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11月12日

2004(金) 

 カジノはしばらく休みだそうだ。
 矢崎のプライベート日記で楽しんで貰いたい。




 まじ眠い。



 日本橋ヨヲコの『G戦場ヘブンズドア』は、完全ノンフィクション版『まんが道』と呼ぶことができたり、あるいは裏タイトルとして『編集王』と冠することができたりする。え、ホントかよ。いや、適当です。でもきっとそう。

 大学で同じクラスの、小説を書いて暮らしたいがさもなくば妥協して研究者にでもなるかなあと考えてはいるものの結局「お母さんに怒られるから」という理由で履修を続けている教職授業の結果として取得できるであろう教員免許に引きずられて埼玉県のしがない私立高校教員で一生を終えてしまいそうな予感を必死に払拭したがっているアフタヌーン編集部目当てで講談社だけ就職試験受けるかとかほざいている男と僕の仔猫ちゃんと僕の仔猫ちゃんの友達(パンダさんより漫画が大好き)がしきりに日本橋ヨヲコをすすめていたのでつまらないはずはないだろうなあと思っていたそして、実際そうではなかった面白かった。

 で、なんか、仔猫ちゃんと仔猫ちゃんの友達は「痛い。読むと痛くて、泣けてくるってわかってるんだけどなんか読んじゃう」とかってG戦について語らっていたようだが、穿ち気味の僕なぞは「そうなのか?」と思ってしまう。痛いのはわからんでもないが、
 「G戦ほど“救いのある話”はないぞ?」
 っていうか、プラ解とG線しか読んでなくて言うのもなんだが、日本橋ヨヲコは“救いのない話”を書かないだろう。

 言うまでもなく、『プラスチック解体高校』はハッピーエンドである。異論はあるか?たぶんないだろう。あったとしても、残念ながら、これはハッピーエンドなのである。確かに××は死んだし、○○は学校を辞め、△△は彼らと離れなければならなかった。だがプラ解はそこでは終わらない。日本橋ヨヲコは○○が学校を去った後のシーンを、極言すれば「蛇足」とも言えてしまうようなラストシーンを付け加えている。このいわゆる「後日談」はあまりにもよくできているために“イイスギ”の感があり、手法としては王道中の王道で、クサいとすら思える。「ここまできちっと書かなくても、あとは読者に委ねるとか、ちらりと匂わせるだけにしたほうが、深みがあるんじゃないか」なんて意見もあったかも知れない。だがそれはハッピーエンドの約束を失う代償としては安すぎる。
 あの「蛇足」部分が登場人物たちにとって、そして読者にとっての“救い”であり、日本橋ヨヲコの姿勢である。日本橋ヨヲコは真実を描くが、必ずしも現実を描かない。プラ解のラストは予定調和的でありすぎて、もはや非現実的である。「ここまで綺麗に王道でまとめてしまっていいのか?」と思わせるほど、あまりにも出来過ぎているのだ。しかしそれゆえに、読者には安心がもたらされる。

 日本橋ヨヲコ作品には、「希望」がある(注:二作しか読んでいません)。どうしようもないほど生々しく痛ましい絶望的な場面を描いておきながら、それでも「希望」を残すことを忘れない。しかも完璧な「希望」である。

 日本橋作品の登場人物たちは(現実を生きるたくさんの人々と同じように)それぞれに痛みや苦しみを抱えている。日本橋作品のほとんどが青春期の少年少女を描いていることには意味があるのだ。青春期に人間は絶望を経験する。そしてやがてその絶望が「拭い去ることのできないもの」であり、それと共存していくほかに生きていく術はないのだと悟る。
 日本橋作品の「生々しさ」や「痛ましさ」は、これを描いているのである。いわば思春期から大人へと移行するための通過儀礼。思春期が大人になることには絶望がつきものだ。思春期にとってそれは妥協でしかないのだから。しかし、そこを出発点としなくては、「希望」は見つけだすことができないと日本橋はいう。絶望を踏まえなくては希望にたどり着けないのだと。きわめて逆説的なこの思想こそが日本橋作品のあの独特な淋しさを醸し出している要素なのではないか。

 思春期から大人への入口、…「大人」なんていう言い方はイヤだから使わない。作者としてもきっと心外だろう。「絶望」から「希望」への入口。日本橋作品はここで終わる。

 そう、日本橋ヨヲコの作品は確かにここで終わっている。しかし、日本橋ヨヲコの世界は終わらないのである。
 プラ解の登場人物たちは、プラ解のラスト・シーンから何年後かという設定で、G戦に再登場している。そして誰もが幸福そうである。つまり、ややこしい言い方をするならば、「ハッピーエンドのハッピーエンド」すら、日本橋作品では保証されているのである。

 それを他作品に「後日談」として描くことで、ハッピーエンドで終わった作品の登場人物たちがいつまでもハッピーでありつづけるような予感を読者に与える。完璧な希望である。ただし、その「ハッピー」とはあくまでも絶望を内包し、それとのあくなき闘争を前提としたハッピーであって、無条件の幸福を約束しているものではないということを忘れてはならない。だからこそ、ハッピーが突然襲いかかってきた無限大の絶望に喰い殺されてしまう、ということがない。すでに絶望は、ハッピーの中にあり、調和してしまっているからだ。

 プラ解とG戦はラストシーンにおいてまったく同じ構成をとっている。「後日談」による王道の“締め”である。まったく、できすぎている。「G戦の登場人物がまた別の作品に登場するのでは?」といった予感さえ与えられてしまう。プラ解からG戦へ、そしてG戦から…といったように、まるで輪廻のように繋がっていく。そんな予感が。
 そもそもG戦にはその作品自体に輪廻がある。カノンのような繰り返しが。鉄男も町蔵も、結局は自分の親と全く同じ道を歩む。これは絶望ではなく“救い”である。そのことは、作品を読んだ人ならわかることだろうと思うが。

 さて。『G戦場ヘブンズドア』も、もちろんハッピーエンドであるし、今後別の作品において「ハッピーエンドのハッピーエンド」が約束される日も来るかもしれない。プラ解からG戦に繋がっている“救い”の思想は、いつかまた別の世界とリンクするだろう。また別の若者が絶望を知り、希望を見出す日が来る。そしてその若者を見つめる鉄男や町蔵の姿が見えないだろうか。…要するに、次回作(次に完結する連載)を待つわけで。
 まあ存分に充電してください。
 ところで夜麻みゆき先生は速やかに『刻の大地』の続きを描いて下さい。寝れません。

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