みんな違ってみんないい」ではない。まったく逆である。日本人は、「人間に個性を一切認めていない」のだ。それは古代から化粧や髪や衣服に現れていた。「平安人は髪が長いのが美人の必要条件だった」とか「着物や匂いなどが美しさの基準だった」なんてよく言われるが、これは日本の美が人間の中にはなく、自然の中にあるものだと考えられていたからだ。「人間の顔」などという個人的なものの中には美も醜もない。髪や着物や匂いという、人間の外側にあるものにこそ美しさがあると考えられていたのだ。だから、顔に個性なんて必要ない。白粉を塗りお歯黒をして眉を抜いて髪を伸ばし、画一的な顔になればこそ、着物や薫物が引き立ったのである。
 それはもちろん「八百万の神」なんて考え方にも繋がっている。繋がっているというか、おそらくはそこからきている。日本人の考え方は「人間は自然の一部」であり、「森羅万象すべてに神が宿っている」なのであって、「人間の顔」などというものに神秘性も美しさもない。だからみんな同じ顔をしていても平気だったのだ。浮世絵までの日本画の顔に個性なんつうもんが一切見られないのはそういうことである。たぶんみんな、本当に同じ顔をしていたのだ。
「日本は共産主義だ」という言葉は、そういうところまで考えないと間違った理解を生む。日本はけっしてソ連的な共産主義に侵されてしまった国ではないし、アメリカ的な意味での平等を尊重しているわけでもない。まったく別の「平等」観念をそもそも持っている国なのである。つまり、「すべての人間の個性は尊重されるべきだ」ではなく、まったくその逆で、「人間に個性など一切ない」なのである。

 もしかしたら、今白粉やお歯黒を復活させたらば日本人はもっと自然に対して敬虔になれるかもしれない。かつてそうであったように、自己の内面ばかりに目を向けるのではなく、自分の外側にある花や鳥や風や月を愛で、自らをとりまく環境なるものをより大切に思うことができるようになるかもしれない。
 日本の化粧は、「個性を完全に殺す」ものだったのだと僕は思う。それによって人間の外にあるものが引き立っていたのだと。西洋的な化粧は、「個性を伸ばす」または「個性を捏造する」ものである。こういう考え方、つまり「自分たちが美醜を左右することができる」というおごり高ぶった意識は、「人間が自然の頂点に立っている」と考えるキリスト教、いやもっと広く「すべての頂点に神がいる」と考える一神教の世界観に特有のものなんじゃないか。日本人はいつから、「人間が美醜を左右できる」なんて偉そうなことを考えるようになったんだろうね? 人間は自然の力を借りなくては美しくなれない、というのが古代からの日本人の考え方だと思うんだけど。

 で、僕の最終的な結論は何かって言うと、べつに白粉やお歯黒を復活させるべきだという主張ではない。僕は、日本人的な「人間は自然の一部である」という意識に則って、こう思う。「人間だって自然の一部なんだから、花や鳥や風や月と同じように、それはそのままで美しいはずだ」である。もちろん、自然にだって枯れた花や醜い鳥がいるように、人間にだってそのような差はあるだろうが、しかし枯れた花や醜い鳥が「美しくない」というわけではない……まあ綺麗事を言うならばそういうこと。自然の一部として、美しかったり醜かったりする人間は、「自然である」というただそれだけで美しい。言葉の上では矛盾しているようだが、べつに矛盾してないと僕は思う。だから、すっぴんでいいんじゃねーの? っていうことです。

「だって美しくいたいよ」「醜い部分は隠したいよ」「アトピー痕あるし……」という気持ちを僕は知らないわけじゃないんだけど、理想だけを語るならば、このようになるんだよねえ。実際はそんなに単純なものじゃないから、現実と理想とでうまく折り合いをつけて、ちょうどいい感じにしていけばいいと思うんだな。つまり、「なんで会社くるのに化粧してこないの?」っていうような空気は、僕は断固撲滅したいが、しかし「なんで化粧なんかしてんの?」っていうような空気は、生まれないほうがいいと思う。人にはいろいろ事情があるのだから。ただ「美しくありたい」という想いが単に「自分の理想とする顔に近づきたい」でしかない場合は、僕は唾棄したい。美しくあるためにすることが「化粧した白人の顔(あるいは雑誌のモデルの顔でもなんでもいい)に近づくための化粧」でしかないような人って、非常に貧しいって思うもんなあ。それって本当は「美しくありたい」じゃなくて、「モテたい」ってことでしかないんでしょ?

2009/11/04 

 お花を摘んで少女はメイド服に着替えた。
 夕暮れを待ってお色直し。
 深くて暗い紅色の衣裳。
 今までの君は間違いじゃないと佐野元春歌う。

 サザンオールスターズの『マンピーのG☆スポット』という曲に、「悲しい男と女が今日も暗闇で綱渡り」という歌詞があって、高校生の時に僕は「なんてエロい歌詞なのか」と思った。「綱渡り」というのは男女が連結している状態の比喩なんだと今でも思い込んでいる。


 トキワ荘のほうへ行ってきた。松葉でラーメンを食べた。
 駐車場の「P」の表示を見て、
「わっ。パーマンのマークだ! キャー」とかってはしゃいだ。
 パーマンのパーってのはクルクルパーのパーだと思うんだけど最近はクルクルパーという言葉は全然使われないらしい。藤子マンガだとパーとかクルクルパーってのは基本的に規制されてしまっている。小山ゆうの『がんばれ元気』にも一巻くらいでクルクルパーって言葉が出て来たはずだけどどうなっているんだろう。

 とか思ってたらAKB48の曲で『くるくるぱー』というのがあるのですね。
 AKBならオッケーで、藤子マンガだと自粛しちゃうっていうのはどういうことなのでしょうか。小学館はそういうところにうるさいというか、気にしすぎなのかもしれません。
 現代では、クルクルパーに相当する言葉って何があるんでしょう。キチガイも近しい言葉だと思うんですが、これも自粛されている場合が多い。結局「バカ」とか「アホ」とかになるんですよね。「ノータリン」ってまずいんですか? ミスチルも歌ってるしドラえもんの「ないしょペン」の話でも出てくるから大丈夫かな。よしこれからはノータリンという言葉を使っていこう。

 あまりにも内容のない日記でびっくりだ。今僕が何か書くと鬱々としたものかお花畑見た様なもののどちらかにしかならなくてそれを避けようとするとどうしても空疎になるよ。

 昨日の日記についてですが、やはり「想像力に勝る現実はない」(友人すんたんの名言)ということで、結局は杞憂だったっぽいです。つまり「人智を超えた何か」が作用したとみられるのですが、そこがどうにも不明です。人智を超えているので何がなんだかわからないのです。昨日の内容に即したたとえで言うと、不倫相手は「電話した覚えはないが、夫にバレている様子もない」とのことで、グレーで、モヤモヤしてます。夫は全てを知っていて黙っているのか、あるいは不倫相手が夢遊病か何かで寝ぼけてて覚えてないのか、それとも人智を超えた何かが本当に作用しているのか……真相は闇です。

2009/11/03 論理的に考えたら

 論理的に考えたら人生終了する状況です。
 たとえばですが、僕が不倫をしていて
 その不倫相手の携帯から電話がかかってきたから、それを取るとする。
 しかし不倫相手は何も言わない。無言である。
 この場合、論理的に考えたら、「不倫相手の夫が電話をかけてきた」しか考えられなくないですか?
 要するに不倫がバレているのです。
「不倫相手から無言電話がかかってきたら、その不倫はバレている」と言って、おそらく差し支えはないでしょう。
 果たしてこういうのを「論理的」と言っていいのかどうかは置くとして、どう考えてもそうなるんじゃないかと僕は思います。
 それにしても気になるのは「なぜ不倫相手の夫は何も言わないか?」です。
 怖すぎます。
「どうしてやろうかなあ……」とか考えているんです、きっと。
 あるいは、「てめえか、俺の女に手を出してんのは」とか言えるようなタマじゃないのかもしれません。気が弱いのかもしれません。ほかにもいろいろ理由は考えられると思いますが、どれも「なぜ不倫相手が無言電話をかけてきたのか?」の理由を考えるよりは簡単です。
 そう、もしも無言電話の主が「不倫相手の夫」ではなく「不倫相手その人」だったとしたら、整合性のとれる理由が見つからないのです。どうして「不倫相手その人」は、不倫相手である僕に、無言電話をかけてくるのか? この理由が見つからないから、「きっと不倫相手の夫がかけてきたのだろう」となるわけです。論理的必然。
 でも人間の行動というのは、論理とか整合性とかいうものだけで決まるものではないので、「なんだかよくわからないけれども無言電話をかけてしまった」ということはありえます。何か人智の及ばない不思議な理由があったのかもしれません。単なる悪戯心とか、その人がキチガイだったとか。そうすると僕が「この無言電話の主はきっと不倫相手の夫だろう」と考えたのは杞憂であり、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言った風情で、「自分は不倫しているのだ」という負い目から、そのような恐ろしい想像が働いてしまったということでしょう。
 人は、恐ろしい想像をしてしまうとき、だいたい論理的に考えているものです。そしてそのような想像が外れたときは、だいたい「論理の及ばない何か」が作用しているのです。「論理的に考えたらこのような恐ろしい状況になりうる」で、人は恐怖します。理知的であるほどに、そうなります。
 僕は実のところもう大人なので、オバケよりも論理を怖がってしまいます。それで僕は今とても恐ろしい想像に襲われて、負けそうになっています。一刻も早くここにオバケのような超常の存在が現れて、凝り固まった論理なるものを吹き飛ばしてくれることを祈ります。そうでなければ、僕の前には破滅しかないのです。

2009/11/02 とよ田みのる『友達100人できるかな』と藤子・F・不二雄『流血鬼』

 アフタヌーン12月号を今読んでいる。とよ田みのるの『友達100人できるかな』まで読んで止まった。
 毎月『友達100人できるかな』と『謎の彼女X』(植芝理一、同じくアフタヌーン連載)を読むたびに生きててよかったと思う、僕はなんとも安い男だ。ほんの一時間前までは停止し続けることしか考えていない虫の死骸のような状態であったというのに。これとほとんど同じ内容のことを毎月どこかしらに書いているというのも、自分の単純さの証明である。毎月毎月同じことを思うのだが、『友達100人できるかな』は素晴らしい作品だ。

『友達100人できるかな』(以下アフタヌーン誌の方針に従って『友100』と略すが、この略称を実際に使っている人を見たことがない)は、小学校教諭の直行が、自分の子ども時代に戻って100人友達を作ったら世界が救われる、という設定の漫画。よくわからないと思うのでもう一度言い直すと「世界を救うために子ども時代に戻って友達を100人作る」という過程を描く漫画。子ども時代とはこの場合、1980年の世界。YMOがバリバリ活躍しているくらいの時代ですな。
 ある日、直行のもとに異星人がやってきて、こういう意味のことを言う。「地球を侵略しようとやってきた。でもこの星にもしも“愛”が存在しているのなら、私たちは侵略できない。“愛”の存在を立証してみせろ」と。“愛”の証明とは何かというと、「友達100人つくること」。直行には妻がいて、子どもももうじき産まれるのに、そのことは“愛”の存在を立証することにはならない、というのが面白い。この異星人にとって最も揺るぎない形での“愛”とは、“恋愛”や“家族愛”ではなく、“友達(友情)”であるということらしい。ここがミソ。
 ふつう“愛”というものを描くなら、“恋愛”や“家族愛”を描く。それが一番わかりやすく、かつ描きやすいからだ。“友達”なんて曖昧な言葉を真っ正面から描こうとするだけでも、挑戦的である。
 友達を作るのに最も適した年代は「小学生」であるらしく、直行は小学三年生になって友達を作る。一人また一人と友達が増えていく過程を『友100』は描いていく。気の遠くなるような果てしない仕事だが、今月、第10話にして出来た友達がなんと12人(第9話で現代に戻って友達になった少年をカウントしないなら11人)。このペースでいくと完結まであと7~8年はかかる。アフタヌーンでは10年続く連載も少なくはないので、本当にそうなってしまいそうだ。それまでこの質が保たれれば良いと思うのだが、とよ田先生ならきっとやってくれるだろう。『ラブロマ』や『FLIP-FLAP』、そしてこの『友100』は、そう信じさせてくれるほどの素晴らしい作品である。

 最新12月号の第10話は、同級生岡野の弟、小学一年生の新二郎が新しい“友達”のターゲット。一年生の新二郎は、子どもらしく残酷で、ザリガニやカエルやトンボなどを次々と惨殺していく。直行はそれを見てドン引きしてしまい、なかなか“友達”になれない。“友達”が成立するためには“お互いの好意”が満量にならなければいけないのだが、直行は残酷な新二郎に真っ直ぐな好意を向けることができないのだ。直行は新二郎に「痛み」や「命の大切さ」を教えようと奮闘するが、うまくいかない。
 ある時直行が新二郎に「お墓を作ること」を教えると、新二郎はすぐに大量のお墓を作って直行に見せた。直行はそれを「お墓を作るためにわざわざ生き物を殺した」と思い、新二郎を叱ってしまう。しかし実際は、新二郎は森で死んでいた生き物たちを集めてお墓を作っていたのである。それを知った直行は深く反省する。「自分は新二郎に、自らの価値観を押しつけようとしていただけではなかったか」と。
 つまり直行は、「生き物を殺してはいけない」という、凝り固まった「結論」だけを教えようとしていたわけだ。「生き物を殺してはいけない」から逆算した理屈、すなわち「可哀想」だとか「みんな同じ命なんだから」とか、そういった下らない、小難しいことばかりを言葉で語って、「生き物を殺してはいけない」という“大人の価値観”に辿り着く以前の“子どもの価値観”というものをすっかり忘れていたのだ。
 そのことに気付いて、直行はハッとする。そして新二郎の行動をもう一度つぶさに観察してみると、新二郎はただ残酷なわけではなかった。クモの巣に光る露、花の蜜を吸うカナブン、石の下に潜んでいる無数の虫たちなどを、次から次へと発見し、観察して楽しみ、ある時はアリの巣を小一時間も見続けていたりする。

 新二郎の目を追うと彼はあらゆるものに興味を持っていた
 虫達にも
 花にも 落ちた葉にも
 そよぐ風にも セミの声にも
 差し込む陽の光にも
 新二郎の目には皆等しく映っているようだった

 直行は気付く。新二郎を「残酷」だと思っていたのは、自分の“大人の価値観”によるものだったのだと。新二郎のような子どもにとって、「残酷」も「優しさ」も等価であり、「目に入るすべてのもの」が……虫も花も風も音も光も、すべてが等しく映っている。そして、「僕もかつては このくくりの無い世界の住人だったのだ」と、直行は気付く。「残酷」も「優しさ」もない。子どもの世界には、すべてのものがただただ等しく、興味の対象として、自分を包んで迎えてくれる世界の一部分として映っている。ただそれだけのことだった。そういう「一緒くたの世界」の中で“経験”を積み上げて、いつか良いことと悪いこと、美しいものとそうでないものはより分けられていくのだ。

 新二郎にはこの花の良さ 分からないだろう
 アイ わかりません

 花を楽しむのは大人だけである
 子供達(かれら)には世界が等しく輝いているのだ

 第10話のラストは、1ページまるまる使って、子供達の住んでいる輝く世界を描写している。太陽も、地面も、空も雲も花々も、草も、塀も家も電柱も散歩する犬も、その犬を引く飼い主も、そのスカートも、子供達自身も、すべてがキラキラと輝いている。なんの変哲もない道端を、何の変哲もない子供達が歩いているその周りに、キラキラと光る「漫画記号」が散りばめられている。その上に、「子供達(かれら)には世界が等しく輝いているのだ」というネームが乗っかっている。

 我田引水のようで恐縮だが、小沢健二さんがエッセイ(無色の混沌)でこれと同じようなことを言っている。
「人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。自分自身さえも分けてしまう。不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。完全にどちらかである人なんて絶対にいなくて、僕らは混然とした存在なのに、混然を受け入れるのってのは難しいから、めんどくさがりの脳は、あるいは機能は、それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。そうすると物事は、すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。」
 こういう価値観は、『友100』でいえば「大人=直行」のものだ。そうではなくて、
「光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。それはそれのみとして、分けられずにあるもの。切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。」
 これが「子供=新二郎」である。
 きっとどちらが良い、悪いというものというよりは、ただそういうものなのであるが、しかし、子供の持っている「混然とした、美しく大きな力」なるものを忘れてしまうのは、とても淋しいことだと思う。このことを無視してしまったら、世の中は生彩を欠き、だんだん醜くなっていく、と思う。

 さてここから第二の本題。『友100』の設定を見て、「なんだか藤子・F・不二雄のSF短編(『ひとりぼっちの宇宙戦争』など)にありそうだな」と感じた人もいたかもしれない(僕もその一人)が、この第10話の最終ページは、F先生の傑作短編『流血鬼』のラストを強く思わせる。

『流血鬼』は、「吸血鬼になってしまう」という奇病が世界中に蔓延した世界を描いた短編だ。もちろん日本も例外ではなく、もはや吸血鬼でないのは主人公の男の子を含むわずかの人々を残すのみとなる。吸血鬼たちは「新人類」を自称し、「旧人類」を捕獲しては新人類=吸血鬼へと覚醒させていった。なんとか吸血鬼にさせられるのを逃れた主人公たちはレジスタンスとなって、夜な夜な吸血鬼たちの心臓に杭を打ち込んでは食料を奪って生き延びるという生活を送っていた。そんな主人公を、吸血鬼となった幼なじみの女の子は「私たちが吸血鬼なら、あなたたちは流血鬼よ」と言い放ち、「吸血鬼になるのなんていやだ」とどうしても聞き分けのない主人公をかみ殺す。そして眼をさますと、主人公は身も心も吸血鬼になっている。
「今から考えると、おれ、ばかみたいだよ。どうしてあんなに新人類になるのをいやがったのか。気がつかなかった。赤い目や青白い肌の美しさに! 気がつかなかった。夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」

 これが『流血鬼』のあらましだが、原作はもうちょっと複雑で面白いので、興味のある人は是非読んでみてほしい。個人的にはF短編の最高傑作の一つだと思う。
「夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」というラストシーンは、ネームも衝撃的だが、それ以上に絵がすごい。時刻は夜なのに、背景が白いのである。そればかりではなく、キラキラと雪のような光りで満たされているのだ。新人類の目には、夜の暗闇も光溢れるまばゆさに満ちているということである。「完全に異なる価値観を持った生物の視点」などという途方もないものを、たった一コマの漫画表現で表してしまっているF先生は本当にすごい。

 長々と『流血鬼』の話をしてみたのは、このラストの一コマが、『友100』第10話のラストページに酷似している、ということが言いたかったのである。「旧人類」を「大人」、「新人類」を「子供」と置き換えてみれば、これらはまったく同じシーンなのだ。直行という一人の大人が、子供という「完全に異なる価値観を持った生物の視点」を獲得したことを表すのに、『流血鬼』とほとんど同じ漫画表現を用いたのは、これはまったく必然である。構図まで似ているというのは、これはとよ田先生のF先生へのリスペクトなのか、それとも同じことを描こうとしているがゆえなのか。

 10月は休んでしまったので今月はけっこういろいろ書くと思います。
 全国30人のEzファンの皆さまどうぞお見捨てなきようお願いいたします。

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