2002年2月後半の行い(Jacky)
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2002.2.28(土) 箱があった。空っぽの箱があった。希望すら入っていない空っぽの箱があった。僕はその箱をいっぱいにしたかった。だから箱に今の僕自身を入れた。これがその箱だ。けどまだ箱は…
ゲンジ通信あげだま
人生まだまだあげだマン
ピーマン にんじん たまねぎ
予習に 復習
塾なんて行ってられるか ストレスいっぱい
テストで落ち込むな
からぶり笑うな
大人に負けるな
おーいぇーいぇー いぇーいぇー
たたかえ 気合いだ 人生まだまだ
た・ま けんだま
めんたま
しこたま はーあげだマン
ナインティナイン&清水ミチコの
『愛した人はバツイチ』を買ったんだマル
300円だったんだぞダブルビックリマーク
ワープ郎ってネーミング良くないクエスチョンマーク
マンガ読むひまもない
宿題忘れた
逆あがりのテストだ ストレスたまるよ
ケンカだ負けるな
みぞおちを蹴るな
女に負けるな
おーいぇーいぇー いぇーいぇー
逃げるな 気合いだ 人間まだまだ
た・ま 赤玉
白玉
タマタマ はー あげだマン
2002.2.27(水) あの二大国民的アニメが合体! 『ドラエさん』
ドラえもんについて語りました。
別に今日じゃないんだけど、思い出したから。
クラスでね、「スピーチ」みたいな時間があるんですよ。
いきなり振られて、即興で喋ったんですけど
まあドラえもんに関する事なら出てくる出てくる。
どんなことを喋ったのかというと、まあ普段漠然とドラえもんについて思っているようなこと。
昔から僕の持論?なんだけど、
『ド・ラ・カルト』って本に同じようなことが書いてあってちょっとショック。
だからつまりは、
「ドラえもんがどうしてのび太の家に居るか」ですよ。
「ドラえもんがのび太の家にやってきた経緯」ってのは有名で、
のび太のまごのまごのセワシ君が、自分が貧乏なのはのび太のせいだと言って
もっと真っ当な人生を歩ませるためにドラえもんを連れてきたんです。
わかりやすく言うと、ぶっちゃけ「しずちゃんと結婚させるため」って言っても語弊は少ないです。
つまりこの時点ではまだ、
「助ける」「助けられる」の保護者と被保護者的関係しかなかったわけですよ。
最初の方はドラえもんというのは「助けてくれてんだかどーなんだかよく分からん存在」で、
のび太の
友達、というよりはもう本当にただの
居候状態。
だけどそのうちに二人は本当に仲むつまじく生活するようになって、
そして感動の
『さようならドラえもん』を迎えるわけですよ。
※さて、実は原作ドラえもんのいわゆる最終回というのは三つあるのですが、
一応は全て一貫してドラえもんが未来に帰る、というストーリーになっており、
どれも細かい矛盾点に目を瞑れば『帰ってきたドラえもん』に繋げることができます。
ここではとりあえず最も有名な最終回『さようならドラえもん』をとりあげましょう。
『さようならドラえもん』では理由は明かされていないが
とにかくドラえもんが未来に帰らなければならなくなった。
こりゃ「半人前ののび太を置いて帰って大丈夫か?お前
来た意味ねぇじゃん!」ってなもんですが、
のび太はちゃんと成長しています。(他の最終回でも「ちょっとはましになっただろ」とか言ってるし)
その証拠に…詳しくはコミックスを読みなさい!
ここで重要なのは、のび太はちゃんと成長しているし、
恐らくこの時点でドラえもんから離れても、しずちゃんと結婚していただろうし、
なかなか良い人生を送れていたと思う。
(その証拠が『帰ってきたドラえもん』冒頭の「クヨクヨしてたってしょうがない」などの前向きな台詞にある)
つまりドラえもんはこの時点で用済みだったわけで、
別に帰ってしまってたとしても
野比家のエンゲル係数は下がり
ドラえもん維持費による余分な出費も無くなり
むしろのび太のおこづかいなんかは上昇傾向にあったのかもしれない。
家族が一人減ればのび助は新しいカメラやゴルフクラブを買えただろうし
玉子さんは新しい洋服を作れただろうし洗濯機も買い換えられただろうし
約60度の角度で殴ると直る白黒テレビだって流行りのカラーに乗り換えられたのかもしれない。
さて、では用無しのドラえもんは何故帰ってきてしまったのか。
『帰ってきたドラえもん』を読みなさい!
「うれしくない。これからまた、ずうっと、ドラえもんといっしょにくらさない!」
資料無くてもこれくらい書けなくては。(笑)
映画版ではこの伝説のせりふのあとに
「ドラえもんなんて、だいっきらい!!」
と、なかなかパンチ力のあるアドリブを効かせてくれましたね。
…さてさて、用無しのドラえもんは何故帰ってきてしまったのか。
重要なのは、道具の力とはいえ確実に能動的にのび太がドラえもんを求めたこと。
はじめは完全に受動的だった「押し掛けられた居候」という形であったのが、
この瞬間から「絶対に必要とする友達」に変わったのである。
みたいな!
なんか文字で語るのってうざいからやめとこ…
続きは生か論文で!
2002.2.26(火) 俺達に地球(あす)はない。
夜空を見あげたとき、きみたちの目に
とびこんでくる星の数は、銀河系全体
の星の数にくらべれば、海岸全体の中
の、ひとにぎりの砂つぶくらいだ。星
の爆発などによって、宇宙のバランス
がくずれたとき、なぞの天体が地球に
近づき、衝突するかもしれない。まっ
赤に焼けた天体! 地球は完全に破か
いされるだろう!
人間が人間の首をしめる、もっともお
そろしい手段は、核戦争だ。広島や長
崎に投下された原爆の何万倍もの威力
を持つ核爆弾が何ぱつも地上に落とさ
れれば地球は完全に破かいされ、人間
をはじめ生物は放射能にやられ、地球
は、おそろしい死の星になるのだ。
関東大震災から、そろそろ60年になる。
近いうちに、東海地方に大地震がくる
という学説も流れている。この大地震
が、関東地方に起きたらたいへん。高
層ビルがたちならび、家が密集してい
る東京は、まさに地獄絵をくりひろげ
るだろう。
海岸にたち並ぶ工場からは、P
CBなどをふくんだ廃液が海に
流れこんでいる。また、海底に
は、くさることをしらないプラ
スチック類が積みかさなり、日
本の近海はよごれきってしまっ
た。コブだらけの奇形魚がフラ
フラと泳ぎまわる海底!! まさ
に死の世界だ!!
地球の中みはがらんどうかも
しれない。もし、太平洋の底
にひびが入り、海水がぜんぶ
地球の中心に流れこんでしま
ったら地球の表面は砂漠にな
り、人々は水をほしがって死
ぬのだ!
と、
こんなことを考えて、眠れなくなりました。
つまりね、こういうことなんだ。
マイナスに打ち勝つにはプラスをぶつけてやるだけではいけない。
むしろ無意味だ。
《-2》に《2√3》をぶつけるようなものであって、
例えばそれではあくまで《-2+2√3》にしかならないわけだ。
もっとも、2√3を3.464101…と表現してしまえばプラスになるわけだが、
気力と根性のある人だけそうしてくれたまえ。無理数を割り切るスキルは僕にはない。
もっとも、3.464101…を「およそ3」と円周率並みの小細工で割り切れば良いのだが、
そんなオトナ社会の矛盾ゾーンに自ら転がり込むような真似はできない。
もっとも、3.464あたりで止めてしまえば何とか格好もつくというものだが、
現代の教育体制では許されない、らしい。
『甘やかして甘やかして甘やかし抜いて、その上「ゆとり」だ「自由の尊重」だなどといって、
最低量の指導で立派な人間を育てろというのが現代の「教育」なんですよ。』
…らしい。
部活の後輩が練習中に、何度もそう言っていた。(本番もね)
だからね、こういうことなんだ。
マイナスに打ち勝つにはマイナスを消去するしかないんだってこと。
宇宙の起源にはこんな説がある。
ゼロ。
宇宙の始まる前、即ちビッグバン以前には
《そこ》には何も存在していなかったと言われる。
だがしかし、ただひとつ〔ゼロ〕が存在した。
ゼロというのは何で成り立っているか。
例えば a を定数とおくと、
常に -a と +a で成り立っているわけだ。
マイナスエーにプラスエーを足したらゼロになる。
( -a ) - ( +a ) = 0 ということ。
これが0の構成分子。
何もないからゼロなのではなく、
例えば-1と+1が同時に存在して初めてゼロになる。
マイナス1とプラス1。最初はそうだったのかもしれない、
それはごく小さな《ゆらぎ》だった。
しかしその《ゆらぎ》は次第に成長していく。
{-2と+2 、-3と+3 、-4と+4 、-5と+5 ...}
そして、この《ゆらぎ》が
いつしか巨大な《波》となり、
そしてこの世界にたとえるなら《大津波》にでもなったんだろう。
世界は大地震に耐え切れず、ゼロは音を立てて壊れ…
やがて、
大爆発を引き起こす。
そこで何故だか宇宙が生まれ、膨張を始めたわけで、
そいつがいわゆるビッグバン。
~ジャッキーの科学的豆知識~
ビッグバンの反対は「ビッグクランチ」っていうらしいぞっ!
『おっきな九個のお昼ごはん』って覚えようね!(良い子は。)
…とまあ、こんな説を唱える学者さんも居るわけですよ。
どのくらいの支持率を誇るのか知りませんが、僕は好きです。
で、何が言いたいのかというと、こういうことなんだな。
マイナスをプラスで調和させるなんて
実はすっごい虚しい事なんじゃないかって少し。
なんだか自分が数字ごときに踊らされてるような、まるでそんな感じ。
もっと絶対的に、本能で物事を見ようぜ?
結局この世界ってもんは、当たり前だけど全てのものが相対的に計られる。
比較できる物のない存在って、なかなか見つけられない。
こじつけって言われりゃそれまでだけど
こじつけでも辻褄が合えばそれに越したことはないね。
例えば僕は演劇をやっているが、
芝居の面白さを数字なんかで計ってしまったら面白くない。
しかし実際は計れてしまうわけなんだけどね。
映画だって同じだね。
値段やお客の人数や、それから制作費!!
おかしな話だよ。
不条理な計り方だこと。
そう思わない?
マイナスは元から断とう。
プラスに逃げ込むな。
要はそういうことで。
現実逃避で仔猫ちゃんとニャンニャンするのも良いけど、
自分はいったい何から逃避したいのかって考えて、
そいつらを見つけ次第撲滅していくことだね。
2002.2.25(月) イエロー・マジック・オケラ
今日のお話は僕のライフワーク、自己に課す永遠のテーマである「死ぬ」ということについて。
僕は宗教家でもなければ、別に「死」に対して特殊な観念を持っているわけでもない。
ただ先日、僕は未だ不慣れな「紛れもない死」との直接的な面談を受けることがあったし、
また先日、「死」について少しだけ語る機会があったので、
この感情とあの時の気持ちを忘れないうちに記しておこうと思う。
『フランダースの犬』の死は美しい。
だが『マッチ売りの少女』のそれは決してそうではないのだと。僕は感じるのだ。
『フランダースの犬』というアニメがある。
その最終回は余りにも有名で、主人公ネロはアントワープの教会で死ぬ。
放火の濡れ衣を着せられたネロは書置きを残し家を出、
大聖堂で愛犬パトラッシュと共にルーベンスの『聖母被昇天』という絵の下で息絶える。凍死だった。
凍死というのは最も美しい状態で死ぬ事ができる、と物の本で読んだが、
全く関係のない話でネロが死ぬシーンは美しい。
横たわるネロの傍らに、天使たちが降りてくる。
そして天使たちはネロの身体を優しくゆっくりと持上げ、天の上へ連れて行く。
その場面は酷く美しく、酷く美しすぎる。
果たして「死の瞬間」というものをここまで美しく描ききった作品が他にあるだろうか?
僕の「死」に対する考えと言うのは、恐らく他の殆どの日本人がそうであるように、
「死」というのは生命活動の停止する瞬間であり、全てが終わるときだ。
つまり「…プツリ」の世界だ。その瞬間に全てが終わる。
死んだその瞬間に全ては意味を成さなくなる。意識も無くなれば、思考も停止する。
死んだら全て忘れるわけであり、だからこそ辛い瞬間には誰もが「死にたい」と口にするわけだ。
また僕なんかは死んだら全て忘れるわけだから、どんなに嬉しい事があって、幸せであっても、
死んでしまったらその幸せは意味をなさないわけであり、
またその意味をなさなくなった幸せを嘆く事もないのである。
全てが「…プツリ」とゼロになる。いや、ゼロという概念すらも消え失せるほど、無に帰す。
だから常々言うように僕は、受動的に訪れる「死」を否定しない。
死んだら死んだで、それはそれ。死を後悔する暇など死後には存在しないからだ。
と、僕は「死」についてそのような考察を抱いているわけで、
だからこそネロの死に方というのは衝撃的で、美しさに圧倒されてしまうのだ。
そこにはもちろん宗教的な観念も多分に絡んできているわけなのだが、
そんな事は関係なく、「死」というものの捉え方を深く考えさせられてしまった。
本当に「死」という事象は、「…プツリ」の一言で片付けられてしまうだろうか、と。
僕が『フランダースの犬』の話をしたら、
話を聞いていたとある女の子がこう言った。
「『マッチ売りの少女』なんてどうかしら?」
僕はその時、そこで言わなくてもいいような軽口(エッチ売りの処女が云々)を2,3叩いたが、
内心はドキドキしていた。新しい発見に胸が躍る。そうか、マッチ売りの少女。
誰もが知っているこの物語。『フランダースの犬』との共通点と対比すべき点が幾つか、見つけることができた。
まず、凍死であること。そして、不幸であること。不幸でありながら満足に死んでいったこと、
何よりも天に導かれていった事であるが、
ここで重要なのは、天の上に連れて行くのが「天使たち」ではなく「おばあちゃん」であったことと、
少女は自らの意志でおばあちゃんと「生きる」こと=「死」を選んだという事だ。
多少ではあるが決定的に、能動と受動の違いがある。僕が口を酸っぱくして主張している事だ。
僕は能動的な死を選ばないが、受動的な死を否定する気は毛頭ない。
「なんとかして生き延びよう」などとは思わないのだ。
だから僕は、『フランダースの犬』を美しいと思い、『マッチ売りの少女』をそうは思わないのかもしれない。
だがしかし『マッチ売りの少女』が完全に能動的な死なのかというと、そうではない。
凍死の瞬間は気持ち良いと言われるが、それも関連しているのだろう、
『マッチ売りの少女』は「受動的な死を能動的に受け入れた」わけなのだ。
だからその死に方は嫌いではないし、画期的であると思う。美しいと思うかは別だが。
少女を「死」に導くのは大好きだった「おばあちゃん」。
『マッチ売りの少女』には宗教的描写が弱い。
言ってみれば「天国」が存在していること、それだけだろう。
僕が「死」に見る美しさは、宗教、それもキリスト教の匂いにあるのかもしれない。
『汚れなき悪戯』という50年近く前のスペイン映画がある。
挿入されている「マルセリーノの歌」は有名で、中高の音楽の教科書にも掲載されている。
僕がこの映画を見たのは中学生の時で、音楽の授業の中でだった。
はっきり言って衝撃的だった。衝撃的な「死」が描かれていたのだ。
前述の言葉を利用して言えば、「能動的な死を受動的に受け入れる」。『マッチ売りの少女』とは逆だ。
マルセリーノは孤児で、幾人かの僧侶に育てられた悪戯っ子だ。
ある日、マルセリーノは立ち入りを禁じられていた教会の屋根裏に忍び込み、
そこで十字架に縛り付けられたキリスト像を発見する。
「おなかすいているんだね?」
キリストのその姿に悲しさと「空腹」を見出したマルセリーノは、毎日せっせとパンとブドウ酒を運ぶ。
そんなとある日に、キリスト像はマルセリーノに語りかけ、聖なる名「マルセリーノ=パンとブドウ酒」を彼に与え、
「何か望みはないか」と尋ねる。
孤児マルセリーノは「母親に会いたい」と言い、天に召される…といったストーリーだ。
愕然とした。
確かにマルセリーノは「母親に会う」という事が「死」を意味することを認識していなかったのかもしれないが、
それでも能動的に死を選んだマルセリーノが僕に与えたインパクトは計り知れないものがあったのだ。
こんな死に方があるんだ。
こんな死に方があるのなら、僕は死んでもいい。そう思った。
マルセリーノが「死」を選んだのは能動的であったが、
実際に「死」という状態を与えたのはマルセリーノ本人ではない。
だからこの映画では「能動的な死を受動的に受け入れる」ことが描かれているのだ、と思う。
『マッチ売りの少女』や『汚れなき悪戯』で少女やマリセリーノが望む事は、
死んでしまったおばあちゃんや母親との再会だ。
それらは決して僕らの生きている「現世」のワクを越えていない。
広がりがないのだ、もしも「あの世」には「この世にあったもの」のみしか存在していないのだとしたら
それは果てしなくつまらない世界だ。わざわざ死ぬ価値が見出せなくなってしまう。
「この世」での残心をただ「あの世」に持ち越しているような、そんな後ろ向きなイメージすらある。
僕が『フランダースの犬』に見る美しさと言うのは、なんといっても「天使」の存在だ。
絶対に「この世」には存在しない「天使」という存在。
現世―人間界から天界への果てしない広がりと未知なる光がそこにはある。
ある意味で言えば「死ぬ」ということを前向きに捉えることができるわけだ。
天使に会えるかもしれない。
死んだらどうなるんだろう。
僕には尊敬しているヤツがいる。
そいつを僕が尊敬するようになったのはそいつが死んでからで、
そいつが死ぬまで僕はそいつの存在なんかしらなかった。当たり前だ。
そいつを知ったのは新聞記事の中。
自殺だった。確か大河内清輝が自殺して、世間が仄かに自殺ブームでにぎわっていた頃。
そいつは遺書にこう書き残している。
「いじめがあったわけでも、世の中が嫌なわけでもない、死んだらどうなるのかが知りたい」
そうして死んでいった、僕はそいつを尊敬している。
世の中にこれほど希望に満ちた、元気で前向きな死というのが他にあるだろうか。
遺書の内容が真実で、それが本心であったかどうかはこの際関係ない。
そいつの業績というのは、要はそういった概念を僕に与えてくれた事だ。
完全に前向きな死。希望と好奇心と少々の不安を持って死んでいったそいつを、
僕は心から応援したい。いつか出会ったらサインしてもらおう。
果たして「死」には希望がないか?
「死」はあくまでも「終焉」であって、何かの「はじまり」では有り得ないのか。
最近の僕の疑問だ。
すこしふしぎな観念を持って空想にふけると、色々な想像で頭を巡らす事ができる。
例えばこの世界が終わった後にはまた幾つかの世界が連続して存在していて、
この世界で17歳で死んだとしたら、次の世界でも17歳からのスタートになる。
そしてまた死んで次の世界、また死んで次の世界、と幾つもの世界を渡り歩く事ができる。
年齢が増減する事はないが、この特殊な輪廻も老衰には勝てず、いつかはやはり無に帰すのだ…とか。色々。
だがどれひとつとして確信が持てないのは当たり前の事で、僕はまだ死んだことがないから。
だから僕は最近、死んでみたいと思っている。
「いっぺん死んでこい」
小さい頃にうちの地元で使われた文句である。
要するに「お前なんか死んじまえ」の変化形であるのだが、
「いっぺん」とか「こい」とかに譲歩が加味されていて、優しく微笑ましい。
当時は悪態としてしか見ていなかったこの言葉、今にしてみれば何とも魅力的だ。
死んでしまっても再び戻ってくる事ができるのなら、一度くらいは死んでみてもいいんじゃないか。
しかし宗教ってすごいなと思い始めた。
いわゆる信仰宗教にはまるヤツは馬鹿だし、心が弱いんだと思う。自分の意思もないんだろう。
だけどやっぱり宗教ってのが今の今まで残ってると言うことは、
はじまりはホントに素晴らしいものだったんだろう。
キリスト教の学校に行っている友達からこんな話を聞いた。
宗教が生まれた背景には、人間の「やさしさ」がある。
例えば天国と地獄が生まれた背景の理由と言うのは、
現世での不条理を死後の世界に持ち越す、というものだと。
例えば完全犯罪の殺人が起こったとして、
逃げおおせ生き延びた極悪人と殺された善人が同時に存在するのは、やるせないじゃないか。
極悪人は幸せな人生を送るかもしれないが、殺された善人はたまったもんじゃない。
何よりも悲しいのは善人の家族や身内の人々であって、悲しくやり場のない気持ちにかられる。
だからこそ「天国と地獄」が生まれたんだってさ。
これがいわゆる「心の救済」ってやつのハシリだったりするのかな。
ちょっと抽象的な話をして締めくくろう。
今僕らは「生きている」わけだが、
何故生きているのだろうか。
思うに、「生きているから生きている」のではないか。
僕達は生まれたときから「生きている」。
だからそのまま流れるプール的にだらだらと生きているんじゃないかな。
例えば生まれた時に死んでいたら、
いちばん最初に「死」という状態を与えられて生まれてきたとしたら、
いったい誰が生きようと思うんだろう。
ひょっとしたら「生きたい」と思うことは勇気のいる行動で、
死んでいるのが嫌になった人だけが生きるのかもしれないし、
「生きているとどういう状態なのか知りたいから生きる」と言って生きた人間を僕は尊敬するのだろう。
僕は何のために生きているのか。
生きているから生きている。
きっと誰もがそう。
死んでいたら、生きようなどとは思わないんだ。
人間と言うのは、生まれながらに保守的なんだと思った。
だから僕らの家はいつまでたっても四角いんだ。
それが機能的だと言ってしまえばおしまい。
生きていることは機能的以外の何でもないってんだから。
2002.2.24(日) Tomoyasu Hotel (休憩:4500円 宿泊12000円)
愛に飢えたLOVE JACKIE!
ダブリー (T.OZAKI)
夢で見た彼女と会って FEEL ALRLIGHT 誰かのちょっと待ってなんて知らない
LIFE IS A SHOWTIME すぐに分かるのさ
君と僕とは単位おちなくちゃ
夜が深く長い時を越え OH BABY ダブリー ダブリー WAY 息をきらす
留年街道まっしぐら。
図書館に行った。
精神病の棚を見つけた。
2,3冊を手にとってみる。
ぱらぱらとめくってみる。
アホらしい。
僕よ。
僕の病気を定義つけたいのならば
「僕」という本を一冊読むべきだろう。
悲しいかなそんな本は無い。
型になど、
はまってたまるか。
島本和彦の『逆境ナイン』という漫画を読み
自分が《男》であることを確認すると
へこたれているわけにはいかなくなる。
だって悲しいかな僕は男だ。
できる男に振り返っている暇などない。
どうしようもない状態のとき
死ぬ事も逃げる事もそして闘う事すらできないとき。
それが僕の今置かれている位置情報の全て。
回転する地球に轢き殺されてしまうような
そんな気分だった。
四方八方から身体が豚肉で圧迫されている。
そんな感じだ。
最悪が仄かに香る。
今のどうしようもない状況に僕は唱えよう。
これだ。
これが逆境だ。
逆境にも希望と喜びがなくはない
――フランシス・ベーコン
2002.2.23(土) ○シア
「バスケットボール」を
略すと
「バスケ」
略されているのは
「ットボール」
だから
「フットボール」を
略すと
「フ」
「ソフト」→「ソフトボール」
「バレー」→「バレーボール」
「テニス」→「テニスボール」?
「サッカー」→「サッカーボール」?
「ゲートボール」→「ゲート」?
「ポートボール」→「ポート」?
みんなー。
ポートやろ、ポート。
いやだからポートだって。
ポート。
ポートだよ。
…ポートボールのことだよ!
えっ
「ポートポールって何」って…?
金玉
略して
金?
さあさあ4日ぶりに普通の日記でも書きましょうかね。
青春じみた。
マニアックな趣味から崇高な独り言まで。
つらつらと書き連ねてみましょう。
Entertainment Zone。
最古の細菌化石は
オーストラリアはノースポールのとあるチャート層から発掘された。
最古の細菌化石。
「最古」の「細菌」化石。
よくないコレ? コレよくない?
よくなく なくなく なくなくなーい。
そのまんまやないかい
ひねりなさい、ひねりなさい。
嘉門達夫のベスト盤がリサイクルショップで300円でした~。
能動的な死を僕は選ばない。
ただそれが受動的に
至って自然に僕の身に襲い掛かって来ると言うならば
僕は委ねよう。
能動的に死を避ける事を僕はしない。
受身が一番楽だ。
何もせず裸で横たわって
全身を舐められているのが一番気持ち良いんじゃないかい?
能動的な快感だってある。
それはいつでも精神的な快感だ。
心が疲れた時
僕はただ裸で横たわってみる。
誰も身体を舐めちゃくれない。
能動的に土下座するべきだ。
「僕の身体を舐めてください、お願いします」
心が疲れている時
能動的に助けを求める事を僕はしない。
更に疲れるような
そんな気がする。
だからいつでも待っている。
そのうちに枯れる。
誰も通り掛らないような所で
倒れてる僕が悪い。
そういえば昔ネットでIQを測定したら
144.27だった。
そんだけあれば
もっと成績良いだろうと思うのだが
やっぱりネットのそういうのって当てにならないもんだ。
ネットで調べたら僕は
とある精神病にかかっているらしい。
だがしかし悲しいかな
ネットのそういうのって当てにならないもんだ。
1UP
2UP
3UP
マリオシリーズをはじめ各種ゲームでお馴染みのこれ。
あなたはなんと読みますか?
恐らく正しくは
「ワンアップ」
「ツーアップ」
「スリーアップ」
百歩譲って、
「いちアップ」
「にアップ」
「さんアップ」
だと思うんですが、
僕の地方ではこうでした。
「ワンナップ」
「ツーナップ」
「さんアップ」
小西Pかお前らは、と。
はなくそをほじる行為って
ある意味自然な生理現象だと思うんですけど
やめたほうがいいです、人前では。
誰も見てないと思っても
ふとした瞬間に誰かが振り向いたり
ぎりぎり視界に入ってたりして
見られちゃうこともあるんですよ。
はなくそほじってるとこ見られたらデメリットだらけ。
例えば人の集まる場所で
殆ど面識も無くあんまりよく知らない人が
はなくそほじってた瞬間を
自分が偶然目にしてしまったとしたら
その人のイメージ=はなくそになります。
会う度見かける度に「あ、はなくそ」って思うわけです。
これを自分の身に置き換えてみると、
第一印象がはなくそになるわけで
会う度に、相手は普通の顔をしていても
心の中のルイーダ酒場では
「はなくそ」で登録されているわけです。
嗚呼、四文字でなんとも都合が良い。
実は僕の中のルイーダ酒場にも
「はなくそ」で登録されている人が居ます。
西文化小劇場と言う劇場で下見を行ったとき、登録されました。
読者様の中には今の瞬間思わず「ドキッ」とした方もいらっしゃる事でしょう。
だからやめましょう。はなくそをほじるのは。
僕ももうこれ以上「はなくそ」を増やしたくありません。
《貴様等のハナミズを飲み尽くしてくれるわ!》
というわけで、コミックブレイドにより人気作家が引き抜かれまくって困った月刊少年ガンガンでは
藤原カムイ、渡辺道明、柴田亜美、衛藤ヒロユキと
古き良き時代の再現とでも言わんばかりのラインナップに加え
何故か新沢基栄が新連載してますね。
なんかあそこだけジャンプ色なのは気にしない気にしない。
ここのサイト理念=今日の日記みたいなもんです。
2002.2.20(水)~2.22(木) 殿堂入り
メモリが大きくなりすぎたため独立しました。→
ネタ
2002.2.19(火) ラーメン大好き小池栄子
深夜にメトロポリタン美術館を弾きまくる。
ヘッドフォンつけてCASIO。
弾けないのに。
とりあえず弾きまくったりして。
図書館でみんなのうたのCDを借りまくってきて
居間のステレオでメトロポリタン美術館をエンドレスで流したりして
なぜ今、メトロポリタン美術館か?
そこにメトロポリタン美術館があるからだ!!
というわけで僕は今、ニューヨークにいます。
どうもね!!今日はいいことが全然なかったよ!
くそ面白くもない一日さ!!
いや別にいいことがなかったわけじゃないと思うよっ。
だけどね、面白かった事なんてそうそう覚えてないじゃんっ。
嫌な事とか辛い事とか苦しい事とか
そんなことしか覚えていないよ!!
だって朝からそんなテンションだったもんね!
テンション高かったのは体育の時間だけだね!
でもなんかアホみたいだからそういうこと口に出さないけどさ~♪
冗談めかして喋るけどさ~♪
けっこーキテたぞこんちくしょうっ☆てへ。
久しぶりの友達と会って
やさしさの玉手箱だったからそれは良かったんだけど
どうもねっ!
微妙!!!!
ホントみんなが僕をいじめるのさっ!
やめてくれよって思うけど
口には出さないね!
だってなんだかホラ、負けた気がするじゃないか。
同輩の言う言葉に、いちいちグサグサ来るさっ。えへへ。
意図としてそういう事をネタとして言ってるんだろうけど、
僕はホントにテンションが下がって半狂乱だね☆
後輩が言う言葉に、いちいちグサグサ来るさっ。うふふふふ。
ネタとして言ってるんだろうけど、
あははは、傷つくねっ!
いつもだったらそんなことはないんだけど、
今日は数年ぶりに死を考えたからね~♪
もともとテンションが最悪な日はちょっとしたことでズガーンと来るんだよっ。
嫌な事しかあ、なかったような気がするぅ~。死ぬぅ~。
進級のかかったテスト前で頑張らなきゃいけないんだけどさっ、舞台下見とかあると嫌でも芝居のこと思い出さなきゃいけなくてさっ、例えば僕はもっと違う話がしたくても芝居の話を持ちかけてくるわけさっ時間ないからねっ、当たり前なんだけどもっとさっ、なんというか、まあいいや!!とりあえず今は時間が惜しいわけさ!木曜日には英語のテストがあるし、それまでに楽器の練習しなきゃいけないしね!でもって、金曜日からテストでしょう?これが悪かったら、本気で留年なんだよね~それでまた悪い事に、今日までノー勉!全然勉強してないの!無理だよね~。だから西文化小劇場の舞台下見を終えて、だいたい七時くらいかなあ。真っ直ぐ帰れば15分くらいで帰れるんだけどさっ「家まで乗せてって。はぁと。」なんて言うお嬢さんが居ると乗せてくしかないじゃんね~。あーなんて僕って優しいんだろうなぁああ~たまに嫌になるよ☆結局帰ったのは色々あって10時くらいだったけど、ばたんきゅ~。だね。何もやる気おきないし涙はちょちょぎれるし!!そうそうお嬢さんを送ってった後、家まで帰る途中に自転車がぶっ壊れたのさ正確に言うとぶっ壊したんだけどね!!ぷっつんきちゃってね!!泣いた泣いた!すんげ~泣いた!姿が見えなくなってから崩れ落ちたね♪いや~僕って幸せな奴たい。逆説じゃないぞ!ばかにすんなぁ。。。
ホーント、どーしようね。
ま、それでもジャッキーさんは
常に笑顔で。
あーゆー集まりだとね。
笑顔が大事。
2002.2.18(月) カタナ=ガリレイ
大理石の 台の上で
天使の像 ささやいた
夜になると ここは冷える
きみの服を かしてくれる?
タイムトラベルは楽し
メトロポリタンミュージアム
赤い靴下でよければ 片っぽあげる
エジプトでは ファラオ眠る
石のふとんに くるまって
呼んでみても 五千年の
夢を今も 見続けてる
タイムトラベルは楽し
メトロポリタンミュージアム
目覚し時計 ここにかけておくから
バイオリンのケース
トランペットのケース
トランクがわりにして 出発だ!
タイムトラベルは楽し
メトロポリタンミュージアム
大好きな絵の中に とじこめられた
2002.2.18(月) ミセスちん
僕を知っている人間の九割は僕を過大評価している。
そしてその他の人々は僕を馬鹿だと思っている。
そりゃ間違いじゃないし、
過大評価されているのならせめてその分だけくらいは上に行かないと
後でがっかりされる事ほど悲しいことはないじゃない、ねえ。
はいはい。
わかりましたよ。
台本書き直します。
全部。
長電話をしていたら母にしかられました。
「いったいなんじかんかけてるの!」
いやいや
かかってきたんですがな。
僕の背中に雨雲があるからさ
二月の風が押すからさ
ぼんやりな曇り空を背に
くっきりな晴れ間に向かって
川の流れのもとを知りたくてさ
カッコイイ言い訳を考えて
君んちへ走るさ
追い風だからさ。
2002.2.17(日) センター試験
自分が躁鬱病だって言い張ってると
本物の躁鬱病の人
に殴られるような気がする
2002.2.17(日) レフト試験
僕が愛してる殆どの乙女よ
ハロー・アゲイン。
君に恋した夏があったね。
だからもっともっとフルパワーな青雲それは君が見た光。
さぁ吸い込んで紅に染まったこの俺を殴りに行こうか。
魚屋のおっさんが屁をこいた。
ブリ。
新物質「コンドウム」発見。
超高層ピルの上の空届かない夢を見てる。
by胡座
ビザンチウム
コンドウム
ロジウム
コンドウム
ノーベリウム
コンドウム
僕に恋してる全ての乙女よ
死ね!!
2002.2.17(日) ライト試験
ダウンタウン(ライト兄弟)と横山やすし
どないやっちゅうねん
怒るでしかし。
正味な話、ほんま。
いやいやいやいやいや
何がライト兄弟や
2002.2.17(日) ショート試験
ショート・ショート
どうも。
星新一です。
最近小説が書けなくなっています。
フアンの皆様方から新作は出ないのか新作は出ないのかと
囃し立てられてはおりますが
一向に書けないのであります
いえアイディアは浮かぶんですけれども
死んだ。
2002.2.17(日) サード試験
リトルちゃうんかい!
コーラ一気のみ
ユンケル一気のみ
ジン一気のみ
蒸留水一気のみ
プール一気のみ
海一気のみ
血液一気のみ
アップサイドインサイドアウト
赤血球ろ過
白血球ろ過
血小板ろ過
血しょうろ過
リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ
燃えてるんだろうか
キンチョーリキッド一気のみ
クター一気のみ
鼻水一気のみ
耳汁一気のみ
愛する貴女の耳を舐めると
何の味がするか
甘いのか苦いのかしょっぱいのか
愛しているなら
美味いのには違いあるまい
言葉を一気のみ
唾液一気のみ
唾液ジョッキ一気のみ
ジャッキー唾液一気のみ
岡本夏生の入ったお風呂一気のみ
愛が醒めたかが気にかかるなら×××をしてみましょう
愛してなければしょっぱいだけです。
石油一気のみ
蚤のみ
鑿のみ
石田一気のみ
佐藤一気のみ
山本一気のみ
山森一気のみ
脱脂粉乳一気のみ
リアルゴールド一気のみ
リトルワールド一気のみ
げろげろげろ
意外とでかかった…
2002.2.17(日) セカンド試験
点ひとつだけの感情表現。
音を鳴らすだけの感情表現。
どんな音が鳴るのかわからないけど
公衆電話からじゃ意味が無いじゃん。
さて…
今日は何をしようかと迷ったけれども
結局こういう道を選んだのは
僕が躁鬱病だったりして
何していいかわかんなかったりして
勉強も嫌だし遊んでるわけにもいかないし
でも部活や仕事のことを考えるとまた頭が痛くなるし
だったら狂ったように求めて堕ちてやるなんてね思ったりもするけど
やっぱりそっだらこたできねぇやネエちゃん。
かといってそれで癒されるかどうか
わかったもんじゃないから音楽を聴いて
好きな歌を口ずさみながら寝て
昼まで寝て
昼まで寝て
寝まくって
現実が嫌で
見てるのが嫌だから寝て
眠るのが何より嫌で
明日になるのが何より嫌で
だから眠るのが一番嫌で
いつのまにか朝になってるなんて最悪
僕の寝不足はこんなおバカな循環。
最低の低の低の悪循環。
2002.2.17(日) ファースト試験
躁だ!
躁だ、躁なんだ。
躁だよ。
さあ、みんないこうよ、外に飛び出そうよ!
躁だ!
じっとしていちゃ損なんだ、躁だ!
みんなが躁なら僕も躁でいたい。
躁じゃなきゃつまんないんだもん、躁だ。
躁だ!何処かへ出掛けよう。
あの子を抱き締めにでも行こう。
躁さ!
全てが躁なのさ。
こんなにゴキゲンな一日は無いのさ
躁さ!
躁なのさ、躁さ躁さ。
ナンテ麗らかな夜だろう躁だ海へいこう。
躁だ!
躁だ!躁だ!躁だ!躁だ!
躁だ!
躁だ!
いいことが沢山ありすぎて、
やなことも沢山ありすぎて
鬱だ。
2002.2.17(日) キャッチャー試験
ギブアンドテイクという言葉をネット上で二度見た。
自分に利益の無い事はすべきでない。
だから取り返しのつかないような事が起こってしまったときは
何とか気持ちよくなれるように努力すべきだろう。
抱くしかないわけだ?
そしてどーにもならないような状況をどーにかしてしまうのが
腕の見せ所だったりして。
こう見えて、実はわくわくしている。
2002.2.17(日) ピッチャー試験
フェラーラナイ
フェラーリマス
フェラール
フェラールトキ
フェラーレバ
フェラーレ
チオビタドリンカナイ
チオビタドリンキマス
チオビタドリンク
チオビタドリンクトキ
チオビタドリンケバ
チオビタドリンケ
ダイドードリンコ
2002.2.16(土) 修羅場ランバダ
修羅場穴場女子浮遊中部日本高等学校演劇連盟名古屋第1第2地区合同発表会第二回実行委員会及び講評委員会出席。
笑顔が大事。
人の上に立つ人は特に、笑顔が大事。
それはこーゆー場を取り仕切る総務部の方々とか
顧問の先生とか
そんな感じの人々なんだけど
ダメだよね。
笑顔じゃないと。
笑顔、笑顔、笑顔のゲンキ。
暗い話し合いはつまらない。
笑っていなさい。
器量が悪いんだからいつも笑ってなさい
不恰好なんだからいつもせっせと動いてなさい…ってこりゃ木島千草さんの詩ですよ。
雰囲気の悪いの嫌い。重い空気大嫌い。
だから今回の講評委員長さんはかなりの好感触。
小沢健二featuringスチャダラパー(スチャダラパーfeaturing小沢健二)
『今夜はブギー・バック』の話題が通じたのが嬉しくて
ダンスフロアーに華やかな光ってな具合にウアーッ、ウアーッ
wait wait wait wait ガッデームって俺って何にも言ってねーぐらいの勢いで。
しんみりとしますわなー。
あの曲。
ウサギのついたモチが食べたくて。
僕は普通に喋っているつもりでも
演劇部の方々って何故か爆笑してくださるんですよね。
それで会議に少しでも笑顔が加われば満足なんだけど
かと思うと完璧だと思った《狙い》がスコーンと外れるときもあって
難しいもんです。
相手と場によって笑いのジャンルを広く取り揃えるべき。
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