少年Aの散歩/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。
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2015/02/18 書く・書かないの葛藤
普通の人はもっと早く……大学に上がってすぐとか社会人になってすぐとか、そういう葛藤に直面して、やがて書かなくなっていくのでしょうが、僕は遅かったですね。いや、実際は大学に入った時をはじめとして、何度もそういう機会があったのですが、なんとか食らいついてきたのです。
ま、そんなことぐだぐだ言ってないで、四月には諸事情により完全に改装しますので、それまでに検閲を経た過去ログをいくらか公開できるようにがんばります。
2015/02/03 コ~ヨイ~
セカオワの『Dragon Night』に対して、「安易な相対主義」という言葉を使った友達がいた。なるほど……と思いつつ、「安易な」というのはどういうことなのだろうと考えた。
僕はセカオワといえば『RPG』と『Dragon Night』くらいしかまともに聴いたことがないんだけど、歌詞についての印象は、まず「べつに悪いことは言ってないよな」ということだった。
たとえばこんな言葉たち。
【A】
「方法」という悪魔にとり憑かれないで
「目的」という大事なものを思い出して
【B】
「世間」という悪魔に惑わされないで
自分だけが決めた「答」を思い出して
【C】
人はそれぞれ「正義」があって
争い合うのは仕方ないのかも知れない
だけど僕の嫌いな「彼」も
彼なりの理由があると思うんだ
【D】
人はそれぞれ「正義」があって
争い合うのは仕方ないのかも知れない
だけど僕の「正義」がきっと
彼を傷つけていたんだね
A,Bは『RPG』、C,Dは『Dragon Night』の歌詞から。
それぞれを僕なりに、勝手に翻訳すると、
A→方法(手段)にとらわれて目的を見失ってはいけない
B→世間や周りの人に左右されるのではなく、自分で考えて判断しよう
C→人にはそれぞれ事情がある
D→自分は正しいと思っても、相手(みんな)にとって正しいとは限らない
そんな感じで、実に正論だと思う。
ただ、これらはすべて、「おおむねは確かにそうなんだけど、必ずしもそうとばかりは言えない」ことだ。
A→目的(ゴール)を意識しすぎると、手段や過程がなおざりになる(※1)
B→自分だけで考えて、周囲を無視すると独善に陥る(※2)
C,D→その前提をあえて無視しなければいけない状況もある(※3)
「けんかはよくない」はおおむね正しい。「けんかはしないほうがいい」もきっと正しい。一方で、「争わなくてはならない状況もある」も、おそらく正しい。「けんかするほど仲がいい」という言葉もある。
このうち、子どもが最初に教えられるのは「けんかはよくない」だと思う。それが基本だと僕も考える。そして年齢が上がっていくにつれ、「けんかをしたほうがいい状況」を学んでいく。恋人同士を例に取ると、お互い我慢して譲り合いストレスをためるよりは、たまにけんかして言いたいことを言い合ったほうがよかったりする。もちろん、けんかという形を取らずに、穏やかに話し合うほうがいいのだろうし、そもそもストレスをためずに喜んで譲り合えば問題がないのだが、すべての人間がそんなによくできたもんではない。理想は別として、現実的にはけんかをせざるをえない状況はある。
けんかをせざるをえない状況なんて、回避できればそれにこしたことはないんだろうけれども、愚かな人間たちはどうしてもそこへはまる。
セカオワの歌うことは、たとえばこの「けんかはよくない」というような、人間社会の基礎基本に近いものであって、その上に何かを積み上げていく土台(ベース)となるような内容だと思う。もちろん、「けんかはよくない」という大前提よりはもうちょっと上のほうにあることだ。だからこそ小学生ではなく、中高生に受けるのだと思う。
僕はセカオワのこの2曲が嫌いではない。むしろ好きだと思う。なぜならばこの2曲は、おおむね妥当だと思えるようなことを歌っているからだ。たぶんこれらの歌は子どもたちを「成長」させる。テストでたとえると、40点しかとれなかった子が60点くらいは取れるようになるような歌だ。60点とれれば、70点、80点と進んでいける。
ただ、この歌を聴いているだけだと、60点で止まってしまうかもしれない。そして60点で満足する人はする。それでも40点よりはずっといい。
なんでも点数や数字に換算して考えるのは僕の嫌いなやり方だけど、考えやすさを優先したのと、ある種の皮肉をこめてそうしてみた。この「歌詞」が育てるのは、所詮点数や数字に換算できるような部分にすぎないのではないか、とも思うからだ。ただし、音楽は歌詞だけでできあがるものではない。この歌を歌としてとらえたとき、どう変わってくるのかはまた別の話で、僕はそこまでまだ考えが至らない。
僕の友達は「安易な相対主義」と言ったけれども、「安易」であることは、べつにそんなに悪いことでもない。安易なものを知って、そのあとで、必要ならば安易でないものも知ればいい。安易であろうがなかろうが、「相対主義」というものを知って、体得できるのであれば、それはすばらしい一歩かもしれない。誰もがいきなりすべてを知るわけではなくて、少しずつ知っていくのだ。それを忘れないようにしたい。
僕は児童書が好きだけど、ふつうの大人は児童書を読まない。それは、児童書というものが、「けんかはよくない」といった類の基礎基本を描くものだ(というイメージが少なくともある)からだと思う。でも、そうだとしたら、それは「読まない」理由には本当はならない。自分のためだけに読むのならば、「もうそんなこと知ってるよ」ということで、読まないというのはわかる。でも、読むことが自分のためだけでないのならば、たまにはそういうものを読んでもいいと思う。個人的には、読むべきだと思っています。
(※1)
たとえば「勝つ」ということは、目的だろうか、方法だろうか。手段ではありえても、方法にはなりにくいような気がする。
方法を悪魔と言い切って、目的ばかりを意識させるというのが、良いことだとは僕は思わない。
(※2)
世間を悪魔だと言いたい気持ちはよくわかるし、「自分でものを考える」ことの重要性は僕も声を大にして言いたい。だからその点では僕は好きだ。ただ、独善(独り善がり)には注意したほうがいいと思う。そのことをフォローする内容がこの曲にあるだろうか?
(※3)
これは実に良いことを歌っていると思う。ただ、これは前提であって、理想である。「そういうわけで、さあ、どうする?」が、この次に大事。それについてはこの曲の中では、歌ったり踊ったりしているだけで、特に何も言われていない(と思う)。でも、べつにそれがいけないわけじゃない。とりあえずこの曲は、そこまでを歌ってくれた。それはすばらしいこととしてとらえればいい。そういう曲が売れたことを、悪いと思うわけにはいかない。
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