少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

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2015/11/24(火) ストレスフリーに上弦の月

「どうやってストレス解消してるの?」と聞かれた。
 そういえば「ストレス解消」ということを考えたことがあまりない。意識的にそれをすることはほとんどなくって、だからたぶん一方的にたまるだけたまって、肌とか精神にそのまま響くのだろう。
 僕はおそらくずっと心のどこかで「ストレス」という思想を信じていなくって、肌荒れは食事と睡眠と適度な清潔さによって改善できる、と信じてようとしてきた。そうだと思う。実際、よいものを食べ、適度に眠り、お風呂にでも入ればストレスなるものは軽減されるようで、あとは「それでよいと信じる」ことで、じんわりとよくなってくる。そんな感じで繰り返してきた。
 もう十数年つきまとっている死神(なんというかっこいい表現)も、「ストレス」という言葉とは全然関係のないものだと思い込んでいる。それは「憂鬱」とか「落ち込んでいる」とか「面倒くさい」というものであって、「ストレス」というものとは無縁のものなんだ、と。
 しかしひとたび、それらをすべて「ストレス」なるもののせいにしてみたら、どうだ。肌が荒れるのはストレスのせいである。落ち込んだり、心がすさむのもストレスのせいである。仕事がうまくいかない、人間関係がうまくいかない、そういった悩みごとによる心身の疲労は、すべてストレスと名の付くものである。
 そして、その解決法はおしなべて「ストレス解消」である。

 あまりにも「ストレス解消」ということを意識的にしてこなかった気は、する。結果としてそうなるようなことだったり、「ムシャクシャするから○○してみよう」という行動は、もちろんしているのだが、それを「ストレス解消」という言葉ではとりまとめていなかった。
 一度、いろんなものをストレスという箱に詰めてみるのもいいかもしれないと思った。ただ、それまでそれをしてこなかったのには、きっと何か意味というか、嫌な予感みたいなものがあったからだと思うので、気をつけたい。

 さてそしたら、僕はどのようにストレス解消をしようか?……困ってしまうな。何をしたらいいんだろう。「ストレス」というものを意識した途端、「それは解消されなければならない」という義務感がやってきた。そのことがむしろストレスである。まいる。
 ストレスという概念に一本化するのは非常に楽なんだが、一本化しただけで額面が減ったわけではないというのは借金と一緒だ。「ストレス」という巨大な怪物がいて、そいつにじわじわとダメージを与え続ければ勝てる、というイメージで、やりやすいといえばそうなのだが、中小の敵をいろいろ工夫しながらいくらかずつ倒していくことのほうが、効率的であるようなこともありそうだ。

 あ、わかったかもしれない。そういえばストレスというのは、個人の内面の話なのだ。内面のよどみを取り去ってスッキリすることは大事だが、それだけではいけないのだった。「なぜよどむのか」の原因をハッキリさせて、それを解決させなければ、根本的な対処法とはいえないのだ。
 ストレス解消は個人の内面のよどみを掃除するための行為として一方であって、それとは別に、個人と社会(世間)の間の関係のこじれを修正することのほうは、独立して行われなければならないのだ。当たり前の結論になってしまったようだが。
 すなわち、ストレスを倒すゲームと、中小の敵を倒していくゲームは、別のゲームなのだ。
 気分は気分で一時的には晴らされるべきだが、晴らした後にはそのエネルギーを使ってまた別の敵を叩かねばならん、しかしそれは、恐ろしいほど面倒くさい。気晴らしは気晴らしで終わらせて、あとは寝ていたいものだな。

 問題は確かに、あらゆるものを一本化してしまうところにあるのだが、一本化しない場合はどう足掻いても「面倒くさい」になってくる。一本化の利点は、「とりあえずゴチャゴチャしたことは考えなくていい」ということで、とりあえず一本化するのはとりあえずいい。精神は健康であるべきだ。
 ただ、一本化→それを解消→いったん忘れる→ふたたび問題が次々と浮上→一本化……というような連鎖は必ずある。
 ここから脱するためには一本化などというその場しのぎはやめて、一つ一つの問題に向き合っていく必要があるわけだが、それは本当に面倒くさい。という、今度はそういうループになってきた。

 そんなことはどうでもいい。問題に立ち返ろう。問題は何かというと、「仕事に行きたくない」とか「明日の準備がだるい」とか、そういったことなのである。そういうのは誰にでも(きっと!)あるはずだ。
 これをさえ解消できたらいいのだが、当たり前のことを言えば、「すべてがうまくいっていれば楽しく出勤できる」というわけだし、「そのためにはすべてをうまくいかせる必要があって、すべてをうまくいかせるためには明日の準備をちゃんとやって朝になったら朗らかに出勤するべし」ということだ。なんというわかりやすいことだ。
 すなわちループから脱するには「とにかくやる気を出すこと」だということだ。そんなもんわかりきってるね……。
 そういうわけで裏技を考える。ようやく本当に言いたかったことにたどり着けそうだ。「ま、別にいいじゃん」って思うことが、大切だよね。ストレスがなんでたまるかっていったら、「別にいいじゃんと思えないこと」が目の前にあるから、なんだから、「別にいいじゃん」と思えたらもう、それでいいんだよね。
 図太くなるっていうか、心臓に毛を生やすっていうか。

 自信という話が一つ前の記事に書いてあるけど、自信さえあれば、どんなことがあってもやっていけるんだよな。それはちっぽけなものでいい。『君が僕を知ってる』のような、ささやかなものでいい。「君が僕を知ってる」という自信が、あらゆる困難から自分を救ってくれるのだ。

「悲しみはいつか麻痺していくことを悲しみの中でもわかるように」
 Amikaさんのデビュー曲『ふたつのこころ』にあるフレーズ。
 そう、悲しみの真っ最中に、明るいことは考えられない。なぜか、まるで閉ざされてしまう。
「私の人生には、いいことなんて一つもなかった」と思っている人間は、自分の人生に実は無数にあった「いいこと」をすべて忘れているし、「私にはいいところなんて一つもない」と信じている人間は、かつて他人から褒められた経験をあらかた忘れている。それがどんなに偉大な人間からの称賛であっても。
 あるいは、覚えていたとしても、軽視している。本当はとても重大なことなのに。

 すべてを覚えていることはもちろんできないのだから、せめて覚えていることをちゃんと使いたい。
 たとえば僕には偉大なる実績がたくさんある。そのかなり多くを、覚えているはずだ。それをちゃんと、使わなくてはならない。どんなにうまくいかなくても、誰から批判されても、偉大なる実績は永遠に失われない。覚えている限り、思い出す限り。
「過去の実績にばかりすがって」と言われたら、おしまいだとは思うけれども、しかしかぐや姫は永遠に『神田川』を歌うべきだと思うし、南こうせつさんは胸を張って「おれは神田川の作曲者だぞ!?」と言っていい。いや、もちろん偉ぶっちゃ嫌なやつなんだろうけど、永遠に胸を張れることならば張ればいい。
 そりゃ、取り消されるようなこともあるかもしれないが、取り消されてないものもあるのだったら、それに自信を持ったらいいんだ。

 僕が、いや、僕らが、やるべきこととは、「自信を持てるような実績や自負を、どんなに暗い気分の時であっても、すぐに引っ張り出してこられるように日々練習をする」というようなことなのかもしれない。
「おれは○○大学に受かったんだ!」でも構わない。その「合格」に至る道筋が誇れるのならば。その道筋にあった方法論を、他人に押しつけたりしないならば。偉ぶらず、心の中で唱えるにとどまるのならば。
 現状、うまくいってないようなことがあっても、「そりゃ、そんなこともあるわな。でもおれは、すばらしい人間だからな」と思えたら、もう人生、楽だよね。

 ただ……僕は、親から愛されて育ち、自尊心の最大HPみたいなのがあらかじめ高いので、そんなふうなことも気軽に言えるのかもしれない。
 だが、自尊心の最大HP(MAX値ということ)があらかじめ低い人たちは、どうすればいいのだろうか?
 もう、まずはそういう努力をするしかないのかもわかりません。
 なんか自己啓発っぽい本を読んでみるとか? 全然わかりません。
 どこかで吹っ切れたり振り切れたりすることはあるんでしょうか。

 さんざん自分のストレスの話とかを続けてきてなんだが、これから僕のすべきことは、自分について考えるのではなく、他人のストレスや自尊心について考えることなのかもしれない。
 それによって自分の問題も治癒してくるのかもしれないし。(夜回り先生がそんなようなことを言っていた。)

 さて上弦の月。今夜はもうすぐで満月、というところまできています。
 宇宙とか海とか、歴史とか時間とかの壮大さに比べれば、自分はなんてちっぽけなのだろう!? そんな言葉が、いろんなところにあります。僕も最近よくそういうことを思います。「うまくいかないけど、そんなもん『ラブリー』とか『いちょう並木のセレナーデ』とかに比べたら、ちっぽけなもんじゃん!?」って、けっこう本気で思うのです。

2015/11/03(火) 君は美しい

 そういう言葉をさえ掲げたいほどに。
 自信のない女の子がここにいて、もしも彼女が素敵であれば。
 無駄な謙虚さは捨ててしまえと言ってあげたい。
 美しいと言う者に対して、「そんなことはない」と返してしまうのは、失礼なことと思ったって、別にいいだろと僕は思うのだ。
 例えば自分の話になってしまうが、僕は僕のことを好きだったり、褒めてくれたりした人に大いなる感謝の念を持っている。その人たちのその思いを無碍にしないため、「自分は素敵な人間なんだ」という自覚を持つように努めている。もちろん本当は自信なんてない。少なくとも昔はなかった。でも、自信を持たなければ、愛してくれた人たちに申し訳がないじゃないか。そう思えた時から、ずいぶんと心は安定したように思う。
 自分の価値なんて、自分で判断するものじゃない。
 そう、第一に、価値なんてものはそもそも信じられないじゃないか。
 好きとか、イイとか、なんか落ち着くとか、そういうもんだ。
 そういうもんのほうが、ずっと大事だ。
 そういうもんを無碍にしないで、「そっか」って思っていてほしい。
「自信」「自己肯定感」「自尊心」そういったもの。
「自」という文字の、なんと暴力的なこと。
 そんなんもう、すっと忘れて、いいことばっか思い出して。
 尊敬する人の言葉や、大好きな人の楽しそうな顔を、できるだけとっといて。それでなんとかなるんなら、それでいいんだもんな。
 だめな時はある。
 そう、僕の人生を確かに支えた、友達の麒麟さんが口癖のように、高校時代から言っている。「そんな日もある。」この精神。救われたなあ。すっごく。
 そして「想像力を超える現実はない」。
 だからこそ、現実は常に正しいのだ。
 いつも想像力のほうが先に行く。暴走する。現実は常に、もっとずっと平和なのである。
 ときおり忘れそうになってしまうが、やっぱりそうなのだ。
「すべての審判は死ぬ日で充分だ」と。
 僕を苦しめた存在も、今では「まあいいか」と思える。
 お父さんもお母さんも、色々あったが結局は幸せなんだと思う。思える。
 なんであったって、諦めずにいれば、いつか笑える日は来るし、その中で泣ける日だっていくらでもある。ゆっくりとやっていけばいいのだ。
 時間。やはり時間。長い目で見ること。


 いつか誰もが花を愛し歌を歌い
 返事じゃない言葉をしゃべり出すのなら
 何千回ものなだらかに過ぎた季節が
 僕にとても愛おしく思えてくる

 愛すべき生まれて育ってくサークル
 君や僕を繋いでる緩やかな止まらない法則(ルール)
(小沢健二/天使たちのシーン)

2015/11/02(月) リーダーがいなくなっても

 驚くような別れがあったようで、その気持ちは詩にしました。
 自作についてなんか言うのも野暮なのですが、これから書くことを誤解されたくないのでここでは言っておきます。詩の中で「嘘つき」という言葉を使いましたが、そこに批難の意味は全然なくて、どんなものでも「嘘」になることはあるということです。どんな真実でも、いつかは別の真実との兼ね合いの中で、「嘘」にならざるを得ないことはあるのだろう、と。それは悪い意味での嘘ではなくて、それも嘘になりうるからこそ、すべてが真実でもあり得るという、そういうイメージのことをたぶん、なんとなく考えて僕はそう書いたんだと思います。

 リーダーがいなくなっても。
 そう、リーダーというのは、ばらばらなものに秩序を与える存在なのです。
 だから、もうばらばらではないようなところに、リーダーはいりません。
 そういうことなんだと今は思って、亡き者たちに捧げます。
 この気持ちを。この祈りを。
 かつて真実であったすべての嘘たちに、心からの祝福を送ります。
 そして訣別していきます。
 もうそれは嘘なのだから、それでいいのです。
 優しさとして、美しさとして、また、強さとして、
 かつての真実はもう完璧に染みわたっているので。
 もうあの人たちにリーダーはイラナイ。

2015/11/01(日) 時間と信頼と将棋

 誕生日を特別大事にしてます。なんでなのかはわかりません。やはり「年を取る」ということを大きなテーマにしているんだな、自分は、ということなんかを思います。九歳も終わろうというタイミングで、衝撃的に出会った奥井亜紀さんの『Wind Climbing~風にあそばれて~』という曲、その中に、「誕生日を迎えるたびに」なんて歌詞があったのは、僕の内面のその後をずっと象徴し続けているようです。

 そういうわけで三十一歳になってしまいました。誕生日をどのように過ごしたのかといえば、ライブを見たり将棋を指したりしていましたが、ずっとこのHPの名誉副管理人(?)である添え木氏がいてくれたのは、心強いものであります。
 十年。たとえば僕はその「長さ」を信頼しています。それが二十年になり、三十年になれば、信頼はさらに増します。僕はまだ、十年という長さに裏切られたことはありません。しかし、それ以下となると、あります。
「裏切りは明らかに時の仕業じゃなかった」と、初期のKENZIは歌っていました(『裏切りのうた』)。信頼は、時によって育まれるものだと今のところは思っています。
 村上龍のあの『69』に、こんな一節がありますね。

 すなわち、不幸は、自分が知らない間に、知らない場所で、勝手に育っていって、ある日突然、目の前に現れるという、重要な事実に、である。幸福は、逆だ。幸福は、ベランダにある小さなかわいらしい花の苗だ。あるいは番いのカナリアのひなだ。目に見えて、少しずつ少しずつ成長する。(集英社文庫P108)

 KENZIの例の歌詞も、この一節と矛盾しません。
 裏切りは時の仕業ではない。しっかりと別の理由が存在する。どこかに。
 信頼は時の仕業だ。
 どんな証拠よりも強く、固く、時は信頼を裏付ける。
 十年。とりあえず十年。
 だから僕は最後の裏切りから十年を数え続ける。

 将棋を指そうというのは、添え木氏の思いつき。
 彼と初めて指したのがいつだったか。たぶん小学生の頃だろう。うちにもよく来ていたし、同じ将棋・オセロクラブに所属しておりました。
 中学生の時にもよく指していたものです。あの部屋で。
 高校くらいからあまり指さなくなりました。
 気合いがいるんですよね、指し始めたら楽しいんだけど。

 今回は、Oくんという若い人が、たまたま高校・大学と将棋部、将棋サークルだというので、来てもらって、寸評をいただきながら指した。生まれて初めて? ちょっとした感想戦のようなこともした。楽しかったです。
 Oくんは本気で将棋をやってきた人で、僕たちとの棋力の差は赤ん坊と兵隊だと思うのですが、終始イイ感じでいてくれた。ありがたい。
 将棋を、人生のある一時期に夢中になっていたことを、僕は本当によかったと思う。生きていくことのエッセンスのようなものが、詰まっていますね。改めてそれを感じました。詳しくは書き出すと長くなるので書けませんが……。
 また、日本酒をガバガバ飲みながら、それでもお互いに理性を満開にして、ぴきぴきと脳みそを震わせながら、冷静に、うるさくもなく、指して行けたのが、実に豊かな感じでした。
 なんというか、これもたぶん、十年とか二十年とかいう、時間のたまもののような気がしています。

 僕が愛しているのは結局は時間なんです。
 それは長さというだけではなくて。
 どんなものでも、愛せるものとは、時間に還元できるのではないかと。
 たとえば人を愛する時。それは愛した期間だけが尊いのではなくて。
 これからこの人と、遠く長い時を過ごしていくという、未来の時間。それも素晴らしい時間で、だから瞬間の爆発的な愛は、未来にあるべき時間がすでに凝縮されていて、それであのエネルギーが生まれるんでは、と。
 時間。愛の結晶と言えば「子供」ですが、子供というのは、ほとんど時間そのものというか、生まれた瞬間の赤ん坊は、まるで時間が具現化した存在のような感じではないですか。そうすると可能性という言葉も、ほとんど時間と同義語のようになってきます。
 同時に僕は知性というものについて考えます。これもやはり、知性というのは、賢いということは、過去を愛することなんじゃないかと。そして、その愛が現在を経由して、未来を志向し始めた時に、知性というものが誕生するのではないかと。
 多少酔っぱらった頭ですがそんなことを考えています。(ビールを飲んでいる。)

 将棋というものに戻れば、うーん、それはもちろんどんな競技だってゲームだってそうなのかもしれませんが、将棋には「時間」があります。特にたぶん、将棋には、僕の愛する時間というもののあり方が、そのようなあり方で、あるんだと思います。
 いま、突いた歩が未来、どのような意味を持つか。
 そんなことばかりを考える。考えまくるのが、将棋です。
 あの時、突いた歩。その責任を背負って、指す。
 歩を突いてしまったからには、その過去を前提として、その瞬間の最善手を探り、指す。
 過去を背負って、未来をつくる。
 将棋には「仕切り直し」がない。得点が入ったから、中央にボールを戻すという、そういうものがない。常に過去を背負う。
 そして「最後にミスした方が負ける」のが将棋です。(Oくんが教えてくれた。)
 それまでにどれだけ劣勢であっても、最後まで食らいついていれば、勝つ可能性がある。ひっくり返せる。それは考えてみれば凄いことです。
 圧倒的に負けていても、最後の詰めのところで相手がミスれば、詰まない。勝てそうだと油断して、二歩でもしようものなら、その時点で反則負け。そういうこともないわけではない。たとえプロの世界であっても。
 もしも人生が、「最後に笑ったものの勝ち」であるなら、どんな人にでも希望はある。藤子F先生の『あのバカは荒野をめざす』そのラストシーンを思い出します。

 仕切り直しがなく、「積み重ね」を最重要なものとしながら、大逆転があり得て、最後に笑った者が勝つというのは、なんだか凄まじい。
 人生のようだと僕は思います。

 そういった時間を僕は愛します。今日一緒にいてくれた人たち、みんなかけがえのない存在です。本当にありがとうございました。Oくんとだって、あと九年と九ヶ月くらい経てば、十年の付き合いになるわけです。それって本当に凄いものだと思います。
 そう思うことができたおかげで、「カウントにつまづいたら、また数え直せばいい」なんて境地に達することもできました。
「もう何もないのならまた持てばいい」って中村一義さんも歌ってましたね。(『謎』)
 今日、初めて出会った人とでも、十年はいつか来る。いくらでも数えたらいい。
 未来は絶対にある。それだけは裏切ることはない。
「時間は夢を裏切らない。夢も時間を裏切ってはならない。」というのは松本零士先生でしたね。マッキーのだとまた、ちょっと違う感じがします。
 僕は自身、夢としての自覚を持ち、時間を裏切ることのないような人生を送っていきたいと思います。
 所信。

 Niftyさん、今年もありがとうございます。
 真夜中でなく、午前九時頃に送ってくださる心遣い、まことに嬉しく存じます。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。, ┏☆┓ ┣╋┫ お誕生日おめでとうございます。 ┗┻┛  (お客様の@nifty ID:)  いつも@niftyをご利用いただき、ありがとうございます。  日ごろの感謝をこめて、ささやかではございますが  プレゼントをお届けいたします。  ★以下のアドレスをクリックしてご覧ください(要ログイン)★ ゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。,。*゚*。, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ▽このメールは、接続サービスをご利用の@nifty会員の皆さまへ  入会時にご登録いただいたお客様情報を元にお送りしています。 ------------------------------------------------------------  ご登録内容に変更はありませんか?  以下のページでお客様情報の変更方法をご案内しています。  ≫ @niftyへの登録内容を確認、変更したい  ※一度ご登録された生年月日は変更できません。ご了承ください。 ------------------------------------------------------------ ▽プレゼントについて  ・プレゼントは、【メールに記載されている@nifty ID】で   ログインした場合にお受け取りいただけます。   複数のIDをお持ちの方は、該当するIDでログインしてください。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ●このメールは送信専用アドレスから送信されています。 ●配信解除をご希望の方はこちら(@nifty IDとパスワードが必要です) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 発行・編集:ニフティ株式会社 お誕生日メール編集部 東京都新宿区北新宿二丁目21番1号 新宿フロントタワー (c)NIFTY Corporation
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