2002年8月後半の行い(Jacky)

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くやしいんだよ。
しずちゃんをまもってやれないのが。
あんなにこわがってるのに、なんにもしてあげられない。




とにかく僕は自己中心的な生き物。
自分が知らないことや、理解できないこと、
自分にはどうしようもできないようなことが嫌いだ。
やるせない気持ちになって、悶えてしまうのが怖い。
だからそういったものを
ひとつでも減らそう減らそうとして
毎日本を読むわけだし、誰かと話して、こうして何かを書いている。


僕にできることは
《しずちゃん》を抱き締めてあげることだけだし、
それで《しずちゃん》が笑顔を見せてくれるのかって云う事は、
また別のお話。

いつか江戸城将軍之介のように
君を攫って、彼氏になって、
口づけ合って、愛任せ。
僕の言いたいことは、
「子どもは親の操り人形じゃない!」
っていう常套句に当て嵌まると思うの。
単にそんだけなの。
これって、間違ってるかな。


2002.8.31(改) ジャムおばさん

《絶対的なものについての考察》

この世でいちばんたしかなもの、それはな、自分だ。
けれども必ずしもそうではないらしい、
というのはそれが「自分」であることに気付かずに、
確実にたしかである自分の視点から見て絶対的だと思うもの、
それこそが「たしか」であると思い込んでしまう。
親とか。

《その例示、―過去の景色がフラッシュバックする―》

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2001.3.5(月) ジャンピング逮捕

※今日の日記について、プライベートで触れないでくださいネ。本人ネット環境ないですから。


子供に勉強をしろという親がいる。
僕の周りにもそのような輩を親に持つ友達がいて、
曰く、「勉強との両立ができないから、(大好きな趣味)をやめなさい」と、言われているらしい。
百歩ゆずって何時何時にはやめろと、そう言われていると。
そうなれば、本人が悲しむのはもちろん、それに関わっている人間達に迷惑がかかることは否めない。
やるせなさとうしろめたさはずっとついて回るだろう。
勉強などに身が入るものか。
一度しかない青春が勉強か。
僕に言わせれば、そんな人間はレベルが低い。
たとえ子供のデキが良くても、腐らせてしまうのではないか。
「やれと言わなければ勉強しないから」という意見もあるかもしれないが、
例えば、勉強しない=デキが悪いとすると、単に自分の子供がデキが悪いだけのことだ。
子供にどんな幻想を抱いているか知らないが、レベルが低いのである。
もちろん、そんな人間達がたくさんいて、社会を支えているからこそ、楽しめる面も多い。。
だから、そういう低レベルな人間が絶滅してしまうのはまずい。
でも、例えばレベルの低い人間がレベルの高い人間を潰してしまおうとしているとき、
レベルの低い人間の必然的存在価値は僕の中でリセットされてしまう。
ちなみに先に挙げた友達のレベルが極めて高いと言っているわけではないし、かといって低いと言っているわけでもない。
とにかく僕は、子育てをマスターベーションにするような輩は嫌い。
子供のためを思って、だかなんだか知らないがお人形さんごっこは嫌い。
しかも、それによって他人も悲しむし、迷惑するんだよ。
子供のことを考えるなら他人に迷惑かけたり心配させないようにしましょうよ。
現に今めちゃくちゃ心配してるひとがいるんですから。
親が子供を泣かせていいのは死ぬときだけだ。
僕はあれほど悲しい涙は見たことがない。
んでもって、綺麗だったから、澱みのない本物だと思ったから、何かしら力になってやりたいと思ったね。
しかしまあ、それも無理だからこんなところで語りを入れているわけで。
何も親御さんが直接流させているわけではあるまい、心の中で渦巻くモノがあって、コレカラ、コレマデ、全部考えて、自分が悪かった、と行いを悔いたかもしれないし、どうしていいかわからなくて、途方に暮れる気持ちもあったろうが。
何泣かしとんじゃオラァと。
言いたいのはそれであります。
ガキの気持ちくらいわかれよバカヤロウ。

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《推敲、その抜粋、過去のことと、更に未来ではあるそれでも過去のこと》

やめてくれ、父さん。

毎晩彼女を思い描いてマスターベーションに励んだ。そして自室のごみ箱はティッシュであふれた。
届きそうで決して届くことのない彼女を想って。

やめろ!

いや、素晴らしい。これは本当に素晴らしいことだ。

僕は父さんじゃない。

最高のものができそうだ。

僕は父さんなんかじゃない!

何を言ってるんだ?

毎日毎日マスターベーションしてるのはあなたの方だっていってるんだ。これはなんだよ。これこそ自己満足の骨頂じゃないか。そもそも自己満足じゃないことなんて存在するんですか。世の中にマスターベーション以外なんて存在しないんだ。

そんなはずないだろ。私はお前を育ててきたんだ。お前を思って。

やめてくれ。恩着せがましく育ててきたっていうのはやめてください。

それじゃあ誰に飯を食わせてもらってると思っているんだ。

それじゃあ父さんは飯で僕を縛るんですか。飯を食わせてもらってるからあなたの子ですか。

そういうわけじゃない。しかし

しかし?しかしなんです。誰がここまで育ててやったんだ。お前が学校に行けるのはどうしてだ。ですか。

そういうことをいってるんじゃないんだ。私とお前との関係はそんなものじゃないんだ。そんな月並みな言葉じゃ表現しきれないんだ。私は 私がお前といるのは。

自分のためでしょ。種、自分の分身を以後の世界に残す。これこそまさに自己満足じゃないですか。そして自分の分身をどうするんです?自分の快楽のためにそだてるんだ。自分の名誉のためにいい学校に入れいい会社に入れ自分の老後をまかせる。自分の果たせなかった夢を子供におしつけ、さも子供の夢のように思い込ませる。自分が守ってきた家、名前、職業を継がせる。こんなのどう。今、自分の快楽のために邪魔だから殺す。それに比べたらハッキリ種の保存を快楽の邪魔な付属品だと考え避妊をする。できた子供をオロしてしまってるほうが罪がないのかな。たかが数年の違いだけなんですけどね。そして父さん。あなたはやってくれちゃいましたね。自分のために、自分の快楽の追求のために、自分の快楽の追求の作品のためにあなたは僕を使ったんだ。


『箱があった。からっぽの箱があった。希望すら入っていないからっぽの箱があった。僕はその箱をいっぱいにしたかった。だから箱に今の僕自身を入れた。これがその箱だ。けどまだ箱は…』というお芝居は、僕が今まで見た芝居の中で最高のものであり、僕の友人が書いたものだ。これらの台詞はその中のもの。
彼は、恐らく僕の書いた「とにかく僕は、子育てをマスターベーションにするような輩は嫌い。」という言葉とその前後から何らかのインスピレーションを得て、あのシーンを描いたのだろうと思われる。その辺の話は長くなるし、あまり書かれてて本人が嬉しいものでもなかろうと思われるので割愛。
誰もが思っていて言わないことであろうが、子どもをオナペットにしている親っていうのは多過ぎる。
そういう人こそ本当に世の中に必要ないのだとも思う。
そういえば今日観た超光速トイソルジャーという劇団の『タイトロープ』という芝居の中で最も不快だったのが、
登場人物の彼女が妊娠してて「育児計画書」みたいなのを書いていて、
「…2歳、言葉を喋る、3歳、漢字を覚える、…8歳、…」とかって、
ほぼ1年ごとに自分のガキの成長過程の「予定」を書き連ねてるの。
たぶん脚本家はそれほど意識していないだろうけど、ギャグでも何でもないようだし、とにかく不快。
こういうところから、あの芝居の統一感の無さっていうのが生み出されるのだろう。
一本ピンと張った芯みたいなものが見えてこないというか全体的に見ていて気持ち悪くて痛々しいというか。
とにかく、ドラえもんの『ぼくが生まれた日』でもそうなんだけど、
子どもに期待しすぎる親ってのは、
その期待を何らかの形として具体化したり、行動に映してしまった瞬間に、死ねば良い人間に早変わり。

《子どもをおかずにしたオナニー、その効用と持続性》

それが絶対的なものでありつづける限り、強大であり、永遠である。
世の中にどうしようもないものがひとつあるとすれば、それは血だ。
2002.8.31(土) 変さ値

《絶対的なものについての考察》

この世でいちばんたしかなもの、それはな、自分だ。
けれども必ずしもそうではないらしい、
というのはそれが「自分」であることに気付かずに、
確実にたしかである自分の視点から見て絶対的だと思うもの、
それこそが「たしか」であると思い込んでしまう。
親とか。

《その例示、―過去の景色がフラッシュバックする―》

子供に勉強をしろという親がいる。
僕の周りにもそのような輩を親に持つ友達がいて、
曰く、「勉強との両立ができないから、(大好きな趣味)をやめなさい」と、言われているらしい。
百歩ゆずって何時何時にはやめろと、そう言われていると。
そうなれば、本人が悲しむのはもちろん、それに関わっている人間達に迷惑がかかることは否めない。
やるせなさとうしろめたさはずっとついて回るだろう。
勉強などに身が入るものか。
一度しかない青春が勉強か。
僕に言わせれば、そんな人間はレベルが低い。
たとえ子供のデキが良くても、腐らせてしまうのではないか。
「やれと言わなければ勉強しないから」という意見もあるかもしれないが、
例えば、勉強しない=デキが悪いとすると、単に自分の子供がデキが悪いだけのことだ。
子供にどんな幻想を抱いているか知らないが、レベルが低いのである。
もちろん、そんな人間達がたくさんいて、社会を支えているからこそ、楽しめる面も多い。。
だから、そういう低レベルな人間が絶滅してしまうのはまずい。
でも、例えばレベルの低い人間がレベルの高い人間を潰してしまおうとしているとき、
レベルの低い人間の必然的存在価値は僕の中でリセットされてしまう。
ちなみに先に挙げた友達のレベルが極めて高いと言っているわけではないし、かといって低いと言っているわけでもない。
とにかく僕は、子育てをマスターベーションにするような輩は嫌い。
子供のためを思って、だかなんだか知らないがお人形さんごっこは嫌い。
しかも、それによって他人も悲しむし、迷惑するんだよ。
子供のことを考えるなら他人に迷惑かけたり心配させないようにしましょうよ。
現に今めちゃくちゃ心配してるひとがいるんですから。
親が子供を泣かせていいのは死ぬときだけだ。
僕はあれほど悲しい涙は見たことがない。
んでもって、綺麗だったから、澱みのない本物だと思ったから、何かしら力になってやりたいと思ったね。
しかしまあ、それも無理だからこんなところで語りを入れているわけで。
何も親御さんが直接流させているわけではあるまい、心の中で渦巻くモノがあって、コレカラ、コレマデ、全部考えて、自分が悪かった、と行いを悔いたかもしれないし、どうしていいかわからなくて、途方に暮れる気持ちもあったろうが。
何泣かしとんじゃオラァと。
言いたいのはそれであります。
ガキの気持ちくらいわかれよバカヤロウ。

《推敲、その抜粋、過去のことと、更に未来ではあるそれでも過去のこと》

「僕は父さんじゃない!」

「毎日毎日マスターベーションしているのは父さんの方だって言ってるんだ!」

『箱があった。からっぽの箱があった。希望すら入っていないからっぽの箱があった。僕はその箱をいっぱいにしたかった。だから箱に今の僕自身を入れた。これがその箱だ。けどまだ箱は…』というお芝居は、僕の友人が書いたものだが、これらの台詞はその中のものだ。
彼は、恐らく僕の書いた「とにかく僕は、子育てをマスターベーションにするような輩は嫌い。」という言葉とその前後から何らかのインスピレーションを得て、あのシーンを描いたのだろうと思われる。その辺の話は長くなるし、あまり書かれてて本人が嬉しいものではなかろうと思われるので割愛。
誰もが思っていて言わないことであろうが、子どもをオナペットにしている親っていうのは多過ぎる。
そういう人こそ本当に世の中に必要ないのだとも思う。
そういえば今日観た超光速トイソルジャーという劇団の『タイトロープ』という芝居の中で最も不快だったのが、
登場人物の彼女が妊娠してて「育児計画書」みたいなのを書いていて、
「…2歳、言葉を喋る、3歳、漢字を覚える、…8歳、…」とかって、
ほぼ1年ごとに自分のガキの成長過程の「予定」を書き連ねてるの。
たぶん脚本家はそれほど意識していないだろうけど、ギャグでも何でもないようだし、とにかく不快。
こういうところから、あの芝居の統一感の無さっていうのが生み出されるのだろう。
一本ピンと張った芯みたいなものが見えてこないというか全体的に見ていて気持ち悪くて痛々しいというか。
とにかく、ドラえもんの『ぼくが生まれた日』でもそうなんだけど、
子どもに期待しすぎる親ってのは、
その期待を何らかの形として具体化したり、行動に映してしまった瞬間に、死ねば良い人間に早変わり。

《子どもをおかずにしたオナニー、その効用と持続性》

それが絶対的なものでありつづける限り、強大であり、永遠である。
世の中にどうしようもないものがひとつあるとすれば、それは血だ。


藤子不二雄A先生講演会の整理券GET。
×3。
有頂天。


合宿で、後輩がふと「アンビバレンツ」という言葉を口にした。
アゼルバイジャンと同じくらいナイスな語感を持つなあとか思ったけれども、
意味はよくわからなかった。
「アンビヴァレンス」と言うとかっこいい上にちょっとわかる気がする。
色々調べてみた。
すると、
なんてことはない。
アンビバレンツとは僕のことであったのだ。
完全に僕は、アンビバレンツな人間だったのだ!


世界中の脳味噌を集めても
僕の求めてる思いに足りない
頭蓋骨がはちきれそうさ
みんなの鼓動と息づかい、全てが全てを切り裂いていく
ハレルヤ!

飛んでる馬鹿にはわからない心労
逃げ出したい気持ちすら 足枷
蹴り飛ばしてはみたものの 回り続けてる ラルル 脳味噌 心臓 この瞳
つまんないはずだった自分 君を見るとなんか自信がもてる
どうして世界は馬鹿の肉塊で構成されているんだろう?
2002.8.30(金) 夢精音(アルキメデスら輩出)

モーニング娘。が童話集を出すらしい。
一人一冊出すらしい。
ふざけんな。
死ねって思う。

…ね。
「死ね」って有用な言葉。
最も端的に、イージーな感情がイージーに伝わるんだよね。
少しだけ
軽蔑とか失望とか見限りとか
読み手に抱かれるかもしれないんだけど
楽。
「最近ではだいたいそうだよ」
「そんな日もある」
あー
すっげぇ楽。
言葉自体にセンス光ってると、言ってるだけで気持ちいいんだけどね。
「死ね」って、
…ノーセンス。
口にするだけで嫌になる。
軽々しく使える人間って、神経疑うよ。

歌って踊ってるうちはいい。
けど、
本まで出すんだ…
羨ましいなあ。

才能無くても、本って出るんだよね。
運だと思う。

僕みたいな人間、立場なしだね。
いいけどさ。
この際だ笑うのさ、あっはっはっは、あっは、あー。



夕方、誇張すると何十回目かに岡田淳の『二分間の冒険』を読み終えた瞬間に、
自転車を駆って、とある女の子のところへ行って、その本を突きつけて、強制のココロ。
寄り道で古本屋へ行って、
日本文学全集を2冊、文庫本を15冊、世界史の本を1冊、漫画を2冊、たまの「さんだる」を1枚。






藤子不二雄とか、岡田淳とか、ホント面白いと思う。
譲歩を欠かさない後輩が、
「~のような気がする」が口癖の後輩が、
この時ばかりは、こうやって言うの。

「絶対面白いし!」
[3a.m.op]

笑え笑え笑い飛ばせ
僕たちの目は見えすぎて
ずっと宗教のようにからまるから
いつでも僕の舌はいつもから回りして
言わなくていい事ばかりがほら溢れ出す
Buddy

僕は8月10日ごろまで、正確に言えばたぶん演劇部の県大会を観に行った日くらいまで、
その頃まで僕は《勉強》ということに貪欲だったし、人一倍それをしていたと思う。
そして生まれて初めてのナントカ模試という奴でそこそこの成績を取った。
途端に虚しくなってしまう。
「ほんとのこと知りたいだけなのに夏休みはもう終わり」って、マヒナスターズの息子が僕に囁く。
それから、狂ったように女の子と遊んだり、本を読んだり、テレビを見ていたり、一日中我がPC-98を稼動させていたり。
酒を飲んだし、芝居も観た。ページの更新にも久しぶりに励んだし、そうそうカラオケにも行った。
《処女と非処女の間にあるもの》をさえ、被験者を眺めて考察する余裕すら出てきた。
合宿に行っても勉強せずに芝居を教えたり本を読んだり文章を書いたり語ったり。
友達の家に泊まって一晩中馬鹿らしい話に酔い痴れたり、ああ、花火も見たじゃん。
こんな感じで、夏休みの思い出ってやつ?高校生活最後だ。
友人は9日もかけて屋久島へ旅行したり、大阪のドラえもん展へ足を運んだりしている。
屋久島へは僕もいつか行かなくてはならない、ドラえもん展は、春に東京会場があるので意図的に行かなかった。
どちらも羨ましい話だけれど、それらを前にして恥ずかしくないくらいの夏休みを、僕は経験したつもり。
公園のトイレの中でえっちに励むことだって、そういったものの中に含まれてるのさ。
だから鼻で笑う、
2002.8.29(木) 千と千尋の髪の毛

《『5つ』のワンオブ大好きなもの。》


       早稲田大学
       レオナルド熊
       谷川俊太郎
       あまいぞ!男吾



…わかるかなあ。
わかんねえだろうなあ。
単純に、こうして愛を、送信しているんだ。
僕の大好きなものたちで、ほら構成されているから。
そうしてほくそえむのは、確実にみんなドラッグしてんだ。
大声で笑うのさ
あっはっはっは、
あっは、
あー。




《ぐしゃぐしゃとしたものについての考察》

合宿で、演劇部に片足の薬指を残して浸かり切ってしまった後輩が連発していたフレーズ。
村上春樹がたぶん、何らかの洋服を纏いながら鉛筆かキーボードを中継して産み出したフレーズ、に似ている。

どうも、考察家のジャッキーです。

第一回は、【千と千尋の神隠し】。

僕らが【千と千尋の照れ隠し】に大爆笑していたときに、

後輩が【千と千尋の金隠し】と呟いた。それに対して友人は、

「それは体育の後の着替えの時間にぼそっと呟いてちょっと笑ってもらえる程度だぞ」と。僕も、

「第一に、金隠しは下ネタで、必然的に構えられてしまうし、死語になりつつある、危険だ」などと言いつつも、

心の中で【千と千尋の金閣寺】の方がまだ面白いな…とか思っていました。

ちょっと喋って、【千が千尋を神隠し】とか考えました。

で、今日の日記を書くときにまたいろいろ考えて、最終的にアレにしました。

Googleというエンジンでそれぞれ検索してみたところ、


【千と千尋の神隠し】…92600件

【千と千尋の照れ隠し】…10件

【千と千尋の金隠し】…34件

【千と千尋の金閣寺】…10件

【千が千尋を神隠し】…6件

【千と千尋の髪の毛】…0件


なんというか、自分のセンスに自信が持てた気がします。

「金隠し」以外は僕のひねったネタだから、嬉しい。

「金閣寺」は「金隠し」ありきのネタなんで、件数が少なくて当然ですが、

「照れ隠し」と「千が千尋を」のセンスがこの広いネット上で数人しか共有していない感性で、

「千と千尋の髪の毛」なんてのは、絶対に誰かが言っていそうで、実際は誰もネタにしていなかった。

あっさりとした、有り触れていそうな考えこそが、本当は誰も思いつけない。

やっぱりみんな考えすぎている、技巧に走りすぎなんだな。正直になればよいのだ。

幾人かの女の子にとある簡単なパズルを出題してみた。

考えすぎると、絶対に解けない本当に単純明快、簡単なパズル。

9つの点を4本の線で結べってやつさ。

見えないワクをひとつだけ飛び越えさえすりゃ、世界は自分のものだってのに。

ディスパイト!

1時間も2時間も考えて、ギブアップする。答えを言うと、

「そんな感じかとは思ったけど…」とか

「家に帰ってから考えてたらわかった」とか、色々に言います。

そうかもしれない。問題は「気付いた」か「気付かなかったか」の違い。

確実に大きい、最近の僕の思考を支配して、人生の考察に必要不可欠な発想。「気付いた」か、オアノット…

これは脳味噌の持つ「運」であり、能力じゃない。

「誰だってわかる」そりゃそうだろう。

けどそれはコロンブスの卵のようなもの。

悪い言葉を使ってしまえば負け犬の遠吠えと言うのだし、どれだけ良い言葉を選んだって、負け惜しみ。

行動力と発想力、そして人間性の豊かさは同期しないのだとこんなとこから思いは巡る

そんな17歳の夏休み、今日も頭の中でだけ    《ぐしゃぐしゃしたものへの考察》。




モチーフ《笠原メイの家に起こった唯一の悪いこと、笠原メイのぐしゃぐしゃとした熱源についての考察》

そして0→1への飛躍が比較的素晴らしいものだということを、
僕らは早く、もっと確かで具体的な形によって、掴み取らなければならないと思う。


今日のこと。とある女性に会った。僕が信頼を寄せている女性。
しかし僕は、彼女と討論をすることができないみたいだ。
一方的、猪突猛進片思い的な物語に、最高の聞き手。
それでいいのかもしれない、それでいいのかもしれない。それでいいのかもしれない、のだろうか?

期待することを終わらせやしない、
抱き締める事を躊躇いはしない、
唾を吐くことを、忘れやしないさ!
2002.8.28(水) 11人はいる!

朝方ぼーっとベンチに座って、ご飯の時間。
なんか僕だけ元気みたいな地獄絵図。

ふー。
部屋の片づけして練習。



昨日のお昼から付き添いの教員が交代したんだけど、
その先生っていうのが一昨年僕が文化祭でやった
ドラえもん講座の担当顧問をしてくださった先生なんだけど、
奥田民生と同い年。リアルタイムでドラえもんを読んでいた世代。
で、結構知ってるし、好きみたい。

僕の講座も割と気に入っていただけたみたいで、嬉しい。
その時点でもうすっごいストライクなんだけど、
昨日の夜に、色々その先生と、例によって頭でっかちな男三人とで語って、感動した。
この先生は、完全に僕らと同じ視点でものを見ている。
なんていうかもう、このムダにでっかくて暴走がちな若き脳味噌三つに囲まれて36歳が立っていて、
会話が成立しているところが恐ろしい。
意味無く生徒(と言わず一人の人間みたいな喋りなんだけど)を否定せずに、
黙って聞いていて、聞き終わってから出るのは核心をついた言葉。
若々しさに満ちていて、それでいてどこか、少しだけ熟した意見。
僕は自分の未来にさえ重ねて、ふわふわとなった。凄い教師だと思った。
実はその先生、英語教師で、「スティーブ」って呼ばれてて…ん、僕って、「ジャッキー」だよなあ、とか。
うちの学校にも、こんな先生が居たんだなあ、なんて。


それが決定的になったのは、彼がとあるせりふを口走った時。
僕はいたく、「場所的に迷路的」という言い回しが気に入ってたんだけど、
彼はそのフレーズを何度か聞いていたみたいで、僕にこう言った。

「僕もその言い回し、気に入ってる。好きだなあ、うん、なかなかいいよ」

感動した。
…わかるかな。
だいたいどの先生に言ったとしても「面白いね」くらいのことは言うんだ。
だって、「場所的に迷路的」って、明らかに面白い言い回しだもんね。
けど、この人は「気に入ってる」って言った。「好き」だって。
これって、「面白い」とは全く違うところなんだよね。
うまく言えないんだけど、
「面白い」っていう捉え方って、何か面白い《物事》があって、それに対してセンスを投げかけて捉えてる。
けれど「気に入ってる」とか「好き」だとか、確実に確固たる自分のセンスが中心にあって、
その中に「物事」を捕捉して、取り込んで、咀嚼して、判別して、最終的にそれを「面白いもの」として受け入れている。
わかるかな、このイメージが。
外的に面白いものを眺めるか、内的に取り込んで楽しむか、っていう違い。
簡単で単純なことだけど、怖くなるほど重要なこと。
これって、完璧に僕らとセンスの形が同じ。
感動してしまった。



で、その先生とこの形容もするのもそろそろ飽きたけど例の「頭でっかちな後輩」が、
なんか政治の話をしていた。
一日目の語りにも話題に出た、「世代」についての話になった。
これは、僕の中でもまだ完全に整理がついていない話なので、暖めておく事にする。
とりあえず小泉本人には人間的な魅力が全く欠けているし、
ブッシュが軍事力に走るのはクリントンのカリスマ性に対するコンプレックスの現れで、
奴はそれでしか支持率を獲得できないってのがわかりきってるって話。



昼食とって、練習して、帰り。
森口くんに最後の、ホントに人生最後かもしれないお別れをして、バスに乗って、電車に乗って、
またもや自分の消極性に部長と共に凹む。



銀河鉄道999のスタンプを名古屋駅で押して、とりあえずのお別れ。
僕は街に繰り出して、逢引。
もちろん、合宿で得たものを外的に放出して咀嚼して再構築させるため。
しかし、なんか疲れてるのか、得たものが大き過ぎたのか、
全然言葉が出てこない。
で、トイレ。
2002.8.27(火) 逃がさぬものか!

朝食までの間も、ずっと語ってて、ご飯食べて、みんなは練習に行って、僕ら3年生は「勉強」
ということになっている。
しかしすぐに飽きて、谷崎潤一郎を読んで、徹夜明けには眠くなることに気付いて、
モバイル機で文章を書きまくった。
昨日の語りの内容のこと、後輩についての考察など。
そうしているうちに時間って過ぎるもんで、夕闇も過ぎて練習場に行って、すぐ風呂入って、ご飯食べて、夜。
語り…とか思ったんだけど、なんかみんながトランプやりだした。
僕は性格上の理由で不参加。
以下、その時に書いた文章が続く。



《トランプについての考察》
なんていうかさー。
トランプってアミューズメントだよね。
何の実にもならない。
楽しいかもしれないし
頭を使うし
冗談言って楽しいし
それってやっぱり「蓄積」かもしれない。
だけどさあ、やっぱり違うよ。
もっとやることがある。
僕は「語り」ということにウェイトを置き過ぎているのかもしれないが
トランプをやるってのは結構、
大人たちが麻雀をやったりするのと同じで、
学校の休み時間や合宿の夜という、比類ない時間を浪費する
ガキと高校生にとって最もイージーな「交際」の手段。

「」って語彙不足からの逃避だよねー。
イージーな手段だ。

で、そのイージーな「交際」の手段ってのは、
人間関係の円満を維持・保有するための代表的潤滑油。
トランプやってるときって独り言が多い。
それってつまり、《俺たち今「交際」してます》というサインの顕示。//



また少し違う時だけど、こんな会話が聞こえたのを思い出す。



《ブラック・コーヒーの麻薬性と、第三者さえ否定する顕示欲についての考察》

A「ブラック・コーヒーが好きなんですよ」

B「俺も中1の頃、ブラックにはまった。」

A「いや、はまったというか…ブラックしか飲めない。」

この会話、「いや、はまったというか…」という言葉に象徴。
Aは、なぜBを否定するのか。
俄然ショック!
Bの言うのは単なる彼の「思い出話」なわけであって、
何らAへの押しつけがましい感情は持っていない。
自意識過剰の精神が深層真理からにじみ出ているの図!



次第にトランプも終焉を迎えて、やはり語りモードのような勢い。
と、思いきや。
1年生の女の子(昨日の子とは異)一人と男ほぼ全員で、なんかよくわからない会話。
面白い。笑える。
ホントに「無意義で有意味」って感じ。昨日とは正反対。
「有意味」って言葉にピンと来なければ、「ユウイミナ」と考えても良い。
ユウイミナの新しい側面を見つけて、嬉しい。
8月終盤にしてやっと、一年生の携帯番号を完全GET!
よくわからない会話も終わり、女の子は部屋に帰り、
僕は頭でっかちな後輩と僕の最も尊敬する児童作家岡田淳トーク。
これも、三日目くらいにモバイルで書いたもの。



《岡田淳についての考察、あるいは英単語のストックとパーフリの基本原理》

岡田淳が「ようこそ、おまけの時間に」という本の中で
主人公が準主役級の女の子に
そう、それが「単なる夢」だと思い込んでいて、
だからどうにでもなれみたいな感じで
こういった台詞を言わせていたのを覚えている。
「朝日に映った君の姿が、あまりにもすてきだったからさ」
うーん、とか思う。
どうなんだろう。って。
やっぱり、「すてき」っていう言葉をひらがなで描く、っていうことに
どのような意味があるのかなとか考える。
岡田淳は「すき」というひらがなも多用する。
このニュアンス。
いやみってもんがない。
目に見えた技巧ってのは児童文学の中にやっぱり少なくて
けれど僕の好きになる作品は、緻密。

最近のキーワードの中に「緻密」という言葉が滑り込んできている。
僕は気に入った言葉や、有用だと思った言葉をまず使いまくって、
もうそれこそ馬鹿みたいに、使って使って使って使って使いまくって、
その言葉を自分のものにする。
それが第一段階。あたかも英単語を覚えるのと同じ要領で、
頭の中のノートに書いて書いて書きまくる。
(実際には、僕はそんな熱効率の悪い英単語の覚え方はしない、意識して使う言葉なんて、安っぽい。)

ストックとか蓄積とか。
そういうものっていうのもやっぱりこういうものの積み重ねの中にあるわけだし、
最近のお気に入り、「本能」だとか「防衛」だとかいう言葉なんてのも、
現在そういった過程の中にあって、
もうだいたい、自分なりなそいつら言葉へのポジショニングみたいなものも、掴めてきてる。

第一にさ、「ストック」「蓄積」「材料」って、僕ちょっと気に入り過ぎってくらい使ってるよね。


はまってる言葉群~ダブル・ノックアウト・コーポレーション編~

無限の言い訳と完璧なイノセンス
僕のアーバンブルーズへの貢献。
よくあるサイケデリックな話にまるで飽きてこのままオートマチックに僕は君のもの
いかさま
でたらめ


そう、パーフリをコピりたかったら
「いかさま」とか「でたらめ」とか、大声で叫んでりゃ良い。



その後輩が寝たので、1階の風呂場の前のやわらかなマットベンチで、また文章を書く。
さっきの一年生の女の子が「暇だから」つって、降りてきた。
朝まで「語り」と「喋り」の中間を泳ぐ。
ここからの会話はプライバシー保護のためと、こんな話を僕だけの独占にするために秘密。
敢えて言うなら、
《インターセクシュアル性的トーキング、隠し味は【オープン・エロの共感】》
ってとこ。



朝になった。
一日目に語りpresentしていた後輩が最初に起きてきて、絡む。
ちっちゃいベンチに二人で座って、どうでもいいことや、さしてどうでもよくないこと、
それとドラゴンボールの話題なんかをして、黙っている事が多かった。
言葉が無くても困らない空間って、僕は好きで、信頼を置いているなあ、とかって感じる。
もしかしてそれって、危険な事かもしれないけど、ま、だいじょぶ。



太陽が昇った。
こいつを「ただの太陽」だと思うには、
昨日の雨は降り注ぎすぎた。

2002.8.26(月) 転ばぬ杖の先

合宿中の出来事はApple Patty/そこはかとなし日記を参照してください☆

とりあえず名古屋駅在住浮浪者達のオナペット=ナナちゃん人形の肩の上に集合。
2,3人滑り落ちて打撲。

近鉄に乗って三重県へ。
風に舞い踊りながら少女が僕に問う。
去年も、合宿の夜共に語り合った後輩が問うのだ。


せんぱ~いっ、近鉄って…
         JRですかっ?



僕は優しく頷き、微笑。

見送りに来てくれた同輩から餞別ににプリンシェイクを2本頂く。
ありがとう。君は本当にすてきだ。
僕やあいつや様々の素晴らしい友人達を使って、死の淵でしかし確実にバランスを保っている。
何にも負けない。


電車内。
自分の積極性の無さを実感。
自信はある。癖に、人一倍、無い。
あっけらかんとして話し掛ける勇気が無い。
口を開けば安息と、爆笑と感動すら約束できるのに!


三重県、白子駅。
エーエムピーエムとファミリーマートが共存する空間。
せっかく三重まで来たのだから、
当然前者。

ハッ(鼻)

ライフガードが、無い。
仕方ないのでなんか栄養ありげな乳酸菌っぽい飲料を買おうか悩む。

後輩1のアドバイス
「それ、けっこう甘いよ」
…まだまだ悩む。

後輩2のアドバイス。
「あ、それ…伸びますよっ!
即買い決定。
たぶん、何かが伸びる。



「おしっこチョロチョロ」
の看板のある薬局で、ポカリスエット500mlを100円で2本買う。
合計1880ml。



乗合自動車で鈴鹿へ
満員だ
押し合いへし合い
どっちかの体積が半分以下になるまで
押し合いへし合い
満員バス、みんなのおならでガス爆発。



鈴鹿市の青少年センターとかいうところに着。
オリエンテーション。
「この建物は、場所的に迷路的なので…」
という伝説的せりふにめぐり合えず。
ただ、オリエンテーリングの部屋に何故か「レッツ チャレンジ」という看板がかかっており、
黒板には「こんにちわ よろしくネの会」と書いてあった。ということ。
何をチャレンジするんだろう。



昼食。
バイキング。
冠二郎。
ナイナイナ。
ココリコナ。
求む
こんな連想ゲームの可能な相手
女に限り
年齢を問わず
報酬なし
当方十五歳(とし やや サバをよんでいる)



練習。
僕ら三年生は、勉強…なんか、できるはずもなく。
教師面して、偉そうなことを吐く。
ヘタッピだなあ、と思う。
僕らも、奴らも、昔の僕らも。
今日の確認と、明日への感覚のために、厳しく絞る。
練習時間よりダメ出しのが長いってのは、遺憾に思うよ、我が同輩。
ひとり1時間って、どうよ(笑)。
俺が喋る時間ないやんっ。



夕食。
バイキング。
=サイクリング
バイクは日本語で自転車の意味。
つまりラバーメンとはゴム人間(複数かつ集合名詞)のことー。



風呂。
「女湯ってのは見てどうするってもんじゃない!…覗くという行為自体に意義があるんだ!」
という台詞を思い出し、そっと瞳閉じてみる。
すると、頭の中に妄想が広がる。
…行くっか、ない!(『特攻の拓』風味)
カラスの行水でわらわらお湯を上がって、裏手の庭に廻る。
女湯の窓が、閉ざされていることを願いながら。
もし窓が開いていたら、大変なことになるのだ。
合宿とかで覗きに行かないのは女湯に入っている相手に
「お前らには覗く価値すらない」と告げるようなものだし、
何を置いても男の浪漫、それにだいたい覗けないよーにできてるんだ、これが。
それに前科(去年の合宿日記参照)もあるから、用心されているだろう!
僕らとしても、もし覗いてしまったら犯罪だし、相手に悪いし、罪悪感に苛まれるし、軽蔑されるし、
何よりそんな人生最大の楽しみをこの年で味わってしまったら確実に堕落します。
だから窓は空いていないことを望む!
…。


全開。(男湯が)


…。
ホッとする反面
芸人として
ホッて置かれない状況。
覗くっか…ない!
2メートル以上の高さにあって、
僕の身長なら垂直跳びスポーツテスト満点分の脚力と
けんすい一回分の体力(実はたいしたことない)が要求される。

えいっ。がしっ。ふんぬ。

そこにはさっきまで自分らが裸で存在していた空間が広がっており、
当然の如く女性の姿はなかった。
裸体はといえば、演劇部という名の棺桶に片足だけ出して突っ込んでしまった可愛い後輩のみ。
幾ら彼が女に間違われやすいとはいえ、…無理な話です。

「やっほー!」

あきれた顔で見つめる後輩。
空しくなる先輩。
別の後輩は笑いながら手を振ってくれた。

ぴょん、っと飛び降りる。
余裕で覗けるものなんだなあ…と実感。
もしも女湯の窓が空いていたら大変な事だ。
一緒に覗きに来た仲間は台を使って中を見ようと必死だ。男湯だけどなぜか凄い必死だ。

どんがらがっしゃーん。

落ちた。
台が不安定だったのだ。
血が出てる。
名誉の負傷。
後で後輩の女の子に「先輩っこれ、どうしたんですか?」と聞かれ
え答えず。
答えることあたはず。

脱衣所に帰って、さっき手を振り返してくれた後輩らに聞かれる。


 後「先輩ッ、ホントに覗いたんですか?」

 覗「覗いたよ(男湯を)」

 後「えっ、まじですか?誰か居ました?」

 覗「居たよ(男だけど)」

 後「え…うちの子ですか?」

 覗「当たり前じゃん!(男だけどね)」

 後「まじですか…どんな反応でした?」

 覗「(呆れ顔で)笑って、手振ってくれた(お前らが)」

 後「えっ…そ、そんなに軽いんですか?」

 覗「別に嫌がってなかったよ(だって男同士だもんネ☆)」

 後「まじ、ですか…(失墜)」

 覗「意外と、そんなもんだよ(同性なら)」

 後「凹みますよ…(沈)」


うーん、後輩殺し。
ほくほく顔で女の子とも笑顔で顔を合わせる。
後輩、ちょっぴり唖然。
風呂上りの気持ち良さも手伝って、快適の気分。



んで、ちょっと練習めいたことして、部屋に戻って、語りモード、スイッチオン。
現部長との人生相談等、紆余曲折を経て厳選素材へ。
曰く、「向陽高校演劇部至上最も頭でっかちな四人」が深夜のロビーにシノイキスモス。
一緒に風呂を覗いた3年生男、僕らに風呂を覗かれた2年生男、その時女湯に入っていたと思しき1年生の女の子。

「無意味で有意義」、この言葉が当て嵌まる。
コーネリアスのデビュー曲、『太陽は僕の敵』、その詞の通り
僕らの馬鹿らしい話はまさに朝まで続き、
結果的にはただの太陽を笑った、
これが大事なとこなんだ。
できるだけ甘くして
できるだけマイルドに。
カップ一杯のコーヒー牛乳のように、すてきな朝には不可欠なエッセンス。これなしじゃ、
i can't live any longer, coffee-milk crazy.(もう生きられなくなっちゃった、コーヒー牛乳きちがい。)
カラオケで英語詞を歌うと、伝わらないよなあ、とか思うけど、
日本語詞だって、全く、寸分も、伝わらない場合が多いんだ。
奥田民生の『CUSTOM』を熱唱するほど虚しい事はない。
頭の中が見せられるなら見せるんだなんて
額面通り意味の無い言葉に変換せられてしまう、だからカラオケって苦手。
例えば信頼できる女の子と二人で、自己満足性を逆手に取って歌いまくりたい。
黙っているだけで時間が繋げるような女の子って、素敵。僕みたいな性格だとだいたい
その場から居なくなるか、言わなくてもいいような軽口を交わしまくるか、完全に相手の存在を自分から消すか。
そういった処方箋の必要の無い女の子を、合宿で見つけた。
語りに参加(presentのニュアンス)していた1年生の女の子なんだけど、
これまでに全く会話という会話が成立していなかったというのに、
なんたる安心感!というか、
頭でっかちな僕ら3人が、頭でっかちな会話を、彼女の存在を全く意識することなく喋り捲れるっていうのが異常だ。
はっきり言って頭が切れると思う。彼女の日記と、僕とのメールのやり取りを見ていると。
…が、
別にそんな評価もしてない。
期待はしてるけどね。
畏怖感もある。
恐怖はないけどさ。
危機感なんて無縁な話。
ただ、「若い」から。結構それだけの話。
センスと、「気付いている」数をとったら、やっぱ他の誰かよりはずっと目を見張る。
若い。無限の可能性を、これから伸ばしてやりたい。
だから僕は彼女の前で語りまくった。
僕の言葉の全てを利用しろ、「ジャッキーと片桐に捨てるとこ無し」ってやつ。
そんな理由で朝までつき合わせてしまったが、彼女としても合宿の《目標》ってやつは、結構そういうことだったらしい。
語りの内容は、まあ、秘密だね。
誰も知らないようなぶっちゃけトークすら、その女の子に聞かせてしまった。
「酔った」勢いなのかもしれないが、それも安心感だし、賭けだった。
どこまで僕を受け入れてくれるのか、という。
そう、「賭け」という言葉も、何もかも、全てが、僕から広がっていった、この合宿。
一日目はだいたいこんな感じで終わった。



追伸
僕は深夜に語っていて、すごい気持ち良くなってしまって、唐突に、げらげら笑った。
それで僕は、女の子に向かって言ってやったんだ。
「わかるかい?…今僕は、《完全の頼もしさ》って奴と、対峙しちまっているのさ!」



とりあえず『富嶽百景』には、
太宰治のうちの殆どが集約されているってこと。
凹み具合は『人間失格』、小説としては『斜陽』かな。

25日の日記に書いてあること、事実としては8割の勘違いが含まれていた、らしい。
しかしブラックな思考と思想に織り成されるコラボレーションは、
紛れもなく現在的な、僕の本音。
つまり考え方には間違いがないってこと。モチーフに誤解あり。
彼は思っていたより少しだけ、僕の親友に最も近い人だった、らしい。
2002.8.26(月)~28(水) 合宿

邪悪獣ガッシューク。懐かしい。
2002.8.25(土) I'm sexing you.

タイトルについて、本編でそれを述べることの虚しさと、
ネタ自体をみすみす台無しにしてしまうような行為だという自覚は、随分前に得ました。
それでも言わせて貰うと、やはり人間、自分の知っている範囲の情報に偏り過ぎなんですね。
つまりこの一文を見た誰かさんは《私はあなたと性行為をしている》と訳出してしまったり、
或いは「なんだこいつ文法間違えてんじゃないか」とか思ってしまったりするんです。
また、正しい訳を導けたとしても、僕が狙ってそれをやってんだという認識をしてくれない場合があって、怖い。
やっぱり思うのは、結構文章って…というか、言葉を発する時って大抵そうだと思うんですけど、
賭け、ですよね。
ある意味、大海原に浮かぶビンの中の手紙に似ている。



以下、それに関連する。



「日記をやめる」ことの恐怖感については再三語ってきていると思うのですが、痛感。
同じ部活で、同じクラスだったこともある仲の良い友達なんだけれど、
しかもネット上の僕すらもよく知っているとだけあって、良きも悪きも《理解者》の一人に数えられています。
だが彼も、《受験戦争に徴兵された》ために当たり前のようにインターネットをやめてしまい、
自身のサイトも閉じてしまいました。(まだしつこく残ってはいるけど。)
三年生はクラスも違って、あっちは理系だし、僕は文系なので、これまでに比べると、割と疎遠。
で、驚くべき事は何かっていうと、
彼は開設当初から完全踏破していた僕のサイトを見ることもやめてしまったわけで、
つまりなんと彼の中での僕は、高校2年生の末、若しくは3年生の春あたりの「僕」で、
停止してしまっているようなのです。
たぶん僕は、春からのこの数ヶ月の間で、考えるところも、書いているところも、変わったところがあると思います。
それはきっと「成長」なんだと、僕にはささやかながら自負心すらあって、
しかし彼の中での「僕」はというと、未だ《調子づいてた小さな自分》でしかなくて、
まあ確かに今でも調子づいてるし、小さい。だけど、そりゃあ、あんまりじゃねえかって思う。
明らかに高校時代、青バネのこの時間を最も共有していた人間を捕まえて、
そりゃあ、あんまりじゃねえかって思うの。
そいつはね、俺のこと馬鹿だと思っていて、ガキだと思っていて、女たらしだと思っている。
僕はどうやら言い訳が大好きで、自分中心で、勝手気ままで、遊んでばっからしくて、
喩え、僕のやってることと書いてることは自分より大きかったとしても、
脳味噌の段階で僕に劣っているところはないと思い込んでいる。
ばかにすんな、とか思う。
なんか怖いのは、そいつって2002年4月までの僕を総括して「これだ」って決め付けてるわけだし、
それにしたって酷すぎる、というのは、確かに僕についての考察は明らかに間違ったこと言ってないと思うんだけど、
だけどそりゃああんまりだって思うんだな。言い過ぎ。悟り過ぎ。わかった気に、なり過ぎ。
キメツケとかオモイコミとかいった事は、本当に侮蔑すべき対象で、僕は大っ嫌い。
彼の言動から僕が思うのは、つまりこういうこと。
はじめにでっかい先入主があって、例えば「ジャッキーはかようにして馬鹿な奴なんだ」というね。
その先入主に従って全ての僕の行動や言葉、他人からの評判などを受け止めて咀嚼しちゃうもんだから、
「馬鹿な奴なんだ」という最初の定義を中心にしてそれら全てを解釈してしまう。
つまり勝手に自分の思いこみにとって「都合の良い解釈」を与えてしまうわけで、
だからどこまで行っても僕は奴の中で馬鹿のまんまだし、何を言ってもそっち方面に受け取られちゃうわけだから、処置なし。
ホントに虚しくなって、昨日は途方に暮れていた。(告白すると26日の朝に書き殴ってる、この文章。)
それで僕は信頼してる人間に電話をかけて、泣きじゃくりながら愚痴を言ったもんなんだけど、
涙が一粒も残らないように、泣いていました昨日の夜にって感じで。
だけどあなたを思い出すたびに涙が何度でも滲んで来るのです。
どうしてなんだろう泣きたくないのに。
どこから来るんだろう泪の雫たち。
私、私が不思議。とても、私が不思議。私、私が不思議。
僕はその友達を本当に軽蔑すべきだと思う。物凄く、恐ろしいほどに誤解されている。
けれどもやはり何処かで期待している、というか、わかってもらいたいという気持ちが強いもんだから、
ついついこんな文章も書いてしまう、というわけ。かな。
一番腹立つのは「俺はジャッキーのこと最も理解してて、本人よりも完璧に全て把握してる、わかってる」って、
本気で思い込んでいること。
もうそれはホント、意味のわかんないことで、もしそうだとしたら、僕は物凄い酷い奴なわけ。
無駄に持ってるトーク&ライティングスキルと童顔を利用してあどけないみんなを騙し弄びつづけてる悪魔みたいな男なわけ。
彼の中の「俺が完璧に理解して差し上げているジャッキー」は、最悪の男で、
まあ確かに最悪だし、間違っちゃあいないんだけど、…そりゃあさ、あんまりだなあ、って思うわけですよ。
お節介なんだよね、一言でいっちゃうと。「ジャッキーを更正させようとしている正義のヒーロー」みたいな自覚がミエミエで。
まあそれはたぶん、僕の中だけの彼であり、他の人はみんな単純に「彼はいいひと」って思ってる、無条件に。
どちらの「彼」も僕や人々の「キメツケとオモイコミ」の中だけで育まれた彼であって、本当のところはわかんないし、
そしてどっちが正しいとかもわかんないんだけど。
まあ確かに僕も彼がいい奴だとすっごい思う。滅茶苦茶思う。だから好きなんだ。だけど、考え方が単一的で、
自分の「絶対的な自信に満ちた一般道徳的価値観」を他人にまで押し付けようとするもんだから、少したちが悪い。
どうも「理系=一種類の考え方しか出来ない」という勝手過ぎる憶測の都市伝説的定義を、
彼は全身で力いっぱい表現しているように思えてならない、《頭の良い理系》のみんなにボコられるんじゃないかと心配だ。

《挿入句》
あーうちの兄ちゃんまじ頭悪ぃ。ホントちょっと、凹む。
まじやめて。この血、もうホント否定できない。
僕より三つ上の彼が付き合ってると思しき高校生の女の子を電話で
いじめていじめていじめまくっている兄の姿を見ると
「血は争えないなあ」って痛切に感じる。
ブルーだな。上記のような理由も踏まえて、まじでブルー。
僕の弱点、最大のコンプレックス。
There are 血。


というようなわけで、
僕が日記をやめる、ということは、
そういう危険性を孕んでいる。
みんなに馬鹿だと思われる。
確かに馬鹿だ。
でも、そりゃあまじで、とこしえに、あんまりじゃないかって、思うのよ。

色々更新しては見た、で、昔の文章とか読んでたんだけど、
発見。これが僕の全てのような、そんな気がする。=日記不要説浮上
http://homepage2.nifty.com/ozakit/katsuji/shi.html
2002.8.24(土) お前…芝居太郎か。

今日は、何部構成の日だったろうか。


夕方5:15、corneliusと朝焼けをバックグラウンドミュージックにして
家を出て愛車《赤い冥王星》に飛び乗ったのが一日の「はじまり」だった。
無論、朝焼けは嘘で、夕焼けでもなくて、霜焼けは季節はずれである。強いて言えば、胸焼け。
キャベジンが降り注ぐような、胸焼け。
砂は降らない。



開演の15分前に劇場に着いた。
「高校生」で予約してあるから
生徒手帳を持ってないと入れないのに、
生徒手帳を持ってこなかった。
予約の手配を仲立ちしてくれた人から二度に渡り忠告されたにもかかわらず忘れた。
泣き出しそうな窓際のブルー。
やりきれないね。
でも受付さんいいひと。というより顔パス。
バッチシ入れてもらえました。
超面白かっくいい。
受付さん、ありがとう。お世話になりました。パチリ。
その優しさ、
寛大さは、
ほおずきに似ていた。



刈馬カオスさん作・演出の
『ソウル・ガーデン~透明な夏、夕立音楽は祭りの如く、その他もろもろ~(長ぇよ!)』
を見て参りました。
「さん」なのは、知っている人だからです。
「先生」はけっこう別格です(基本的に「F先生」「A先生」のみ)
で、今回の『ソウル・ガーデン~透明な夏、夕立音楽は祭りの如く、その他もろもろ~(長ぇよ!)』ですが…
えー。
(長ぇよ!)を『』の中に入れてしまうとこんなに滑稽じみた芝居になるとは思いも寄りませんでした。
正しくは『ソウル・ガーデン~透明な夏、夕立音楽は祭りの如く、その他もろもろ~』(長ぇよ!)でした。
関係者の方本当にごめんなさい。下のほうで軽くべた褒めてるので許してください。
コピー&ペーストは一切使用しておりません。天然生仕様です。嘘です。
嘘です。



今日は長々と芝居の話をします。暇と興味があったら知らない世界を覗いて、なかったら鼻で笑え。
別に芝居に興味ない人でも、
「言葉」に興味のある人はちょっとscanしてみてください。
単語がわからなかったら辞書を引いてください。
特にscanは、受験生の癖に意味を知らなかったら、フェータル。

ただしこれから『ソウル・ガーデン~透明な夏、夕立音楽は祭りの如く、その他もろもろ~』(長ぇよ!)を
見ようとする人は妙過ぎる先入主が住み着く恐れがあるため読まないほうが身のため。
永遠に。



何故こんなに浮き足立った文章なのかというと、
芝居が面白かった、というより、「気持ちよかった」からでもあります。
もっと大きな要素は、後にありますが。



別にそんな、褒め殺すほど面白くて自殺したくなるような勢いでもなかったんですが
上演後のアンケートには確か、
「夏の日の縁側のような雰囲気のある密室で、独りで寝転がって麦茶でも飲みながら静かに観て居たい」
とでも書いた気がします。
なんか、真面目腐ったことをアンケート用紙に書くのは気恥ずかしく、
差し出がましい事を書いて、
「何深読みしてんだお前、しかも明らかに間違ってるし。だせぇ、だせぇよイダーサ君よりだせぇよお前!」とか
思われたら嫌なので。



なんか途中ですっごい黒いシーンが入るんですけど、
すみません、のほほん、と見てました。
夏の日の縁側で。

そして密室。
これが大事なとこなんだ。



なんでかっていうと、とっっってもお話がわかりやすくて、
失礼な言い方、刈馬氏にしては物凄おく客に親切だなあと思って、
嫉妬です。何に対してかというと、
僕は偉そうにわかった《気になっている》んだけど、
他のお客さんもたぶんわかった気になっているんだろうという事が、
たまらなく悔しい。
なんて奴だろうと思うけど、本当の話。

たぶん《象徴》がはっきりしまくっていて、
すうっと入ってくるのだと思う。

この台詞群はコレの象徴で、この演出はコレを表していて、
こんなことを言わせるためにさっきコレがあった。
なんてのが、本当は実際の演出意図にあろうがなかろうが、
わかろうと努力する人には幾らでも読み取れる。正しいか正しくないかなんてのは元々ないし、
演出意図がどうとかも知らないから、これがつまりは、「わかりやすい」ということ。
言い換えれば、「勝手にわかられやすい」。

だから、ちょっぴり悔しい、と。
実は結構、次に出る台詞とかが読めてしまったりして、
(それは刈馬作品を幾つか観ていて、傾向と対策を知っているからでしょう)

「ああ、今の台詞僕だけ知ってたのに、何で言っちゃうんだよう!みんなわかっちゃったじゃないかあ!」

なんて。思い込み。



それだけに、すう、と入ってきた。
完全と不完全と素粒子とその組成と正論。
全てこの中に結びつけようと「すれば」、できるし。
魚の居ない水槽だろうが言い尽くせそうもない夏と世界の構築物だろうが
最後までわからない幾つかの謎だとか
心のスキマとか
魂とか
まあ、きりがないし、勝手な推測は留。
こんな思考のよく似たものが、たぶん全ての観客の頭の中にある。
ノターリンが来てない限り。



詩、ってさ。
わけわかんないもんじゃん。
でも、たまにわかるときがあるんだよ、
わかるというか、自分なりの解釈をこじつけられるときが。
そういうときって、勝手に自分の好きなように解釈するわけだから、
自然にそれが「いい詩だ」って事になるんだよね。
自分が完全に理解できる、理解した、と「思い込んだ」もの、それこそが「良いモノ」に繋がってしまうって事が、
実に、良くある。
だから駄作にもそれなりのファンが憑くのだ。
下らないヒットソングにも信者は生まれるってこと。



だから、『ソウル・ガーデン~透明な夏、夕立音楽は祭りの如く、その他もろもろ~』(長ぇよ!)は、
「自己満足」というやや低俗に見えるかもしれないな意味に措いて《さえ》良品なのだ、と思いました。



役者はうまい。
ただ、バランスは、
う~ん。たまに、だけど。



で、重要なのが、脚本。
ホントに刈馬さんの好きそうな旋律で、惚れ惚れしました。
完全に「センス」を売り物にしてますね、チラシにあるように(?)。

名詞と倒置と繰り返し。
脚本書いた人は、言葉の使い方を知っています。
あざといです。もう、いやになります。
まずあざといのはタイトルです。惚れ惚れします。
タイトルを利用すれば、伝えたい《語》に的確なインパクトを与える事が出来ます。
その際、思いつきがタイトル先行であろうが台詞先行であろうが問題ありません。
要は、客どもの頭の中にある「わたし語群」に、その言葉がインプットされているか否かです。
タイトルには刷り込み効果がありまくって、
今までありえなかった言葉でもインプットさせまくりです。
「このお芝居では、この言葉がキーですから、思い出しやすい位置においといてくださいー」
なんてことも、タイトルの仕事。
これを巧く使えば、とても、いやらしいです。
あと、芝居冒頭になんかそれっぽい台詞持ってきたり。
これはうまくやらないと、かなり恥ずかしい結果に終わったりしますが。
どうやらテクニシャン。


さて、名詞と倒置と繰り返し。
「降ってきた。…毛虫。」
正しくは「毛虫が降ってきた」です。
「毛虫が降ってきた」をキーステイションにして、
幾つかの文章を考えてみます。
そういうことなんです、これが繰り返し。であったりもしたり。
ただ単純に繰り返す事も、すごく、小巧い。
僕の好きな言葉でいうと、《ソナタ形式》。

なんていうか、些細な言葉の入れ替えと組み合わせで、
「言いたい言葉」を的確に示す。
英語の試験とかである、「どの語を最も強く発音するでしょう?」ってやつ。
あれを極端にした感じで、発音とかの問題じゃないんだけど、
もう、語と語の組み合わせとリズム、それだけですわ。大切なのは。
結構、「笑い」と共通するところがある。
言葉の選び方と、その順番と、間。これだけでみんな、大爆笑。



イニシアチブイニシアチブ。
色んなものにイニシアチブを感じる。
脚本だってそう、役者だってそう、客だってイニシアチブ。
パンフには「少女たちの内的イニシエーション」みたいな事が書いてあったけど
さっき気付いた(笑)。
でもなんか、もしそれを「演出家が」前面に押し出そうとしているのであれば、
どうだろう、僕はそんなもんより、違うものを観たいと思う。僕は。
それって、バニラエッセンスみたいなものなんじゃない?とかね。
聞こえない周波のバックグラウンドミュージックというか。
別に現代の演劇って、客の人生を左翼化させるためにやってんじゃない、と思うし。大部分は。
あ、比喩です、比喩。でもメタファじゃないです。たぶんsimile。気持ち的にも。



画面作りがうまい。「好きだなあ…」とか思った。
やりたがりだなあ…
でもそこが素敵だなあ…
空気、作・演出同一人物だからいいなあ。
作りやすそうだなあ。
でも役者がついていってないときがあるなあ。(たぶん)
けどそれはしかたないなあ。しかたなくないけど、しかたないなあ。
手に取るようにわかるなあ。
何が?
なにかしら。なにかしら、わかった。
完璧は、なかなかね。



やっぱ言葉の聴かせ方、「響かせ方」だなぁ。
なんというか、あらゆる手段を駆使して言葉を聴かせようとしてるような。
具体例は…忘れたけどなんかたくさんあった気がする。



そうそう、省略。ホントは何も省いてないんだけど。
見えない台詞を聞かせる、ってやつ。
これもたぶん、脚本家さんが好きなんだ。
芝居やろうっていうと、わざとらしい言葉書いちゃうんだ、絶対。
それがきっと嫌いなんだ。

「あ、そっか」
「いってぇ」
「あ…」

こういう台詞の後に、前後関係から明らかなるせりふが見える。

「あ、そっか。…圏外だっけ」

こんな言葉、普段絶対言わない。
リアリティが一瞬で崩壊する。
さようなら。

だから、
「あ、そっか」

こういうのって演技次第みたいなところも多少あって、賭けだったりする、
役者を信用してるのか、或いは、「やってもらって当然」なのか。ってとこ。



それはだって、そういうもんでしょ。



集約!

きゅっ。



坂本龍一とコーネリアス、
なんだやっぱり僕のためにある芝居じゃないか、とか。
妄想癖。



というわけでまあ、気持ちの良い芝居でした。
あー随分勝手なこと書いた。
気持ちいー。
関係者各位、すみませんでした。
自己満足と自己完結に、独りで乾杯。ふぅ。



っと、芝居が終わった後に知り合いに捕まって
劇場のぞうきんがけ等を手伝わされました。
楽しかった。



帰り道、苦手な女の子に主導を握られて、閉口して、凹んだ。
口直しに夜這い。

2002.8.23(金) 1945.8.14 日本軍、無条件興奮。

地球寒冷化の煽りを受けたか、
最近めっきり寒くなってきまして
秋ですね。
奥井亜紀はいいですね、
飽きが来ない。


さて、
《スポーツの秋》
《読書の秋》
《芸術の秋》など、
幅広く申し上げ奉られておりますが、…



春は《盛り》の季節だし、
夏は《魔物》で、
冬には《クリスマス》に《お正月》に《バレンタインデー》、やりまくりですわな。


なのにどうして、
秋だけ。
そう秋は、
《セックスの秋》と言わないのでしょうか。


つまりコレはアレでしょうか。
秋には淫らな行為をみだりにしてはいけないと。


その分夏は余計に魔物になるし、
待ち侘びた冬にはイベント三昧なのでしょう。

あ!

僕の誕生日(11月1日)って…
微妙に、秋だ。

メランコリカリーにブルー。
泣き出しそうな君は窓辺のパントマイム。


…受験生が淫らなことをみだりに考えてはいけませんっ☆






或いは、セックスが「スポーツ」であり「読書」であり「芸術」なのかもしれないが。






関係ないけど
『ビーストウォーズ~超生命体トランスフォーマー~』という
世界初のフルCGテレビアニメーションがありました。(無論米制作)
続編はCGが殆ど無い上にアメリカンジョークが排斥されていてつまらなかったけど
ビーストウォーズは名作でした。

その主題歌なのですが。
下町兄弟という、ラップミュージシャン。



いつも立ち止まることはしないだって 惑星を守り通す光になって
今だ戦え行けビースト・ウォーズ超生命体トランスフォーマー




こんな歌詞なんですけど。
まあ、ラップで「超生命体トランスフォーマー!」と叫ぶのがやけに笑えたりしますけど
日本語文法的にもハテナな部分は多いですけど、
問題はここ、

「いつも立ち止まることはしないだって」

確かにオープニング画面のテロップには「いつも立ち止まることはしないだって」
と表示されていましたし、「いつも立ち止まることはしないだって」で検索をかけると、
何件かHITするわけです。


しかし僕はこの歌詞に異を唱えたい、
いやあれは絶対に

いつも立ち止まることしないだって


って歌ってます。
毎週「聞き違いか?」と訝しげに見ていました。
歌い手か、歌詞か、どちらかが間違っているのか、
或いは単に発音が悪いのでしょうか。


…これは、JAROに連絡すべきでしょうか。









最近どうも、幾つかの僕のよく行くWebサイトのdiaryが有り触れた歌謡曲化しています。
悪い事じゃない。
夜に、
『斜陽』一冊だけを手にして
とあるデパートの屋上に登った。
懐かしい空気があった。
夜の屋上は、完璧に外界から遮られ、隔離のご様子。
まるで月の上に立っているように
荒涼としたコンクリート、重力は六分の一になる。
月明かりが僕を照らして、けれども、僕だけを照らしてくれなくて、
世界中を柔らかな光で満たしている。
それでもほんの少しだけ「薄明るい」と思えるこの場所は、
僕のために用意されているような
そんな感覚を受けて、ここは月だ。

屋上を歩く。端に辿り着く。下を覗き込もう。何かが見えるはず。


僕は思わず「アッ」という声をあげてしまいそうになった。
スリープ。
興醒めしてしまった。
デパートの屋上は、そう駐車場になっていて、
当然の事ながら車の上がってくるスリープがある。
そして目の前にそれを見たとき、僕はなんだかもの悲しいような気分にさせられた。

――どこかで、やっぱり繋がっているんだ。

僕の居た場所は、「空間」のように思えて、実はそうでなかった。
宙ぶらりんの「空間」、それを、僕は楽しんでいたに違いなかったのに。
けれどもそれはあくまでも、
クラインの壷の模型のような矛盾したチューブで繋がれている。
現実的な、誰もが知っている世界へと繋がっていく「スリープ」。
それを未知へと導く「回廊」であると解釈するには、僕はまだ幼すぎて!

ちくしょう、「月」と「地球」の関係みたいに、
全く離れっちまっているようなものは、
この世界には、無い。



なにひとつ、どうにもこうにも、思い浮かびやがらない。
やんぬる哉。

2002.8.22(木) ほほ本ー意、ほほ本ー意、ほほ本ー意、本意。

河童と蛙。草野心平。くづぶえふえで、かぐぢさではれば、青空ね、たごのぶんぶのおどぁしてる…
体重が47kgまで落ちました。





をとこもすなるにきといふものを
をんなもしてみむとてするなり


私はもうあなたとの結婚は出来ないものとあきらめています。あなたの奥さまを押しのけるなど、それはあさましい暴力みたいで、私はいやなんです。私は、おメカケ、(この言葉、言いたくなくて、たまらないのですけど、でも、愛人、と言ってみたところで、俗に言えば、おメカケに違いないのですから、はっきり、言うわ)それだって、かまわないんです。でも、世間普通のお妾の生活って、むずかしいものらしいのね。人の話では、お妾は普通、用が無くなると、捨てられるものですって。二十ちかくなると、どんな男のかたでも、みんな、本妻の所へお戻りになるんですって。ですから、お妾にだけはなるものじゃないって、西片町のじいやと乳母が話合っているのを、聞いた事があるんです。でも、それは、世間普通のお妾のことで、私たちの場合は、ちがうような気がします。






受験勉強を曲がりなりにも続けてきて思うんだけど、
英語でも世界史でも現代文でも漢文でもなかなか出てこないのは
「恋」という概念。
もちろん英語で書かれた文章の多くにはそーゆーもんは溢れているし、
世界史の中で「恋」というものが占めているウェートは他の何よりも大きいと思う。
しかしどうも受験には必要のないものらしくて、
どうにもどの参考書の中にも見たことが無い。
なぜならば受験生にとってそれは《禁じられた遊び》だからだ。フォービドゥン・プレイなのだ。
だがそんな中で、
ストイックな受験生の心を刺激してやまないもの、それが、「古文」の分野、すなわち、
平安文学である。

当時の人間は和歌を詠むこととセックスをすること以外に楽しみがなかったと見える。
そして世の受験生(特に♂)はそんな一夫多妻&自由恋愛&フリーセックスな時代に想いを馳せ
「帝って、いいなぁ…」とか呟いてみる。
危険である。
僕だって帝になりたい。
爆発のキケンだ。





スポーツ観戦の本質について考えてみる。
人間はスポーツ《勝ち負けのある身体的遊び》を見ると無条件で興奮するものらしいが、
どうもそれだけではないらしい、というよりも、
そんな本能的な興奮なんてな本当は微々たるもので、全体から見れば雀の涙ほど。
何故みんなスポーツ好きかっていうと勝負事が好きなんだろうね、勝ちたいと。
巨人ジャイアンツやヴェルディ川崎にファンが多いのはそんな理由だろうか。
けれどもこんなことは誰もが知っている、そこで僕が思うのは、
例えばプロ野球を取り上げてみて、重要なのは
「日本人」がプレイするということと
「応援」という概念の存在でしょう。特に《地元》という考えは、うまいこと創りだした。
《地元だから》という無条件の応援条件を植え付けて、全国的に配布すれば、
そりゃプロ野球産業はウハウハです、よく考えたもんだ。
スポーツ観戦というものは「親近感或いは敬愛心の持てる対象への応援」を通じて行われるのが常。
単にボールの行き交いを見ていて面白いと感じる人は少なかろう。
喩え中立を護っても、心のどこかでとあるシーンではこちらに感情を入れ、またとあるシーンでは…
ということが考えられる。
イチローの打席ではオリックスを応援しつつ、それ以外のバッターでは野茂の投げる近鉄を応援する、とかね。
そう考えると僕はスポーツ観戦が嫌いになった。
結局は殺し合い、そうとしか思えないし、
なんて言うか、イージーすぎる享楽だと思える。
巨人軍のフアンは、
どうしてそうも、いとも簡単に、自分で苦労もしないで、そんなにも勝利を勝ち得て、
まるで自分が不屈の努力して勝利したかのように、喜び、誇り、他を蔑むのか。
中日ファンでも近鉄ファンでも同じことだ。
自分で苦労もしないで勝利を味わおうナンテ、ずるい。
だがそれが「スポーツ観戦」ってなもんだ。
日本代表が勝てば、まるで「自分が勝っている」ような気がするんだろう。
同化意識・ナショナリズムはそういうとこでも育まれ、やがてまた、
戦争が起きる。

さよなら人類、
さよなら文明。

たま、
爆風スランプ。





父が「珍しい蝶を見た」と子どものような面持ちで、『日本のチョウ』という小さな図鑑めくって、解説などを声に出して読み上げなさる。とてもかっこいい。








華麗な文章が好きだ。
最近は下手糞な文章が小説みたいな顔して書店や図書館を闊歩しているのがいやになる。
だからここのところ僕は明治から昭和前期にかけてのいわゆる「文豪」の作品をよく読む。
太宰治や谷崎潤一郎や川端康成が非常に安心して読めるのは、
「美しい日本語」が保証されているからだ。
汚い文章は、もういやだ。
最近ではかつてあれほど好読した山田詠美の『ぼくは勉強ができない』さえ、途中で投げ出してしまった。
うん、確かに書いてあることは素晴らしい、面白いと思う。でもね、文章が、平易だ。
だからと言って詠むに耐えないわけでもないし、文章は下手でも無い。
けれども、なんというか、ただつらつらと読み進めていくだけで、意味なんかよくわからなくても気持ち良いような、
そんなのが「文学」なのかしらん、と浅く思う先ごろの僕にとって、
それは求めているものではなかった、ということ。

森絵都の「DIVE!!」という本(我が校の図書館で大人気)を読んだときなど、
その書物自体の恐ろしく宙ぶらりんな位置付けがそれだけで気持ち悪かったのだが、
余りにイージーリーディングで、内容も読めないものではなかったので、ついに二巻まで読み進み、
さすがに三巻は読まなかった。
なんだろう、この人は脚本家にでもなればいいと思った。
演技と動きでカバーしてもらう意外に、ないだろう。
しかしそれでもやはりシェイクスピアの言い回しには聞き惚れてしまうもので、
戯曲やドラマのせりふだって、文学的であるにこしたことはないのかもしれない。







図書館に行って、中日新聞の縮刷版を手に取り、
《1996年9月24日》の夕刊を手に取った。
ちょうど23日の夕刊と、24日の朝刊が出ていなかったようで、遅すぎる訃報だった。
図書館にいながら、袖を濡らしてしまった。
N.OやM.Aのインタビュウ記事は、卑怯だ。







古文や外国語というのは
現代の「日本語」に与えている影響は計り知れない。
そのうちに語ろうかと思う。
要するに、The light of floodは「あふれる光」と訳すってことで、
それを「光の洪水」と訳すのなら、
ちょっとだけお洒落だってことだ。つまりは。



ねえ、本当はなにか本当があるはず。

2002.8.21(水) コスタリカ百科事典

本当に、本意なんちゅうものは、わかんないもんだ。
何十億ものオブラートと、何千万もの角膜が僕の言葉を覆う。
特に日本語ともなると、そんな傾向は強くなるだろう。
たぶん本意なんて無いんだ。
そう思って、全てを捉えて、今日は知っていって欲しいと思う。


からっぽの言葉、中身なんてない。










僕は恋っていう自転車で走り出す。
車輪はいっつもから回り、
だけど太陽の光を完璧に浴びた
高台からの一本道のように
ただもうまっしぐら、今にも転びだしそうなくらい。
明日の方角さえもわからないような轍が
背中から僕を恨めしそうに眺める
ごめん、今はどうとも言えない
ただブレーキを踏みしめる勇気と
絶望やゆううつなんてものだけ
今の僕にすっかり欠けっちまっている、生活必需品





誰かの写真をプリント・アウトして思うのは
「こんなのは君じゃない」というようなこと。
頭に描く偶像の全てさえ
何もかもが《猜疑心》の域を越えていない
どうでもいいように見えることだけど実は
抱き合って、キスをして、
お互いに見つめあえる瞬間っていうのは
驚くほど実感と衝撃に満ちていて、
愛なんて言葉を軽軽しく口にできてしまうような
そんな気分や空間だって創り出されてしまう。
まるで世界がここで音をたてて
全く幸せなものに変化してしまうような
そんな錯覚すらも実体化させる魔法。




太陽や神様や本当なんてモノが目に見えるものであって、
僕という存在がそれらに超越された一個体であるようなときに
新しい愛、新しい形!
透き通った実感さえも大きな魂が喰らい尽くして
でたらめな粘土細工がぞろぞろと溶け出す
僕のおなかを支配した低俗階級の鬼。



ホント、こういう文章×3って意味なんて何もないもんなんだね。
ストレス解消と自己充足、公共的な自慰行為か。
僕の知らないところで育まれ営まれていくストーリーだって
結局はこういう風に出来上がっていたりする、
僕のアーバンブルーズへの経験。



昨日にひきつづき、あえて「敬虔」や「貢献」を出さないというのは、
単純に検索エンジンへと喧嘩の販売行為をしているわけで、
何もMy contribution, to urban bluesを毛嫌いしているのだとか、
或いは単に受け取り違えているとか言う事では、
どうもなさげ。
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