少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2009/03/29

 今日から数日間、旅に出るので、少し書きためておきます。

2009/03/28

 実際ここに何かを書くことが「毎日が毎日たる証明」になっていたことは確かだなと気づいて、ちょっと書いてみる気になった。全国累計100人のEzファンの皆さまこんばんわ。

 のっけから思い上がったことを少々。
 先日、ある人に長い手紙(メール)を書いた。一万字以上に及ぶそれを、毎日のように、何度も何度も読みかえしながら、「僕って本当に“重たい”人間なのだな」と思うのと同時に、「僕はとても頭が良いのだなあ」と正直に思った。

 僕はそういう人なのです。
 こういうことを言ってしまう人は少ないので、ちょっと言ってみたくなりました。ほとんど詩として。

 こういうことをハッキリと言わずに、文章の端々から「俺って頭がいいだろう」みたいなことを滲ませるのはみっともないのですが、しかし僕はそれをしたいような人なので、もういっそ、書いておきます。はい、そうです。僕は「僕って頭が良いな」とか、時々思ってしまうような人間なのです。そしてそのことを、このように、誰かに承認してもらいたいような人なのです。そういう人が嫌いな人は、僕のことを嫌ってくださって結構です。

 また、その手紙(メール)を読み返す自分の姿に、「ああ、僕って本当に僕のことが好きだなあ」とも思いました。はい、そうです。僕は僕のことが大好きなのです。

 こういったことどもを堂々と言い切る人もいないと思いますが、そうなのだから仕方がありません。
 もちろん、自分がまだまだ未熟な人間であるということはわかっていて、それゆえに自己嫌悪に陥ることも、未だにあります。ありますが、未熟であるということはまだ成熟の余地があるということだと思って、ワクワクしています。自分はまだまだもっといろいろなことを考えられるようになるのだろうという予感が、ワクワクさせるのです。自分の五年後、十年後が楽しみです。

 何で急にこんなことを書いたかと言いますと、彼女がいないからです。いないから、何を書いたって気にする人もいなかろうと思って、今のうちに書いておきます。何せ僕は、「彼女ができたから、閉鎖します」と言って、このHPを一旦終了させたこともあるくらいなので、もし彼女ができたらまた、更新がなくなる可能性もあります。それまでは、せいぜい書ける範囲で正直な気持ちを綴ってみます。アー。「ジャッキーさん彼女つくらないで!」みたいなメール、お待ちしております。

2009/01/17 

 僕は女の子だからokadaicさんの彼氏になったら発狂してやがて破局してしまうのだろうなと彼女のTwitterを見るたびに思う。考えてみるとTwitterで積極的に発言する女の子と恋なんてしたくないと僕は思っているし一方で多くの女子は個人サイトの日記を頻繁に更新している男なぞとは付き合いたくないと思っているのに違いないと勝手に推測している。僕がもし僕の恋人になったとしたら発狂してやがて破局してしまうだろうことは疑いがないなぜなら僕は女の子だから。
 僕は女の子だとは言ってもやはり男の子だから女の子と付き合うんだけど付き合っている女の子に対しては僕は女の子だから女の子みたいなワガママと勝手さで嫉妬したりすねたり冷めたりすると思う。僕がもし僕の彼氏であったなら僕は僕がネット上に書いていることを見てムキーとかいつも常に思うことであろうそしてやがて僕は僕のネット上に書いていることを見なくなるであろうそしてたまに目にしてしまってずんずん沈むんであろう、そうであろう。

 やっぱり「感情に関わることは一切書かないようにする」が唯一正しいか。「ドラえもんが好きである」と書くだけでも、場合によっては誰かの心をそわそわさせるのだ。
 少なくとも「日記」のようなスタイルはもうやめにしたい。

2009/01/16 

 中村一義がバンドを組む前の作品群、具体的には『金字塔』『太陽』『ERA』の三部作とその周辺の『主題歌』なり『恋は桃色』のカバーなどは、非常に土っぽく、うさぎ的である。
『太陽』は、音楽的にはおそらく『ERA』の完成度には及びもつかないのだが、重要な作品だ。中村一義の思想はすべて『太陽』に流れ込み、ふたたび『太陽』から流れ出る。

 それはそれとして、一週間前になくした財布が見つかった。四人がかりであれだけ探しても見つからなかったのに、ふとしたきっかけで見つかった。嬉しかったので新宿の知り合いの店に後輩を無理やり連れて行って飲ませて、自分も朝まで飲んで寝て起きて古本屋で買い物しまくって池袋のアニメイトで特典付きのトリフィルファンタジア一巻を買って自転車屋で排気ガス対策のマスクを買ったら、すぐに財布の中に残っていたお金が半分以下になった。

 それにしても排気ガス対策のマスク(4000~6000円くらいする)を買わなくては安心して自転車に乗れないというのは、そしてその不安に流されてマスクを買ってしまうわたくしは、もう。
 でもRESPROのスカーフ型マスクは優れものだし、安いので(4158円だった)おすすめ。

 新宿の紀伊国屋には東口店にも南口店にも置いていなかったのに、ジュンク堂に行ったらあった、『子どもと昔話』38号。

『トリフィルファンタジア』一巻は、学校帰りにアニメイト吉祥寺店に行ったら売り切れていて、池袋店に電話して取り置きしてもらっていた。最後の一冊、特典もどうやら最後の一つ。帯に「夜麻みゆき6年ぶりの新刊は~」と書かれていて、感慨深かった。そうか、未完の名作『刻の大地』10巻が出たのは2002年のはじめ、高校二年生。もうすぐ七年じゃないか…。

 雑司ヶ谷の、明治通り沿いにある古本屋は鬼。
 佐藤春夫が死んだときの『文芸』1964年7月号を衝動買い。「特集 佐藤春夫追悼」にはそうそうたる面子が顔を連ねており、こんな大作家がなぜ今まったく読まれなくなってしまったのか理解できない。(追記:大正八年の芥川龍之介『佐藤春夫氏の事』に、そのヒントらしきことが書いてあった。要は、南瓜を求めて天竺から出ちゃった人が多くなったのであろう。)
 それから佐藤春夫の子ども向けの作品を集め、代表作『美しい町』の稲垣足穂バージョン(!)を収録した『蝗の大旅行』復刻版、自伝『詩文半世紀』を。どちらももう、どこに行ったって手に入らないようなものだ。
 佐藤春夫はあと何年かしたら著作権が切れるから、少なくともそれまではどこの出版社も再版したりしないんだろうなあ。著作権が切れたら、ちくま文庫さんお願い、全集出して。
 コリン・ウィルソン『バーナード・ショー』をみっけ。他にもショーの本が二冊ほどあって、卒倒しかけた。
 細野晴臣『アンビエント・ドライヴァー』帯が小山田圭吾さん。
 山田風太郎『戦中派不戦日記』解説は橋本治。
 この六冊でちょうど五千円というのは安いのか高いのか。僕にとっては安いのだがまた「むだづかい」とか言われてしまいそうである(まぁ、言われるのを楽しんでもいる)。しかし、あの店の佐藤春夫の充実度は異常で、端から端まで買ってしまいたくなったのを、断腸の思いで我慢したのだ! と言っても一冊四〇〇〇円というのもあるので、そんな金もなかったわけだけど。

 とまぁ、珍しく「買った日記」を書いてしまったわけだが、何だ。そのくらい嬉しいのですよ。財布が見つかったのが、というのではなくて、買った本をこれから読むのが。久しぶりに芸術的な買い物をした、というのである。とりあえず『子どもと昔話』から。

2009/01/13 

 いやー、それにしてもお茶がうまい。水道水の不味いのを引き算してもなおうまい。タイミングを外さずに淹れたお茶はとにかくうまい。ただ、どうしてもお茶請けが欲しくなる。でも、もっともっとおいしい、本当においしいお茶が淹れられればお茶菓子なんぞなくっても満足できるようなもんなのかもしれない。いやー、でも相乗効果というのもあるだろう。ああ、ういろ食べたい。ういろ。東京では大須ういろも青柳ういろも買えないので、もし名古屋から僕の家に遊びに来る人がいたら、かならずういろ持参のこと。でないと家に入れません。

 僕「ほう その大きさは二個入りか 栗の入ったやつじゃな」
 客「いえ ふつうのやつです」

 みたいなやりとりがしてみたい。


 名古屋という故郷を僕は誇りに思っている。正月に大須というふしぎな商店街に行ってういろを四本ほど買って、いろんな人と一緒に食べてみたら、これがおいしいばかりでなく、楽しい。お土産というのは、自分の地元を紹介して、さらに他の地方の人たちと分けあうみたいな意味がある。僕は名古屋が好きなので、それをすると気持ちよくなる。

 しかも、なんといってもういろは安い。先日買ってきた大須ういろは、なんと一本350円。380グラムで、350円。材料がほとんど米と砂糖(と、各種の粉)なんだからそりゃ、そんなに高くはならないのは当たり前なんだけど、それにしてもこの安さはたまらない。四本買ったら、一.五キロ以上になった。重たい。一五〇〇円も払っていないのに。『名古屋学』という本によると、この「かさがあって重たい感じ」が、実に名古屋的だということらしい。ということはあの「喫茶マウンテン」の量の多さも、名古屋的っていうことなのかしら。

 ちなみに今飲んでいるお茶も、大須で買ってきたもの。うまい。うますぎる。
 最近の僕の頭の中といったら、「お茶が飲みたい」→「お茶うまい」→「ういろ食べたい」ばかり。
 でもついさっき、「うさぎや」で売っているどら焼きがドラえもんに出てくるやつみたいで良いという話を聞いた。近所にあるから買ってこようかしら。中村屋という和菓子屋もすぐ近所にあるので、そこで何か買うのもいい。ただ、財布をなくしたばっかりであんまりお金使いたくないんだよなあ…。

 たぶん、一人で買って一人で食べるから「むだ感」があるんだよねえ。誰かが家に来てくれた時に、和菓子とお茶で一杯やって、将棋でも指しながらちらりと庭のほうを見るみたいな、そういう雰囲気にならお金を出してもいい。
 ところが我が家は西武池袋線沿いの練馬区で、都心から近くないためあんまりお客さんを呼べない。交通費だけで和菓子が買えちゃうくらいかかるもの。みんなが自転車族だったら「おつかれさん、遠かったでしょう」とか言いながらお茶を淹れる楽しみもあるけれど、電車で来てくれるとなると「高かったでしょう」とかになって、ちょっと「悪いなあ」という気のほうが強くなる。
 まぁいい、こんど新潟だの軽井沢だのからまた友達が来ると思うから、その時はぞんぶんに「遠かったでしょう」をやろう。饗応ということを、そろそろできるようにならなくてはいけない。僕は貧乏人の家に末っ子として生まれたからか、「もてなす」ということが全然できなくて困る。

 いつか清水の友達の家に遊びに行ったとき、ずいぶんもてなされてしまって「うおお」とか思った。そこの家で淹れてもらったお茶がとてもおいしくて、それ以来静岡のお茶を買っては淹れてみるのだがどうしてもあんなにおいしくならない。やっぱり毎日何度も淹れている人たちは違うなと思った。静岡は、名古屋の次くらいに好きだったりするのだが、もちろん「お茶がうまい」ということが理由の一つに挙げられる。
 うん、お茶はうまい。特に、きゅうすで淹れたお茶はうまい。作ってくれた人の顔が見える料理って、だいたいおいしいもんだけど、そんなようなもんだと思う。自分でつくるご飯って、たいていなんでもおいしいし。

2009/01/12 

 山羊Oナイト。
 タイガーさんの歌は詩的で、難しくない。複雑なことを言わない。愛だの恋だのにまつわるすべてがひとつのメルヘンチックなキスだけに代表されてしまうような世界。
 岡田淳先生の「こそあどの森」シリーズで、ポットさんがトマトさんのほっぺたにするあのキスのような素敵な愛。

 みっちゃんの『人んちのカレー』が聴きたかった。
 さっちゃんのアンパンマンの話がよかった。アンパンマンって子どもはみんな好きだね。僕の姪も好きです。山口もえちゃんの娘もアンパンマンが大好きらしい。アンパンマンすごい。

 たかじんのそこまで言って委員会に出ている時の山口もえを僕は本当に尊敬しているのです。『号外!爆笑大問題』で藤崎奈々子の後釜で出てきたころから見ていたからわしが育てた感があります。


 友達になった人が、岡田淳さんの本が好きだということを、あとから知ると、「やっぱり」と思って、どんな時よりも嬉しくなる。真夜中に一人で、本当に泣きそうになってしまった。

 それでキャベツをちぎって味噌つけて食べて、うさぎの気分を楽しんだ。

2009/01/11 

 お茶を淹れるときに横着して、給湯器から直接急須に「あったまった水道水」を注ぐと、水の味ばかりが際だって、気が散る。
「おいしい水」的なものを使わねばならぬのだろうか。
 あるいは一度、煮沸してしまえば水道水でも構わぬのだろうか。
 ブリタ浄水器でも購入すべきなのだろうか。
 水、水、水。怖がるわけではないけれども、「おいしい」が気になってしまうとどうしても水の問題にぶち当たる。

 名古屋の水はおいしいと言われていたのを東京に来てやっと実感した。名古屋の水道水はそのままお茶を淹れても東京よりはおいしい。これは単なる郷愁なのだろうか?

2009/01/10 

 米を炊いた。
 お母さんが送ってくれたわかめスープの素に
 熱湯を注いだ。
 それで夕食にした。
 確かに、そう
 いつもより高い米だし
 わかめスープは温かい。

 もうお腹が空いてきた。

2009/01/09 因果と螺旋

 ふるさとでふるい友人に会い僕が長らく張っていたとされる防護壁すなわちバリアー的なものについて話した。二十歳をすぎるまで僕は自分のほんとうの内面を何一つ他人に漏らしたことはなかったようだった。理解されるということは食べられるということだとしか理解していなかった。それについて友人はこう言う。内面を吐露せずに過ごせるのは悩みや苦悶を自らの内だけで処理してしまえるということだろうと。確かにそうだ僕は自分の中だけで何もかも解決してしまう。嫌なことがあっても強引に理屈をつけて納得しようとする。初恋に破れた時も二時間後にはケロリとしていたというのは「なるほど恋愛というのはこういうものか」と無理やり理解し納得しきってしまったからだった。何でもかんでも理屈をつけて「筋を通す」をしてしまえば納得できるからその後はうじうじ悩まないで「そういうもんだ」と思える。もし僕に論理的思考能力というものがあるのだとしたらそうやって育まれてきたと思う。
 論理と言ったって要するにヘリクツである。もしかりにいま財布をなくしたとすると、その時に僕は何を思うか。まず「金なんて重要ではない」と思う。そこに二万円なり三万円なりの、僕にとっては大金といえるようなお金が入っていたとしても確実にそう思う。カードが入っていれば「クレジットカードのような借金を前提とした仕組みは不自然だ」とも思う。ほとんど酸っぱいブドウのようであるが、それで「筋を通す」ができてしまうのだから僕の場合は楽なものだ。その他のカードや金券の類も同じように「所詮はモノを手に入れるための手段でしかない」と思ってしまえば未練はなくなる。「だって僕には大切なものがもうたくさんあるもん」でいい。
 とはいえカードや健康保険証がないと不便だ。結局は再発行をするのだが、それまでは「そういうのを持っていない生活も一興だろう」と思って楽しむ。去年の暮れに携帯電話が壊れた時もそうやって少しうきうきした。「携帯がない生活というのはどんなもんだろう」と。財布がなくなれば「財布のない生活というのも新鮮だ」になるわけで、「通帳でお金を降ろすのも風情があるよな」とか思う。「財布がない」は非日常だから、楽しもうと思えば楽しめるものだ。
 財布そのものが誰かからのプレゼントでとても大切なものだったり、金目のもの以外に何か大切なものが入っていたりする場合は、それは確かに落ち込む。しかし「なくなってしまったら今まで以上に愛着がわくということもある」とか、「財布をプレゼントしてくれた人に対して申し訳ないから、あの人のことを今まで以上に大切にしよう」とか考えると前向きになれる。
 それとか「勉強料」という考え方を導入してみる。いま僕が財布をなくせばだいたい四万円から五万円くらいの損失になると思うのだが、それだけの金を払えばあと三年くらいはしっかり気をつけて財布をなくさないだろう。(そういえばちょうど三年前に財布をなくしたのである。)
 もしくは、僕は根本で因果応報とか禍福はあざなえる縄のごとしを信じているから、「こんなに悪いことが起こるということは、何か悪いことをしでかしたからだな。これからはもっと善行を積もう」とか、「悪いことがあったというのは、これまでが幸せだった証拠だ」とか、「悪いことがあったということは、これからいいことが起こるぞお」とか、いろいろに考えることができる。財布をなくしたことによって「善行を積もう」と思い立つきっかけになるのならば、決して悪いことではない。なんか落語の「芝浜」のような話だ。
 財布をなくして損をしたから、「これからしばらく倹約につとめよう」ということになって、日常の無駄遣いをなくす契機にもなるかもしれない。だとすればひょっとすると長期的に見れば得かもしれない。
 かりに単純に「なくした」ではなく「盗まれた」であれば、「勉強料」の見返りはもっと高くなる。「人間って信用しちゃいけないんだなあ」という考え方は、こういう機会でもなければ善人にはできない。お人好しな僕も財布をなくしたことで「用心する」が当たり前にできるようになるかもしれない。自転車を道端に停めるにも、一度撤去された後のほうがずっと用心するようになった。あのとき払った五千円だか六千円も無駄ではなかったのかもしれない。ただ、お金が行政に流れる様が目に見えるから腹が立つというだけだ。財布の場合は、誰を恨んでいいんだかわからないから、自分の中で解決させるしかない。そういうようなことである。

 どうして僕がこのように考えるのかといえば、それはケチだからである。つるセコだからである。「転んだらタダでは起きたくない」性質なので、転びながら「タダでは起きないぞ。何かないか何かないか」とあたりを見回す。自分が納得できればいいのだから、そこには必ず「何か」はある。だから僕はあきらめが早く立ち直りも早い。何かあったら真っ先に「しかしこういうわけでこのことは自分にとってプラスだ」を作り上げてしまうから、なんてことないのである。僕には不幸なんかないんだ。幸福もないけどね。つまり何もない。「だから今日も空っぽで日が暮れる」っていうようなもんですよ。
 僕は挫折を挫折とは思わない。また努力を努力とは思わない。「すでにあったこと」はすべて僕にとって自然のことだから、「後悔」ということもしない。せいぜい「反省」があって、「次からはこうしたほうがいいかな」と思うくらいのものだ。「あの時ああしていれば…」と思うことほどストレスのたまることはないから、うじうじしない。「次にこういう《ような》状況になったらこうしたほうがいいかもしれない」と思うほうがよっぽどいい。《ような》がミソである。「すでにあったこと」を抽象化・一般化して「こういうようなこと」にしてしまえば、もう具体的なダメージは消える。そうすると「あとで役に立つ経験」だけが残る。奥井亜紀さんの歌に「先に立たない後悔はあとで役に立てよう」というのがあるが、まぁそんなところ。

 そういうわけでかりに僕がいま財布をなくしたとしても別に大丈夫なのである。頭の中でどうにかするから。この日記はフィクションです。

2009/01/08 子どもの家は帰省が多い

●年末
 ユニコーンの『雪が降る町』を聴きながらぼんやりしていた。二九日に一度、友達(SNTN)と二人でゲーセン→カラオケに行ったほかは、特に何もしてない。カラオケのあと馴染みのファミレスに行ったが、可愛いあの娘はいなかった。もう卒業したのかなあ。何だか時の経ったのを感じた。

●年越し
 その瞬間が近づくにつれ、いてもたってもいられなくなって、ボロボロのマウンテンバイクを修理してたら、逆にぶっ壊してしまった。添え木さんが手伝ってくれたのだが、無駄になった。結局、お父さんの軽快車(シティサイクルみたいなの。変速なし)を借りて稲武へ。年が変わる時は豊田市稲武町(旧:北設楽郡稲武町)にいましたよ。
 …ATOKは親切すぎる。「北設楽郡稲武町」と入力したら《名称変更「北設楽郡稲武町」→「豊田市」》と表示された。わかってらあ! 稲武が豊田に吸収される瞬間、友達(TKYK)と二人で稲武へ行った(もちろん自転車)のを思いだす。あの時は三月三十一日から四月一日の間で、気温はだいたいマイナス零度前後だったが、今回は冬真っ盛りのためマイナス六度まで下がった。雲一つ無い快晴で星がよく見えたが、雪が積もっていた。
 一応説明しておくと、稲武というのは愛知県の東北端に位置する、長野県との境にある山奥の町。名古屋市で育った者は、ほぼ必ずこの地に足を踏み入れる。なんとなれば市立の中学二年生、高校一年生は学年ぐるみで稲武に合宿(野外学習)をしにくると決まっているのだ。それこそ法律で決まっているかのように決まっている。しかも名古屋には私立の学校が少ないため、名古屋人にとって稲武とは最もメジャーな田舎町の一つなのである。ただし、稲武とはバスで何時間もかけて行くもので、自転車で行く場所ではないというのが一般の人の理解である。
 今回はロードレーサーでもなければマウンテンバイクでもなく、普通の自転車(しかもお父さんの)だったので、かなりきつかった。それでも、夜七時に出発して十二時には稲武にいたのだから、かなりのハイペースだったといえる。猿投グリーンロードは相変わらず真っ暗で、かつての終点であった西中金の駅は廃されて寂れていた。また、足助に新しい、一キロ近い大きなトンネルが開通していて、それを利用してみたら、いつも休憩しているへんな石のようなオブジェ(毎回その上に登るのが通例)とガソリンスタンドのある橋は通らなかった。かくも、時代は変わるのだなと思った。
 それにしても伊勢神トンネルまでの長い坂を登り切ったあとの達成感はたとえようがない。また伊勢神トンネルを抜けたあとの下り道の爽快感もたとえようがない。そしてその後に上り坂が復活する時の絶望感もたとえようがない。すべてが懐かしい。どんなに風景は変わっても地理までは変わらない、だろうと、僕は心のどこかで思ってしまっているのだが、例の新しいトンネルのことを考えるとそうでもないことがわかる。伊勢神トンネルだって、新トンネルができる前は旧伊勢神トンネル(余裕があれば通る。ただし死ぬほど怖くて、ほぼ百パーセント心霊現象に見舞われる)しかなかったのだから。
 道の駅「どんぐりの里いなぶ」に着いて、自転車を置いて除夜の鐘が聞こえるほうへ行くと、山の上のお寺に地元の人が集まっていた。僕はとりあえず友達(TKYK)に電話した。毎年大晦日は彼と過ごすので、しぜん新年の挨拶も彼とするのが初めになる。今年もその慣例に従ってみた。なぜ今年は大晦日を共にしなかったのかというと、すればよかったんだけど、柄にもなくちょっと遠慮してしまった。まぁそんなこともある。
 寒いので、初詣の客は皆お寺の中にいた。僕も勇気を出して靴を脱いで上がり込み、鐘の列に加わった。「84」と書かれた紙を受け取って、冷えた身体をストーブで温めた。周りでは地元の人たちが活発に新年の挨拶を交わしている。狭い町だから、ほとんど知り合い同士みたいなもんなんだろう。むろん僕には知り合いなど一人もいなくて、肩身の狭い思いをした。「実は名古屋から自転車で来ましてねえ」なんて、言ってみたらいいのだけど、言えない。意外と僕はそんなんで、けっこうイヤだ。おみくじを引いたら大吉だった。さい先は良い。
 除夜の鐘を作法通りに突き、お土産(!)の銀杏とタオルを受け取って、堂の隅のほうでとても可愛い、二十歳くらいの女の子が正座してお茶飲んでいる。胸がきゅんとしたが、だからといってどうすることもできない。こういうことって臆病な男だからいつもある。そそくさとお寺を出た。
 道路を挟んではす向かいの山の上にある神社にも、初めて行ってみた。武田勝頼ゆかりの、武節城址の横にある。そのふもとには太い木をくり抜いて七福神が鎮座している珍しい道祖神があり、また湧き水もちょろちょろ流れていた。長い坂を登り、頂上近くにわずか見える鳥居を目指していると、満天の星空の中を人工衛星が飛んでいて、それを追っていく視界の隅をささやかに星が流れた。
 神社には人っ子一人いなかった。初詣を分散させるほど人口がいないのだろう。
 道の駅の休憩室でしばらく休んで、山を下りる。と言っても上り坂だって多いし、下りは下りでブレーキの案配は難しいし、凍えるような寒さを覚悟しなければならないから、楽なものではない。帰り道は猿投グリーンロードではなく、豊田市の中心部を通るようにして帰った。様々の神社とその鳥居を見ることができて楽しかったが、その分やはり時間はかかった。初日の出を背中に受けて、ひいひい言いながら走った。
 それで爆笑ヒットパレード見ながら寝てしまった。

●年始
 兄と、そのお嫁さんと、姪っ子がふたり、やたらと来ていた。ほとんど毎日、顔を見ない日がなかった。うちのお母さんは、四人の子どもを育て上げた後に、二十数年間保育園で勤務しているという、育児に関してはプロ中のプロで、しかも「手作りおもちゃ」なるものの講師として活躍してもいるというのだから、並大抵の「おばあちゃん」ではない。これでおばあちゃん子にならなかったら、そのほうが不思議である。とにかく子どもの相手がうまい。僕も子どもにはやたらと好かれるし、相手をするのも好きだしそれなりに上手にもできるとは自負しているが、それはやはり、血と、母というお手本の力なのであろう。
 ここ最近、僕はいろんな人におかーさんの話ばかりしているが、「マザコンというのは親孝行である」ということに気付いてしまったのだから、仕方ない。そういうふうに開き直ってしまうと、おかーさんの偉大さや、尊敬すべきところが今まで以上に見えてきた。よって「おかーさんすげー」を殊更に言ってしまうのであった。
 年末に比べると外で友達と遊ぶ回数が多かった。一日の夜はTKYKの家でFCソフト『バナナン王子の大冒険』を一晩かけてクリアしたし、高一の時のプチ同窓会(七人)を開いたり、久々の後輩と会ったり、ランチ食いながらだらだら話したりとかも。大須でういろ買ったり、お気に入りのお店でお茶買ったり、有意義に過ごしたと思う。
 六日、ほぼ突発的に大阪の西成へ行って、『うさぎ!』や「おばさん~」のつながりで人と会ってきた。奈良にも行った。大仏を見に行って、小六の修学旅行できっと見ているのだろうが、全然覚えていなかった。鹿が日常を歩いている風景に、「日本でもこういうことって有り得ていいんだな」と感動した。何せ、市中で放し飼いなわけで、誰もエサを与えなくても公園の芝を食って生きていて、「ご老人がモチを詰まらせて死にました」のノリで「鹿が轢かれて死にました」がニュースになるというのだから。そういうのってもっとあっていい。信号が青でも、鹿が渡ったらイヤな顔一つせずに止まるというような、心の余裕はどこの地方にもあっていい。奈良という地方都市の中心部にそれがあるのだから、仙台にだって福岡にだってあっていい。もちろん名古屋にも。できることならば東京にも鹿のようなものは住むべきだ。
 神社仏閣、奈良女子大、南門前のうまい蕎麦屋、古本屋で佐藤春夫を二冊、かつて「おばさん~」が上演された場所、それらにまつわるよろづの話、カナカナという落ち着いた喫茶店の畳。
 赤く塗られた木造の大きな鳥居、断面だけが黄色のもの、コンクリートの柱に半分差し込まれた珍しいかたち、このあたりではあまり見ない石鳥居の上には小石が幾つか乗っていた。商店街の傍らにあるのは、はだかのまま彩色もされず木目まで見せている。
 印象として、ここらの鳥居はたいがいが赤い。ひるがえって愛知県はその多くが石。
 コーヒーを頼むとめざしがついてくるという喫茶店が水曜休業だったらしく行けなかった。再び行かねばならんようだ。
 年賀状は、一日に何枚か書いて、残りはこれから書く。と思ったらスタンプ台が干からびて、買ってこなくてはならない。では。

http://www.youtube.com/v/OqpopYivwmg
(ユニコーン『雪が降る町』)


 今から田舎に帰ります。
 日記のようなものは、暇があればBBSか、poemのところで書きます。
 来年まで帰ってこないと思うので『雪が降る町』を置いていきます。
 年内にカラオケ行って歌わないと年が越せない。

2008/12/25 物語は嘘をつかない

 物語を鑑賞する際に、「これは不自然だ」とか「こんなことはありえない」などと思ってしまうようなことはたまにあるが、それってなんだかおかしいような気がしてきた。物語の中に書き込まれていることは常に既に「事実」として存在しているものなので、そこにイチャモンをつけたって仕方ないようなものなのだ。「リアリティがない」というような言い方も、へんだ。「リアリティがない」というのは「嘘くさい」ということを意味するのだと思うのだが、いくらそう感じたとしても物語の中では「リアル」であり「本当」でしかないのだから、「嘘くさい」なんて言ったって「でも本当なんだもん」でしかないわけだ。
 どんなにリアリティがなく、嘘くさいようなことが物語の中に描かれていても、受け手はそれを常に「事実」として受け止め、それを前提とした考え方をしなくてはならない。
 たとえば、かりに主人公の取った行動を不自然だと思ったとしたら「このような不自然な行動を取るには何か理由があるはずだ」と考えるのが、自然というものだと思う。「本当だったらこういう行動を取るはずだ」と思ったのなら、「では、どうして主人公はいま、その《本当》から外れるような行動を取ったのか?」と考える。物語を受け入れるというのはそういうことでなければいけない。物語内において、書かれていることはすべて真実である。語り手が嘘をつくようなことはあっても、「物語」は嘘をつかないのだ。


 で、さて。それが具体的にはどういうことなのかというのを、これまた『タイガー&ドラゴン』を使って説明してみる。ネタバレにはなるけど、それで面白さを損なうような駄作でもないので、よろしければ恐れずに読んでみてください。

 まず、簡単なあらすじから。
『タイガー&ドラゴン』は、ヤクザと落語家と二足のわらじを履いている虎児(長瀬智也)という男が主人公。「林屋亭小虎」という名前で、「タイガー、タイガー、じれっタイガー!」という一発ギャグを持ちネタにしていた。もちろん全然受けないのだが、そのうちそれなりに定着する。「古典落語を、現実にあった事件や体験をもとにアレンジする」という手法もわりと評判になり、二つ目に昇格するなど前途有望な若手だった。
 そんな折、虎児はヤクザとしてとった行動が原因で刑務所に入ることになってしまう。三年後、出所した虎児は、いろいろあって(ここは言えません)再び高座に上る。「子は鎹」を演じた虎児は、拍手の鳴りやまない客席に向かって、「タイガー、タイガー」と言う。すると客席の全員が「じれっタイガー!」と声を合わせるのであった。

 ここで僕は、「なんで客席にいる全員がこのギャグを知ってるんだ?」とうっかり思ってしまった。小虎が高座に上がっていたのはせいぜい半年、もちろんテレビにも出ていない。それから三年も経つのに、どうしてこのギャグがこんなに浸透しているのか? 忘れてしまった人や、新しく来るようになったお客さんだっているだろうに……と。
 僕のこのバカな疑問は、しかしすぐに解けた。先のシーンには続きがあって、虎児は「タイガー、タイガー、じれっタイガー!」を客席とコール&レスポンスしつつ、師匠の林屋亭どん兵衛(西田敏行)を舞台前に連れてきて肩を抱く。虎児の「タイガー、タイガー」に対して、どん兵衛は「ありがタイガー……」と泣きながら答えるのである。
 これで「ああ、そういうことか」になった。実はどん兵衛は虎児の出所時、「二代目林屋亭小虎」を名乗って高座に出ていたのである。どのくらいの期間「小虎」として活動していたのか詳しくは語られていないが、彼が高座で「タイガー、タイガー、ありがタイガー!」をやった時に客席が違和感なく湧いていたところから考えると、それなりの期間はやっていたのだろうなと推測できる。「口では二度とおめえ(虎児)が帰ってこないように襲名したと言っている」というソバ屋のセリフもあるので、ひょっとしたら逮捕後まもなく襲名したという可能性もなくはない。
 どん兵衛はおそらく、ずっと高座で「タイガー、タイガー」をやっていたのである。だからお客さんは「全員」それを知っていた。しかしそうなるともう一つ疑問が湧く。作中でどん兵衛がやっていたのは「ありがタイガー」だけであって、「じれっタイガー」ではなかった。「じれっタイガー」がどうしてそんなに浸透していたのか? というのは、このように考えるしかない。どん兵衛は初期のころ「じれっタイガー」をやっていて、最近「ありがタイガー」に変えたか、「~~タイガー」のバリエーションとしてたまたま「ありがタイガー」をやっているところが作中に出てきただけであって、基本形はあくまでも「じれっタイガー」であったか。さらに「このネタは逮捕された先代のネタなんですけどネ。先代って言っても、あたしの弟子なんですけどネ」とでも言って笑いにしていたのではないかと考えると、虎児のネタとしての「じれっタイガー」が三年後にも生き残っていたのは納得できる。また、前科者の虎児を寄席の客が好意的に受け入れたというのは、素地として「どん兵衛が虎児をネタにして笑いを取っていた」があったのだと考えればけっこう納得できる。
 どん兵衛が二代目小虎を襲名した動機はひとまず二つあって、一つは虎児が「あんたのつけてくれた小虎っていう名前が好きなんだ」と言ったこと、もう一つは「いつ虎児が帰ってきても受け入れてもらえる素地を作るため」だ。後者は「名前を残す」ということが直接の目的ではあるが、「ネタを残す」と「ギャグにすることで、虎児への好意的な感情を残す」もあったのではないかな、と僕は考える。二つ目は完全に想像だけど、「そういうふうに考えないとツジツマが合わない」のだから、そう考える。「なんで犯罪者である弟子の名前を襲名するんだ」というのは当然あるはずのもので、「ええ、こうすれば二度と帰って来られないかと思いましてネ」という言い分を《ギャグとして通す》ということでもしなければ、その声は消えてくれない。だから、どん兵衛はきっとそうしただろうと思う。これが《ギャグとして通す》でなければいけないのは、「落語家たるものそうでなくてはいけない」というのと、「本当は虎児のことが嫌いではないのだ」ということをお客さんにわかってもらうためだ。《ギャグとして通す》だったからこそ、復活した虎児はお客さんに受け入れられた。ギャグでなくて真剣に「あの野郎が帰って来ないように襲名した」を説得力のある言い方で語っていたとしたら(高座で言えばそれもギャグになりそうだけど)、客は素直に虎児を受け入れられないだろうと思う。「なんで師匠にまで嫌われていた犯罪者がいけしゃあしゃあと出てくるんだ?」になるから。たぶん高座以外では真剣な「ふり」をして言っていたと思うけど、身内にはどん兵衛が虎児を愛していることはどのみちバレているから、《ギャグとして通す》の必要はない。

 我ながら妄想が過ぎるとは思うが、客席が「じれっタイガー」を合唱したときに僕が感じた違和感を払拭するには、そう考えるしかない。「リアリティのなさ」や「嘘くささ」の周りには、必ず「そうなった理由」がどこかにある。それが物語というものであるはずだ。

 面白い物語というのは、「自分で勝手にツジツマを合わせる」がたくさんできる物語だと僕は思う。ミステリー小説を僕があんまり読まないのは、あれは基本的には「作家がきれいにツジツマを合わせてくれる」ものだからだ。
 以前に僕が「スジを知っていたら面白くなくなるようなミステリー小説は読みたくない」という意味のことを言ったら、「ミステリー小説でスジ以外に何を読むんですか」と突っ込んできた人がいた。その人は男性だったけど、僕は夏目漱石の『草枕』を思いだした。(青空文庫で開いて、「御勉強」という語をページ内検索してください。)あれは、小説論としては僕の最も好きなものです。
 僕は、作家がツジツマを合わせすぎると自分なりに考える楽しみがなくなるし、ツジツマを合わせなさすぎると考えるよすががなくなると思うので、書くほうはそのバランスが大変なんだろうなあと思う。『タイガー&ドラゴン』は、そのバランスが僕にとってたいへん絶妙で、「ああ、これはこういう意味なんだな。すると……」というツジツマ合わせが大量に出来た。笑えるとか泣けるとかだけでなく、そういう意味で僕はこのドラマが大好きである。

2008/12/24 青空クリスマス

 毎年クリスマスイブの夜にはネットラジオを放送しているのだが、今年はいろいろあって告知するの忘れてて、「緊急生放送」という形で現在流している。23日の深夜は、零時をまたげばイブの夜、というのがコンセプトで、僕は単にそれがやりたいだけであるので、リスナーが5人くらいしかいなくても一向に気にしない。
 放送でさっき、『謎の彼女X』という漫画の読切版(第0話)の朗読というのをやったのだが、読みながら泣けてきてしまった。朗読中はトランス状態で、ほとんど椿くんとか卜部とかになりきっている。なりきらないと、適切な間を取ったり、声の調子を変えたりということができないから、どうしてもそうなる。
 適切な間を取ったり、声の調子を変えたりしながら読んでいると、「あ、今こういう間を取ったということは、椿くんはこういう気持ちなんだな」というのが後からわかってきたりする。「こういう気持ちだから、こういう間を取る」というのが基本ではあるのだが、奇妙なことに、「すでに取ってしまった間」に対して、「あ、この間は、こういう気持ちから出たんだな」と納得するようなことも、あるのである。何でかっていうと、「女の子にこんなことを言われた時の男の子の反応は、きっとこういうものだろう」ということを直感的に演じているから。「表現として、男の子はこういうとき、こういう反応をすることになっている」ということを知っているから、演じることができて、実際に演じてみると、役の心が実感的に伝わってくる。他人の気持ちを推し量るという能力は、おそらくこういうところから育まれる。僕が演劇という文化を大切に思うのは、そういうわけだろう。

 僕は長らく「演劇を小中高で必修にしろ!」と主張している。したら最近、ある人から「野田秀樹はたぶんそれに反対すると思うよ」と言われた。「高校演劇をやっていると妙な癖がついて、それを抜くために何年もかかるんだって」とのこと。その場では反論しなかったので、ここに少し書く。その場で言わなかったことに他意はなく、言うほど価値のある反論でもないというだけ。話し出すと長くなるし。
 野田秀樹が言ったらしいことはとても正しい。だけどそれは「高校生が演劇をやること」が悪いと言っているのではなくて、「伝統的な高校演劇の在り方」が悪いということだと思う。野田秀樹が実際にどのように言ったのかわからないので僕の考えとして述べるが、「若いうちから演劇をやるのはよくない」ということはないと思う。問題は「若いうちはろくな演劇を経験できない」というところにある。
 僕が高校演劇をやりはじめたころ、「中学演劇をやっていた人間は使えない」と言われているのをよく聞いた。「中学演劇の妙な癖がついてしまっている」というのがその理由だという。「高校演劇と中学演劇は違うんだよねー」などと、分かった風な口をきく人もいた。ところが、大学に入って演劇サークルの見学に行ったら、「高校演劇をやっていた人間は使えない」という意味のことを言っている先輩がいた。「高校演劇の妙な癖がついてしまっている」というのがその理由だという。「本当の演劇と高校演劇ってのは違うんだよねー」的な雰囲気を醸し出しながら、やれやれといった調子でそのようなことを言っていたので、僕はばからしくなって演劇サークルに入るのはやめた。
 高校演劇の人が中学演劇をバカにして、大学演劇の人が高校演劇をバカにするという構図があるのは、そりゃそうだと思う。だって、成長すれば技術的にも内容的にもレベルが高くなるのは当たり前なんだもん。中学演劇では棒立ちに棒読みに近いような演技でも許容されてしまうような雰囲気があると思うし、高校演劇もそれに近いものがある。しかしどちらかといえばたちの悪いのは高校演劇のほうだ。中学は教員やコーチが主導権を握ることが多いだろうと思うが、高校に上がると生徒たち自身がイチからヒャクまでやるようになる。そのせいで、高校演劇は芝居の内容が独善的になりがちである。自分たちのやりたいことだけやって、客のことなんて考えない。独り善がりな芝居を平気で上演する。しかも、技術的にもレベルが低い。まぁ、高校によってはそこらのプロなんかよりずっと面白い芝居をやるところもあって、そこが高校演劇の魅力だと思うが、九割以上の有象無象は、ひどいもんであるよ。僕のいた愛知県は全国的にもかなりレベルが高い地域だったようだが、それでも相当ひどかった。
 そういう、自己満足的で程度の低い芝居の癖がついてしまっていたら、そりゃ「使えない」と思われるのは当然だ。だいいち、悪い意味で「高校演劇らしい」芝居をしているような高校は、そもそもが才能のない人間の集まりなのだから(その中で才能が埋もれるということもあるけど)、劇団に入ったところで先は見えている。「使えない」のは当然。
 演技の質ひとつとっても、ダメな高校演劇って、「そうだ。いいことを思いついた。(ポンと手を叩く)こうしようじゃないか」「うん、そうしよう。さあ、しゅっぱつだ」みたいな(伝わるか?)演技をするわけで、そんなことばっかりやって、それでいいと思い込んでいるようだったら、そんな癖は簡単に抜けやしませんわな。
「相当レベルの高い」高校演劇をしていたら、妙な癖はつかないのかといえば、そりゃあどんなことやってたってある程度の癖はつきますわ、とは思う。サークルにしろ劇団にしろ、団体によって求める演技の質や種類ってのは違うんだから、それを「悪い癖」なんつって言いがかりつけられるのはある程度仕方がない。ただまぁ、技術があるならどんな演技を求められても適応していけるだろうとは思うんで、レベルの高低でだいぶ違うだろう。
 野田秀樹はもっと違う意味で言っていたのかもしれないけど、現段階で僕ごときが思うのはこのようなことです。

 んで僕が「演劇をやれ」と思うのは、演劇によって他人の気持ちとか、人間関係の在り方とかがわかったりするからなんですよね。別に演劇のうまいやつを若いうちから養成すべきだと言っているわけではなくて。それに演劇というのは総合芸術と言われるくらいで、様々な要素が集まってできており、文化的な才能であればどんなものでも何らかの形で活かすことができる。書道部の人に題字を書いてもらうとか、美術部の人に大道具を作ってもらうとか、脚本は文芸部、音響は放送部、広報は、今だったらコンピュータ部とか。ただ、科学部には何をやってもらおうかというのはすぐに思い浮かばないので、今ちょっと考えている。
 演劇は「ちゃんとやれば」そういうようなものになって、教育にも良いと思う。たとえばの話、日本人は「プレゼン」なるものが下手だって言うけど、演劇やればうまくなるよ。学校の先生だって、演劇をやってた先生は授業うまいよ。空気を読む能力だって育つよ。そういうもんだって僕はいちおう演劇やってたから知ってる。どうしてこんな良いものをもっとやんないのかね? って、真剣に思う。

 そういうわけだから野田秀樹が(いや、だれでもいいんだけど)どういう理由で「高校演劇はよくない」と言おうとも、「お前の都合なんか知らん。日本の未来のほうが大切だ」と僕は頑固に言い放つと思うです。
2008/12/26 SaToshi's HomePageに捧ぐ 何で僕はHPなんか作ろうと思ったのか

 すこし長くなるかもしれないけど、思い出話をします。昔からこのサイトを見てくれている人はそれなりに楽しめると思うので読んでみてください。最近知った人で、「少なくとももう一度くらいは見に来るであろう」と思ってくれている人は、「へえ、このサイトって、そういういきさつでできたんだあ」くらいに思って、「ふうん」とか言っていただけると幸いです。

 一九九九年、中学三年生の時でした。志望校も何もなかった僕は、「どの高校に行こうかなあ」などと思っていました。中三になって、「授業を受ける」ということをやってみた僕は、ときおりは学年で一桁に入るくらいに成績がよかったので、それなりの高校に行こうと思っていました。もっとも、テストの点数はほとんど暗記で勝ち取ったようなもので、実際にはまだ「be動詞」という言葉の意味さえ理解していませんでした。
 どうして「それなりの高校に行こう」などと思ったのかといえば、僕は周囲からバカだと思われていたからです。先生からも、同級生からも、先輩からも後輩からもバカだと思われていて、テストの成績を言うと、「エーッ」って驚かれました。そしてほとんどの人はその後、僕に対する態度を微妙に変えます。「ああ、そういうもんなんだな」と思いました。要は、「人は成績の悪い人を基本的にバカにする」「人は成績の良い人を基本的にバカにできない」です。僕はひょうきん者だったので、「バカ」だと思われがちだったし、実際そうだったのですが、「しかし実は成績が良いらしい」ということを知ると、人はどうも「バカ」だとはあんまり思わないらしかったのです。よく不思議なものを見るような目で見られたことを思いだします。実際は、飛び上がるほど成績が良かったわけでもないのですが(なんせ受験の直前までbeとisがどういう関係にあるのか知らなかった)、「ひょうきん者にしては」良かったわけです。ギャップがあったから、みんな驚いた。それだけのことです。
 で、僕は、バカにされるのが好きじゃありませんでした。笑わせるのは大好きでしたが、笑われるのは嫌いでした。「エーッ」って言われると、「どうでい」なんて思っていました。僕は、もっともっと「どうでい」と思っていたかったので、「それなりの高校に行こう」と思いました。バカだと思われるのが、イヤだったのです。それに、「バカだけど頭いい」っていうのが、カッコイイと思っていたのです。ギャップ萌えを狙っていたのです。
 パラパラと、「高校一覧」みたいな冊子をめくっていると、「向陽」という名前の学校がありました。もともと「陽」の字が好きだったので、「これだな」と思って偏差値的なものを調べたら、なんとかなりそうなレベルだったので、あっさりと決めました。一切、悩みませんでした。
 向陽は公立だったのですが、一応私立というのも受けました。二月に愛知高校のII類というのを受けたのですが、その試験が全然できませんでした。「やばいな」と思って、猛勉強しました。その時に使ったのが、中学校から配布された「学習と完成」という、「一教科につき一冊で、高校受験に出る全ての内容を網羅している参考書」でした。五教科ぶんをまんべんなく読んで、そこで初めてbe動詞のなんたるかを知りました。「なるほどbe able to~というのは、is able toとかare able toとかam able toに変化するようなものだったんだな」ということをやっと理解しました。そんなんでも満点に近い点数が取れるくらい、僕の中学校のテストというのは暗記だけやっときゃできちゃうようなもんだったってことです。この時に、「なんだって、基礎から体系的に理解しなければ、身につかないもんなんだな」ということがわかって、大学受験の勉強をするときに非常に役立ちました。ちなみに愛知高校のII類というところには実は受かっていて、できなかったのは単に問題が難しすぎたのだということを後で知ります。
 さてそれで、三月に試験を受けて、ちゃんと受かりました。ワーイとか思って、なんか新聞を読んでいたら、偶然、高校演劇の「合同発表会」なるもののお知らせを目にしました(お母さんが教えてくれたような気もします)。向陽には文芸部も漫画研究会もなかったので、入るなら演劇部かなあと漠然と思ってはいたので、興味を持ちました(こうして演劇部にはオタクが集まるのですね)。新聞に「向陽」という文字も出ていて、「ふうん、向陽の演劇部が公演をやるのか。どんなもんかな」と思って、インターネットで検索してみました。そうすると「SaToshi's HomePage」というのに辿りついて、僕はSaToshiさん……後に「SaToshi先輩」と呼ぶことになる……の文章に、のめり込んでしまって、日記の過去ログ含めて全コンテンツを読破してしまいました。書き込みをしたのがいつだったかは忘れてしまいましたが、しばらくはROMっていたような気がします。
 SaToshi先輩は当時高校二年生で演劇部に所属しており、サイトには演劇に関することも含めて、自身の深刻な悩みを赤裸々に綴っていました。また、いかに自分が高校で無茶苦茶なことをやっているか、ということも書かれていました。またそれが、面白かったんですよ。他人の「内面」にこうまで深く踏み込んだ経験というのが僕にはほとんどなかったし、中学校で僕がいくら無茶苦茶やってたと言っても、「高校でやれること」の自由度にはまったくかなわないわけです。僕はすっかり憧れてしまって、「高校に入ったらこの人のようになろう!」などと、酷いことを考えたものです。しかも実際、その通りになりました。図書委員長のバッジもこの方から譲り受けましたし。
 ……ここまで書いておいて何なんですが、実は「新聞のお知らせを見たのが先か、SaToshi's HomePageを見たのが先か」というのは、うろ覚えです。受かる前から見ていたような気もします。いや、たぶんそうだと思います。下手をしたら一月くらいから見ていたかもしれません。だってなんか、サイトを読むのに夢中でぜんぜん勉強してなかったような記憶がありますもので。それから、本当に新聞に「向陽」の文字が出ていたかどうかも、ハッキリしません。でもまあ、そういう細かいことはどうでもいいんです。何せ、すべてフィクションなんですから。
 ともあれ、僕は「合同発表会」を観に行きました。ナントカ文化小劇場というところまで、自転車で十キロくらい走って行って(当時からそんな子でした)、向陽高校演劇部の『タテバシャクヤク』というお芝居を観ました。それがもう、当時の僕の目には、べらぼうに面白かったんですね。あとは、椙山女学院高校の『トゥーランドット』と、東海高校の、タイトル忘れたけど、You16さんがヤネンっていう関西弁しゃべる宇宙人(だったと思う)を演じてたやつが、印象に残りました。その時は、まさかこの二校の演劇部と深い深い深~い関係を持つことになろうとは、思ってもいなかったわけでありますが、それはまた、別のお話。
 ともあれ、『タテバシャクヤク』は面白かったわけです。まずタイトルにセンスが光っているではありませんか!(そうでもない?)SaToshi先輩も出演していて、「おお、これがあのSaToshiさんか!」とか思ったのを覚えています。果たして、「こんなに面白いものが作れるような部であれば、ぜひ入部したい!」とか思って、実際、入部しました。SaToshi先輩に「実はホームページをずっと見ていて…」とカミングアウトしたのがいつかは、よく覚えていませんが、入部初日だった気もします。そういえばそれを言った時に、「ROMってんじゃねえよ! 書き込んでくれよ!」的なことを言われて、それで初めて書き込んだような気がしてきました。たぶんそうだと思います。わかんないけど。
 もしかしたら初めて明かすかもしれませんが、「ジャッキー」というあだ名は、入部したその日にある先輩から付けられたものです。「お前はジャッキーだ!」とかなんとか、帰り道に急に言われて、戸惑いながらも、生まれて初めてついた「あだ名」に、ときめきを感じていました。僕はずっと、「自分は家族以外からは名字でしか呼ばれない……」ということにコンプレックスを感じていたのです。「名字でしか呼ばれない」というのは、「誰とも親しくない」ということしか意味しないと、僕が思っていたからです。名字でしか呼ばれていなかった頃の僕は、それゆえに孤独でした。だから僕はあだ名がついた瞬間に、「あ、ここはこれまでとは違う世界で、僕はこれまでとは違う人間になった」と直感的に思ったのです。僕の高校生活がハチャメチャだったというのは、明らかにここに端を発しているでしょう。すべては「ジャッキー」というあだ名から始まったのでした。そして、やがてハンドルネームとして採用してしまったということが、その名前を一人歩きさせていきます。「ジャッキー」の歴史というのは、「文字」通りここからです。
「ジャッキー」という名前をハンドルネームとして採用したのは、もちろん初めてSaToshi's HomePageの掲示板に書き込んだ時です。あの時に「ジャッキー」は自律を始めます。その後、「ドラチャ」(長くなりすぎるので説明しません)をはじめとするネット世界に入っていったり、ついには自らのホームページを立ち上げたりしてしまいます。二〇〇〇年七月十一日のことでした。
 ホームページの構想はもっと古くからあって、いつだったか詳しくは忘れましたが、中学生の時に添え木さんと同人誌を作ろうとしていて挫折したという経緯があって、「同人誌は手間がかかる。俺たちには無理だろう。これからはホームページだ」ということで、二人でサイトを作ろうという話をしていたのです。初期のこのサイトが「文芸サイト」だったのはその名残でした。この計画が頓挫してしまっていたから、「それなら」ということで、僕一人で作ってしまおうと思ったのです。「いよいよサイト作るよ。お前も手伝ってくれよ」と彼に言ったら、「手伝うけど、おれはお前の添え木的な存在でいいよ」と返されて、「そえぎ」という響きが面白かった僕は、無責任にも「それいいじゃん」なんてことを口走った結果、彼は今でも「添え木」を名乗っており、もちろん今でもこのサイトの副管理人です(彼がなんと言おうとも辞めさせてやらない)。ちなみに英語表記の「splint」というのも、この時期にできました。「添え木って英語でなんていうんだ?」とか言って、一緒に辞書を引いたのもよく覚えています。
 このサイトが「白い背景に黒い文字」なのは、SaToshi's HomePageをモデルにしているからです。かのサイトは「黒い背景に白い文字」だったので、僕はそれを反転させてみました。日記ページのレイアウトとかは完全にパクってしまったので、せめて色くらいは変えないとな、と思った結果です。後に「このサイトが白いのは、自由に描けるキャンバスのようなものを作りたかったのだ。白は無限の源だ」なんてことを(うっかり)言ったりしましたが、もちろん後付けのジョークです。
 初期のころの僕の日記は、明らかにSaToshi先輩に影響を受けたもので、固有名詞がやたら多かったり、フォントをいじりまくっていたり、笑いを取ろうともくろんでいたり、いくらか内面を吐露しようとしているケがあるのは、そういうわけです。自分の「色」が出てくるのは、二〇〇一年の三月くらいからかな、と自分では思っております。(早いとこ再公開したいもんだ。)
 七月十一日に開設したのは、当時チャット友達だった「かよ」(手紙も何通かやり取りして、オフ会で一度だけ会った)という子の、十四歳(だったかな?)の誕生日に合わせました。別に好きだったとか深い意味はなくて、なんとなくノリで。チャットしてて、「もうすぐ誕生日なんだー」「いつ?」「十一日」「じゃあその日にHP公開する!」って感じの流れです。
 当時HTMLをまったく書けなかった僕は、SaToshi先輩の使っていたEasyHomeというソフトを使って、それでも自分じゃ設定できなくて、さらに上の先輩であるまこと先輩の助けを借りて(なんと、自宅まで来ていただいてしまった! あの時の御恩は一生忘れないと思います)公開にこぎ着けました。今じゃ「HTMLも書けず、インターネットの仕組みも知らないような奴がネット上で情報を発信するなんて狂気の沙汰である! 問題が起こったり、モラルが崩壊するのは当たり前だ」とか主張している僕ですが、初めは自分だってそんなもんだったんですね。だからこそ、「そういうやつが発言したってろくなことがない」ということが実感的にわかるんです。初期のころの僕のサイトは、ひどいもんでした。今だってそうかもしれないのですが、どれだけの人をどれほど傷つけてきたことか、わかりゃしません。反省しております。ちなみに今はメモ帳でサイト作ってますよ。ネットに関する知識も、まぁ人並みにはあると思います。
 そんなこんなで公開して、そこそこ人が集まり、蜜月と言えるような時期が来ます。それからだいたい二年くらい黄金期が続くわけですが、ここから先のことについては、今語るべきではないのでやめておきます。

 SaToshi先輩というのは、ほとんど僕の最初の師匠みたいなもんで、SaToshi's HomePageというのは、このサイトのお兄さんみたいなもんかもしれません。何で「お兄さん」なのかというと、まこと先輩という共通の「お父さん」がいたからです。SaToshi's HomePageも、彼の助力があってできあがったようで、だから兄弟のようなものだと思います。
 僕の最初のお師匠さんはあまり器用な人ではなくて、今で言うと「空気を読む」ということがあまり上手ではありませんでした。それがゆえに嫌われてしまうことも多かったし、ホームページのことを悪く言う人もいました。僕も若かったので、そんな彼に対して反発心を抱いたこともありましたし、後には彼の日記も読まなくなっていきます。でも、彼は本当に純粋な人です。ガンダム好きの彼に、「シャアは純粋よ」という、『逆襲のシャア』における(アムロの夢の中での)ララァ・スンのセリフを捧げます。そして根が真面目で、心優しい人です。ただ不器用さゆえに誤解されることが多かったというだけです。……なんて先輩に対して分析めいたことをするのは失礼だとは思うのですが、僕は今でもあの方のことを尊敬していて、ときおりはサイトを見に行って「まだ日記書いてるんだあ…!」って思って嬉しくなるような、そういう存在なのです。SaToshi's HomePageは、僕にとって最も閉鎖してほしくないサイトです。たぶん、SaToshi先輩と僕の関係というのは、僕と「ひろりんこ」という男との関係に似ていると思います。僕が勝手にこんなことを言うのもなんですが、「尊敬と軽蔑がないまぜになった微妙な感じ」っていうか、そういうのがあって、それはまったくイヤなことなんかじゃない。人間、誰しも欠陥はあるものだし、また尊敬できるような点も必ずある。僕はSaToshi先輩の中にその双方を見過ぎてしまったのだと思います。たぶん、知りすぎてしまったのです。といってもそれはほとんどインターネットを通してのことだから、彼自身をというよりは「SaToshi」という人格を、あの頃の僕はわかりすぎてしまっていたのかもしれません。それほど感情移入をしていたということでもありますが……などとまた偉そうなことを言っておりますけれども、一度くらいはどこかで言っておきたかったことです。
「人を知れば誰もが哀しい」なんて歌詞が、hideの『EYES LOVE YOU』という曲(作詞は森雪之丞)にあります。難解な詞の曲で、このフレーズもまったく意味がわかんないのですが、「こういうことなのかなあ」と思ったりします。誰かのことを知れば知るほど、必ずその人の良い面と悪い面が見えてくる、という。恋をするっていうのはそういうことでもあるだろうと思うのです。永遠に続いていくそうした過程の中に、好きでいるか、嫌いになるかという分岐がある。
 僕の場合、恋バナをしますけれども、「別れたらぱったり連絡を取らなくなる」ということが、まずないです。たいていの場合「友達」として続いていくし、「嫌いになった」っていうパターンは一つもありません。相手が男の場合でも同じで、SaToshi先輩とは連絡は取らなくなりましたが(昔からほとんど取ってはいないんだけど)、今でもサイトは見に行くし、嫌いになったわけでももちろんないわけです。かつてradiwoというハンドルを持っていた男とも、かなり疎遠になったけど、会えば仲良くできるし、嫌いどころかむしろ好きだったりする。そういうふうに、人間関係についてはまことにカラッとしておるのですよ。
 相手の短所が見えすぎたとしても、短所なんかあって当たり前のもんだし、同時に長所も見えたりするんだから、一度「好き」だと思ってしまったら、嫌いになることなんか、まずないですよ。一つの「好き」は、他のあらゆる「嫌い」に優るんです。たとえば、僕は新興宗教の勧誘活動を熱心にしている人間や、鬱病で何かというと「薬自慢」を始めるような人間と積極的に仲良くなりたいとは思わないのですが、一つでも「好き」だと思えるようなことがあったら、宗教だの鬱病だのがなんだっていうのはほとんど関係なくなります。Groznyというハンドルネームを使っていた男や、西原というハンドルネームの男は、だから、嫌いでもなければ、付き合いたくないわけでもなく、むしろたぶん好きだと思うのです。
《一つの「好き」は、他のあらゆる「嫌い」に優る》なんていう、凄まじい名句が生まれてしまったので、そろそろこの文章の役目は終わりなのかもしれません。このサイトっていうのは、「添え木」との同人誌計画をきっかけに構想されて、「SaToshi先輩」に影響を受けて作成され、「まこと先輩」の助力を得て完成し、「かよ」の誕生日に公開された、という、そして僕は彼ら全員のことが「好きで好きでたまらない」という、それからまた、僕の好きだと思う人たちがたくさん見に来てくれて、足跡を残してくれたっていう、そういう本当に幸福なサイトなのだということです。だから僕は、このHPを、どんなことがあっても何らかの形では残していくだろうと思います。このように幸福な世界を、ぶっ潰してしまうなんていうことは、罪です。笑えるくらいの言い方をするけど、このHPは僕一人のもんじゃないんですよね。その割に、自分勝手な使い方をしてるんだけど。そんなわけだから、これからもよろしくお願いします。

2008/12/25 クリスマス演じ

 クリスマス公演がさ、今日最終日なんだよ。来てよ。前売りで入れるようにしとくからさ。八百円。いやあ、例年五百円でやって来たんだけどさ、不況で、ハコ代値上がりしてね、どうにもこうにもってことで、ちょっと値上げしたの。当日は千円だからさ、安いじゃん。どうよ?
 んとね、十四時からと、十八時からの二回。内容はねえ、アングラな感じっていうか、ちょっと不条理劇入ってんのかな。まぁ、若者が? 自殺しようとすんだけど、手首切んのね。そいで血がダラダラーって流れてるところを、赤い絨毯バーって敷いて、表現すんの。ゴロゴロ転がるやつ、あんじゃん。あれ使うの。ほら王様が馬車から降りるときに使うやつね。知らない? あ、そう。んで、その絨毯の上で主人公の人生が再現されんのよ。演じながら、少しずつ主人公が下手から上手に移動していく。そいで、彼の姿が完全に舞台から消えた時、何かが起こる…ってえなね。いやあ、すごいよ。ビックリすると思うね。あんまり前衛とか、興味ないっしょ。絶対、これ見たら、好きになるって。そういうの。バッチリだよ。うん。
 場所? ほらあの小劇場。正門の近くにあるやつ。知らない? あれー。そうなんだ。寺山修司もあそこでやってたっていうさ。え? 知らないの? マジかよ。ふーん。ああ、そう。
 俺たちの劇団ってさ、いやだから、サークルのこと。俺たちの劇団はさ、ちょっと普通の人には理解できないっていうか、選ばれた者だけが観に来る感じ? だからさ、あんまり客入らないんだよね。キャパはまあ、五十人くらいで。それでも四日間で十公演あるから、五百人は来るんだよ、全公演満員なら。五百人来て、かりに千円だと、五十万。ハコ、仕込み入れて五日間借りて、ちょうど五十万だから、どう考えてもアシが出んのね。前売りとか、招待とかもあるしさ。あとチケット作ったり、チラシ撒いたり。でも俺ら、バイトとか超してっからね、大丈夫なんだよ。やっぱ芸術って生活の犠牲の上になり立つようなもんだから? 損してるとか思ってないし、もっと多くの人に観てもらいたいからいっそタダでもいいんじゃないかって、俺は思ってんだよね。劇団員二十人いて、一人が三、四万も出しゃいい話だからさ。出せるよお、芝居のためだもん。照れくさいけど、芸術のためっていうかさ。俺ら、そういう確固たる意志で、繋がってんの。だから金なんか、どうでもいいのよ。
 そう、芝居のテーマってのがね、実は「意志」なんだよ。もちろん芝居の中ではそんな言葉は全く出てこないんだけど、なんていうかなあ、にじみ出てくる感じっていうか。わかると思うよ。お前センスいいし。マジだよお。昨日のダンス、凄かったじゃん。まぁ俺に言わせりゃ、いや、凄かったとしか言えないな、やっぱ。でさ、「意志」ってことなんだけど、自殺するのも一つの意志っていうかさ、それを肯定するわけじゃないんだけど、あらゆる物事を相対的に見るような視点って必要なわけじゃん? そういうさ、常識という差別を疑っていくっていうかさ、そういうことがしたいわけ。したいっていうか、できてんだよ。今度のは。まぁ、観てもらって、お客さん目線でそれは決めてもらいたいけどね。あ、もちろん自信はあるんだけど。あーでも、わかんないかなあ。わかると思うけどさあ。お前センスいいし。

2008/12/24 イブ踊り

 クリスマス・イブだってのにサークルあんのね。あるっていうか、今日、ホール借り切って踊るの。うち、二百人以上いるから、全員が踊るってなると、そんくらいね。一年で一番でかいイベントで、もう半年、このために練習してきた。俺の出番は、二時間あるうちの、だいたい二十分くらい。五分出て、引っ込んで、五分出て、また引っ込んで、っていう感じ。今日の夜、六時半からだからさ。良かったら来てよ。チケット、三千円。
 いやいや、入る、入る。毎年超満員だよ。だってさ、二百人いるんだから、一人が五人ずつ呼んで、OB・OGが二百人来たら、それだけで千二百人でしょ。固定ファンもいるしさ。キャパが千五百人なんだけど、それが埋まるの。立ち見とか、通路に座り込んで見てるやつまでいんの。だから、三千円だと、四百五十万以上いく。それでもねえ、赤字なんだよ。見てくれたらわかるよ。すっげーんだからあ。エンタメ、ショー、レビュー、みたいな。衣裳も、演出も、金かけてんだあ。でっけーハコだから借りるだけでも相当だしね。だから、三千円でもギリギリなのさ。それで、どう? ちょっと遠くて、千葉の野田市ってとこの、市民ホールなんだけど。六時半。
 あのさ、人間って、輝くんだよ。二百人が、輝くの。たぶんね、俺ら三年生にとっては、人生で一番輝ける瞬間だと思うのね。もう引退だから、これ最後なの。すっげーよ。人間って、輝くんだよ。あの、輝くの。うん。そうそう。見りゃわかるよ。俺このサークル入ったのさ、そうだもん。それで入ったんだもんね。すっげーなって。わかるだろ? お前、演劇やってんだろ? 輝きたくて、入ったんだろ? サークル。
 だってさあ、金も手間もかかってんのよお。お前らだって、演劇やるとき、ない金かけて、良いの作るんじゃん? お前バイトばっかしてさ。そういうもんでさ、凄いんだよ。時間もかけてんの。練習もすっげーし。すっげーよ。俺授業行ってないもんね。日本でこんなエンターテインメント、こんな安く見られるっての、ないよ。そりゃ学生だからさあ、レベルが高いとは言わない。だけどね、そんなもんカバーしちまうくらいの情熱とパワー、エネルギーがあんのね。若さゆえのってかさ。圧倒されるぜえ。あ、ダンスのテーマってのがさ、「希望」なのね。今の世の中には希望がない、忘れてしまった、思いだそう、それをダンスで表現すんの。ストーリー仕立てでね、受験で第一志望に落ちちゃって、未来への希望を失ってしまった大学生がダンスと出会って、仲間たちと一緒に成長していくっていう、すっげえ泣ける話なんだけどさ。最後にアッと驚く仕掛けがしてあったりして。泣くよ。絶対泣くね。俺もう泣きそうだし。映像もふんだんに使って、爆音で音かけんの。照明もすげーよ。二時間、釘付けにさしてやんよ。絶対飽きさせない。観客みんな、ワーキャーって盛り上がってさ。フェスみたいだよ。あ、ほら、奈落なんかも使ったりするしさ。演劇でも使うんじゃん、あれ。
 え? 奈落使ったことないの? マジ? 使えばいいじゃん。演出効果として、かなりのもんだと思うんだけどな。今度の公演は、どっかで使えよ。盛り上がるぜえ。絶対。保証してやんよ。おう。
 いや、ホントにね。仲間たちとここまで一生懸命やってきて、今日で終わりなんじゃん。そう思うとさあ、もう今から泣けて来ちゃうね。青春っつうの? 今日で終わりなんだなあってさ。線香花火の、最後の、シュワッ、っていう輝き、あれね。あれ、見せてやっからさ。来いよ。マジで。お前らの演劇の参考にも、なると思うよ、きっと。

2008/12/23 詩人の才覚

 2003年7月が一つのピーク。あの頃の彼は天才だと思う。「戦時下に片腕のサウスポー」「貞淑な売春婦、街頭でF」「浣腸をすると産まれいづる紳士、その苦悩とひび割れ」あたりは荒削りではあるものの秀作と言って良い。「食用カブトムシその生命を断て」なんかは文句なしに名作である。ひるがえって最近の彼ときたら。


 佐藤春夫先生による「わが詩学」と題された講義のテープを聴いた。「人間は詩を理解することのできる生き物である」というような言葉が心に残った。詩を、または詩情を理解しない者は人間ではない。昨今の若者は詩を書かぬ、読まぬので、すなわち人間でない可能性が極めて高い。嘆かわしいことだ。
 かく言う僕も、詩なんか書いたことないのですけれど、友人に詩人がおりまして、そいつの詩を理解してやれるのはたぶん僕だけであろうという自負はあります。それに、詩集なんかもよく読みはします。だから、まぁ、なんとか自分は人間であると思いたいところです。
 なんか、これをきっかけに僕も詩を書いてみようかなあなどと思いまして、書いたのが昨日のアレです。「筋骨隆々おばあちゃん」というやつです。


 ところである本を読んでいたら、「身体でものを考える」だとか、「手がものを考える」みたいなことが書いてあった。
 詩というのは、割と頭で考えるものというよりは、手が考えて書かれるようなものなのかもしれません。あるいは、全身で考えるものであるのかもしれません。実際に自分で書いてみると、また友人が詩を書いているときの様を思いだすと、どうやらそう思えてならないのです。一種の憑き物というか、トランスしたような状態になっておるのですね。あれはむしろ、頭なんか蔑ろにされておるような状態でしょう。詩とはそういうものなのかもしれません。昨今、頭でしかものを考えられない人間が増えてきたのと、詩を書く人間が減ってきたのとは、無関係のように見えて、あるいは矛盾しているように見えて、しかし実のところは、ちゃんと相関しているような気がします。

2008/12/22 筋骨隆々おばあちゃん

俺様はおばあちゃんだ
信じろ
信じろ
こんな声となりをしていても
俺様はおばあちゃんだよ
逃げないでくれよ
ねえ
俺様はおばあちゃんなんだ
近頃の若者は
ああ
そうだそうだ
それでいいんだ
一緒に来いよ
ついてきたらいいんだ
そして
ここで服を脱いだらいいじゃないか
足と全てを開きに開いて
おばあちゃんである俺様を
受け入れてしまったら
それでもう
いいじゃないか

2008/12/21 

 どうも。松原桃太郎です。
 夜中に暇をもてあまして家を出る。いつも通り例の公園を通って、八箇所のベンチに家出少女がいないか確かめる。いた。家出少女ではなかったが近所の女子専用アパートに住んでる女子大生でケータイいじってた。「何してるんですかあ?」って話しかけて、大学と学部を聞いたら、接点があったので、寒かったから、ファミレスへ行った。恐怖の戦場という名のミルクシェイクとメロンソーダ味のチリドッグを食べながらディズニーランドへ行く約束をした。夜が明けて、「あ、そろそろ、家帰って寝ますね」と彼女は言った。「3104円になります。」会計はもちろん僕がした。少しでも恩を売らなければならない。「ありがと。じゃ、次はクリスマスにディズニーね」とタメ口で言われた。でも彼女はその約束を破ることになるだろう。次に会うときがクリスマスにディズニーランドであるのなら、これから僕の部屋に来ない理由がない。僕は悶々とした。「や、やらせてください!」という言葉が喉の奥で止まった。彼女は髪を染めていた。すっぴんなのを気にもしていなかった。ファミレスで蝙蝠が注文を取りに来た時だけは少し顔をうつむかせていたけど。「ごめん、あたし、字へたなんですよお」と言って、殴り書きのようなアドレスをくれた。「電話番号は、忘れちゃいましたあ」「っていうか電池、さっき切れちゃってえ」そんな感じ。合コンなんか絶対に行きたくない。

2008/12/20 またタイガー&ドラゴンだからもういいよ

 物語には影の黒幕と言いますか他の登場人物のあずかり知らぬところで秘密裏に暗躍する裏の主人公というものがいるもので木更津キャッツアイというドラマではうっちーというキャラクターが主にそれを担当しておりましてがくえんゆーとぴあまなびストレート!というアニメではこれは視聴者の中にも気付く人と気付かない人とおるわけですが小鳥桃葉すなわち通称ももちゃんという娘っ子が実は物語進行の大半を影で操っていたわけなんですそれでですねタイガー&ドラゴン最終話に関しましてはこれが実は阿部サダヲ演じる林家亭どん太なる人物がですね実は大きなカギを握っていたわけでございまして何がどうそうなんかと言いますとですねあらすじの説明は省かせていただきましてとにかく主人公の虎児これが何故かバスガイドパブなる大人の社交場で働いておるわけなんですよそいでもう一人の主人公竜二と再会させるためにですね竜二の兄であり兄弟子でもある林家亭どん太こと谷中竜平がですね一肌脱ぐんでございますよ最後に兄弟子らしいことをしてやろうと思ってねと竜平は竜二にバスガイドパブのチラシを見せエロエロ探検隊!なぞと叫びながらその店に向かうわけですねそれで店先にポン引きの虎児が立っておるわけなんです竜平はずーっとハイテンションなまんまでムヒョーとかビローンとか言っているんですけどね竜二は気付くんですよ虎児の後ろ姿にだけども竜平のほうは一刻も早く店ん中に入りたいって素振りで竜二の手を取って入り口のほうへ引っぱっていくんですねところがどっこい店に入ったと思いきや二人揃って虎児に声をかけるっていうねそういう演出なんですけれどもつまりこれはねどう考えたっても竜平は虎児がいることを事前に知っていたんですよそれで竜二をわざわざ連れてきたとですよそれが最後に兄弟子らしいことをってのの真意なんですよたぶんだからこの感動的な最終回は竜平が気を利かせなかったら成立しなかったわけなんですねいやーすごいですね感動ですね泣きますね泣きましたでもまあ普通に考えたら竜二が気付いて竜平におい虎児がいるよと教えたって考えるのが妥当なんですかねでもそう考えるとあまりにも不自然なんですよ竜二の手を引く竜平の仕草がみなさんどう思われますかってワー結局一日で全十二話見ちゃったよイエーイもうすぐ昼。

2008/12/19 不確かな論理

「あのさあ」
「うん、なに」
「あたし、言ってないんだけど。あんなこと」
「は?」
「書いてたじゃん」
「どこに」
「ブログ」
「ブログやってないんだけど」
「はいはいわかった。ホームページね。ホームページ。そのホームページとやらにさあ」
「なんで怒ってんだよ」
「怒ってないよ」
「怒ってるよ」
「何でわかんの」
「怒られてるほうが、決めんだよ」
「あっそう。で、言ってないよ」
「言ったって言った?」
「ヘリクツじゃん。誰だってそう読むよ。言われたもん」
「誰に」
「ユミ」
「あいつなんなの? 知ったこっちゃねえじゃん、そんなん」
「言われたんだもん」
「なんて」
「だからあ、ケンカしてんの、って。してないじゃん。ラブラブじゃん」
「そうかなあ」
「今日じゃなくてえ」
「そうだけどさあ」
「そうでしょ」
「そうだよ」
「ふ、いやまそれはよくて、だからね、言われたの」
「してないよって言ってよ」
「言ったよ」
「したら?」
「ほんとお? って」
「そりゃそうだ」
「あのねえ」
「いやさ、そりゃ、言わせとこうよ」
「会うの、あたし。あんた会わないけど」
「あんたってさああ」
「ごめん」
「ふだんあんたとか呼んでる男いんの、俺はじめてゆわれた今」
「あげあしとんないでよ」
「あげあしじゃなくない? 素朴な疑問じゃない? 名前間違われたら引くよね」
「名前じゃなくない?」
「みたいなもんじゃない?」
「知らないけどさあ」
「名前で呼んで」
「たかおー」
「うへえー」
「なに、それ喜び? なにうへえ?」
「嬉しみ」
「ヘンだし」
「うれしさ? ああ」
「でさあー。なんでないこと書くの」
「ないことしか書いてないじゃん」
「あるって思われてんの」
「思わせとこうよ。あれジャッキーさんなんだよ。たかおじゃねえんだって」
「知らないよ」
「面倒くせえなあ」
「じゃ、やめれば」
「え?」
「やめればいいじゃん」
「何を」
「ブログ」
「いや、だから。まあいいや。やめんの? なんで」
「面倒なんじゃん。あたしもやだし」
「やなの?」
「やだよ」
「そうなんだ」
「そうだよ」
「見なきゃいいじゃん」
「見るよ。気になるもん」
「気にするなよ」
「するよ。好きだもん」
「バカだな。バカだな」
「喜んでんじゃん。顔、嬉しみじゃん」
「うるさいって」
「やめなよ」
「やめようかな」
「うん」
「でさあ、ユミがなんだって」
「ケンカしてんの、って。してないよね」
「仲直り今するしね」
「うん。…」
「…。したね」
「うん」
「何でそう思うんだろうね」
「書いてたじゃん」
「ケンカなんて書いてないよ」
「そう読めるんだよ。想像力で」
「そういうもんかね」
「それ、だって狙ってるんでしょ。バレてるし」
「あ、そう」
「そうだよ、そりゃ。バカじゃないもん。誰も」
「あー。うん。面倒くさいな」
「やめようよ」
「やめようかな」
「やめないでしょ」
「やめるとかよくわかんないんだよね。やめるも何も、してないもん。あるんだもん」
「まった、意味わかんない」
「そういうもんだよ。あるだけだよ。あるもんにイチャモンつけてんだよ、ユミ。お前」
「お前ってなんなの? ねえ、なにそれ? ねえ」
「うっさいな。お返しだよ。えりこ」
「あはあ」
「ほんっとに」
「バカあ」
「あるんだよねえ。俺だもん」
「意味わかんないんですけどお」
「だってさあ、でもさあ、関係ないわけじゃん。俺、えりことネット上でしゃべんないじゃん。ケータイじゃん、全部さあ。なのになんでさあ、そうなるわけ? 意味わかんなくない? えりこROMじゃん。常にROMじゃん。なのになんでそうなんの? おかしくない? 俺言ってないよ、何にも」
「だから、そう思うんでしょ。いい加減現実的になって」
「あ、そうか。俺、現実的じゃないのか」
「そうだよお。理想の世界にしか生きてないから、今そうなんじゃん」
「そうだったねえ。ごめんねえ」
「いいよ。そのうち、そのうちだからさ」
「優しいなあ、もう」
「…」
「ん?」
「バカあ」
「なに」
「しんないよ」
「ああ、そういうこと」
「わかった?」
「わかるよ。はいはい」
「うん、ね。だよ」
「知ってます」
「よし」
「俺、現実的じゃないんだよね。理想っていうかさ、自分の中でしか生きてないんだよ。だから何だって平気なんだ。よくないね。今気付いた。バカだねー。しょうがないねえ」
「うん、ホントだよね。たまに死ねって思うよ」
「ありがとう」
「ボケナスう」
「あー。死にたい」
「だーめ」
「死ぬうー」
「もうもうもうアホ。…」
「…。生きる!」
「バッカだねー。呆れる。ホント呆れる。でも好き」
「そういうもんだねー。ケンカしてんの、って、バカだねー。ラブラブじゃんねー」
「ラブラブじゃんねー」
「それがすべてなのにね」
「ね」
「あ、九時」
「あ、帰るね」
「うん」
「あ、いいよ」
「よくないよ」
「じゃ、うん」
「ん。じゃ」
「ありがとう」
「いこか」
「うん」
「あ、ちょっと待って」
「どした?」
「トイレ」
「もう」

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