2002年8月前半の行い(Jacky)
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2002.8.10(土) カウボーイ・パナップ
AM6:45分の朝。
赤いママチャリに跨って、露さながら南下政策を取った。
道を間違えた。
古い地図に
高速道路が新しくできていて困惑の様子。
医学部進学率全国トップ高校演劇部の芝居。
うん。
お疲れ様。
地区よりは面白かった。
半田市福祉文化会館のロビーはマジック・ミラー。
中から外が丸見え、けれども外から中の様子は伺えない。
他の学校が上演している中
僕は50円玉を5枚出して医学部進学率全国トップ高校の後輩に渡す。
次いで632円、そして5円玉が一枚、彼の手に差し渡される。
…すいかを買って来い。
それと、
手頃な棒も。
目隠しは…
タオルでいい。
やがて1260円のすいかが到着。
すいか割り
10回近いチャレンジの末
指でこじ開けて
貪り食う。
玄関の前、マジック・ミラー
こちらからは何も見えないから
何にも恥ずかしくない。
2キロ離れたデイリーヤマザキまで皮を捨てに行った。
他に2本のお芝居を見た。
特筆事項は
無し。
すっげぇ無し。
とこしえに無し。
《交流会》を見た。
医学部進学率全国トップ高校のコントは
面白かった。
落ちがいまいちだった。
あとは
特筆事項が
無し。
すっげぇ無し。
ペシミスティックに無し。
帰りは花火を見た。
生まれて初めて花火を見て
綺麗だと思った。
花火ってのは
ぼんぼん打ち上げるのは嫌いってわかった。
1個打ち上げたら
火の粉が死ぬまで見つめていたい。
なまじ規模がでかいと
俗っぽくなる。
すると花火ではなく「花火大会」を楽しむ色が強くなる。
帰ると11時だった。
何かあったように感じる日も
意外とこんなもんだ。
忘れてる、全て。
気持ち悪いくらいに
人生の軸が見えてこない。
結構色々ムダだと悟る。
2002.8.10(土)
やべぇこんなの初めてだ
文章書く気が起きねぇ
2002.8.9(金) やくまらないやくまりますやくまるやくまるときやくまればやくまれ!
おお○○から来ましたお○○○たか○です、
嫌いな参考書はターゲット1900です。
Z会の回し者ですがZ会員じゃありません。
日栄社が大好きです。安いから。
なんてことが言えちゃうとは
僕もすっかり図研製。
いとし・こいしは近年(ここ3~4年くらい)急につまらなくなった。
大好きだし今でも面白いけど
ちょっと前の漫才がすっげぇ面白かったのを知っているだけに
中学の頃はホントに大爆笑してたのに…単なる飽きだろうか。
どのみちやっぱ、老いには勝てんのかなあ…と思ったりもする。
んだら潔く隠居しても良いんじゃないかね。でもそうしたらたぶん死ぬな彼ら。
いとし・こいしがなかなか死なないのは漫才やってるからだろうと思う。
未だに超売れっ子。
作家が持って来るネタがつまんないってのもあるだろうなあ…
しかし自分でネタ作らないようになったら芸人も機械と同じ。
わかってんのか?
認識してんのかな、お笑い産業に搾取されようとしてる自分らのタチバ。
エンタツ・アチャコがしゃべくり漫才なら
二葉亭四迷が言文一致なら
おぎやはぎはなんかそんな感じ。
あいつらちょっと芸風変わったような気がする。
面白くなった。
ちょっと悔しい。
図書館と言う場所に対して確かな怒りと憤りを覚えていた僕の帰り道
職務質問を受けた。
ポリス「ちょっといいかなあ」
ああ、また例のアレか。と僕は思った。
みすぼらしい赤い自転車に乗っているからだ。
盗品だと思われたらしい。
しかも悪い事には、この自転車は母のであって、女の人の名前がシールされているのだ。
…めんどくせぇ。
このような職務質問は初めてではなかった、この自転車に乗っていて警察に会うと、
ほぼ100%止められて、意味のないお喋りをさせられる。
心外である。僕はとても気分が悪くなるし、寂しくなって泣きたくなるし、とにかくいいことがない。
だから警察官は嫌いなのだ。「おまわりさんに捧げる歌」でも歌ってやりたい気分。
「この自転車誰の?」と聞かれる前に
僕は言ってやった。
J「ちなみに、この自転車、僕のじゃないです。」
ポリスの瞳がきらりと光った。あーやだやだ。ったくノルマ達成?だか知らないけど必死になっちゃってさあ。
ポリス「じゃあこれ、誰の?」
J「僕のじゃありません。」
ポリス「…君のじゃないなら、誰の自転車なの。」
J「だから、僕のじゃありませんって。」
ポリス「じゃあ君、誰なの。」
J「この自転車の持ち主じゃ、ありませんね。」
彼は自転車の名前住所電話番号シールの部分を持っていた小型のカバンでサッと隠す。
ポリス「…お名前はなんて言うのかな」
J「××○○(母の名前)じゃありませんよ。」
ポリス「具体的に言ってくれないかな、公務執行妨害だよ、君」
何が「~だよ、君」だフザケンナ。
すぐに「公務執行妨害」なんて小学生でも知ってる単語持ち出すんだ、不愉快だ。
J「突飛な名前でもないっすよ。あ、かっこいい名前でもないから恥ずかしいなあ…」
ポリス「だからなんて名…」
J「ジャッキー。」
ポリス「ああ、はいはい。じゃあ、住所は?」
J「えーと銀河系の…(以下略)」
ポリス「…電話番号は?」
J「999の…(仮)」
ポリス「はい、よくわかりました。…今なんか学生証とか持ってる?」
J「持ってません」
ポリス「自分を証明するもの何か持っていませんか」
J「わかりません」
ポリス「(溜息)困るんだよね」
困るのは僕のほうだ馬鹿野郎。
これ以上遊んでいる気にもならなかったので僕はしぶしぶ財布から身分証明を出した。
ポリス「はい、結構。ありがとう。じゃあもう行っていいよ」
何が「結構」だ、何が「行っていいよ」だ。
他人を疑っといて謝罪のひとつも無しか。
しかも他人を見下したような態度ばっか取りやがって
人間は拳銃を持つと自分が偉くなったような錯覚を持つんだ。
警察官はそんな奴ばっかり。
「こちらこそありがとう、いいネタができました!」
僕は再びイヤー・フォンをつけ、『ドアをノックするのは誰だ!?』を大声で歌いながら町並みを駆けて行った。
誰かにとって特別だった君を マーク外す飛込みで僕はサッと奪い去る…
♪ おまわりさん、前からあんたに言いたかった事があるのさ
♪ 世の中を良くしたいんだと命掛けた真面目なあんた
♪ だけど だけどあんたのやってる事はまるで
♪ 汲み取り式の便所の仕組みは、ほったらかしにしておいて
♪ 出てきた蝿を一生懸命追っかけてるようなものさ
♪ おえらい方は蝿が出たって知らん顔さ、そりゃそうだろう
♪ 甘い、甘い汁を吸うには世の中変わっちゃ都合が悪い
♪ だからあんたを使って蝿を追わしてる
♪ おまわりさん、あんたが真面目に働けば働いただけ
♪ 世の中悪くなる、どんどん悪くなる
♪ 気がする
♪ 甘い甘い汁を吸っているお偉い方の用心棒に
♪ あんた達は雇われてる 飼われてるのさ
♪ だけど だけどあんたに言っておきたい事がある
♪ あんたがそうして生きていけるのも
♪ お偉い方が俺達からとってく税金のおかげさ
♪ おまわりさん そのくせあんたは蜘蛛の巣さ 役にも立たない
♪ チョウチョやトンボは待ってました捕まえられるけど
♪ トンビやカラスは平気な顔して抜けてゆく
♪ そりゃそうだろ 犬が主人に噛みつきゃえらいこった
♪ おまわりさん言ってやろうか あんただって便所の蠅さ
♪ あんたが真面目な事はよくわかる
♪ おまわりさん 俺の心にもあんたと似たところがあるさ
♪ だけどそれではきっとダメなんだ そうだろう
2002.8.8(木) 機動戦士つんく
「南半球で『南の島へ行こう』と言うと、寒くなっちゃうんだ」
と、我が後輩が言うので
面白く思って
「後輩が言ってたんだけど」と友人に披露する。
「え?なんで」と素で返す。「南半球は南極付近以外は温帯より寒くならないんだよ」
ああ、そうかこの人は地理選択。
ちょっと知らない知識が増えたのと同時に
「柔軟な思考」って何なんだろうと思えてきました。
たまに困ります、相手が明らかに偏った知識でネタを披露してくるときが
だけどそれは滅茶苦茶面白いから訂正させるに忍びない。
真実を取るか、ネタを取るか。
道徳的には長い目で相手のことを考えて「真実」を告げてあげるのが良いと思いますが
僕は大抵後者を取ります。一時限りでも笑いのためには。
我が「東海高校」演劇部が
今月10日、演劇の県大会というのに出場します。
大抵は一日に5~6校ほど上演するのですが
「東海高校」はその「1校目」です。
おわかりでしょうか。
十日の1高校目ですよ。
トーカイコウコウは
トーカイッコウコウメです。
あんたらにそんな甲斐性があるとは思わなかったよ。
嗚呼ナイス中部日本高等学校演劇連盟。
「資格取るには大学院まで出ないと」
彼女は言った。
ボーっと考える。
僕もできることなら早稲田の院を出たい。
しかしいかんせん文学系だから
資格とか就職とか、なんかあんまり関係ないような気がする。
金が無駄になるだけだとかね。
まあヒモ(予定)だから良し。
で、その後UKに行って
ニューパトロンを拾うんだ。
わー最悪。
2002.8.7(水) のび太・スウィート・サンバ
受験勉強という概念が脳髄に滑り込んできてから3ヶ月、何度目かの覚醒を迎えた。
今回はいつもほどに深くはない、浅い覚醒であればあるほど、浅い持続性を孕む。
「明日には消える感情」よりも
「三日後に消える感情」のほうが
無常観があっていい。
参考書・教科書は「名著だ」と言われると魅かれてしまう。
「すっげーイイよ」といくら言われようが
ただ静かに「これは名著だ」とだけ言われるのに優ろうか。
内容・装丁が無機質であればあるほど、その言葉は引き立つ。
逆にカワイジュク講師の著作なら、「名著だ」という言葉も色褪せる。
せいぜい「受かる」がお似合いだ。
「ジャンプ」を買う奴、「マガジン」を買う奴、「サンデー」を買う奴、「チャンピオン」を買う奴。
それだけで性格がわかる。
「雑誌占い」というのがあれば、それは当たると思う。
ちなみに僕は、チャンピオンタイプだろう。
盲学校に通っていると思しき兄ちゃんと
高校中退して今はスーパーのお肉屋さんで働いている元ヤンキーらしき兄ちゃんが
この世の全ての事象について語り合っているところを
僕と彼女は一字一句漏らすことの無いよう(contents)聞き入っていた。
盲学校の人は、勉強が大好きのようだった。
そして彼は「勉強」というものを一辺倒には捉えていなかった。
僕はそんな彼に好感を持ち、隣に座っていた彼女もきっとそうだったであろう。
僕は図書館に勉強をしに来た。
彼女は「勉強しなくていいの?」と問う。
彼らの話を傍聴していた僕は迷わず答える。
「してるよ」
そう、勉強は一辺倒なものではないのだ。
こういう時こそ僕は「勉強」している実感というものを覚える。
二人の会話から「カルマ」という単語が飛び出した。
そして「宗教如何の問題ではない輪廻転生」を説く。
「死」とはこの世の中にどのような意味を持って存在しているのか。
彼らはそれを説く。
さながら清談中の竹林の七賢人、さしづめ彼は阮籍、彼など王戎と言ったところだろうかと
心の中でにやにや考えていた。
初対面と思しき彼らは次に会う約束を3か月後に取り決めて別れた。
「ずっこけんなよ」と元ヤンキーは言う。
盲学校は笑って応じる。そして彼が見えなくなると元ヤンキーはこう呟いて去っていった。
「…なんだアイツ」
暫くして僕と彼女は別れた。2年後にイギリスか上海で会う約束を取り付けて。
僕は彼女に対して「日本に帰る」という言葉を使ってよいのか迷う。
何故なら彼女には「中国」にも「米国」にも、帰るところがあるのだった。
それってどんな感じなんだろう。
するとやっぱり、僕らは彼女を独り占めしてはならないような気がする。
なんとなく。
総合的に。
「またね」と別れた。標準的だ。
リンドバーグの飛行機が
インド洋まで飛んでいく
ランドセル背負って追いかけた
今度会えるのいつかしら?
こういうのを「序詞」って言うんだなぁ。
あしびきの
山鳥の尾の
しだり尾の…。
僕はなんと言っても「言葉」で売ってきた観がある。
他人を笑わせるときでも、こうして文章を紡ぐときでも、説教を垂れる時だって、いつでも言葉を使っている。
しかしそれは日本語でこそ為せる業。
僕は日本語の根幹の意味を知っているし、日本の文化的背景や、日本人の思考回路の概観を理解している。
だが、例えば僕が外国に行った場合はどうだろうか。
イギリスに住んで、英語を話すとき、僕は他人を笑わせ、感動させ、共感させることはできるだろうか。
福沢諭吉はどれだけ英語を学んでも英詩だけは理解できなかった、そんなんと同じで、
僕にも英語の単語ひとつひとつが持っている重大なバックグラウンドの微妙な性格を
確実に捉え利用しきるのは不可能だろう。
それには、少なくとも日本で生きたよりも多くを、英国で過ごさねばならない。
悔しくて仕方が無い。結局僕は日本語の中でしか生きていけない存在なのだろうか。
できるならば英国に住みたい。米は嫌い。
大学か大学院を出たらイギリスで生きようっと。
料理は味のしないジャガイモしか出ないらしいけど。
2002.8.6(火) 夢枕(爆)
あーりーさまさにさんでぃ
まんとーみーまいかずんいずかみんすーんとぅでぃ
そーあいあらいどまいばいしくぅ
うぇーりんまいふぇりっしゃーつとぅみーとはーあっざげいと
しーいずのーざそーろぶがー
ふーすまーいるすとぅーせいはっろー
アーリー、サマー、サニー、サンデイ。
ママントールドミーマイカズンイズカミングスーントゥデイ
ソーアイ、アイライドオンマイバイシクル
ウェアリングマイフェイバリットシャツトゥミートハーアットザゲイト
シーイズノットザソートオブガール
フースマイルズトゥセイ、“ハロー”
学校へ行った
二年生の教室へ行って
思いっきり後輩と機知っとした会話を楽しんだ
奴らは学校祭で演る劇の台本を書いていた。
ストーリーはシンデレラのパロディ、
舞台は平安時代らしく、何故か英語を巧みに操る《帝》が出てくる。
台本は古文体で書かれていた。
アイデアは素晴らしいのだが、その内容たるや。
まあ部外者である僕が口出すわけにもいかないので
いや、それでもたまに
「《な~そ》は使うべきだと思うよ、うん。反復して使うと効果的だね、『なこそ!なこそなこそ!なこそー!!』って」
とかぶつぶつ呟いてみたりはしていた。
やがて僕の意見も雀の涙ほど取り入れられつつ台本が完成した
コピーして
演出格の少年が支持を出す。
「じゃあ、この台本の中でなんかおかしいところとか、あるかな。あったら言ってください」
もの静かに話し出す少年。
なんて物腰豊かだ。
実に真面目に学校祭に取り組んでいる姿が見える。
しかしその台本は「どこかおかしいところ」どころか全てがおかしかった。
最もそれがたぶん味なのだし、クラス演劇に「痛い」の二文字はないので良し。
会議は進行していく。
演出格の少年はまめやかにゆっくりとしかし確実に言葉を紡ぐ。
そしてばんばん意見を出してくれる。この子が居ればこの劇は成立するのではなかろうか。
しかし、少年の意見というのは、僕に爆笑を与えてくれた。
その場では無論爆笑しなかったのだが、
誰も居なくなってから思い出しては吹き出した。
少年は大真面目な顔で語る。
「あのさ…ここで、主人公の、姉たちの…せりふでさ、『ガッテン!』っていうの、あるよね…」
ゆっくりと真顔で語る。
「ここなんだけど…、『ガッテン!』っていうの、振り付けとか、あったほうがいいんじゃないかな。」
そして真顔で《ためして、ガッテン!》のポーズをとる少年
「これなんだけど…、ほら、『ためして、ガッテン!』って…、あるじゃん。NHKでさ。あれなんか、…どうかな」
静かに周りのみんなの顔を見回して同意を求める彼。
「せりふ、自体もさ。『ガッテン!』じゃなくて、…『ためして、ガッテン!』にしちゃったほうが、きっと、面白いよ」
そして極めつけ。
「で、ここでケミストリーの『君をさがしてた』」
2002.8.5(月) 小説秦隋
「名古屋の人は焼き芋に味噌かけて喰うんすか?」
と、福井県の友人(♀)から携帯にメールが来たので
なんか異様な凹み具合をしていた僕は
「喰う」
とだけ送った。
はっきり言って僕は焼き芋に味噌つけて喰ってる人を見たことがない。
確かに名古屋人は味噌が大好きで、味噌煮込みうどんやら味噌カツやらおでんに味噌やらが有名だが、
焼き芋?
たぶんそんな事する奴は名古屋でも変態扱いされる。
(実はメジャーだったりしたらごめんなさい)
「かしこまった」
と、素直な友人は返してきた。
僕はもうちょっと遊んでみようと思った。
「あと、カレーとかオムレツにはだいたい味噌だね。たまにトーストにつけて食べる人も居るよ」
居る訳無し。
もし居たら一緒に喫茶店に行って
「ミソトーストお願いします」
「そんなのありません」
を実践しようではないですか。
その友人は素直に信じたようで、更に質問を送ってきた
「野菜とかには赤味噌?ってか全般的に赤味噌?」
僕はちょっと調子に乗ってみた。
ここまで行けば学業成績優秀な我が友人は気が付くことだろう、
「名古屋人はキリスト教徒以外赤味噌だよ。」
「キリシタンは何味噌?」
あー信じてる信じてる(笑)。
おもろ過ぎ。
折角だからもうちょっといってみようかしらん。
なんとわざわざ、
滅多に使わぬロングメールで。
「さぁ…味噌汁自体喰うのかしら。とにかく赤ってのは十二使徒にそれぞれ与えられた聖色のうちでユダを意味する色だから好まれない(豆知識!)ちなみにイエスは白ね。『神の聖なる白を血の色で穢した裏切りのユダ』って意味もあるらしーよ。まあ受け売りだけどね(笑)。あっ、だからキリシタンは白味噌かもねぇ」
我ながら、
《(豆知識!)》
とか
《まあ受け売りだけどね(笑)》
とか
カユくなるほどこれ見よがしに
狙いまくってみましたわ。
真実っぽく
真実っぽく。
できるだけ甘くして
できるだけマイルドに
「格好良いさ。その知識に感服!」
みたいな返事が返ってきた。(要約すると↑の感じ)
う~ん。
…。
まあいいや。
この日記読むだろうから。
せいぜい顔を赤らめて欲しい。
或いは今ごろ、Googleあたりで検索かけまくってたりして。
嗚呼、他の誰かにさながら100年前から知っていたかのように語りなさっていない事を望む。
ってかそれ以前にさ、赤味噌って明らかに
赤じゃないじゃん。
茶色いやん。
それでユダとか言われてもねえ。
あっ、
実はユダはこげ茶の聖色を与えられていたんですよっみなさん。
ミソをなめたり
2002.8.4(日) 「脱糞だぁ。」
なんじょれ熊の木
かんじょれ猪の木
主演:石田純一
ブッケ ブッタラカ
ヤッケ ヤッタラカ
ボッケ ボッボッボッボッボッボッ
筒井康隆は
筒井道隆の
叔父にあたりません。
ひゅーるるるるると
あがって行く花火
彼女はそれを「天上へ昇る霊魂」だと表現したが
僕にはそれが
精子にしか見えない。
爆発しないのが生を受けるのだと思って
不発弾を捜した。
「沢口靖子」という名前を見て
よだれを垂らしたのは
NHKの大河ドラマが「秀吉」だった頃で
漢字の読み方すら知らなかった頃だ。
山口誓子は有名すぎるので風呂屋のペンキ絵化している気がするが
やはり小学校の頃はどきどきした。
「ヘボン式ローマ字」という言葉を聞いただけで
くすっと笑える。
誰も区別してねぇよ。
何もない一日。
「年をとることに後悔」と「一日が過ぎていく恐怖」
これが最も甚だしかったのは小学四年生の頃で
毎週テレビにかぶりついては『魔法陣グルグル』を見ていた。
他の全ての子どもたちと同じく、僕は早熟だった。
そのせいか、今にして「後悔と恐怖」が僕の中から取り除かれたような気がする。
人はこうして大人になっていくのだが、
特に悲観する事もない。
そう、「悲観する事もない」とさえ。
わかるかな、人はこうして大人になっていく。
わかんねぇだろうなあ、たぶん、「子ども」と「大人」には。
17って貴重。
さ、久々に風にあそばれようかな。
Wind Climbingはへこんだ時の処方箋として最も有効だが
僕は一度きり、それを使って以来やめた。
何故だろう。
たぶん神聖化しているからだろう。
風呂屋のペンキ絵防止策だ。
最近では「防止策」ってのは何でもかんでも無意味に感じてきたけどね。
ほうらいつでも、僕の声が
君のカセットで聞こえるだろう。
でももうすぐ、この世界は
このままこれで消えてくだろう。
2002.8.3(土) 王様のボランチ
守備的なミッドフィルダー。
つれづれなるままに
すっげぇなんとなく
試みに
スリーサイズを測ってみました。
まず、身長体重が信田宏文と同じなのは有名な話。
168cm(推定)に、49kg(8/3オリコン調べ)。
ひょろい。
だから相対的にけっこう筋肉有るように見える。腹筋とか。
で、スリーサイズ。
これは引く。
B:75
W:61
H:80
西(ウェスト)は頑張れば57センチ。
ちなみにあっちのほうは
16センチくらい。
あと、心の中は基本的におセンチです。
2002.8.3(土) 愛ソリューション
人付き合いの巧い奴は孤立します。
そこには複数の単位が存在するからです。
誰とでも巧くやれてしまうということは
どこの集団にも属せないということで
だから僕はいつも浮くんですわ。
2002.8.3(土) ガチャピン×69
しっくすてぃーなーいん
なーいんてぃしーっくす
というカヒミ・カリィのえろい歌声から始まるコーネリアスのセカンド・アルバム『69/96』は名盤な訳です。
なぜなら小山田圭吾は1月27日生まれ。
僕は「69」という数字が好きで
それがなぜかと言うのは
いつかの日記に書いたので省くとして
まあ、何より気持ち良いからですわ、69。
そして泥のような愛。
2002.8.3(土) 帝電池(充電式)
母が仁和寺に行ってきたそうです。
岩清水行って山登らずに帰ってきたり鼎被って取れなったりするやつ。
「仁和寺行って来た」と嬉しそうに言うので
「どうだった、《仁和寺にある法師》は」と聞いたが、
理解しなかったので
昔買った『徒然草』の単行本を貸してやった。
嵌ってしまって、さっきからずっと読んでいます。
親子じゃけぇ、趣味は共通するんですな。
花火を見た。
見ている間、色々なことを考えたが、殆ど忘れた。
ネガティブな時に見る花火は
その黒雲を肯定的に見ることはできない。
ポジティブな時にはそうでないが
今日のようにまた
違った疑問のあるものです。
僕は「立入禁止」区域から徒歩0秒の地点まで見に行った。
それでももっと近くで見たいと思った。
幼い頃に見た、岩井俊二の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を思い出した。
飛行機が飛ぶのを見て、「僕は上から見たい」と思った、ゆゆしの連続だ。
なぜ僕はもっと近くで見たいと思うのか。
理由は簡単、感動してない自分がいるからだ。
燃え上がる花を見て何が嬉しいのだろうと。
僕は花火が大好きだ。
何故花火が好きなのかわからない。ただ、見ているのは楽しい。
何故楽しいのか。
そんなこと考える時点で、僕は感動してないし、
いつもそう、どこかで全てを否定している。
もっと近くで見ればわかるような気がする。
打ち上げ現場の目の前で、
光と音が同時に届くような場所で。
だっていつも見る花火は余りにも平面的で、
遠くの雷鳴のように嘘臭い。
そして数万人が、同じような花火を見るし、それは明日の朝刊に掲載される。
更に言えば数万人がそれぞれ少しずつ違う角度から花火を味わっていて、
それぞれがそれぞれに素晴らしい景色を見ているはず。
じゃあ僕の見ているこれは何てことはない、
ロングバケーションとか、タイタニックと変わらないじゃないの?
2002.8.2(金) 地獄のワイフが君を狙っている
今日でやっと世界史の呪縛から解き放たれる。
うちの学校には夏休みの講習僅か100分×5日間で
去年一年分の世界史を終えてしまうという神業を持つ教師がいて
アメリカ独立から二次大戦終了まで500分で駆け抜けました。
メモり過ぎてノートが2冊パンクしました。
メモり過ぎて腱鞘炎。
先生の声がでか過ぎて最前列の僕は歯肉炎。
しかし短期間で詰め込みすぎたせいで
「サン=シモン=ボリバル」とか訳のわからん人物を創造してしまったり
遂に夢にまで出てくるようになってビックリ。
ラヴォアジェとガンディーが肩を組みながら酒を飲んでナポレオン2世(微妙)の悪口を言っていましたとさ。
いでいで、子どもは柔軟なように見えて、実はそうではない。
めっちゃ頭が固い。
確かに発想だけは突飛かもしれないが、但し一辺倒なものの見方しかできない。
自分の知っている知識のみが正しいと思い込み、他の追随を許さない。
なまじ先入主がない分、それがどんなものでも先入主に成り得る。だから危険だ。
子どもは真っ白で、それゆえに書き込まれやすい。そして解答欄は辛うじて記号一個分のみの四角。
「戦車」という言葉がある。
男の子ってのは戦争が大好きだから、
(…だから現在の父兄社会には紛争が絶えないのである。
まあ、尤も。仮に母系社会であらば「冷たい戦争」の類が絶えないのだろうけど。)
だから戦車が大好きである。ものの本、テレビやおもちゃなどで戦車を見ない子どもは居ない。
しかしその戦車は「現代兵器としての戦車」そのものとして捉えられる、
「戦う車」というもともとの意味を無視して、「概して緑色、上から出入りして、長い大砲が1本だけついている…」など、
典型的な「現代兵器としての戦車」のある姿を=戦車であると思い込み、
それ以外を戦車とは認めない。
だから僕は『大長編ドラえもんのび太の大魔境』を読んだときに、確かな違和感があったのだ。
しかしそれについても深く考えぬまま、「漫画だから」という当てもない理由で、単にそれを「特別な例外」として捉えたように思う。
また、戦車を「現代兵器」として捉えるというのは、
別段間違った行為でもなく、はっきり言ってそれでも、現代生活の中では不自由しないどころか、
かえって都合が良いのかもしれない。
子どもの頃に形作られた先入主というのはある程度成長してもなかなか消えない、
だから世界史の授業などで「楚の国は10万台の戦車を保有していた」という事を聞くと「ウェー?」となる。
本題にころりと話題を移すと、
ガキはなんと言うか、頭が固い。
しかも何故か偉そうだ。
「戦車って言うのはぁあ、こういうのを言うんですぅううう」などとしたり顔。
後で気付いて頬を赤らめるのは10年も後の事だったりもする。
ではそれは、日本人を見た外国人が「サムライ、サムライ」と言うのとどう違うのか。
何も変わりはしない、彼らは日本に対する先入主を全く持たない状態で
日本特有の「サムライ」という旧制度に触れてしまったのだから。
例えば日本に関する情報が彼らにとってそれしかなければ、
或いは「現代にはサムライは居ないんだ」という趣旨の話を聞いた事が無いと。
明治維新は知っていても武士の衰退と消滅は知らないんだとかね。
しかも黒沢明は近年もサムライ映画を取り巻くっていたし、(『乱』など)
水戸黄門はコンスタントな好視聴率を今なお保持している。
それならば、さぁ何もおかしな事はないではないの。
その外国人は「ガキ」なのだ。少なくとも、日本に関する知識においては。
同じ事が日本の大人たちにも当て嵌まる。
自分の精通していないところに関しては誰もがガキにならざるを得ないのだ。
「ジャイ子の本名はもた子である」とか
「のび太は植物人間」とか
「将来ドラえもんを作るのはのび太」など、抵抗なく信仰してしまうというのは、
『ドラえもん』という分野においてそいつらがどれほどに無知なガキであるかということ。
どれほどに先入主のたやすい侵入を約束しているものだろうかと。
例えば「のび太が将来ドラえもんを作る」という嘘において、
『ドラえもん』の舞台が(曲がりなりにも)現代で、
ドラえもんが22世紀(2112年)から来たということを知っていれば、
矛盾の生じていることがわかるはずだ。
(ただ、《パラレル・ワールド》の概念を持ち出せば、
21世紀或いは20世紀にドラえもんが完成するのもおかしな話ではない。)
問題は背景知識だと思われる。
僕が「アゼルバイジャンな」という言葉を使いまくったとする。
「アゼルバイジャン」という言葉を全く知らない人にしてみれば、
彼は僕の文章からその意味を推察し、
もしかしたら自分勝手に適当な意味をでっち上げてしまうかもしれない。
本来の意味を無視して、僕だけの持つ個人言語である「アゼルバイジャン」を、
正しい日本語として解釈してしまう危険性がある。
そんなこんなで、馬鹿は的外れなことばかり言うのかもしれない。
全ての事柄においてこんなふうにガキのまま成長すると、
一辺倒な考え方しかできない大人が出来上がる。
更に悪い事には、彼らはガキ唯一の武器である「突飛な発想」というのを捨ててしまっている。
先入主に凝り固まりすぎた故だ。善を捨て悪を保っている。見ていて辛い。
それは僕の良く知っている教師達であり、また警察官であり、
僕のような人間を圧迫する一部の同級生だ。
僕の通っている高校の校長先生なんかは、ガキのまんま大人になってしまった典型的な例になる。
物を知らないのだ。学生時代から数字ばかりにかまけて、
大人になっても金や名誉や人間関係の算段ばかりしている。
そういった意味で「理系科目を得意とする人々」の中にはガキが多く、つまり馬鹿が多いのである。
社会について多くを知らず、日本語についても多くを知らず、
数式ばかりを追いかけて、物質が落ちるスピードを計算して、そこに情緒を見出せない。
更にはそれを職業にしてしまうと、言うべき事もない。
生きて行く上で数学しかやった事のない人=多くの数学・理科教師はガキである。つまり頭が固い。
読書なんかしている暇も無いし、テレビも見ないだろうし、
コーヒー・ショップで友達とする会話は「ピタゴラスとド・モアブルの相互干渉性について」である。(それはそれで面白いが)
しかし当たり前だが数学教師だろうが、理系科目を得意とする人々だろうが、
ある程度の読書をして、人間について考察を重ね、全ての社会的情報を消化し、楽しく機知あるおしゃべりができる。
そのような人においては、何らの差別を設ける必要はなくて、むしろ我々の仲間であると認識する。
それは一般には「ガキみたいなやつ」として認識されてしまっている部類かもしれない。
だがその実、世界を知っているガキは自分がガキだということをちゃんと認識している。
すなわち、「完全なるガキ」ではなく、「無知の知を知る悪戯ッ子」である。
社会の上層部を形成するお偉方は、大抵は前者(学校全体を束ねているのが他ならぬ校長先生だということに顕著)
なので、僕らは将来希望できるエリート街道を遮断された結果になるのだが、
「社会の悪戯っ子」は、たぶんエリートよりも人徳があり、魅力に溢れ、他人を楽しませて生きていける。
その方がたぶん、(僕の基準ではより素晴らしい意味で)ちやほやされるんじゃないかなあと、思っている。
楽しげな人生に学歴は二の次ですよ、姉さん。
あーなんか。
どんな違う切り口から入っても帰着点がいっつも同じっつーのはこれは
僕の限界かな。
ちょっとへこむわ。
あなたが怒りの後ろに隠す、女の顔、女の本能。
激しく誘う。
弾き語りをするあの人の手が
その気になる何秒かがわかった。
知的所有権ってなんだろう。
2002.8.1(木) キナコ・モチベーション
指標となりそうでならないもの、ある種の失望を感じさせてくれる。
僕は演劇をやって「いた」人間の一人であるけれども、
高校演劇の中には幾つかの法則性があって、その中には、落胆、嘔吐感を感じさせるものが、少なくない。
そういった世界とは関係のない人に言わせれば100人が78人くらい、
演劇部-オタク-きしょい。
という図式を描く事ができるでしょう。
『新しい波』でやってたオアシズの漫才でも思いっきりネタにされていた気がするが。
僕の場合、その図式は演劇部に入ってから更に色濃いものとなった。
そして更に、きしょい-勘違い野郎-勘違い女-馬鹿-不快-…
などといった図式までが完成しかけた。
彼ら彼女らは、分をわきまえず常に何処かしら調子に乗っている。
それは、僕という存在に象徴される通り。と言えるかも知れない。
もちろん全員が全員そうでもなくて、(更にそれが必ずしも悪い事だとは一概には言い難くまた言うつもりもない)
100人の高校演劇部員が居れば1人か2人くらいは例外でしょう。
また、オタクだったとしても、不快感を伴わなかったり、
きしょかったとしても、それをプラスに還元できていたりする人は多い。
だから見た目には、それらは同等数くらいに感じる事ができている。
幸せな事である。
さて、高校演劇には「大会」や「イベント」というものがしばしばあって、
そのために各校から運営委員会、通称「実行」と呼ばれるものが召集される。
不思議な事に、そこに集まってくる面々は毎回同じである。
いわゆる「実行大好き人間」だ。
どこのイベントへ行っても、「実行委員会」の名札を付けて立っている。
彼ら彼女らは、一見演劇が大好きそうに見える。
だがその実、実行をやりたがる奴程、「演劇部」というオタク的には居心地の良過ぎる空間に溺れているのだ。
概してね。
しかし決してそういう人ばかりではなく、
それにそういう人が絶対に良い芝居を作らないかと言ったらそう断言もできないので、
きっと中には本当に演劇が大好きだし、
良い芝居を作っている人が居るのだろう、少なくとも、「実行」に何の興味も抱かない人よりは。
と、思ってはいる。
だから、「実行マニア」の作・演出した芝居などは、少しだけ期待して見る。
しかし、その大半は、他の高校らと同じようにオタク臭さに満ち満ちていて、
見るも無残な、劇場内視聴率が50%を割るような取るに足らないものだったりする。
そんな時は、たとしえなくへこむ。
次に会った時に、その人とどんな会話をしようかと。
意外と自分はその人に期待していたんだな、という気持ちと
腐っていたかもしれない目玉への自己疑念と
ある種の同情心。
そして最後に、完璧に上から物を見ている自分の姿勢にようやく気付いて、へこみ祭りは全盛を迎える。
で、「いつものことやね」と開き直って、終了。
翳りは残る。
即ち、《高校演劇》というものに関しての見識だ。
5月で部活を引退してからと言うもの、
芝居の見方が変わった気がする。
細かいところを見るよりも、
「面白いか、面白くないか」というアルタネイティブな選択肢だけ。
そして高校演劇の「当たり」は、100校見てやっと1校、といったところだと思う。
去年の《中部大会》には、「当たり」がひとつもなかった。だからこそ我ながら説得力がある。
そんなわけで《大会》を見に行くと凹む、と。
そんなところなのかも。
しかし「実行マニア」って、他の人よりはずっとずっと演劇大好きオーラを発している。
だがそれは《指標となりそうでならないもの》でしかない。良い方向にも悪い方向にも転ぶ。
その人のオーラが外的に纏われた意図である事に気付いてしまうと
底知れなく嫌な気分になるのだ。
別に演劇部の人々に限った事ではなくて、
…いや、はっきり言って演劇関係の人としかあんま絡まないから、
実際それが真理みたいになってしまうんだな。
狭い、狭いわ。
ボナパルティックだわ。
遠
い。
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