2002年9月前半の行い(Jacky)
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実は昭和高校へ行く前に向陽高校へ行っている。
昨日無くした鞄は、実は先生がパクっていっていたらしい。
そして今は教室にあるという情報。
校舎内には見回りがたくさん。
開会式の間に教室で作業してる輩を追い出している。
僕はトイレに隠れて、奴等が居なくなるのを待ち、
各階に数名ずつ配置された見張り教師の死角を突き
教室の一番上の窓、通称《マサルさん登校ウィンドウ》から侵入。
鞄を奪い、飛び降り、走って逃げる。校舎裏の塀を乗り越え、まんまと逃げ遂せた。
怪盗になった気分。
2002.9.13(金) 全統奇術模試
文化祭あらし。
あなたの本能を感じたい、あなたの胸のそばで。
本当は今日は、学校祭で、クラス発表で、もちろん学校に行かなくてはならない日。
けど昨日、《クラスを棄てた》(らしい)後輩と話をしていて、
あ、僕がいなくても学校祭は成立し、クラス発表も然り、そして僕には何の不利益もないはずだ。
ということに気付いた。犬は吠えるがキャラバンは進む、そういうものだ。
【俺という犬は吠えるのだが熱力学的キャラバンは全く無頓着に進んでゆく】
喩え僕というちっぽけな熱機関が機能を果たさなくとも、
熱力学的学校祭は全く無頓着に機能を満たす。
【犬たちが吠える時にも恐れずに僕たちはキャラバンを進めていくことにしよう】
学校祭や生徒会部などという不恰好な犬たちが僕を脅かすんだけど、
恐れずに僕は、…
ま、
というわけで、
行ってきました学校祭。
愛知県立昭和高校の。
※ジャッキーは名古屋市立向陽高校の生徒です。
なんと全く同じ日に近所(?)の昭和高校さんが学校祭をやってるじゃありませんか。
しかしウチと同じく、今日は一般公開はされず校内発表のみのようだ。
好都合。
男子の制服はどの高校も変わりゃしないんだから、
潜入だッ!
ってなことで一日昭和高校生ジャッキー誕生!
裏の塀を乗り越えて侵入、知り合いを捕まえて指定スリッパを入手し、さて学校祭を堪能だッ!
おおっ…び、微妙に面白くねえぞこの高校!
なんて普通なんだッ!
とりあえずコスプレの数が少ねぇッ!
(単にうちの学校は変態とコスプレが多すぎるだけのような気もするが。)
そしてなんか、企画が割と普通だッ!
芝居が少ねェッ!
生徒が怖い!治安が悪そう!
偏差値と学祭は比例する説は本当なのだろうか?
しかし一般人が入ってもわっかーせんね、制服同じだから当たり前だけど。
普通に先生と楽しく談話してみたり。
でもスリッパが一年生色だから完璧に一年生だと思われたり。
愛人と一緒に居たら彼氏彼女と勘違いされたり。ああら普通だ。
一通りまわったら飽きたんで、演劇部のみなさんとヨロシクやらせてもらう。
え、ペンキを買いに行け? おうよ。
は? お金を払えって? ああ、1606円ね。うん。
大道具つくれ? オッケーよ、オッケー。
ふー。
しごきって楽しいね。おれは鉄兵。
帰り道、1個下だけど同い年の通常の三倍のスピードで動けそうな眼鏡をした女の子が
自分の後輩と僕とをくっつけようと奮闘。
もうくっついてるのにな。ふひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ。
最後にその女の子を家まで送って初日はフィナーレ。
家に帰って、寝て、次男が東京から帰ってきたので夜中に起きて、出かけて、悩み相談がてら夜這いをかけて、
はしたなき頃に家に帰り、着替えて、文化祭あらし2日目突入のこと。
仕込みの時の“彼”が僕の世界で一番嫌いな“彼”だと、“彼女”に話してあげた。
その“彼”とは僕の友人であり、去年の始めに「俺の高校生活の目標は決して怒らない事だ」と語って、
僕を感動させたものだった。
「怒る」と「ぴりぴり不機嫌で悪い空気を創り出し最悪な雰囲気を醸し出す」ということは違うのだろうかと思う。
“彼女”も“彼”を愛しているとは言え、そう思わないではないようだ。
笑顔が大事。
可能な状況で、そうしない奴は、去ね。
2002.9.12(木) ケイン濃すぎ
スピードとざわめきがただずっとずっといつもステレオのささやきがまだずっとずっと今でも世界のスリルシュールでシンプルなスライドさ。
文化祭でした。
《半日教室》という平たく言うと生徒が先生になるというベターでレアーな行事で僕は毎年講師をやるのですが
「尾崎君は半日教室やらないでください」と生徒会部より警告が発されているので今年は生徒として。
【奇術講座】
赤い鰊が講師を務める所謂手品講座。
白紙を千円札に変えられるようになりました。
サーストンの三原則を学びました。
同じ講座に出席した同じ輩が大真面目な顔でこんなことを。
同輩「テロは絶対に、6月9日に起きるべきだったと思う。」
J「えっ?なんで。」
同輩「だって、
9月11日→ナインイレブンだろ。」
J「(ハッ)なるほど!…えろいな。」
同輩「その言葉を世界中の人間が悲しげな顔で口にするんだぜ?」
J「そりゃ恐ろしい。」
同輩「ブッシュとかが
『…我々は断固としてシックスナインと戦います!』」
J「
『我々は二度とシックスナインを繰り返してはいけません。』」
同輩「或いは
7月11日とか」
J「わー《いい気分》。」
同輩「
『我々は断固としてセブンイレブンと戦います。』」
J「ローソンか。
10月1日とかは?」
同輩「かわいい!」
J「
101匹ワンちゃん大行進みたいな。」
同輩「戦って欲しくないよなあ」
J「明らかにアメリカの軍事力のがまさってるよなあ…」
同輩「あ、9月10日。」
J「あ、それ俺も思った。ナイン・テン」
演劇部の公演。
広めの教室を借り切ってやるのですが
100人くらい入ってました。
ちくしょうこんなに客来るんなら無理してでも出させてもらえばよかった!
暑さの中お芝居が終わった後は
なんか異様に働きました。
《仕込み》だけでも疲れるのに《撤去》でもフル活用させられる一応OB。
肉体労働は主に僕に回ってきたらしい。
頭が痛くなった。
片づけが終わってから部活の子とぺらぺら喋っていると。
あ、なんか帰る時間になった。
僕は帰るのがめんどくさくてそのまま。
やがてぶらぶらと、暗い学校の中を女の子と二人で散策。
適当な教室に入り込んでまたぺらぺらと。
彼女の気持ちはごちゃごちゃしていたろうと思う。
単なる「男の子」と「女の子」というわけにはいかないのだ。
もしそうなんだったら、僕はその子にちょびっと悪戯してしまう事もできたのだから。
だけど本当はその他に、目には見えない何か、
付加的負荷がでか過ぎて
ごちゃごちゃ。
されどめちゃめちゃ楽しんでたみたい。僕も、嬉しい。
闇の中ぽけーと話をしていると
時は更に更け
見回りの兄ちゃんが来て
焦る。
見つかる。
怒られない。
「黙っといてあげるけど、まあ帰ったほうがいいよ」
ああ、なんていい兄ちゃんだ。
2002.9.11(水) ゆうしゃはマイルーラのじゅもんをとなえた!
今朝、私はある人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。
その夜、マンションの一室で、ひとりで、ねちねちキーボード打った。一睡もせず、キーボード打った。
僕の中での《あなたについての先入主》という
とあるひとつの物事の性質が、ある点で
クリッと音をたてて変わってしまったようです。
それももの凄いスピードで。
不可避的なもんなんですけどね。
たぶん今後、
僕が貴方の文章を噛み砕くに当たってのテイストには
これまでとは決定的な差異が生じてくるのでしょう
それは不可避的なものであって、
村上龍にもそれがきたように
小沢健二や
太田光に対してさえ
いつかそんな日は来るみたいです。
今日は9月11日。
僕にとってはボランティックな救助活動を大いに楽しんだ東海大豪雨の惨劇の日でも
ブッシュ主演凶悪メロドラマの中のワンシーンである同時多発テロの日でも全然なくて
この日について特別に言及する機会があるとすれば、
それはただ単に、大切な友達の誕生日であるということだけです。
一言「おめでとう」というのがどうしても照れ臭い相手なので
あえて祝ってやんねえし。
何を祝うのか。
未だに謎でもあるし。
あ、ちなみにあえて言及しますけど
警察や消防車を呼ぶときの電話番号って、
日本じゃ【110】とか【119】とかってありますけど
アメリカだと一括して
【911】
らしいですよ。
《ナイン、ワン、ワン》って読みます。
つまり去年の今日、米国で最もパンクフィーバーな回線だったのは、
この番号だったんじゃないかしら、とかね。
けどあのカタストロフのことを今じゃ誰もがこうやって呼ぶ、
【ナイン/イレブン】なんて
「負け」を認めたくないんだろうかねえ、とかさ。
藤田まことが
「主役を、生かすも殺すも脇役次第」なんて言ってましたが
脇役であるthe ビン・ラディンs(ここでは集合名詞の用法…)は、
遂に主役である《彼》(こいつも集合名詞だ!)を殺せなかったみたいですね。
逆に殺されてやんの、ウェエッヘッヘッヘエエ。
男の子としての破壊的な激情を除けば、
興味というものが余りわかないのでよく知らないんだけど
日本人で例のクライシスを「悲しい事件です」って言う人って、少なくない?
僕は嬉しい。
言ってる人いたら、軽く引くんだよね。
引いてから、問いただすんだろう、何でそう思うの?それで何人が死んで、誰が死んで、それがどうして悲しいのかしら。
ふざけんなってね。
「理由なんかないよ」っていう最低限の一言さえ
なかなか出てきやしないもんだ
(僕としては余り好きではない一言ではあるが)
そして本当にそう思ってる人は、そんなこと口に出すはずもなくて。
なんて断言はキケンかな。
僕中心社会の範疇で言わせて貰えば、《少なくとも僕は言わない》
僕がアレを悲しいと思うのは、米国人の嫌いな面をまたひとつ、ふたつ、みっつ、…。無限のインフィニティ…。…。
同時に、嫌いな日本人、フランス人、中国人、トルコ人、アゼルバイジャン人、「ジャンボ」という言葉を話す人々、…
そいつらも大量発生した日なんだと思う。
悲しい。
絶滅して欲しいとは思わないが
余り、係わり合いにはなりたくない。
だけどそいつが、アレを持ってたら、僕は差別しない。つきあいたい。
脳味噌の浮いてる水面下のみで話を進めていますが勘弁してください。
直接的に言うと軽蔑されたり、極右に刺されます。
ところで、国際貿易センタービルがぶっ壊れた事で、どんな弊害があったの?
なんであんなに米国は激怒してるの?
別にいいじゃん、ビルディングの1本や2本。
つまりね、たぶん何かあったと思うんだけどさ、
倫理的にも、道徳的にも、経済的にも、情勢的にも、宗教的にも、民族的にも、世間的にも、旅行代理店的にも、窓ガラスつくってる人的にも大工さん的にも一酸化炭素的にも芸術的にも殺人的にも人間の本質的にもブッシュ的にも私的にも、歴史的にも、/そして恐らくは僕にとっても。
何らかのまずい点はあったと思うんだけど、
それをとりあえず僕はひとつも知らないし、
(どうして飛行機にビルが突っ込んだだけで惑星一個が揺らせちゃうのかもわからない)
知ろうともしてなかったわけで。
誰か教えて。
ところで、この問題について考えまくればそれだけで、殆どの場合どんな条件の入試小論文でも書けます。
あ、訂正。
ところで、この問題について考えまくれればそれだけで、殆どの場合どんな条件の入試小論文でも書けます。
マズ ボクガ オモッテイタノハ、
ネツハ ドウシテモチラバッテイッテシマウ、
トイウコトダ。
ソノコトガ レイセイニミレバ ショウショウコウリツノワルイネツキカンデアルボクラトカ
ソノアツマリデアルヨノナカト ドウイウカンケイガアッテ
ソノナカデボクラハ ドウヤッテタイオンヲ タモッテイッタライイノカ?
マタアルテンデ モノゴトノセイシツガ クリットオトヲタテテカワルトイウノハ ドウイウコトナノカ?
ソレニ モノスゴクスピードノチガウモノガアルトイウコトハ?
つまりあれだけ好きだった人がたった1つの「音」が聞こえただけで醒め、
それ以後何にも思わなくなってしまう。
(便宜的に置き換えるなら僕にはどうしても《トカトントン》という「音」になってしまうのだが
何でもいいんだ、とにかく何かのきっかけなんだ。
それら「何かのきっかけ」が例えば抽象的にまとめあげられた臨時代名詞としての「音」という言葉で表現する、
単にそういうこと。)
では「音」が聞こえるとき。それはいつどこからどうやって聞こえてくるのかわからない。しかしいつかは来るものらしい。
例えば文章を読むとき、同じ文章でも、
「これは黒柳徹子が書いたんだけど」と言われるのと、
「これは黒柳徹子のアンチファンが書いたんだけど」と言われるのとでは
確実に印象が違うわけで、
黒柳徹子ファン(国定保護対象)にとって前者はより魅力的であり、後者は単に彼らの真っ黒な呪術スキルの矛先でしかない。
そしてそれらは《ある時点》をもって、クリッと「音」をたてて入れ替わる、というのだ。
一体どういうことなんだ?
つまり大好きな人をある時点でクリッと嫌いになる、そんなことと一緒で
ある人の中に潜ませた自分なりの「先入主」というものが変質する瞬間、その瞬間にその「音」は鳴り響く。
「音」が響けば、心の中は洗い流されるかもしれない。
ちょうど一晩寝かせた赤毛のアンが、一滴の涙すら約束してくれないように。
《あのときは、どこかおかしかったんだ》
そんなとこ。
そうやって思うと、僕らは常に何かしらに向かって「恋」のパルスを発振しているのだと思う。
『サザエさん』を毎週見ているのならば、それは「恋」だし、
カツオの声が富永み~なになった瞬間に熱が醒めて、全く視聴しなくなったのだとしたら、
それは明らかに富永み~なが「音」を発し「《トカトントン》!」と叫んだ結果であり、
その瞬間まで『サザエさん』に抱いていた感情が「恋」からもっと低次のものに変質してしまったことを示す。
そういうものかもしれない。全ての「恋」とも呼ぶべき感情は。
突然に変質する。
園田英樹は『絶対無敵ライジンオー』というアニメを「忘れられない絶対的な作品」と言ったが、
『レイナ剣狼伝説』について書かれた殆ど同じ叙述を知ったとき、
小学生の僕にはその「音」が聞こえた。
どの作品だって同じだ、作者の愛は変わらない、そんなの、知ってた。
でもいつしか、その《トカトントン》を聞いてしまった僕は、
園田英樹という人物への「恋」は半ば消え去り、
『絶対無敵ライジンオー』そのものに向けての「恋」だけが一人歩きを始めてしまった。
だからそれでも、園田英樹の小説の中で、『絶対無敵ライジンオー』だけは、未だ読む。超名作だ。
だが、『聖竜王伝』とかは、読む気すらしなくなってしまったのだ。
そんなもんなのかもしれない、どんなに好きで、
小学校の卒業文集までも園田英樹への愛で埋め尽くそうとしていた僕でさえ、
「音」さえ聞こえりゃそんなもんで「恋」も終わる。
もはや彼にクリエイターとしての魅力は蟻の前足ほども感じない。
ライジンオーを生み出してくれてありがと、篠田センセ、って程度。
悲しいねえ。でもそんなもんだ。クリッと変わる。音を立てて、確実に変わる。
現在僕の脳髄と唇に並々ならぬ愛情と狂ったような激情を流し込んでいる乙女達、
あんたらも同じ、いつしか運命はかく戸を叩く。《トカトントン》と。
それは長年蓄えてきた主義や主張も同じ事で、
僕がいくら「《彼女》という存在は絶対に作らない!」と豪語しているにしたって、
いつその「音」が聞こえてくるかわからないし、誰が戸を叩くかにしろ、確実に闇の中なのだ。
クリッと変わる。音を立てて、それはもう克明に変わる。
11月には僕が誰かと結婚していたとしても、
それは確かに誰一人予想《しなかった》ことかもしれないが、
だが決して、予測《し得なかった》というわけでは、まったくないのだ。
確実に変わる。運命は永遠に踊る。
今にも何か特別な音が鳴りでもすりゃ、僕はすぐにでも大好きな母親を殺すかもしれないのだ!
耳を澄ませば見えない遠く/歌っている声が聞こえる/この街の中あの声を出す/機械なんて見えない ないよ/あの声がここまで届かずに掻き消されたから/聞こえないあの透き通った歌
米国同時多発テロとの関連は、暇な人には考えてもらってもいいけど、暇じゃない人にはどうか読み流してもらいたい。 こんなコラボレーションは全く、僕が好きな蛇足というやつに過ぎない。余り単純に結び付けられ過ぎて、つまらないと思う人は、その人は全く、とりあえず僕の意思にだけは多分全く反していて、それでいてどうしようもなく、正し過ぎる考えの持ち主なのでしょう、と思う。
2002.9.10(火) 東海道中膝栗(下)
昨日はやったらめったらな友達の誕生日で、
去年はH Jungle with Tの『FRIENDSHIP』とtrfの『サバイバル・ダンス』をプレゼントした。
前者はわかると思いますが後者は内田有紀主演『17歳』の主題歌だったのです。
もー娘。よりもずっと先に「イェイ イェイ ウォウ ウォウ」言ってました彼ら。
で、今年はどんなプレゼントをしたのかというと、
『MIX JUICE』 グレートチキンパワーズ
『忘れないスクール・デイズ』グレートチキンパワーズ
『んなことあるか』グレートチキンパワーズ
はい、グレチキの
シングル全曲です。
っていうか3枚も出していた事に驚かれる方も居られるでしょうが、これは真実です。
『MIX』というアルバムも出てます。
※グレートチキンパワーズとは、平成7年に現役高校生お笑いコンビとして一世を風靡したジャニーズ並みのルックスを持つ2人組。『17歳』にも出てた。北原雅樹は『竜馬におまかせ』にも出てた。脚本は三谷幸喜だった。面白かった。北原雅樹はほぼ毎日Web日記をつけている。最近は相当暇らしい。ちなみに売れなくなってから爆笑オンエアバトルに出てボールが1個も入らなかったという伝説を持つ。
そのうちの一枚、デビュー曲の『MIX JUICE』(マゼマゼよーうミックスジュース)を、
同じクラスのとある女の子名義のプレゼントにした(つまり「『MIX JUICE』は○○さんからの贈り物です」って言った
だけ)
その見返りに
その娘に最近俺たちの中で密かな人気を集めブームになりつつある昔は高価なものでメニューにあるけど手が出ない今となっては置いてない忘れられてる存在となってしまった喫茶店のミックスジュースをおごってもらうことになりました。
コメダで。
平たくいうと、ヒモ街道まっしぐらなわけです。
文化祭の準備が終わって、6時半くらいから、彼女のバスがなくなる寸前まで喋っていたようなのですが、
まあ、落ち着く相手でよかったこと。
「ぞねさん(僕のこと)に対して私は凄い疑り深くなった」
と語る彼女。
それはこの日記が原因らしかった。
率直に表現すれば、「笑顔で話してても家帰ってから何考えとるかわからん」といったところでしょうか。
畏怖感情すら抱かれているのかもしれない。
こりゃあ、まずいなとも思う。
Web日記曝け出し行為の弊害ここにありってことで。
別にそれ自体僕はショックなわけでもなくて、向こうも色々わかって言ってるからいいんだけど、
弊害は弊害。
男女間での曝け出し行為について。
「女の子は女の子を捨てちゃならない」というのが通説、
それではどこまでが女の子でどこからがそうでないのか?
「それは男の子が決めることだよ」
なるほど。
そう考えると、勝手なもんです。
結婚生活で恋を成り立たせるには駆け引きとテクニック?
そんな疲れることはしたくない。家に帰ってまで、そんな。
かと言って愛の無い夫婦生活はやがて不都合を生むかもしれないし、
せっかくだからプラス方向に全てを働かせていたい。
そんなわけで。
(…この論には、恋というものを非常に狭義に捉える前提があります。
たとえば、みぎわさんがはなわくんに抱くような感情をここでは言っているわけですよ。)
2002.9.9(月) 東海道中膝栗毛(中)
ナイナイの日。
ナイナイ星のかたきうち。
ナイナイナ。
何度も言いますが1969年1月27日生まれの小山田圭吾は
corneliusとして1996年に27歳で『69/96』(トラットリアレーベル69枚目のCD、96曲入り)という作品を発表したのですが
(ちなみに『69/96』のリミックスアルバムは『96/69』)
彼は藤子不二雄の大ファンでして。
でもそれが理由で僕が小山田圭吾に興味を持ち始めたわけでもなくて、
聴くようになってからしばらくしてそれが判明し、そこに何か運命的なものを感じたのです。
こないだ、何年か前のクイック・ジャパンが古本屋に置いてあって、
表紙が小山田圭吾だったので手に取ったら、なんと…
藤子不二雄Aの『魔太郎がくる!』の単行本、しかもFFランド版(ちょっとレアなやつ)を片手に
妙に格好良く表紙に写っていた。特に藤子特集でも何でもなかった。単なる彼の趣味だった。
僕はびっくりして、すっかり嬉しくなってしまって、表紙を一枚めくると、
今度は高校二年生の時に卒業アルバム用に撮影された写真が載っかっていたのですが、
これこそびっくり、
なんとドラえもんの単行本(これまたFFランド版)を片手に撮影に臨んでいるではないですか。
ああ、…
全く同じことやってますわ…。(てんとう虫だったけど)
僕も卒業アルバムはドラえもん単行本を伴って写っているはずです。
なんだか運命的なものを感じずにはいられませんでした。
先日ルネ・マグリット展へ行ったときに、
『白紙委任状』というマグリットの代表作で、チラシやチケットの表を飾るほどに有名な作品なのですが、
その作品に便宜的につけられた番号があって、それが【69】でした。
ここでも割と、運命的なものを。
余談ですが、名古屋市美術館のコインロッカーを利用した際も、
ちゃんと69番のロッカーを選択し、鞄を収納いました。
たぶん僕は69歳で死ぬのでしょうし
奥さん総計100人計画は企画倒れ、
せいぜい69人といったところでしょうか。
そしてきっと、ロクでもない死に方をするんでしょうな。
おじいちゃん家の犬の名前は【ロク】だし。
刺されそう
2002.9.8(日) 東海道中膝栗毛(上)
新オバケのQ太郎3巻をワカッチャネエナ古書店にて50円で購入。
怪物くん11巻も然り。
フヒフヒ。
今日は学校祭の準備に向けてのクラス出校日!
(らしい)
というわけで再びマグリット展へ。
堪能。
しかし何ですな、日曜日の美術館で人間観察をしてみると
色んなもんが見えてきますわ
見たくはないものばかりだけど。
身体の表面積30%以上を共有しているバカップルとか
「まあ、素敵な絵ですこと!」
「なにいってるんだい、きみのほうがずっと素敵さ」
「ぽ」
とかほざくアホップルとか
は流石に居なかったにしろ
高校生くらいの美術に関心のあると見える2人組の会話。
「これは、対称になってるんじゃないかなあ、ホラ」
「うーん…、そうだね。そうかもしれない」
別に何ってことない微笑ましき会話だと思われるかもしれないが
きゃつらが、やたらと《したり顔》なのだ。
「すっごいこと発見した♪」みたいな。
アホかんなもん誰でもいっぺんくらい考えるわ(しかも《構図対称》である)
しかも別に素晴らしい思い付きだとも思わんし。
それを自分ら感受性高いわ見る目があるわ天才だわみたいな口調で語るなっつーの。
だいたいマグリットの絵なんてそんなところ突付いて掘り下げたところで何の意味もないと思うし。
(ひげなんかはやしちゃって)えらそうに。
昨日の講演会とか、2日間に渡る美術鑑賞などでも何度か目にしたのだけれど
何か芸術などに触れたときに
やたら頷いたり
そんな面白くもないのに笑ってみたり
うんうんと対象の無い相槌を打ってみたり
「なるほどね…」とかこちとら無意味な独り言を呟いてみたり
それって
そんな自分の感受性の高さを顕示したいのかね。自慢すか。
「自分、わかってます、理解してます、頭がいいんです」みたいなことを主張したいわけですか。
はた、異質を気取ってみたいのかしら?
理解してますアピール。
「私はこれを理解できてますアピール」
「私はこの芸術を理解するだけの感性を持っていますアピール」
「私はこの素晴らしい芸術作品に対して誠に素晴らしい作品であるといういち見解を抱いておりそれは引いて私のセンスの良さと感受性の高さそして趣味と教養の高尚さ加減を結果的に証明することになりますアピール」
「私はお前等よりも1個上のレベルに位置する人間なんだよカス共がっ!アピール」
そんな感じ。
僕だってそういうことどんどんやっていきたいよ。
多少やってるよ。
でもそんなあからさまにやれないよ。
だって恥ずかしいもん。
ていどひくい気がするもん。
だから羨ましいんだもん。
そんな臆面も無くあからさまにうりゃうりゃとセンシブルアピールのできるその根性、その精神、その日本人的気質。
分けて呉れ給え。
僕だってもっと自慢がしたい。十分してるけど。
でも、ていどひくい自慢の仕方は、したくないのだ。
女の子は、嫌いではないのだ。
パイプでたばこを吸ってたら
吸いすぎて
鼻が吸いこまれた
オムカエデゴンス ?
最近とくに本を買うんだけど
どうも引越しをめんどくさくしてるだけのような気がする。(本って重いのよ。)
どうせ読ま(め)ないし。
僕の趣味は、「いつか読みたい」と思う本を何百冊も(できれば何千冊も)本棚に並べて
眺めて
その中からそのつど選んでその時のインスピレーションで読みたいと思う本をさあ読もう、みたいなスタイル。
プチ図書館が既に部屋の中に建築されつつある(しかも僕の興味あるジャンル・作者のものばかり!のみ!)
楽しい。
ビバブックオフ
ねじまき鳥クロニクルの2巻ハードカバー新品同様が100円だった。
ありえはせん、ありえはせんよ!
凹と
凸ってなんかすっげぇ
えろい。
(ドイツ観念論に基づく)
男の子は
みんな
えろい。
(大陸合理論に基づく)
女の子は
みんな
えろい。
(イギリス経験論に基づく)
ルネ・マグリット展
何がしかのストーリー
歩いているだけで
小説が90本。
2002.9.7(土) じゃんけんぽん、ぎぼ(あいこ)でしょ、ぎぼ(あいこ)でしょ、ズコー
きれぎれ。
アイデンティティの確立
「怖さ」と「凹み」が僕の人生を支配していること、
苛立ちと涙こそが全ての感情を征服し、
生活を構成させていること、など。
名古屋市美術館へ行ってきました。
ルネ・マグリット展が開かれていました。
彼の『ピレネーの城』という作品に触発されて
『マグリットの石』という超名作漫画を描いたのは
安孫子 素雄
またの名を
藤子不二雄A
講演会です。
誰だってあなたに出会えばしびれる。
誰だってあなたに触れば興奮する。
誰か助けて!
ハニー何をすればいいの。
おっと興奮。
何が何やら訳がわからなくなっている。
なんだか
なんだかさながら
満賀道雄と才野茂が手塚先生の生原稿を拝んだ時のように
ああ
ああ
ああ
マシマロは関係ない
本文と関係ない
マシマロは関係ない
講演会場に入る。
A先生のプロフィールの書かれた紙が配られる。
恐る恐る見る。
そこには
藤子不二
男A(ふじこ・ふじお・えー)
ふざけるな☆
ところで、ピッコロって、たまに、
「…ふざけろ。」とか言いません?
たぶん「ほざけ!」と同じ用法だと思うんですけど
なんか、ねぇ…。
開場後、待つこと30分。
前から3列目のど真ん中の席に座り
講演席までは手足を全部もぎ取って一本に繋げば何とか届きそうな
ああ、ああ、ああああっ。
この距離がっ、この距離が、ああああっ、
このびちょびちょがっ、このびちょびちょがあっ、
と、唐澤なをき的な叙述形式をしてい
あああああああ
あああ
ああああああ
ああ
あああああああああああああ
あああああああああ
ドッキン
え・A先生!!
ドキ ドキ ドキ
ジ~ン
生きてる。
歩いてる!
無論嘘ですが感動の余りそのまんま卒倒したんで講演会の内容は全く覚えていません。
2002.9.6(金) 現代版ハムレット【Frailty, thy name is “man”!!】(弱き者よ、汝の名は男なり)
ぼく ステインベックのペーパーバックが好きだ
中途半端な気持ちじゃなくて本当に心から好きなんだぼく ステインベックのペーパーバックが好きだ
消費されるべき今朝
消化されるべき今朝
どちらがいっそう重要か。
答えなんてない。
けれどもそういう
確実にどうでもよくて、確実に面白くもない選択を
僕等は毎日強いられているのかもしれない。
枯れ葉が場所を選ばずに散っていくように、
けれども枯れ葉は確実に、どこか確実な足場を求めて空下を彷徨うだろう。そのように。
何処だって良い。し、何処だって同じ。
ただ僕等はいつも、その「何処か」に「何らか」の意味のあるような気がして
ずっと追い求めている。
答えなんて本当になくて、意味なんて何処にもない、「のに」僕等はいつまでもその何らかを捜し続ける、
無意味なもんさ。
ちょうど見込まれない醜女がその日の下着を思い悩むみたいに。
1個投げつければ100万個返って来る、そんな《広辞林》みたいな先生がいる。
実の本名はハヤシコウジなんじゃないかと訝われているくらいだ。
年齢はよくわからなくて、老けて見えるけど30歳だと言われれば納得するかもしれないし、
喩え彼が50半ばのオッサンだったとしても、誰も死なない。
昼休みはその先生、英語の先生なんだけど、昼休みにQuotation Dictionaryを見せてもらいに行ったら、
大いにシェイクスピアなどの話題で盛り上がった。
僕の喋る余地は殆ど無くて、だいたいにおいて僕の言いたいことは余りにも喋りすぎる彼が代弁してくれた。
しかし他の生徒よりも僕はよく喋るのだと思う。
彼独特のユーモアを解するセンスも持ち合わせてなくもない、と思う。
「日本でも第5代将軍の徳川綱吉とかいう人が《生類憐れみの例》を出したな、あの時なんかも日本国内はもうめっちゃめちゃになったんだ。もう街路が犬の糞だらけになって、みんなフンをフンづけててんこてまい。だから僕なんかはこう思うな、その頃に居た犬ってのは、…だいたいにおいてダックスフンド。」
進路指導室という厳かなる地に置かれて爆笑している教養ある僕に機嫌を良くしたのだろう、
「久しぶりに《高い話》ができそうだ♪」と言って嬉しそうに数万円はしそうな電子辞書を持ってきて、
ノート代わりにして色々と教えてくれた。
例えば嬉しいと思うのは、
彼が授業で【Get thee to a hospital.(病院へ行け)】と言ったなら、
ニンマリするのは《教養のある》僕だけなのかもしれないってこと。
Frailty, thy name is dictio.
(弱き者よ、汝の名は辞書。)
わかるかなあ…、
わかんねえだろうなあ。
今日はわざわざ「教養」などという厭らしさ抜群の名詞を二度も使ったが、
理系の友達からこんなことを言われたのだ。
「お前は受験勉強がそのまんま教養に直結するからいいよな」
その通りだと思う。国語と英語と世界史だけやってりゃいいのだ。最高じゃないか。
役立ちすぎる。
2002.9.5(木) ササン朝オールスターズ
あほの魂がいつも僕の心を支配する。
最近はまた思春期のがきんちょのような悩みを抱えて
学校が始まるといっつもそうだ。
特に、今のクラスは誰一人僕の事を知らないもんだから、
(つまり僕を《ジャッキー》として捉える人間が一人たりとも居ない)
単なる変人として扱われてやしないかと思うのだ。いやたぶんそうだろう。
だからせめてめちゃめちゃ素晴らしい学業成績を修めて別格を顕示させないと。
ああ、あああ、ああああ。
こりゃあ中学の頃と同じサイクルじゃないか。何だこりゃ。ちきしょう。
というわけで(どういうわけだ)
というわけで(どういうわけだ)
というわけで(どういうわけだ)
というわけで(どういうわけだ)
というわけで(どういうわけだ)
というわけで(どういうわけだ)
七月に受けた全統私大模試とかいう奴の結果が返ってきました。
正真正銘生まれて初めての模試さん。
つまり常套句を自覚して使っているのだということをいかに証明するか、という話。
というわけで(どういうわけだ)
森の中で蜘蛛の巣に出会うような頻度で会見を交わすこの文字列を皮切りに始まったストーリー
私大模試なんか誰も受けないので偏差値が高くなるのは当たり前でちゅが
英語と国語は偏差値が70弱
世界史はそれより20くらい低い。
というのも半分がマーク式半分が記述式で記述式の部分が全て学校で習っていない分野のもので
しかもその分野は完璧ノーマークだったため惨憺たる結果なのです。
というわけで(どういうわけだ)早稲田大学の《判定》とやらはEとかDとかだったわけですが、
その他(4つ)はみんなA判定でした。
というわけで(どういうわけだ)以下、結果を記す。
早稲田大学 第一文学部 E
早稲田大学 教育学部国語国文学科 D
日本大学芸術学部演劇学科 A
四天王寺国際仏教大学人文社会学部アラビア語文中期 A
長崎ウエスレヤン現代社会学部福祉コミュニケーションA A
椙山女学園大学文学部 A
わーい。
椙山女学園大学がA判定だー。
合格可能性80%以上だー。
しかも成績1位だしー。
わーい。
四天王寺国際仏教大学人文社会学部アラビア語文中期ー。
A判定だー。
合格可能性80%以上だー。
模試の順位
全国の順位
日本全国でこの学科で判定を受けた人の中での順位
1人中1位だー。
このだだっ広い日本で
四天王寺国際仏教大学人文社会学部アラビア語文中期を受験しようという輩は
僕しか居ないのだー
ってか僕受ける気毛頭ないから
誰も受けないんだー。
さすが中期ー。
足りてない足りてないよ
募集人員6名にすら達してないよ。
ひまかじま分校じゃあるまいし。
しかも1人しか受けてないから
四天王寺国際仏教大学人文社会学部アラビア語文中期のくせに
偏差値平均が68.9だー。
あほくせー。
ブルーは愛より出でて愛よりもブルー by じゅんし
世界の階段落ち
ストレートで透き通ったボディ・ブロー
右手と左手のただ鮮やかな分離現象
死の前兆
あああ、過去の景色がフラッシュバックする…
「誰の子だ!」というせりふと
「誰の子よ!」というせりふとの間には
確実に要される想像力に隔たりがある。
水差しで愛情が
脳味噌の隙間に注ぎ込まれるような
そんな部屋
「そんな部屋」って武器だと思うよ
だいたいどんな言葉の後に置いても
(言葉の流れの上では)それなりに生きると思うよ。
特に「ような」の後につくと効力を発揮するような
そんな部屋。
2002.9.4(水) 死にゆく高校生のための演劇教室
掛詞。わかるかな。「むしろ濃い」と言った時の、目に見えない「来い」っていう文字と、
それが理解できて、「来い」に囚われすぎた余りに、「濃い」という字面上の意味をおざなりにしてしまう危険性。
どちらも訳出しなきゃいけないんだよ、掛詞。
しかもこういうのって実はもっと何かでかい大系的な意味を持っているような気がする。
表面のざらざらにとらわれてその機能を忘れる、なんてのはよく聞く話で。
僕は去年、修学旅行で小豆島へ行きました。
その年、小豆島へ修学旅行で行ったのは我が校で2人だけだったそうですが。
その結果として謹慎処分(=停学)を喰らったらしいです。
謹慎とは言え学校の中のとある場所に毎日毎日朝から晩まで缶詰になっていたらしいのですよ、僕は。
する事も無く手持ち無沙汰で、「なんでこんなことさせるんだろう、あほなんじゃないか」とか
心の中では思いつつ反省したフリをして
(そりゃある部分では大いに反省しているのだがとりあえず校長の指針は好きでない)
日々を浪費しつつ思想に耽りながら暮らしていると
この学校で僕の最も大好きで、最も仲の良い(と僕は思っている)先生がやってきた。
彼はもう、今年(去年から見て来年)で定年、つまり僕と同時にこの学校を卒業していくんだけど。
こんな事を言う。
「俺は小泉が嫌いだ。」
何の話だろうと一瞬思った。いきなり何ほざくねんオッサン。と。
けど僕は静かに彼の話を聞いていた。
彼のこんなに真面目な顔は、授業でも滅多に見られないような気がしたからだ。
そして去年の10月当時、小泉の支持率は最盛期ほどではないがまだまだばりばりであって、
こんなことをどかどかずかずかと言ってのける社会的な知識人というのはとんとお目にかかれていなかった。
社会科のエキスパートであり、倫理と政経が専門であるが最近は世界史ばかり教えていて
長年のフラストレーション蓄積が懸念される定年寸前の老教諭は語る。
「俺は小泉が嫌いだし、奴のやってる事は間違ってると思う。だが歴史というのはわからんもんで、100年後には俺が馬鹿だったと言われとるかも知れんし、小泉が馬鹿だったと言われとるかも知れん。それはわからんことだ。」
たったこれだけの言葉から、言いたいことの全てが伝わってきたような気がして、
それ以来この言葉は僕の行動全てに関するワンオブ基本原理のひとつとなっている節がある。
この老教諭がこのように特別な言葉を発したのは余りに珍しい事で、
僕は1年生の現代社会のいちばんはじめの授業でこの人に惚れたんだけど、
(はじめはかっこいいオジサンのイメージ、けど次第にお茶目で無邪気で口が悪いおっさんだと言う事が判明。何にせよ凄いと思うのは、彼と会話していて「定年寸前」の匂いを全く感じないところである。視点が僕らと同じとは必ずしも言わないが、確実に20~30は若い言葉を喋っている。だから絶対に「じいさん」とは言わないで、「おっさん」と表現したいと思うのだ。)
それは今でも変わらないことで、世界史を教わっている現在でも学ぶ事は幾らでもある。
(現社と称しつつ実は倫理をやっていた1年生の授業に比べると世界史は無機質な感がイナメナイ
が、マニアックな情報量と「ちょっとした話」の面白さは凄まじい)
彼には著作がある。
『歴史への旅立ち』
まじで面白い名古屋市の図書館に行けばあるところにはあるので読むと良いです。
新聞で取り上げられたり、全国から教材として利用させてくれとのオファーが来ているとか来ていないとか聞くが
全然売れてない。
(寄贈100冊、売上400冊)
内容的には絶大な評価を誇っており(らしいよ)、
「ちゃんと宣伝すりゃそれなりに売れるんじゃない?」と彼に問うと
「ああ、宣伝すりゃ売れるよ」と自信の様子。何故そうしないのだろうか。勿体無い。
で、近々二冊目が出るらしいです。
『平和への旅立ち』
とは言っても定年祝いの気まぐれであり文集に毛が生えた程度のものだそうで、
書店・図書館に置かれる事は絶対にない。これはレアい。是非入手しよう。もう予約してしまった。
さて、何を思って僕がこんな思い出だらだらな文章をかきつくっているのかと言えば、
現在、小泉純一郎の人気が鰻昇りに下降中だからである。
100年後と言わず、1年後くらいには野田隆稔こそが現代政治理論の親であり、
小泉は死んで下さい的な存在になっているのかもしれない。
そうやって思うと、浮き足立ってたまらないのだ。
とある人は、2ヶ月前から生理が来ていなくてそれが度々僕の所為にされていたのですが、
まあ「名前はなんにしようか」くらいのジョークを交わす程度の柔らかな付き合いである。
その人からメエルが来て、笑った。
訃報です。
生理が来ました。
この後「お通夜はどうしよう」「学ランでいいか」くらいの会話に流れるのでありますが、
余りに面白かったのでこのメエルをクラスの気の合う女の子に教えてあげたら、
普通にひかれた。
む、このセンスを理解できないとは!
…いや、当たり前なのか。そら引くわな。
でも違うクラスの女友達に見せたら、
盲腸が破裂するほど笑ってくれた。
これはセンスの違いと言うよりは、
人前(男前?)で「生理」という言葉を堂々と口にできるか否か、の問題なのかもしれぬ。
或いは、《共感》の笑いだったのであろうか。ふ。
《耳をいつも澄まして、17歳の僕がいた》
セカイハボクノモノナノニ。
2002.9.3(火) ポカスカジャンは小山ゆうに描かせたらうまいような気がする
誕生日おめでとう
僕の命と引き換えに
17年間くらいは早く
君が生まれてきてくれればいいのに
僕は君には会えないけれど
110年
長すぎる
僕は死にたいんだ
2002.9.2(月) ヤマダクン二コ
山で隠れた朝日を背にして君の住む部屋へと急ぐのリヴァースを奏でつつ自転車を漕いでいると…
つまり夜明け前に自宅へ帰る途中だったんですわね。
【夜明け寸前のコカ・コーラ】という下らないワンフレーズのためだけに僕は自動販売機でそれを買って
ぶらぶらと川原の上の堤防の道路の表面上を見えない轍でいつの日にかは埋め尽くそうかと思ってたわけ。
ゆっくりと、高台の道路を走ってたんです、希望の轍に酔い痴れながら。
するとなんか後ろからしゃこしゃこしゃこって音がして、
猛スピードで自転車が僕を追い越していくの。
「朝早く マラソンしていたら 自転車乗ってるあの子に抜かれたよ」というさくらももこの詞を
糸井重里が異様に高評価を下してたなあなんてそぞろに思い浮かばせつつ
20~30メートルほど差をつけてしたり顔の猛スピード自転車、とにかく奴は速い。
でも本気の僕のがずっとか速くて
50メートル先でバテバテの彼を待つ。
夜明け寸前のチキン・チェイスは手を振って僕の勝ち。
言葉の知的所有権って単語・連語レベルで発生するものなのでしょうか。
「そんな日もある」ってフレーズが最近お気に入りなのですが、これはある人からのパクリです。
「無意味で有意義」これもパクリ。けど誰かが既に思いついていそうだ。ほら、23件HIT。
「アゼルバイジャンな」っていうフレーズはオリジナルですがある人の着想的協力によって成り立ったものであり、
もしこれパクられたら笑います、確実に。
こういうのって、なんか知的所有権が発生しそうな気がするんですけど、
確実にもっと原始的で、簡素な言葉でも、知的所有権の発生して欲しい場合がある。
「本能」「防衛」「アンビバレンツ」「オナペット」「マスターベーション」「基準値」「アンテナ」「ベクトル」「脳味噌」「僕」「コカ・コーラ」…
誰もが普通に、あるいはちょっぴり背伸びして、毎日どこかで発せられる言葉。
でも例えばこの中には、僕が、またはある特定の思想や表現力を持つ人物が使用しないと、
価値が出ない言葉が幾つもあるだろう、と思う。
それは普段からつけているメモ…僕はそれをF氏にあやかり「タネ」と読んでいるが、
そういった走り書き等も似たようなもので、
僕が読まないと価値が出ないのである。たった一文字、たった一個の単語から、無限のインフィニティ。
外的か内的かの違い。
始業式で、校長先生のお話しが余りにも感動的で、涙を流す。
「おい、おい、どうしたんだよ、大丈夫か?」
隣の友達が心配してくれる。
「…なんでもない、なんでもないよ、ちょっと、眼にゴミが。」
と、胡麻化す。
村上春樹のスニーカーの起源の話を思い出す。
校長はいつ見ても殴り倒したくなる。
何故なら、ハゲているからだ。
理由なんてどうでもいいのかもしれない。
久々に学校に行くと、
どうもず れていることを感じずには居られない。
僕はずっと、クラスで気の合う女の子のところにHELPを求めに行って、
「ああ、また来た」と呆れ顔を見せながらも歓迎してくれる彼女が好きだ。
最も落ち着く空間なのだから、もう何にも関係ない。
どうにもイヤナノダ、テスト中に周りを見回してみても、
張り巡らされた感性のアンテナはいつの間にか根腐れしてしまうようで。
諦めにも似た、
きゃつらへの見限りのような瞳で
僕は見えない涙なんて俗物的でかつどこにでも見られるようなモノを流出させつつ
数学
カンニングして
自分でも解けてるような問題を前の席の女の子が間違えてるのを見て
鼻で笑い
カンニングしても
解答用紙に適用させず
意味のない罪悪感にも苛まれずに。
裏側を落書きで埋めていた。
心の叫び。心の中身。
違う。
ここにあるのは、ある程度は本音であるがしかし、
単なる心の輪郭線。
単純に辛いのだ。
純粋に生粋に仏のムスケル仏のムスケル仏のムスケル仏のムスケル仏のムスリム
まーしかし。夜明け前。
薄暗い道。
誰かがもう走っていたりする。
東の空が燃えていて
大砲の弾だって破裂している。
薄明るいくせに星が出ていて、月が輝き
稜線が蜜柑色に彩られる。
間も無く朝日の誕生だ。
「昨日と今日がくっついていく世界」とか
「ひとつの時間の中にあって幾億も重なる昼と夜」だとかね、
そんなことを思う。
目を細めつつ朝日を待つほど母親ってもんはお寝坊さんじゃない。
体育座りして空を見つめてる片腕の浮浪者に全てを託して
僕は堤防を降り、屋上から走り幅跳びでぴょん、と飛び降りればそのまま川にぼちゃんという
我等が14階建ての立地条件へと吸い込まれていく。
夜中に男を連れ込んで夜明け前に帰すというサイクルはどうかと思う。
さながら平安美人、いやいやいやいや。
2002.9.1(日) B and たけし
脳味噌の基準値とアンテナ、ベクトルについて。
僕は努力したことがない。
というのは有名な話。
何人かに言われているし、
自分でもそう思う
けれども、
どうやらそうではないらしい。
基準値の問題なんだ。
何をもってして「努力」と呼ぶか。
これが大事なとこなんだ。
理想が高すぎるのかもしれない、
恐らくそうだろう。
空想的完璧理想主義者。
ピッタリだ。
これに「自己中」ってニュアンスさえ滑り込めばね。
僕は受験生なので、
(ここ20日間は「勉強」という概念を排斥、封印しているが)
もちろん勉強をする。
1日に何時間くらいやってる?
と訪ねられる事が度々あるが、
そんなのは日によってまちまちであり、
答えられるはずがない。
しかし、やるからには毎日最低でも10時間はやりたいし、
また、そんくらいはやっていた。
だから「8時間勉強した!」とか言って
狂喜乱舞しているような《受験生》は、
【?】という瞳で見つめているし、
僕にしてみれば、24時間休まず勉強しつづけてやっと、
「してやったり!」
な気分になれるのだ。
それが快感でもある。
10時間だろうと12時間だろうと
それが何日続こうと
身体が正常に機能している限り僕はそれを
「努力」なんて高尚なものだとは思わないし、
僕の中では24時間ぶっつづけで勉強するのと
24時間かけてドラゴンボールとドクタースランプと鳥山明○作劇場とCOWA!とカジカとサンドランドとヘタッピ漫画研究所を読破(67冊)する事はほぼ同一の労力なのであるし、更にその後、『鳥山明ボツ作劇場』を右手でスパゲティをゆでながらゆったりと左手で読むようなイタリアニッカリーな余力すら、僕にはあるだろうし、蛇仙人のもとで修行したテクリンのその後について夢想する精神的余裕すら残されているにチガイナイ。
たぶん僕はアンテナを向けるのが得意なのだろう、
勉強だったら勉強だし、鳥山明だったら、鳥山明。
例えば今夜、もしも僕が夜麻みゆきの漫画を一冊でも読んだなら、
敏感なアンテナは完璧に彼女の方角を向き、懐かしくも新しいベクトルを奏で始めるだろう。
それは浅野りんでも天野こずえでも、大友克洋でも同じなのだ。
そして、わざとマイナーな固有名詞を連発したことを自覚の明示化を以って記す。逃。
崇高な僕を保つため、手塚治虫や藤子不二雄の話題を出したいところでもあるが、
それなりにあるがまま。
アンテナってのは重要だと思う。
僕は詩にはまっていた頃、
脳味噌の中の殆どがそういった色に染まっていたし、
ベクトルが完全にそちらへ向いていた。
何を見ても詩のような言葉に変換されていた。
同じように、小説にはまれば全ての事象は小説的な言葉に変換されたし、
普段は何を感じても、この日記のような文体と口調で脳裏を流れる鮮やかになりきれない音楽。
やっぱり方向性ってのをはっきりと持てるってのはいいね。
ただ、詩を書こうと思ったら詩しか書けないのかもしれないし、
小説だと思ったら限定されるのかもしれない、
もしかしたら一生、日記しか書けずに終わるのかもしれないのだが、
そんなのは嫌だ。
と、思う反面、まあいいや、ってな節もある。これ恐ろしいところ。
で、
ちなみに現在僕の心を支配している懸念は何なのかというと、
これまで恒久的な趣味のひとつであった「読書」が、急速に僕の身体を蝕んでいる。
とにかく本を読まないと落ち着かないのだ、
簡単な児童書や挿絵のあるエッセイ集等も含まれるのだが、
一日に3冊4冊くらいは読んでしまう勢い。
もしも谷崎潤一郎の本とかがこの中に含まれていなかったとしたら、
もっともっと数だけはこなせるのだが。なあんて。
9月になったら封印が解けて、そろそろ勉強の方へベクトルが戻るのだろうな、
なんて思っていたのだが大間違い!
あと一月くらいは読書していたい気分。ん~、逃避。
ところで、うちの父ちゃんは割といい年で、
ちょっと危ぶまれているんだけど、
でも最近は気にしなくなってるらしい。
これぞまさしく、
頭皮
からの逃避。
あと、ベクトルが向きすぎて困るのは、女の子かな。
需要と供給、僕の場合は、これが難しい。
などと、時折日記などにしたためるからであろうか、
後輩(2個下・♀)からメールがあって、
「先輩ってぷれーぼーいなのかピュア☆な男の子なのかわかりませんー」
と言われた。
後者だと思いますが、といちおう書いてあって、
結論は「ピュア☆暗黒」らしい。
そういえば全くこのページを知らない同じく部活の後輩(2個下・♀)からも、
「先輩ってすっげーやりまくってるイメージありましたー」
とか言われた。
過去形なのがポイント。ふふふ。
あー
度胸がねえんだよ!
度胸が!
度胸さえあれば!
わたし、度胸さえ。
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