少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2018.2.26(月) 美意識考(頭がカタいとは)

 年をとると、新しく何かを好きになることが少なくなる。なんて話をよく聞く。
 価値観が固まってくるからだろう。
 それは「頭がカタくなる」ということに、もちろん直結する。
 同時に「美意識が洗練されてくる」ということでもあるはずだ。

 美意識が洗練されていなかったうちは、僕も、どんなものでもそれなりに好きになっていた気がする。いや、好きになろうとしていた、とか、好きかもしれないと思おうとしていた、という感じか。マンガやシーディーがまさにそうだった、今はさほど好きでもないし、当時でもそんなによいとは思っていなかったようなものを買いあさっていた。
 たくさんのものに触れ、吸収していくうちに、「自分はどんなものが好きなのか」が、はっきりしてくる。それが「美意識が洗練されてくる」ということだ。映画だって食べ物だって、酒だって風景だって、人だって、どんなものに対してでもそういうふうに美意識は「洗練」されてくる。

「よい」とか「よくない」とか、そういう判断がだんだん、できるようになる。ものごとの善し悪しを選別する際に、「自分の中にすでにある価値観」に頼れるようになる。
 そういうものができあがる前は、権威とか雰囲気とか、他人の評価とかに頼らざるを得ない。しかしそのうち、「みんなはイイと言うけど、自分はあんまり好きじゃないな」というものが増えてくる。それで少しずつ、「自分の価値観」言うならば「美意識」というものが、姿を持ってくる。

「よい」と「よくない」がはっきりしてくると、曖昧なものが減ってくる。「うーん、よくわからないけど、よいかもしれないからとりあえず」という留保がなくなる。よい、よくない、と、スパスパ切り分けられるようになる。
 ある意味、自らの美意識の中に、閉じこもることになる。
 ハタから見れば「頭がカタい」と言われるかもしれない。


 確固たる美意識を持つとは、「頑固になる」ことに近い。
「新しく何かを好きになることが少なくなる」ように思えるのは、自分の「好き」だと思えるものが確立してきていて、以前「好きかもしんない」くらいだったものを、「好きではない」としてカウントするようになった、ということではないか。そういう効率性を、身につけた。

 でも、「頭がカタい」だなんて、言われたくはないじゃないか。
 それが悪口である限り。
 どうしたら、自分の美意識を守りつつ、「頭がカタい」という事態を避けられるのだろう?
 ここが課題なのであるが、思い浮かばないし時間がないのでまたいつか。

2018.2.21(水) シズーオーカー

 柚木な須津は下土狩
 足柄比奈ジヤトコ前
 長泉なめり竪堀
 御殿場岩波

 豊岡のフルーツパークが
 新浜松遠州小松
 東都筑の上野部
 三ヶ日も奥浜名湖

 三島熱海用宗に西焼津の袋井
 安倍川函南の新所原
 六合東田子の浦
 愛野沼津より島田を原浜松

2018.2.15(木) アイドルよ部活たれ

 アイドルというのは、部活のようなものでいい。
(ここでは「女性アイドルグループ」をイメージしており、男性やソロの場合は、たぶん多少の応用が必要になる。)

 僕はあまりアイドルが好きではないし、好きだと思えるアイドルも少ない。だが少ないながらも好きな種類のものはある。自分はどんなふうなのが好きなのだろう、と考えたとき、「部活のようなの」と思いついた。
 僕は「部活みたいなアイドル」が好きなのだ。そして、世の中のいわゆるアイドルファンのほとんどは、あまりこれを好まないだろう。自分はたぶん少数派である。だからこれから展開する勝手なアイドル論は、どうぞ笑って読み流していただきたい。


 一言に「部活」といっても、いろんな部活があって、僕も世にあるあらゆる部活動のありかたを「よい」と思えるわけではない。
 僕が「よい」と思う部活の条件は、

 (1)好きで楽しんでやっている
 (2)他人のためでなく自分のためにやっている
 (3)それほどお金をかけていない
 (4)すべてを注ぎ込んではいない

 こんなところだろうか。


(1)については、好きでもなく楽しんでもいないアイドルはあんまりいないと思うし、いるとしたらつらい。辛いことや悲しいことがどれだけあっても、それよりも「好き」「楽しい」が勝っていたほうが、よいはずだ。

(2)は、とりわけ重要。「みなさんを笑顔にするために」といった動機でアイドルをやっては、いけない。それは部活において「勝つこと」を第一の目標にするようなものだ。「勝ったらまあうれしいけど、べつにどっちでも楽しい」というくらいの気分で臨むのが、健全な部活だと僕は思う。(そう思わない人も多いだろうけど、僕はそもそも「勝ち負け」というものが好きではないので、そう思うのである。これについてはすでにけっこう書いたし、これからも書くと思う。)

「私たちが好きで楽しんでやっていることで、誰かが喜んでくれたらめちゃくちゃうれしい!」という気持ちは、もちろん大切だ。しかし、それが目的になるのは、ちょっと妙なんじゃないか。演劇部の目的が「お客さんに笑ってもらうこと」「お客さんに満足してもらうこと」「お客さんに評価してもらうこと」「お客さんに感動を与えること」になってしまっては、いけないのではないか。
 演劇部の目的は「すてきなお芝居をつくること」で、よい。「部員みんなが納得し満足できるようなものを目指す」ということがまず大事で、「お客さん」というのは、二の次でいい。「お客さん」について考えるのは、部活ではなくて、商業演劇がやることだ。
 そりゃ、アイドルにしても演劇部にしても、「お客さんがいる」ということを前提とする以上、独り善がりになりすぎるのは、よいこととはいえない、そういう見方はある。しかし、少なくとも部活というのは、生活のかかった商売ではないのだし、いくらでも「客」を選んでいいのである。アイドルだってそれでいいのだと、僕は思うのだ。
 だから、アイドルが「生活のかかった商売」になってしまったら、だいぶヤバイ。客を選べなくなるからだ。客に選ばれるために、客に媚びねばならなくなる。

 若きアイドルたちは、「上を目指す」とか「もっと大きなところでライブをやりたい」とか、よく口にする。わからんではない。「私たちが好きで楽しんでやっていることで、誰かが喜んでくれたらめちゃくちゃうれしい!」という気持ちは、ホンモノだし、すてきな気持ちだ。
 でもそれが、部活でいえば「勝たなきゃ意味がない」とか「絶対に全国大会に出たい」とかいったみたいに、「目標」そのものになってしまったら。アイドルの場合、「できるだけ多くのお客さんに選ばれなければ」という発想にしかならない。それで自由も、「自分(たち)らしさ」も、損なわれていってしまう。
 彼女たちの中にあった(はずの)美意識が、いわゆる「大人たち」によって、食い荒らされていく。

 彼女たちがアイドルを始めたのは、いったいなぜだったのか? 動機はいろいろあるだろうが、たとえば「すてきなことがしたい」だろうし、「かわいいことがしたい」だと思う。「わたしの思うすてきさ」「わたしの思うかわいさ」が、必ず、そこにはある。それが彼女の美意識だ。
 彼女には彼女の美意識があって、それを「アイドル」という形で表現したい、と思って、「アイドルになりたい」になった、そういうものだと僕は考える。
 その美意識が、強いか弱いか、豊かか貧しいか、といったものが、アイドルとしての才能、ということになるのかもしれない。
 僕は名古屋でかつて活躍していたちぇり→☆ボンボン(以下ちぇりボン)というグループが大好きなのだが、その中心となっていた人物は、この「美意識」が強く、豊かであった、のではなかろうかと、僕は思う。彼女を慕うふたりのメンバーも、同じ美意識を共有していただろう。

 しかし、「生活のかかった商売」になってしまえば、その「美意識」が守られることは、難しい。「お客さん」のことをあんまり考えすぎると、「美意識」から離れていきかねない。(よほど万人受けする美意識でもあれば別だが、そんなものはほとんどフィクションの世界にしか存在しないのではないかと僕なんかは疑っている。)
 勝つことを過剰に求め、また期待されている部活でも、同様のことが起きる。演劇や吹奏楽や合唱なんかはわかりやすい。コンクールで勝つためには、勝ちやすいコツやテクニックがあるていど存在する。楽器の世界では「コンクール弾き」なんて言葉もあるらしい。審査員やお客さんに気に入ってもらえるようなお芝居や演奏を、先読みして行えば、勝率は上がる。
 それで本当に楽しいのだろうか。投機で金を増やすのとさほど違わない。投機で金を増やすのが楽しい人にとっては、楽しいのだろう。これはまさに、少し前に書いたことに繋がる。
 運動部でも、勝つことだけを見つめてやっていくと、「楽しさ」の質が変わってくるはずだ。中日ドラゴンズ時代の落合監督が(一部で)不人気だったのは、「勝つは勝つけど試合の内容がつまらない」という理由だったらしい。観るほうだけでなく、選手側にもそういうところはあったんじゃないだろうか。(主にこういった類の事情で僕は新庄剛志選手が大好きなのです。どっかの監督になってほしい。)

 例のちぇりボンは、メンバーの高校卒業を前に解散した。それも部活っぽい。名古屋のアイドル界隈ではとても有名だったが、全国に知られることはなかった。彼女たちが美意識を守り通した結果だと思う。
「これがすてき」「これがかわいい」「私たちはこれでいい」という信念を、たぶん最後まで曲げなかった。自分たちらしい曲をもらって歌いこなし、衣装や一部の振付も自ら作っていた。メンバーはいまもみんな仲がよく、光り輝く想い出を共有している。(はず!)

(3)と(4)については、裏側を知らなくては何とも言えないところがあるが、このちぇりボンはたぶんそれなりに満たしていた。あるメンバーは高校で「オール5」だったし、あるメンバーはドラゴンズのチアを続けていた。あるメンバーは生活の変化などの理由で一足先にグループを脱けた。
 とにかく、アイドル活動や部活動のために、ほかの何かを犠牲にする、ということは、あってはならないと思う。それじゃ、楽しくないから。
 これは初代プリキュアも同じことである。(唐突)

 プリキュアとして戦うために、何かべつのものを犠牲にしなければならないなら、プリキュアという存在こそが邪悪そのものだ。
 プリキュアになったあとも、なぎさはラクロスをやめず、ほのかも科学部を続け部長まで務めた。他の友人関係だってそのままだ。ただ彼女たちの生活に「プリキュア」が増えただけである。そして無二の親友をお互いに得た、というだけなのである。
 プリキュアをやるのにお金はいらない。プリキュアゆえに何かを失うこともない。ただ、ふたりの女の子の生活が、それまでよりもちょっとだけ、忙しくなったというだけなのだ。豊かになっただけなのだ。

 あらゆる部活動も、またアイドルというものも、同様であるべきだ。それが生活に加わることによって、ちょっとだけ忙しくなり、ちょっとだけ豊かになるような。




 この文章は、「ほかのすべてを犠牲にして部活やアイドルに打ち込んできた人たち」を、否定するものではない……と言いたいところなのだが、僕の価値観においては、否定というほどではないにせよ、肯定はできない。
「結果的にそれでよかったと思えるんだったら、それでいいじゃん?」とは、思わなくもない。でも、できることなら「過程の上でも結果的にも」すべてよかったと思えたほうがよい。
 もしも過程が違ったならば、結果も違っているからだ。
 結果的に「これでよかった」と思えれば何でもいいのだとしたら、つまるところなんでもいいのである。「これでよかった」と思いさえすればいいのだから。
 最終的には「これでよかった」と思う。そのこと自体は同じでも、べつの過程を踏めば、「これ」の内容は変わってくる。「これ」ができるだけ、美しくなるように、素敵になるように、生きていきたい……というのが、僕の価値観なのだ。
 大げさにいえば思想である。
(参考文献:小沢健二『流動体について』)

2018.2.14(水) ナチュラリストの事

 なんでも自然がいちばん! という考え方を、ここでは「ナチュラリズム」と呼び、それを信奉、実践している人のことを「ナチュラリスト」としよう。
『ちびまる子ちゃん』(読者提供:たぶん正しくは「うちはびんぼう」という短編)でおばあちゃんが、カビが生えてたり灰に落ちたりしたモノを「かえってクスリになる」とスイスイ食べるシーンは有名(?)である。潔癖に過ごすより、川遊びや泥遊びなどをおおいに経験しておいたほうが、アレルギーになったり身体が弱くなったりしにくい、というのも、あるていど説得力がある。
 ある種のナチュラリストはたぶんそういうことをも信奉していて、僕もけっこうその手合い。

 うちのおかあさんは岡林信康というミュージシャンがけっこう好きで、幼いころに何度かこう言われた。「岡林はねえ、おふろに入っても石けんで身体を洗わないんだって。」人間の身体には自浄作用があり、あまり石けんなどに頼るとそのシステムが機能しなくなる、という理屈らしい。最近だとタモリさんとか福山雅治さんが石けん等をつかわないで入浴するとして有名だが、芸能界でのハシリはきっと、岡林あたりなのだろう。
 だからといって我が家では石けんを使わなかったかといえば、さにあらず。石けんもシャンプーも、リンスまでしていた。それが当たり前だ、というアタマではあったが、「岡林」のエピソードもずっと残った。
 毎日リンスをしていた僕の髪の毛は実にサラサラで、女の子からはうらやましがられたが、いつも言われるのでいい気分ばかりでもなかった。「そもそもリンスとは何のためにするのか?」とだんだん、思うようになった。インターネットが普及してきた頃に調べてみたら、しなくてはならないこともなさそうだし、地球環境にもよくはないと主張する人もいて、しなくなった。大学に入り一人暮らしを始めてからは、買いもしなかった。
 リンスをすると、僕の髪にはほんとうに天使みたいな輪っかができた。それはもう十年くらい見ていない。今はどうだろうな。

「朝シャンで使うシャンプーの量を半分にしました」というフレーズが、記憶のすみにこびりついている。どこで見たかはしらない。行政の広報誌か何かだろうか、「地球環境を考えましょう」みたいなビラ様のものだったと思う。うーんそうか、僕らが使うシャンプーやリンスは下水に流れ、どこかに行くのだ。シャンプーの中身も、そのボトルも、どこかから何かを持ってきて作るのだ。使わなくてもいいようなものなら、使わないほうがいいな。そういう発想をすることが増えた。
 いわゆる「自然派」とか「ナチュラリスト」みたいなものは、こうしてどんどん、生活をシンプルにしようとするものだ、と思う。

 2005年から2007年にかけ、小沢健二さんの『うさぎ!』『企業的な社会、セラピー的な社会』およびエリザベスとつくった映画『おばさんたちが案内する未来の世界』などを見るにつけ、そういう気分がさらに彩りを持ってきた。
 石けんは無添加になったし、シャンプーの種類も模索するようになった。
 そのころ僕は、肌がよわかった。一人暮らしの貧乏生活がたたったのだろう。手指などはぼろぼろだった。「ていねいに生きる」とか「ゆたかに」みたいなことを考えるようになって、「栄養をとろう」とか「たくさん寝よう」とか「ちゃんと動き続けよう」とか「へんなものをからだに入れたり触れさせたりしないようにつとめよう」とか、意識し始めた。
 よいものをたべ、ぐっすり寝て、自転車に乗り、大きな道路を走る際は性能のよいマスクをつけ、ゆったりと湯船につかり、いろんなことにうっすらと気を遣った。しかしあんまり「健康! 健康!」しないようにした。サプリメントに手を伸ばしたこともあったが、やはり根がナチュラリストなのだろう、すぐにやめた。
 とにかく野菜、くだもの、豆類、おさかな、きのこ、わかめとかそういうの、などなど、自然に手に入るおいしいものを食べた。お菓子とかはあんまり買わない。(買ったら一瞬で全部食べてしまう。)お肉のたぐいは、外食すればどうせ食べるので、ササミくらいしか買わない。成分表示も必ずみて、できるだけよさそうなものを選ぶ。
 すてきなもののでてくる素晴らしいお店をたくさん見つけ、足繁くかよった。
 すると、何年かして手指が荒れなくなった。特にここ数年はほとんどつねにツルツルしている。成果はあり、出るのは遅い。

 しかし、まだ頭皮の具合は安定しない。乾燥しやすいのか、気を抜くとふけが出る。シャンプーを模索、と先に書いたが、いろいろ試していて、今もまだその途上。がんらいがナチュラリストなので、シャンプーなんかしんでええ(しなくていい)、お湯でじゅうぶん! と基本的には思っているが、なかなかそれではうまくいかないので、数日おきにそれ的なシャンプーで洗ってみている。万全ではない。どうすりゃいいんだろうかね。
 身体を洗うのも、あんまり石けんを使わない。その代わりに長風呂をする。タモリさんだ福山さんだの手法である。数十分お湯に浸かって、手指ないしあの、なんていうんだろうお風呂にある身体を洗うやつ、で洗う。十分にお湯に入れないときや、よごれや何らかがひどいとき、何かが気になった場合などには、用いる。そうでなくとも、定期的にはしっかりとやる。夏場と冬場とでその頻度は変わる。
(なんか、「ぼくのかんがえたさいきょうのせいかつ」みたいになっておりますが、もうしばし。べつになにもさいきょうではございませんし……よりよい方法があれば教えていただきたい。こっそり。)

 ところで僕は身長170cm(※最高記録)で体重は51~54kgほどである。高校のころはほぼ同じ身長で48kgだったから、太ったというか、たぶん筋肉がついた。(そう思わせてください。)いまだ痩身で、鏡を見て「うわっ細っ」と自分で思うこともしきり。髪の毛は直毛で、いつもそれなりには長い。でもいわゆる「ろんげ」状態には、一度もしたことがない。頭部全体の形が「まる」におさまるのが、好みである。

 まあ、そんな感じで、身体を洗うときのおくすりは、最小限にしている(したい)。洗顔料も使わない。お湯でバシャバシャ。それは将来美的にどうなのか? ということは、実のところよくわからない。言い訳はひとつ、「自然がいちばんじゃ! ガッハッハ!」
 でも、はみがき粉は使っている。ブシャーと細長い水をだす器械で洗うのがよい、ともきいたことがあるが、今のところはPCクリニカなどを利用。
 日やけ止めは、たまに使う。ふだんは日射しよけの帽子やサングラスやマスクやらで防いでいる。まったく不審者にしかみえない。

 そういうふうにゆるやかに自然方向へシフトさせていたら、たぶん血行がよくなった。お風呂に入りまくっていることと、コタツで寝ることや電気毛布を付けっぱなしで寝ることを完全にやめたのが、よかったのだろう。冷え性が治ってきた気がする。今年はふゆじゅう、厚手の手袋をつけずに自転車に乗れた。ここんとこは素手で乗れる。数年前なら考えられなかったことだ。
 布団に入っても、ぽかぽか寝られる。電気毛布も必要がない。最近はシャツ一枚で寝ている。単純にあたたかい日が増えてきたからでもあろうが、例年を思い返すと進歩がある。

 人間はすごい、と思うようにしている。傷だって病気だって、勝手に治す。体温の調整も、勝手にやってしまう。
「ボクサーは気力で血を止める」という、『がんばれ元気』(小山ゆう)の影響もずいぶんある。気力、というか意思の力で、傷も病気も治り方は変わってくるだろうし、体温だって、すこしは調整できるんじゃないか。
 素手で歩いたり、自転車に乗ったりしながら、「うおー、あったまれわしの手~」みたいなことを念じてみる。なんとなく、あったまったような気がする。ありえない話でもない。気功ってのはたぶん、こういうことのスゴいやつなんだろうな。
 と、こういうことを書くと「スピリチュアル!」と叫ばれてしまうかもしれない。それが嫌であんまりこれまで書かなかった。でも、この「人間はすごい」というのは、「スピリチュアル!」というより、「ナチュラル!」だと思うし、「フィジカル!」だと思う。(で、そういうふうに思うような人に向けて、「スピリチュアル!」とは叫ばれる。)

 健康、という言葉を、年をとるごとに多くきく。これから等比級数的に(?)さらに増えていくだろう。しかし健康ってなんだ? わからぬ。だからともあれ、道しるべは「自然」。自然のものを食い、余計なことはしない。
 まあ、できるだけ。バランスをとりながら。


 僕がこれまで好きであって、今でも好きであるような人たちは、ほとんどみんなそう言っているのだ。「できるだけ自然に。ただしバランスをとりながら。そして何より、自由に。」
 チョコレートを食ったらいかんというわけでもなく、酒を飲むべきではないということでもなく。しかし煙草は吸わない、という、ひょっとしたらよくわからない僕のバランス。基準。そのさじ加減が、美意識なるものであって、僕を僕たらしめているところのものなのだ。
 その人が、どういうバランス感覚を持っているか。何をどれだけ食べ、何をどれだけ食べないか。どこにどれだけ気を遣い、どこにどれだけ気を遣わないか。僕はよく柿を食べるが、それは「おいしい」からだけではない。身体への影響や、思い入れや、本当にいろいろある。いろんな理由を総合して、他のくだものより柿を多く買い、食べる。偏りができる。そういった無数の偏りが併存し、「バランス」ができていく。すなわち「僕」というものが、その「価値観」が、できあがる。
 その「バランス=価値観」を、どれだけ自分で把握し、掌握できているか、というところで、その人の「自由」は測られる……のではないかと、いま突然思いついた。
 そのバランスの成立に、どれだけ自分の意思を介入させられるか……させてきたか……させていけるか……自由というものは、それが完全である状態をいうのではないか、と。

2018.2.13(火) タタン朝ペニス

 僕は、下品なことが嫌いである。しかしときおり、下品であると捉えられてしまうかもしれない恐れを含む単語を用いたダジャレやジョークなどを、思いついてしまう。今回タイトルにしたのがそれである。下品であると捉えられてしまうかもしれない恐れを含む単語が用いられているため、背景色と同色の文字で表示した。反転するか、もしくはコピー&ペーストすればどんな文字列かがわかるはずだ。場合によってはモロに表示されてしまっているかもしれないが、Windows7のGoogle ChromeとiPhone5のSafariでは動作確認した。(どちらも古い環境だこと……。)
 これは、言うまでもなく「ササン朝ペルシャ(ささんちょうぺるしゃ)」のもじりである。3世紀から7世紀のあいだ、イラン高原を中心として存在した王朝。世界史を学んだ者であれば馴染みがふかかろう。

 かつて、十代のころ、僕はこのようなくだらないダジャレを日記のタイトルにするのが常だった。しかし年輪を重ね、恥を知り、立場を持つようになるにつれて、このようなくだらないダジャレやジョーク、とりわけ下品であると捉えられてしまうかもしれない恐れを含む単語を用いたものなどは、堂々と書けなくなってしまった。戦うキバもツメもなくしてしまったのだ。僕はどんな文章を書くときでも、下品であると捉えられてしまうかもしれない恐れを含む単語はできるだけ用いないようにしている。そういうものをなるべく使わず、できるだけ上品に「きわどい内容」を表現したい、というのが、僕の活動のひとつのテーマでもあった。『たたかえっ!憲法9条ちゃん』に始まる一連の「ノンポリ天皇」作品は、すべてその美学に貫かれてある。
 しかし、このたび思いついたタタン朝ペニスというジョークは、ペニスという、僕が絶対に用いたくない単語を使用したものである。こんなものを世に出すことはできない。美意識が許さない。そう思った。それでも、恐る恐る、ダブルクォーテーション(“”)をつけてGoogle検索にかけてみた。完全一致するものは存在しなかった。Twitter検索にもかけてみた。見つからなかった。このジョークをワールドワイドウェブの世界に放流することは、使命であろう。そんなノブレス・オブリージュじみた気持ちから、この記事を書いている。よろしくご査収お願い申し上げます。

2018.2.8(木) 人は一人では生きていけない

 愛と憎しみは表裏一体、好きの反対は無関心。

 ものごとには本質があって、その表出のしかたにはさまざまある。たとえ同じ本質を共有している者どうしでも、その表出のしかたが違えば、見た目にはまるで正反対に見えたりもする。
『ふたりはプリキュア』のなぎさとほのか(2004年2月~2006年1月まで主に活躍)は「真逆のキャラでも相通じてる」(OP主題歌『DANZEN!ふたりはプリキュア』より)ということになってるんだけど、それはもしかしたら「同じ本質を共有している」ということがあるのかもしれない。
 それは優しさだったり、前向きさだったり、おそらくは言葉にならない「何か」。言うならば「プリキュアの美しき魂」(変身後の口上より)としか言えないようなもの。それがあるから、ふたりはプリキュアに選ばれた(?)のだし、なかよしにもなれた。ラクロス部か科学部か、なんてことは、何の関係もない。
「プリキュアの美しき魂」が、ある方向に結実すればキュアブラック(なぎさ)になり、その反対に結実すればキュアホワイト(ほのか)になる、と。

 さて僕の生きがい、というか生きる指針のようなものがあるとすれば、それは「よき友達とめぐりあい、よき関係を続けていく」ことである。それ以外にない。
 どんな種類の人であれ、「美しき魂」(便宜上の表現)を共有しているような存在を見つけ出し、なかよしになる。それを永劫、継続していきたい。学校の先生をやるのも、お店をやるのも、このホームページをやめないのも、そのためである。
 これはなにも、単純に綺麗事としてのみ言ったりやったりしているのではない。食い扶持にもなればいい。「お店をやる」というのは、「そのお店をよいと思ってくれる(共感してくれる)人たちから少しずつのお金をもらって、その場を維持していく」ということで、「よき客とめぐりあい、よき関係を続けていく」ことにほかならない。そして、「客」というのがほとんどイコール「友達」でもありうるような店の作り方も、できる。
 もちろん僕の場合、それは「常連のたむろする馴れ合いのお店」を意味するのではない。年に一度しか来なくたって、「馴れ合い」のように親しげでなくたって、初対面ですら、「友達」であるような関係は成立する。
「価値観や美意識の共有」によってである。

 が、そのことは今回は脇にのけ。

 僕はそのような形で「友達」を求める。しかし、僕とものすごく仲のよい人たちの中には、かなりの割合で、「友達」をあんまり求めない人たちがいる。
 できるだけ、人間関係を縮小していきたい、と考える人たちがいる。
 できるだけ、人づきあいはしたくない、と考える人たちがいる。
 友達など最小限でいい、できることならいないほうが楽だ、新しく人間関係を広げてくことは疲れる、向いていない。自分と気の合う人間などどこにもいないのではないか、と思ってしまう。中途半端に趣味や気の合うような人は、ズレが目立ってむしろ煩わしい。
 そういう人たちが僕の周りにはけっこういる。
 世の中の大多数は、実はそうなのであろうか。
 しかし「人脈ウェーイ!」みたいな人も、一方でたくさんいる。「友達ワッショイ!」「へーイ! BBQ!」「パーティいきましょうよ」「相席屋」「G街」「邪王炎殺☆異業種交流会!!」みたいなのも、実際多い。
 僕と親しい人たちはもう、ほとんどの場合、こういうものには背を向ける。
 僕だって、背を向けている。


 世の中には、ものすごくおおざっぱに言って、以下のふたつの考え方が存在しているのではないだろうか。

A 「人は一人では生きていけない」
B 「人は大勢でいれば生きていける」

 AとBは、同じことを言っているのではない。Aの考え方の人は、「人は大勢でいれば生きていける」なんて思ってはいない。Bの考え方の人は、「人は一人では生きていけない」と、とうぜん思っている。
 つまり、

A 「人は一人では生きていけないし、大勢でいれば生きていけるというものでもない」
B 「人は一人では生きていけない、大勢でいれば生きていける」

 いつもの大げさな極論である。まあ、とりあえずそうだとして考えてみたい。


 Bの人はようするに、「数」を信じているわけだ。「量」と言ってもいい。(だからこっち側の人は、「大勢でいれば」を「お金があれば」に変換することが容易にできる。)
『ONE PIECE』的な「仲間だドン!」文化は、もちろんこっちなわけである。
 彼らの指針は「数」であり「量」であり「度合い」。
 それが大きければ大きいほど(多ければ多いほど)よい、「生きていける」というわけだ。
 もちろん「愛」もそう。
 身長が高いほうが、というのも、胸は大きいほうが、というのも、そうだ。
 年収もそう。
 若さも、美しさも、「数値」や「度合い」に変換してから、理解する。
「イケメン」という言葉は、「イケている客観的な度合い」を示している。「美人」も同様のしくみ。
 ある種の若いカップルが「今日で一ヶ月」とか「もうすぐ一年」とか言いがちなのも、まず数字に変換しないと、理解ができないからである。
 こういう人たちが、「人間関係」について想いをめぐらすとき、まずは「友達の数」についてとか、「仲の良さの度合い」について、考える。


 ひるがえってAの人たち。「人は一人では生きていけない」ということだけを前提にしている人たちは、そもそも「数」を信じていない。「量」も、「度合い」も。
 だから、いつも途方に暮れている。

「人は一人では生きていけない」という前提はまず、どんな人とでも共有できる。その先に、「価値観」というものがある。そのとき、最も選びやすい「価値観」として、「人は大勢でいれば生きていける」はある。原始時代からたぶん、変わらないである。
「数の論理」。これは強い。
 だから、多くの人はここに行く。仲間を増やす。金を増やす。家族を増やす。生きがいを増やす。自信を増やす。老後の楽しみを、あらかじめ増やしておく。
(「増える増える」という表現を最近使ったが、こういう価値観と混同されないためには「彩りがよくなる」「美しくなる」などとしたほうがよかったかもしれない。)

 しかし、そう思えなかった場合。
「人は一人では生きていけない」という前提のみで立ち止まってしまったような場合。
 あるいは、あの華々しい「数」の世界へと、なぜか没入していけなかったとして。
 その人は孤独である。そして、その原初の孤独からあえて脱しようとすることが、正しいとも思えない。孤独なまま、どうにか生きようとするしかない。


 そのための足掻き、藻掻きが、僕の場合、冒頭に書いたようなことである。「美しき魂」とやらを、信仰しているのだ。それが結果的に、食い扶持にもなればよいと、あれこれやっているわけだ。
「人は一人では生きていけない」ということを強く自覚しながら、「大勢で生きる」という「数の論理」が肌に合わない。孤独のなかで自分なりに生きる工夫を見つけていくしかない。

 僕と仲のよい人たちのうち何割かは、その孤独の中にいて、ありかたを模索している。
 僕らの共有する本質とはきっとこの「孤独」であり、それゆえ求められるところの「工夫」だろう。

 僕の工夫はすでに書いたし、ある友達の工夫はそれとはまったく違う。まだ工夫のしかたがわからないで惑っている人だっている。だけど、なんとなく親しげな気分を、たぶんお互いに抱いている。

 数値を内面化して生きる人は、直線的に人生を歩めるが、そうでないならば、そうはできない。
 たぶん僕は「球体的に」生きていこうと努めている。

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