2002年10月後半の行い(Jacky)

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2002.10.31(木) 超(スーパー)サイ岡野

イヴァン4世と昼からの授業をサボって僕はそのまま帰るつもりだったが彼のテンションがのっぴきならなかったので街をぶらつくことにした。とある女の子が同じく学校をサボって繁華街を闊歩していたのでカラオケに行った。
いつでも僕は、Entertainmenticな義務感に駆られる。なんだか罪悪感がある。
こういうのは、苦手だと思った。

御婆サン。御婆サン。今夜ハ御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ仕度ヲシテ置イテオクレ。

街角で佇んでいたらおっさんに声をかえられた。腹が立つ。
補導員であった。僕は下らない理論を展開して煙に巻こうとした、が、彼は僕の意見を肯定した。
拍子抜けであった。

御婆サン。御婆サン。御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ仕度ハシナクテモ好イヨ。

2002.10.30(水) 壊れるほどの放尿とキスで

チョコバットを35本食べた、というのは誤りである。エースバットチョコを35本食べた。
それは(準)チョコレート菓子であり原材料にカカオマスを使っていない。
ココアパウダーのみである。
「ホームラン」「ヒット」ではなく「エース」「ストライク」であるところに感激した。
しかし僕はチョコバット及びエースバットチョコであたりが出たところを見たことがなかった。
だから学校の近くのコンビニに置いてあったエースバットチョコ35本を残らず買って、食べた。
もちろんひとりではない、何人かでムシャムシャとやったが、僕は少なくとも10数本は食べた気がする。
こんなに腹持ちが良くて歯ごたえがあり気持ち悪い菓子は無いと思った。
エースバットチョコは30本で1箱である。
僕らは35本買ったのである。
1.1666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666666…箱である。
ほら、「傍点」が使えないとこんなに大変だ。

で、1本もあたりが出なかったのは何故か。

2002.10.29(火) Masturbation~本能と義務のあいだで~

二回忌でした。


考えることに過程や結果は然程重要でない。
結局は訓練なのだ。
多くの人間は、結果を最重視し、小賢しい人間は、過程を最上と祭り上げる。
けど結局は訓練なのだ。
卓球をする人がランニングをしないかといったら、そうでもない。
(けどしない人も多い)



どうして他殺は第一級の犯罪なのに、自殺は法律で規制されないのだろう。
余りに当たり前のことのように見えすぎて盲点なんじゃなかろうかと思う。
《死ぬ権利》の是非が頻繁に唱えられるようになった昨今
安楽死にばかり焦点が当てられ自殺になかなかスポットが当たらないのは何故か。

自殺者の人権と
喫煙者の人権は
似ていると思う。

明石家さんまをはじめとする喫煙者の一部が
「嫌煙者への人権を尊重するのなら、喫煙者への人権というのも保護して欲しい」と言っている。
だがしかし喫煙をしている本人はそれでいいが周りの人間には確かな不快感と時に実害を与える。
自殺も同じだ。

死ぬ本人はそれでいいだろうが周りに悪影響を与えないと誰が言えるであろうか。
二十歳以下の喫煙が法律で規制されるのだから
二十歳以下の自殺を法律で規制してみたらどうかね。

「未だ精神的にも肉体的にも発達できていない未成年が自殺を謀ることは余りに浅墓である。
 命とは突発的な動機のみに奪取されるべきものではない。他人への迷惑を考えよ」

とかねぇ。
理由は幾らでもつけられると思うし、
この法案に反対する人間はごく少数でしょう。
(自殺志願者以外は、)反対すれば不道徳と視られかねない。
疑問を持つものは多いし、議論が大好きな学者やインテリは大喜びだろうけど。

罰則をどうするか、ってことなんだけどね。
死刑でいいんじゃないの。
未遂でも、死刑。

懲役刑なんかの方が志願者には堪えるんだろうかね。
(或いは遺族に課すか。)

やりようによっちゃ、自殺者は減るよ。
けど人口は増える。

人類にとって、どちらが喜ばしいのだろうねぇ。

自殺者数、現在は年間三万人in Japan程度らしいけど、
未来はどうなるかね。
夏目漱石の小説に、吾輩は猫である。※太宰治『富嶽百景』「モオパスサンの小説に、…」
未来には自殺以外に死を齎す方法がなくなり、自殺文化が大いに栄える、とある。
警察も民衆を打ち殺して回るとか。
藤子不二雄の作品に、モジャ公や21エモン
自殺と戦争に熱狂する不死身人間や、長生きしすぎて自らゼロ次元へ消えていく老人の姿が描かれている。
その辺は読むべし。


死ぬ事はは苦しい、然し死ぬ事が出来なければ猶苦しい。神経衰弱の国民には生きて居る事が死よりも甚しき苦痛である。従って死を苦にする。死ぬのが厭だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よからうと心配するのである。


『吾輩は猫である』は後半になると、いやに《文明批評》(これは恐らく周りが囃し立てた影響なのだろう)に凝り固まって皮肉もあからさまになり前半のスタンスが殆ど崩れるように見えるが、だがそれだけ《論文》としての価値は高い。
この二行は是非精読、熟読して頂きたいと思う。
当たり前なことほどつまらぬものはない、されど、当たり前のことほど大切なこともないのだ。
つまりベターは何よりもベター、シュールはベターのスパイスに過ぎぬ。



後輩の女の子が修学旅行のお土産をくれた!
きびだんご!
これは夏くう食物であらう。
夏まで生きやうと思つた
2002.10.28(月) かんかおあほねうち

僕の全てが否定されている
僕の全てが否定されている
僕の全てが否定されている
僕に。

僕の全てが僕に否定されていく
僕の全てが僕に否定されていく
僕の全てが僕に否定されていく
急速に。

全てが僕に否定される
全てが僕に否定される
全てが僕に否定される
みんな
死んじまえばいいんだ

ナンテ

自然に思う。まるで呼吸するみたいに。



この世界が僕のものであること「すら」理解できない人は困り者だ
(それを飛び越えた上で否定するものにはファイティングポーズ)
とはいえ、僕だって小学生の時に『どことなくなんとなく』を読んで初めてその事実を知ったのだが。



「フランス人は走ってからものを考える、
イギリス人は走りながら考える、そして
ドイツ人は考えてから走る――お前はフランス人だな。」

図書室のボス、我らが定年間近口悪世界史教諭が、僕に言った。
二時間目の休み時間、僕は彼と話がしたくて図書室に赴いたのだが、彼は授業で出て行くところであった。
クサクサして、飲んで帰ろうと思ったって校内にはバーも居酒屋もなく、
そのまま見つかれば逃げ場もない校舎裏で煙草をふかしながら瞑想に耽る。
Woo
授業をサボタージュして陽のあたる場所にいました。
寝転んではいなかったし、屋上でもなかったし、たばこの煙は青くなかったし、
何よりトランジスタ・ラジオを持っていない。内ポケットには、避妊具の入ったちっちゃな財布のあるだけだ。

「彼女教科書、広げてる時、ホットなナンバー、空に溶けてった…」

と、歌いたくても歌えない。もし声に出して歌ったら、窓が開いて、先生に怒られる。
実はけっこうデンジャラスな空間でひなたぼっこしているのである。
しかしなんだろう、
こんな気持ち…
ああ。
うまくいえたことがない/ないやいやい。

そのうち暑くなってきた。通りかかる早退するらしき青い顔の少年が僕をちらと見る。
実はここは、自転車置き場なのだ。
ううむ。
しまらんな、どうも。
腰をあげ、残りの時間は虫を探した。

昼休みになった瞬間図書室に駆け込み訴へ。
先のせりふをぶつけられる。
そうか僕はフランス人。確かにそうだ、いつだってそう。結果論を創り上げるのがたいそう上手な自負もある。
しかし僕中心に見ればそれで結構実になっている。だからいいのだ。
それに、フランスもイギリスもドイツも、一長一短のはずである。
2002.10.27(日) イスタンブールGT

副管理人(存在するんです、実は)が18:00前に家に来て25:30まで語った。
彼は僕にCDを借りに来たのだが。まあ久しぶりに会えばそんなものである。
僕は彼からボッカチオのデカメロンを借りることになった。

なんか色々語った。
まあ、総合すれば、いろいろである。
たぶんそれなりに実になった。
彼から知識も吸い取った。

あと、驚いたのは、僕が思った以上に彼は僕らの共通の友人に、
(こいつは、もう僕らにとって最高の友人と言うしかないような友人なのだが)
稀有な評価を抱いていて、「あいつは何でもできる天才だウギャー」とのたまうことであった。
僕も同じようなことを前前から思ってはいたが、彼はなんだか盲目的崇拝的にそう主張するのである。
「あいつはホントにホントはなにやらせてもすごいやつなんだ!」と憤慨。
確かにそうは思う。しかしどうであろう。どう思う?
2002.10.26(土) イスタンブールZ

ヤムチャが押し寄せてくる。



ソフィーの世界に影響されていなくもなくもない。
けれどこんなメールのやり取り。


あなたは運命を信じる?
病気は神々の罰?
どんな力が歴史の流れをコントロールしている?
内容のない手紙と、意味のない手紙とでは、同じことだと思うかい?


運命は過去の物として信じます。病気は進化の副産物。この世を動かすは今ここに在るもの全ての力。
内容と意味は別物カナ


ということは文明の発展とは人類の退化。歴史とは無限の現在。運命とは退化であり今この瞬間に他ならない。
この手紙には内容「が」ない。



なんか宗教くさいよ。



武田真治は、いやお台場シンディーは天才。
マヨネーズ→迷える子羊への瞬間の飛躍は畏敬に値。
てんそは懐かしい。
吉本印の時代から、見てた。



ちなみに
【受験を苦にして自殺】するような人は、そういない。(自殺を苦にして受験する人間は、とても多いと思う。)
もし《いる》のだと主張するなら、それは【受験を苦にして】自殺したんじゃないと思う。

受験を苦にして自殺するような人がいるとしたら、たぶんそれは精神的に向上心のないものであり、ばかだ。
たぶんもっと大きな「絶対的で得体の知れない何か」があるんでしょう、ありふれた言葉でいうなら。

受験があるからって、受験は怖くない。
でも受験が原因でないかといったら、そうではないんだけれど、動機は受験でない気がする。
たいがい、自分のなかからでてくるんだ、そういうのは。
受験は磁石のようなもので。



死のうと思つた。
ことしの春、よそから着物を一反もらつた。
鼠色の細かい柄の麻の布地である。
これは夏きる着物であらう。夏まで生きようと思つた。


僕の生き方は半分、これである。
もう半分は、たぶん、やさしさ。



関連して、僕は生来コンタクトレンズを素材から開発するのを生業としているのだが、
『エピクロス』だか『ピカレスク』だという映画があって、河村隆一が演ずるは津島修治である。
津島修治というのは言わずもがな津島佑子の父親であり、太宰治である。

その『ピカチュワ』という映画を観に行った友達が言うには、

河村隆一が、
まるで、
貴方でした。


と、さながら太宰ばりな読点の打ち乱れようで、僕の興味も一様ではありません。
あんまりコンタクトレンズを素材から開発しすぎていたせいでしょうか、くりそつ、らしいです。
でも僕は観ない。
まず僕は壊す。



「帰納法です」
帰納法と僕は思った。




えーと。
ネットで小説を発表している人は多いです。
けれど、どうしても印刷活字には勝てない部分があります。
そのひとつは、「傍点」です。
htmlで傍点は打てません。打てたとしても、少なくとも僕の知識とスキルでは、打てません。あと、めんどい。
しかも打てないということにしておかないと、この話は進みません。
よって、htmlで傍点は打てません。縦書きにするのも、できるけど、めんどくさいです。
なわけでhtmlで傍点は打てないんですよ。
傍点が打てないとどんな弊害があるのかというと、まさに

「帰納法です」
帰納法と僕は思った。


なわけであります。傍点というのは、「、」や「。」や「――」や「!」「?」「…」等と同じくらい大切なものなのです。
(そのへんのことは谷崎潤一郎氏の『文章読本』に詳しい。)
村上春樹の小説などを読んでいると、実にこの傍点というものを巧みに使ってある。その典型が

「帰納法です」
帰納法と僕は思った。


という『ファミリー・アフェア』という短編の一説なのです。これを使えないというのは、痛い。
僕も実際こうしてhtmlで文章を打ちながら、ジレンマに襲われる事は多々あります。ここで傍点を使えたら、と。

関係ないけど(いや、実はあるんだけどわかりにくいから言わない、たぶん、パン屋再襲撃って本読めばわかる。)
《LIFE》という英単語には実にさまざまの意味があって、
たぶん英語を母語とする人々の精神の中には、この言葉は
単に「いのち」とか「せいかつ」とかその他全ての存在する意味を含めた意味の他に、
なんとも形容しがたい…例えば僕ら日本人が「はる」とか「いなか」とかって言葉に何かよくわからない感情をえるように
《LIFE》という言葉には、何かよくわからない感情をえるのだと思う。
現代文の参考書にも、似たようなことが書いてあったが。

オブラディ、オブラダ、人生は流れる…というビートルズの曲があります。
あれは、たぶん、「ライフ・ゴーズ・オン」だから情緒があるわけで、
日本語で「人生は流れる」と言ってしまったり、
「Life goes on」だとかバルバロイックな何の愛着もない言葉として捉えてしまうと、無意味なような
そんな気がするスプリングのアフターヌーン。

日本人である僕にとっては、日本語は素敵だと思うし、それだけに、
やはり英国で暫く暮らしたいというのは、めっちゃ、ある。

10.25

ジャッキー特設ステージ

容量が増えすぎて難儀なので別薔薇。

2002.10.24(木) うおのめばっかり 気にしちゃ損でしょ 暗いやイヤイヤ…

先生がお通夜のお知らせをするとき
「送ってあげたいという人はどうぞ…」と言っていた。

「送る」って表現が、なんだか素敵に響いた。




僕は女の子を神聖視していた。それは偶像であり何でも良かった。
それと自分が女好きだって言う肩書きが欲しかった。自分を確立させてくれるものであればなんでも良かった。





死にたいと思うことが多くなった。その代わり最近は下らない理由ではなくなった。
一種の生理的欲求が僕をそうさせるのだと、そう思う。


僕は幻想に包まれていた。自分が賢いと思い込もうとしていた。
でも僕はintelligentsiaですらなかった。



ひとつ、またひとつと、自分が自分であることの証明を創り出そうとしていた。


そして言い訳を用意した。
自分が、そう思い込んでいるだけだというのは、昔から知ってはいた。
そう、思い込まなきゃやってられない、と考えていた。そうすることに決めていた。



天才的な馬鹿である自分の像を維持するために必死だった。
いつ剥がれるかもしれない外皮




そうして僕は僕を造るのに必死で
僕好みのワールド・オブ・ワールドを作り出そうとしていたのよこれがね。うん。はいはい。へへへへ。ドルファファファ。
えっとねえ


完璧と理想とは別物であるか!?
そーいう問い、ソフィーの世界を斜めに読みつつ考えた。
僕の理想は完璧である。
完璧というのは理想が満たされた状態をいうのだ。

僕は完璧以外を手にしてはいけない。
何をもって完璧というか?
それは理想的なものだ。
僕は理想を追い求めさえすれば、完璧をこの手にできるのだと

そう思うことが僕の理想だった。
けれど世の中に完璧なものなんて存在しないことがわかりきっているように、
世の中に理想というものが完璧な形で現れるなんてこと、完璧にありえない。
だから僕の中での理想というのはがらがらと崩壊。

結局僕は、悪鬼のような形相をした女の子と手を繋いで



どうだ爆発のこの
13行

2002.10.23(水) 尾崎やんぬる哉

乱れてきている
僕の生活は
煙草が転がる
鉄アレイと





僕じゃなくても全てが成立していく。
セツノーナルな夜はアゼルバイジャンに更けていく。
精神はトランスヨルダンな変貌を遂げ
アンビバレンツな春の午後を彩る。


世界で一番汚い人間がばっぽん的に僕を殴った。
日本で二番目に汚らしい人間である僕はばっぽん的に自殺したいと思っている。




脳味噌の浮いてる水面下のみで話を進めていますが勘弁してください。
直接的に言うと軽蔑されたり、極右に刺されます。

ラブ・ソングだって同じで
どれだけ心を込めたところで
伝わるもんじゃないよ。



飛んでる馬鹿にはわからない心労


「死ね」って、
…ノーセンス。



期待することを終わらせやしない、
抱き締める事を躊躇いはしない、
唾を吐くことを、忘れやしないさ!





太陽が昇った。
こいつを「ただの太陽」だと思うには、
昨日の雨は《降りすぎた》?



いや俺は認めません。いやおかしいよそれ。まじおかしいて。有り得た話じゃないよ。違うと思うよ。色々と間違ってるよ。いや気付け。有り得ないと思うなあ無い話だと思うよ。有り得た事が無いよねそれ以前に。いや意味がわからんし。そんなことないし。どうしようもないし。なんか見えない所で新しいストーリーが進んでそうだしね。もしそんなんだったらもう有り得ないね。みぐしおろすよね。世を離ると思うよよをかるとおもうなあ。はかなくなるねそれは。有り得でもしない限りね。おかしな話だよおかしな話だよこれは実際アクチュアリィだよホントにげにさ。リアルに気持ち悪くなってきたのでさよなら

2002.10.22(火) 精子をかけた大決戦

隣の隣の隣のクラスの女の子が死にました。
たぶん、去年図書委員で一緒の係だったと思う。
面識が無い訳ではない。
それを聞いたとき「やばい」と思った
何がやばいって、周りの反応に対して僕は不安だった。

余り見たくないものが飛び出すのだと思った。
しかし泣いているのは1人だけだった。

隣のクラスでは担任がだだ泣き寸前だったらしい。

空気が凍りついた、のはほんの数秒のことで、
それは形式的、儀礼的、或いは偽善的な「間」であるかのようにも見えるのだろう。
そして数秒後、
8割の生徒はその死をネタにし、無関係に笑顔で会話したりしていた。

ネタにできる奴は偉いと思う。
明るい性格だ。

笑顔で会話する奴は凄いと思う。
おおらかな性格だ。

朝っぱらから生徒会役員認証式と賞状伝達があって体育館に全校生徒が集合する。
教師の口から、死だの生だのと告げられる事は無かった。

校長が賞状を渡す時に、逐一
「おめでとうございます」
と言った。
泣いている人もいた。

《喪中》という慣習は何のためにあるのだろうかと思った。
知らない校長ではないと思う。
明日聞きに行こうかしら。亀の甲より年の功で。

長い長い儀式が終わるともう死んだのなんだのと気にしているのはごく少数に見えた。
昼ご飯を食べる頃になると泣いていた人も笑顔だった。

本当に悲しいのは本当に仲の良かった人だけなのだろうな。
泣いていた人でもそれほど仲の良い風には見えなかった。
才能だと思う。

「死に慣れてないからだ」と僕の友達何人かは口を揃えて言うが
それだけじゃない。
才能です。

例えば僕は、クラスでこいつが死んだら泣くな、という人間はやはり数名しかいない。
けど大部分の人々はまあ、誰が死んでも泣くのだろうし、
シク教はナーナクが創始したのだ。
イメージさえつかめれば僕のこと良く知らなくても死ねば同じクラスで毎日顔を見ていただけで泣けるんだと思う。
そう思うと僕は幸せ者である。

死ぬということは生まれることと同値の通過儀礼であるはずなのに
若い僕らにゃ遠すぎる。
ということ
なんだろうな。

そうそう、イメージだね。
今回うちのクラスの子たちが殆ど涙を見せなかったのは
死んだ子のことをよく知らないからで
イメージが掴めなかったんだろう。

悟空は目の前でクリリンが殺されたから超サイヤ人になれたわけで。
別に知らない間に死んでいたのを数日後知らされたからと言って、
悟空は怒りこそすれフリーザは倒せなかったかもしれない。
そしてもし、悟空がクリリンとそれほど親しくなく、顔も描き出せないほどの関係だったなら、
絶対に悲しくないよね。
だってドラゴンボールの世界って一気に何億人と死ぬし。
まああれは生き返れる大前提ありきの話か。
でもブウ編くらいになると二度目の人って結構いるよね、何度も何度も大量殺戮されてるし。

あと、実害がないからね。
人間全て打算で動くわけでしょう、感情もほぼ打算。
なぜかというと友達が死んで悲しいというのは
大部分はもうその友達に会えないんだと思い描いて泣くわけで
純粋にその友達がこれからの人生を生きていくことができなくなってしまったことを考えて泣くなんてことは
あんまり無いと思う。
それは、おばあちゃんが死んだ→もうおこづかいがもらえない→泣く
っていう図式と何ら変わることがない。

「友達に会えなくて泣く」ってのは自分中心の考えで
「友達が生きられないから泣く」ってのは相手本位の考え方だと思う。
(「泣く」というのが指標になっているのは、わかりやすいから。)

そして、後者はなかなかできないんだ。
けどそれができたからって、人間的な魅力に直結するわけじゃないけど

でもそんな考え方ができる人、
ohつきあいたい。


今そんなことばかり考えてる
慰めてしまわずに


人は死んでも腹は減る
なんてのは実に真理で
人が死んでも面白いことがあれば笑うし
人が死んでも三日(比喩的日数)経てば感情は記憶に変わるのだろう
人が死んでも腹が減らないような人は
人が死んだら笑わなくて
人が死んでから何年経っても感情が昂ぶっているような人は
実は魅力的なのだろうか
どっちだろう
どっちにしろ
大好きな人を失った人間の気持ちは
僕にはわからん、悲しいかな。



またすぐに会えるのかな?
またすぐにやんぬるかな?



僕がささいなことで感情を動かす事があるのだということを前に言った。
けどそれは本当にささいなことで
他の人にとってはどうでもいいと思って侮蔑して笑うような
下らない、取るに足らないことかもしれぬ。

けれど教師達の言葉を借りてみると
「自分ではいじめたと思ってなくても相手がいじめだと思ったらそれはいじめなんです」

他人は何とも思っていなくても
《僕は》こんなに傷ついた。
喩えそれが
取るに足らない
どうでもいいような
自分勝手な理由であるにしろ
僕はこんなに傷ついた。
これはいじめなんだ。
これはいじめなんだ。
これはいじめなんだ。

けど悲しいかな社会には
「自分勝手」に人権は無い。
だからさよなら。


生徒「はじめは、まじめな、みじめです。」
先生「そりゃ、いじめだ。」


頼る、ということ。
頼れるものがあるから頼るんだと思う。
頼れるものなんか何一つなかった僕は
確かに荒んでいたかもしれないけれど
生きてた。
生きられるもんなんだ
頼れるものがあるから頼ってしまう
そしてもっと欲しくなる
金があるから使ってしまう。
そしてもっと…

「入れば入るだけ欲しくなるもんだ 金はな」
とアセチレン・ランプが言へるも理なり。

他人を頼みにするなんて
それほど自分勝手なことはないよ。
誰もが誰かを必要としてるのに
自分が誰かを必要として、誰かを頼みに思うなら
その誰かは何処へ行けば良いんだ?

しかし僕のように
頼られる事が大好きな
物好きで偽善的快感に酔い痴れがちな人間が
世の中には多いみたい。

けどね必要だと思っていたものだって
目の前から消えてしまった瞬間に
不必要なものになる。
そんな日もある。
すっぱい葡萄だったりも
するんだろうけど
結構そんなもんだ、
代替のきかないものなんて、世の中にあるか!



やんぬる哉!
気付け我が麗しのアンチテーゼ
2002.10.21(月) 手淫船貿易

君は気付いていないけど
僕が些細な事で腹を立てる事
僕の中では有名な話
けどそんな事
腹を立てる程の事でもないし
それほど表に出てこない
だから
君は気付いていないけど
余りに些細に些細過ぎて
腹を立てるのも恥ずかしいから
君は気付いていないんだ
君は気付いていないけど
神は死んだ!byニーチェ




サン・シモン

シモン・ボリバル

サン・シモン・ボリバル

サン・シモン・マサト

サン・ピエトロ寺院

聖ピエトロ寺院

聖シモン・ボリバル

子門真人

聖シモン真人

聖子門真人

精子門真人

精子

サン・シモン・ボリバル

カツラ・サン・シモン・ボリバル

桂三枝門下

桂三枝門下

サン・シモン・ボリバル

諮問
2002.10.20(日) セックサないセックシますセックスセックスときセックセばセックセ!

父が
朝鮮か韓国あたりの人が喋っているのを聞いて
なんでこんな喋り方するんだ
普通に喋ればいいのに
と憤慨していた





悟飯「わかった!!クリリンさん18号をスキなんだ!!」

ガンッ

クリリン「ハッキリいうな!!」

ヤムチャ「え え――っ マ マジかよ うそだろ!?」

天津飯「人造人間だぞ…」

18号「ふん…ふざけるんじゃないよ 手でもにぎってほしいのか?チビのオッサン」

ヤムチャ「あのヤロ~~~ッ なんだあの態度はよう!!ぶっとばされっぞ!!」

悟飯「…じ…人造人間だからだ…… き…気なんかないんだ……!」





ガキは「100億万円」とかやいふ意味のわからん表現をするが

偉そうに。

同じ原理に基づけば

100無料大数不可思議那由他阿僧祇恒河沙極載正澗溝穰jo垓京兆億万円とか

悔しかったら言ってみやがれと思う大人気ない僕。



またあいたい
あたまいたい

2002.10.19(土) セックス・シンス~sex since~

この愛はメッセージ!祈り!光!続きをもっと聞かして!
この人の曲は「!」が多い。多過ぎる。

都築をもっと帰化して。



荒廃の家に泊まってはみたものの
まあ泊まったんだけどね
22時半くらいに銭湯に出かけて26時半くらいまで浸かってたその間
なにゃらよ-わからん会話をしていたのを覚えてゐる。

「確実に」とか「絶対に」とか「間違いなく」とか物凄く真剣な顔で言われて
だけど「そうなんだろうな」と心の底から納得できない場合は全く説得力が失われると思った。
根拠がないとき。
例えば「僕は絶対にジャッキー先輩は間違いなく結婚できないと思います、確実に。」と言われるより
「…僕は心配です。ジャッキー先輩は結婚できるんでしょうかと。心配で、心配で、夜も眠れなくて昼寝しちゃいます」
と言われたほうがショッキングである。
前者は「なんだと畜生この野郎」くらいの勢いで反駁していけますが
後者はただ凹むのみである。

ああ、あとは「全ては捉え方次第」という例のアレ。

《何か》良からぬことがあったときに。
怒るか、凹むかで人間が分かれると思う。
相手が自分に対して余りにも非人道的な態度で接してきたりすると
怒るか、凹むかだと思う。
僕の場合単純なもので、その相手というのが嫌いなら怒る、好きなら凹むというのが大原則。
けど僕はまず嫌いな人なんてのはそういないし、興味の無い人とは極力付き合わないようにしていて、
興味の無い人に何を言われたとて怒るも凹むもない。
それに僕にとっての「怒る」なんてのは心の中で畜生アンニャロメと思っているだけで特に表に出さない事が多い。
出す時はネタかなんとなくが多い。
というわけで僕は表立って怒りを露にするということは殆ど無い、反比例するように僕は些細な事でもすぐ凹む。
ちなみに
「凹む」というのは僕はあまり好きではなくこれまではなるたけ「へこむ」と表記していたのだが
とある明治の文豪の作品で「凹む」という表記を見て以来使っているのだ、単純な話だ。
「なるたけ」も使ってなかったのだけど同じようになんか格調高めな文章にさも当然の顔して使用せられていたので利用している。
でー
僕は「怒る」ということが大嫌いである。大抵のことは怒らなくても通用するのに人はなぜか怒る。
それは必ずしも怒るという行為に利があるからってわけではなくて、怒ると問題が解決しやすくなるばかりかストレス解消になるのである。
だけどなんかわだかまりが残るでしょ。
でも確かに日常の中で大切なことだし誰かがそれをやらねばならぬ。けど僕はやりたくないから誰かに任す。
けどまあ最小限でいいと思うんですわ、怒りなんてのは。
ほわーんと、なんとなく、適当に、時に浮き沈み凹み削られ磨かれながらも楽しげに生きていきたいといつも思う。
僕の人生において怒りとは然程重要ではないように思える。
なんか、誰かが怒ってると心が痛む。
せっかく素敵な人でもわけのわからん切れ方してたら台無しだ。
まあ怒るってのは最も辛口な潤滑油だから、たまにはぴりりとしてくれないといけないとは思うが
でも僕は好きくないのである。
ゴールデン・デリーシャスよりもカキなのだ。

もうひとつ考えた。人は何故怒るか。怒らなければ解決できないからだ。
つまりその人が言葉や行動でなんとかできないから。つまりは力不足である。だから怒らない人ほど人間がでかいのだ。
説得力のある言葉と人徳と信頼さえあれば怒らなくてもだいたいのことは「ありがたいお説教」程度にまとめればうまくいくし
逆にあんまり怒ったりしてたら人徳も信頼もなくなるだろうと思さるる。
感情表現とはもともと感情を表現するためにある、感情を言葉だけで表現できなければもっと具体的に動かねばならない、
だから言葉を知らない赤ん坊は泣いたり恋をして走るよみんな切ない夢を抱いて。

僕の友達は「高校生活の目標は、怒らないこと!」と1年半ほど前に告白して僕を感動せしめたが実際彼はよく怒る。
とっても失望であり軽く絶望である。
自分の怒りオーラが周囲に対して悪影響しか与えていない事に気付いてないのだろうかと思う。
それは別にその彼だけじゃなくてみんなそうなんだね、怒ったら解決するわけじゃないけど何を勘違いしたか切り札みたいに切れる。
ところで「泣いたら解決するわけじゃない」とか言うけどどっこい涙は特別で結構解決できてたりするのだ征地球論。

ここんとこ日記が横長くて読みづらいな。たまには良かろう。なんか僕の文章リズムが変わって来た気がする。
他人の中に僕風味を勝手に見出してしまうからかもしれない。
いかん風潮だから気をつけよう。


だいたい
僕の文章ってのはさ
けっこう、まあ、
こんなふうなんだけどね。
本来。


あー明るくいきましょう。怒らずにね。
笑顔が大事。



というわけで今日も一日は
2002.10.18(金) 両手は、添えるだけ――

現代文の授業の間、なんとなく読書をしていたら、明確に怒られた。
僕には怒られる理由などないので、遺憾であった。
「どうしていけないのですか」と問うた。

それはそれは物凄く怒られたのだ。
「あんた次もこんなことやっとったら、知らんよ。」と言われてしまった。名古屋弁であった。
この「知らん」というのは、残念ながら「もう気にしないから別にいいよ」という意味ではないのである。

然し僕には弾圧せらるる理由などなかったわけで、誠に遺憾の意を表明したかったわけである。
「授業中に本なんか読んどるくらいなら教室で読まんとどっか行って読んだらいいがね」とまたもや名古屋弁。
人間、感情的になると方言が滲み出るものである。
「だって、学校に来ないとはみ出す」と僕は主張する。英単語をもって洒落て言うとクレームである。
だが先方にはこの理論は通用しないと見えた。「先生やクラスメイトが心配すると思うんだ」という理論がである。
「自由にすればいいがね」と彼女は言うのだが「すると怒られるんだ」と返す。「誰が怒るの」と言われて
考えてみたら誰も怒らないのである。単なる僕の誇大妄想によるところは大きいと気付く。
「じゃあ別に学校なんか来なくてもいいがぁ。どっか行きゃあよ」
名古屋弁ゲージは振り切れ寸前だ。と、僕も危険だと見て取って、一寸逃げた。
しかし異端と見なされることは間違いないのであり、怒られはしないでもねちねちとやかく言われるのはかなわん。
そこらへんの微妙具合がほんの7,8年前には高校生であったはずであるところの女教師その1には理解できんらしい。
どうもマルペケでしかものを考えられない人だ、頭が悪いのか、とも思った。
この人は授業は下手糞でもなくつまらなくもないから罵倒せざるべからざるを得ないのだが、
如何せん魅力は少ない。
窪塚の演技については色々言われているが少なくともなかなかできるもんではないと思う。
今時珍しく個性を自ら作っている役者に見えるのだ。
「学校に来るということは大人しく椅子に座って授業をきちんと受けるという前提が内包されているんじゃないの」
少しく方言が抜けてきたと言う事は「勝った!」というオニノクビトッタパワーが増大しているのであろう。
うーん。そうかもしれない。確かに学校に来て授業も受けずに読書ばかりしていてちょっと頭が良いのでテストの点数は抜群だったらそれで単位が貰えるのであれば他のせこせこ頑張って這い上がろうとしている凡書生諸君に申し訳が立たんと吾輩は考える。
うむ。うむ。なるほど。ほんの少しだけ納得して来た。
全く彼女の言葉は助けにもならず僕は僕の中だけで独り善がりの結論を導き出そうとしているかに見え、我ながら天晴れな自己中である。
けれども口をついて出るは違う言葉であったのは
この日記のへヴィーな読者であらば言われるまでもなかろうと観る。
「僕は生まれてこの方授業中に居眠りをしたことは一度も無いんですけど、そういうのってどうなんですかね」
「だから私は、寝ている人もちゃんと叱ってるよ」
僕はこの言葉を聞いて満足であった。
読者諸君には理解できるであろうか、この論理の危険性と幼さと滲み出る、僕には大人への通過儀礼である《汚れによる洗礼》が見えた。
彼女は現代文的論理的思考は得意とするところだけども、
ところで現代的倫理的思考においては中学生レベルであると僕は推す。
AにBするからCにもBする、だから良いではないかという理論は全く別の話である。
そんな理論をガキどもが繰り広げたとすれば
「よそはよそ。うちはうち」とか
「それとこれとは話が別だ」とか言われるのはわかりきっている話なのに彼女は、
僕の「寝ている人はどうなのでしょう」という問いに
「私は寝ている人も叱っている」と答えたのだ。これは何とも自分ながら低次元だと思って、反論を諦めた。
まあ、恐らく彼女は余りにも低レベルだから低レベルな発言をしたわけでもなく、
これが生徒を丸め込むには最もEzな理論であると認めたわけでもあろう。
然れども残念ではあるが僕の眼には馬鹿としか映らず侮蔑の源泉となるわけである。
そして次に彼女の放った言葉は次のようなものだった。
「居眠りする人はたくさんいるけど、あんたのやってることは目立つのよ。」
なんと明確で有り難い言葉であろう。
余りに俗っぽく脳慣れた言葉。しかし耳慣れずストレートに言う人は少ない。だが有名な話だ。
そうか目立ってはいけない、
僕とは価値観のラベルがパーフェクトに違うらしかった。
そして最後に言ったのはこう。
「とりあえずあたしが気分悪いのよ、そういうのって」
無理矢理論理立てず始めからそう言えば良いと思う。



追申
なんというかこの教師の頭の中には「全てを平たくしよう」という思考が常に根底で働いているのだと思う。皆一様に授業を受けていて欲しいし(はみ出していると腹が立つというのはその証拠かもしれない)、皆同じように叱っているからそれでいいのだし、特に目立つ行為をすることはやめて欲しいし…まあ教師としては当たり前の話なのかもしれん。もしかしたらうちみたいな高校に、なんというか市立の学校は柄悪いところがないから、ぬるま湯で良い子ちゃん達に慣れちゃってて少しでもおかしな子には我慢ならんのかもわからん。まだ若いし自分が真面目だからそうでないものが許せんのかも分からん。しかしそれは僕にはどうしてもわからんところだ。育ってきた環境が違うし。

言いたいことが有る時に感情的になることは、いけない。感情の昂ぶりと説得力とは反比例の関係にある。逆に論理性と説得力とは激しく比例である。比例どころか二次関数のように果てしなく伸びていく。だから何か思うところがあるかと言って「帰れ」とか「死ね」とか言ってしまうと途端に聞く気がなくなる。はいはいそうですかと適当に相槌打ちたくなる。そういう教師が多いというのは中学の時に体感した。ちなみにそういう教師が僕のようなひねくれたガキを産み出し、教育現場の悪循環を創るのだということは覚えておかないと多少困ると思う。

ちなみに奴等は頭が悪いから論理的に生徒を言いくるめられないのであり、何か言い返せない理屈を必ず天才的な少年たちにぶっつけられた時に「屁理屈を言うな」という常套句で全てを無に帰させるというテクニックを得るのだ。頭が悪いからだ。しかしそれもアリなのかもわからん。20年後には4人に1人が老人である。明治の政治上層が30代40代であったからといって現代もそうであるべきだというのは僕の考えではあるがそうとも限らんのかも知らん。なぜなら20年後には老人の社会である。テレビを見ればパラマウントベッドのCMばかりを目にするかも知れぬ。じじいの政治がじじいどもに喜ばれればじじいの政治は間違っていないことになる。なぜなら老人の社会だ。そのうち過半数がじじいどもになったら天皇が人間でなくなり大日本帝国憲法が再発布され宣戦布告のないまま第二次日中戦争が勃発するだろう。時代は変わってもガキはガキ。大人は大人。老人は老人なのである。何故僕が「じじい」と言い「ばばあ」と言わないのかということで田嶋陽子に怒られるのは御門違いであり、単に僕が女の子大好きだからである。「ばばあ」とは言わず、必ず「おばあさん」とでも言いたい。でもなんか文脈にそぐわない。だから。
2002.10.17(木) 闇が迫れば 花魁の世界

世界で一番綺麗な女の人は
紛れもなくあの人だ
あの人のためなら死んでもいいと思った
ものごしゆたかで
のどごしさわやか
最後の貴婦人
斜陽っぺー。
仲良しの世界史の先生が授業で
「女優というのは年をとると必ず醜くなるものだが、ただひとりだけは別ですね」
と言っていた。
日本式オードリー・ヘップバーン、艶やかなイアンソープ。
美しさ。
Oh baby


『細雪』という映画を見た。
常々日本一の歌手はやはり疑いなく美空ひばりだと思っている僕は
同じように日本一の女優を知っている。
あーまじ綺麗だこの人は
なんか『パリの恋人』で本屋の娘を演じるヘップバーンを見て以来
他の女優なんか木の端のように思っていたのに
いつからだったか僕はこの人にやられていたのだ。
演技なんかどうでもいい。
蓋し女優とはフィルムの中での存在感かと思われる。


『細雪』を110分にまとめるのは無理だと思った。
だがそこはそれさすがは市川崑
松坂大輔太ったなあ…
なかなか美しげな映画に仕上がっていて、良かった。
原作のイメージが多少損なわれ感はイナメナイ。




なんとなく僕は石坂浩二とか石田純一みたいな老け方をするような気がした。
幾らかの希望的観測をもって。




はじめて広辞苑を手に入れた。第五版を2500円で。
嬉しくて引きまくっていた。
「あ、あじゃりが載ってる!さすがは広辞苑だ!あじゃりあじゃり」
と喜んでいたら、
角川の国語辞典にも当然のようにあじゃりは載っていて
なんか…
あじゃり。あじゃりあじゃりあじゃり。
常識だったのか、あじゃりは。
あじゃり丸。



アリストファネスの『女の議会』が欲しい。




最近「ふん。」という関西風の頷きが気に入つているのだがともすれば不機嫌ともとられかねないので難儀してゐる。

2002.10.16(水) かとうたかとうたかとうたかとうたかとうたかとうたかとうたかとうたかとうたかとうたかとうたかとうたかとうたか

ターゲット1900が覚えきれない受験生の方へ

新発売

ターゲット1

(全1900巻)



自分には
「唐澤俊一がテレビに出ているよ!」
と教えてあげる友達もいないのだということに気が付いた。
少し悲しかった。
ちょっと前に広井王子が踊る!さんま御殿に出ていたときも似たようなことを感じた。
誰か唐澤俊一のファンは居ないのだろうか。
噂のフォークデュオ
チメイド
↓低い



明治から昭和初期にかけての小難しい作家の本ばかり読み耽っていた僕は、
昨日から今日にかけてフランツ・カフカの『変身』と川端康成の『雪国』を読んだ時に受けた衝撃は特異だった。
それは錯覚すらも引き起こした。《僕ってこんなに速読家だったろうか》と。
僕は本を読むのが遅い。非常にゆるりと読む。
古館伊知郎は3行読むのに10分かかると言っていたけど、そんなのを想像してください。
(もっとも、それは全く意味のない想像なのだけれど)
『変身』を読んで読み易くて面白い本の存在を思い出した。
『雪国』を読んで改行が新鮮だった。
谷崎潤一郎は文章が本当に綺麗でずんずん読み進められるけど改行が無い。
結局2時間集中して90ページしか読めなかったりする。
『吾輩は猫である』も授業を1時間半も校舎裏で潰して60ページしか進まなかったり。(弁当食ったりしてたからか?)
太宰治も、実に時間がかかる。
難儀な作家を好きになったものだと思うが、あのころの作品というのはだいたいそうだ。

で、考察を重ねてみたいと思うのが文学のブランド性について。
僕がそういった《ちょっと背伸びをした》作家、
しかも確実にその文学性が万人に評価されているような作品を読むということ。

太宰治、谷崎潤一郎、夏目漱石、川端康成、志賀直哉、森鴎外、芥川龍之介、…

いったい、これはシャネルやグッチやルイ・ヴィトンと、何処か違ったところがあるだろうか?
村上春樹なんかも同じようなもので、こちらはヴィヴィアン・ウェストウッドとかコムサデモードみたいな匂い。

「コーネリアスを聴いているだけで自分がお洒落だと思い込む馬鹿が多い」
と誰かがどこかに書いていたが、そのような感じである。
結構今は、音楽さえもファッション化されてる感がイナメナイ。
BUMP OF CHICKENを聴く奴がみんな格好良くてセンスが良いかと言ったらそうではないし。
ブランキー聴いてりゃワイルドだとか、洋楽好きならワールドワイド。そんなわけはない。

そしてそれが文学にでもなんでも適用できるという話。

しかし最近はユニクロが多い。本当に多い。音楽でも、文学でも、凡そ娯楽と名のつくものには。
巷でやってる演劇なんかは、大抵がもうユニクロ以下で、
古着屋のようなもので、
たまにはそりゃあ、掘り出し物があって、嬉しい。

大学生くらいで、村上龍や村上春樹《しか》読んでないのに、
自分が読書家だと自称してやまない文学部生が実に多いという話を聞くが、
ふざけるなと思うんだね。ブランドものしか着られないの。みんなと同じやつ。

かといって所謂―僕はこれを「非おしゃれ」の代名詞として用いられるのは気分が良くないのだが、
《ベルト無しスリムジーンズにシャツを仕舞い込んで白ハイソ》といういでたち。
こんなのもどうかと思うのだ。
さて、いつまでも子ども服ばかり着込んでいるのもいけないのかしらね?
鎧ばっか身につけてるのも疲れるだろう。
僕らは色んなファッションに挑戦しなければならない。

だがしかし高校とかだと
「本を読む」ことで着飾るということは極めて特異である。
(制服は上からの規制だが、こちらは真横からの圧迫だ。焚書坑儒だ。)
教室で読書してる馬鹿は、浮く。∴僕は浮く。
だからなんだという話だが、
それが人生の失敗に繋がる人間も少なくないと思うのだ、本当に。
なぜならば《本を読む》=《暗い》だからね。なんたって。

なんちゅうか色々なことを考えて本を読んで欲しいと思うよ、本当に。
量も、最低でも僕が読むよりは、たくさん読まなければいけないと思う。
僕はいつでも口だけだから。



エピクロス派の哲学を愛してる。
現代の「快楽主義」の定義で捉えて欲しくない。
もっと素敵な思想を彼らは唱えている。



あるとき、試験監督に英語の先生が来た。

問題用紙だけを配って、

「さ、もう始めていいよ」

と、

さらり。

言ってのける。

生徒たちが戸惑っていると、

にやり。

不敵な笑みで

「…はじめれないだろう」

と、

一言。

(ら抜きの殺意を感じながら)

試験前なのに誰も爆笑だった。

こんな人にも僕はなりたい。
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