ez 0411-050408
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12月13日(hideこと松本秀人の誕生日)
2004(月) ドラえもん のび太と記念撮影
きょうは自分の昔書いた文章とかを読んでいたらいつの間にか
捨て 畏怖 理 今 意味
ざりー
双子座流星群
そーいえばあの女
双子座やっけ。
いつまでも尾崎山の重力に魂を縛られている場合じゃないってことかなあ。
小笠原行きたい。屋久島に行きたい。小豆島へみんなで行こう案内役は任しとけ。
タイ行きたい。インド行きたい。冥府へ旅立ちたい。
久々に「チャット」をしたがいいものだ。最近は専らメッセンジャーだから。
あいやーしかし懐かしいことを思い出すなあ。
高校一年生の頃わしは家にいる時間の大半をチャットルームで過ごしておったよ。
小学生から社会人まで様々な年齢層の人々が出入りしておった中高生が最も多かった。
みな総じてドラえもんが大好きだった。たぶん。
わしはその空間の中でジャッキーであった。
部活でもジャッキーであった。
クラスでは違う名前であった。
家ではしたの名前で呼ばれておった。
中学の友達は苗字で呼んだ。
今にして思えばこれは分裂と統合ということに関係があったのだ。
人間というのは様々な社会の中で生活する完全に一つの社会の中に閉じこもっている人間はほとんどいないと思う例えば学校と部活とネットと家庭とバイトとそれらはそれらでそれぞれ違った社会でありそこにいるのはそれぞれ違った人間である。
最初は。
しかし分裂している期間はごくわずかであり正常な人間はおそらくその後で統合するその方が生きやすいからいくつかの人格に分かれていた自分が次第に結びつき溶け合うようにしてひとつの人間像として浮かび上がってくる。
その人間像は一見「本当の自分」であるかのように見えなくもないがどうもしっくりこない。
果たして本当の自分とは何だろう。
わしは高校一年生のころ完全に分裂していたかなりたくさんの自分が居たように思うそれは呼ばれ方というものに象徴的にあらわれているじゃっきーであったりぞねであったりたかやであったりおざきであったりしていただが
その呼び名は自分で決めたものじゃない周りが決定したものである名前というのはふつう周囲の人間がそう名付けるものであり自分で決められるものではないしかしほとんど唯一自分の意志で自由に決定でき自由に変更することのできる社会があるそれが
インターネット
このことは前にhoneycomb.jpというサイトの管理人さんも言っていたのだが僕の考えていることとある程度被っていると思って驚いた。
自由に呼ばれ方を決められるこの社会に僕はのめり込んでいったチャットルームに入れば毎日違う人間と会えるしすべての参加者たちと同じ土俵で自分というものをアピールすることができるイチから自分を創りあげることができる彼らは自分に対して何の先入主も持ち合わせていないのだから自分がこれこそが自分であると思える自分を自分として誰かの目の前に提示してその反応を文字というわかりやすい形で得られる
そんな自由に呼ばれ方を決めることのできるこの社会で僕は部活での呼ばれ方と同じ「ジャッキー」という名前を選んだ僕はきっとこの「ジャッキー」という名前に何か希望のようなものを感じていたのだろうこの呼ばれ方すなわち名前に自分のすべてを詰め込めるのではないかと「ジャッキー」という記号の中に自分の持っているすべてオザキタカヤという名前では抱えることのできない混沌とした部分すらも包含した自分のすべてを担うことのできるパワーがこの「ジャッキー」という名前にはあるのではないかと僕は思った
のだろう
つまり「僕」の中のジャッキーとしての部分とゾネとしての部分とオザキとしての部分とタカヤとしての部分とをすべて融合させた新しい人間が創りたかったそれは便宜上「ジャッキー」という名前であったが詰まるところその人間の本当の名は「僕」であった要するに「僕=ジャッキー」という人間
だ
「僕=ジャッキー」という人間像を確立させるためにはもっと大きなハコが必要だったそれは自分専用のWebサイトだったそこで「ジャッキー」は「僕」としての自己主張を一層強めていったそこには厳密には「ジャッキー」は居なかったそこにいるのは「僕」だけだった「ジャッキー」は単なる客観的な登場人物にすぎない話をするのはいつも「僕」であり主人公は常に「僕」であったからだメインコンテンツである“日記”の一人称主語が「僕」だったのだから。
そのハコの中に僕は僕のすべてを詰め込もうとした自分の興味のあることのすべて自分の創り出せるもののすべて自分の過去のすべて自分の心の中のすべて自分の所属する社会のすべてとにもかくにも自分のすべて自分のすべて自分のすべて自分に関するあらゆることたちの
すべて
そうして僕はEzというハコの中に分裂してしまっていた自分のすべてを詰め込んで「僕」という一個の人格に統合しようとした
この白いキャンバスに
いつのまにか僕は僕になっていた僕は僕でしかなかった家庭では暗いじめじめした人間で学校にいくとひょうきん者そうであったはずの自分がいつのまにかどこへいってもひょうきんな人間になってしまった家庭内でものんびりと鼻歌を歌ったりばかなことを口走ってみたりしていたいつのまにかあんなにあんなにじめじめしていたのに単に自分の身を守るために防衛のためにひょうきん者を装っていたはずの自分がいつの間にかただのほんとうのひょうきん者になっていたはまじになっていたのだ僕ははまじになっていたいつのまにか僕は
は
ま
じ
になっていたのだった。
統合は行われたじめじめしたところさえも吸い込んだわけだから僕はカゲのある人間だと見られた
ひょうきんだけど本当はブラックなキャラだといろんな人に認識された
(正しくはひょうきんでありブラックなのだ僕はひとつの人格なのだから「本当は」などない)
あーなんか最近分裂したい。
で、バイトをはじめてみて、久々に自分が「ジャッキー」でない世界というものを感じている。バイトでは「オザキくん」と呼ばれている。違和感、なくもない。なんなんだこれは。学校じゃあるまいし。もちろんキャラも、少しだけジャッキーと違う。ちょびっと分裂してきてる。
しかしああいうバイトっていうのは、人間は人間じゃなくなるね。バイトしている間、僕は僕ではないよ。ただの一個の機械だね。歯車。ねじ。自分が自分である必要がない。代わりはいくらでもある。ああ、いう仕事にやりがいを覚える人の神経がわからん。よっぽど自分の仕事に自信があるのか、あるいはその他の日常生活がよっぽど充実しているのか。よくわからん。半年以上は続かないな、僕のような奴には、向かん。
わしはわしでありたいっていうのはあるのだ。ってか意識的にわしとかおいらとかよく使うのは分裂を意識しているからなのでちゅ。
わしがわしでなければならん仕事っていうのはあると思うのだ。教職はまさにそうだ。わしはわしでなくてはならん。もちろん、べつにわしでなくてもかまわんのだが、わしでなければ結果がまったく違ってくるのだ質的に。
恋愛だって房事だってそう。わしでなければならん。少なくともその瞬間にその相手がそう思うんならわしはわしをわしであるわしであってよいのだと確認できる。ファミレスのバイトでは自分を確認することなど、とてもでけん。あいつら、よくやるよ。まじ。
接客業大好きな奴っているけど、わしには無理だ。嫌いじゃないし苦手でもないと思うのだが、だめだ。自己主張強いんで。
自己主張こそがわしを生かすんで。
あと寂しがりやさんなんで。不安いっぱいの生涯思春期男なんで、自分が自分である自分であって良いと認識できる状態に常にいないと落ち着かないというかなんというか。わしは常に愛されていたいわしとして。わしをわしとして認めそして愛して貰いたいと思うのだみんなに。
とりわけわしの愛する皆様に。
だからわしは無理なのだああいう仕事とかは。
吐き気がするのである。
自分が自分でない。自分である必要がない。自分というものをすべて否定されてしまう。
わし、いらんのかいな。わしを、へこませ、不安がらせるものは、(こーめ)だけで良いよ。
十全に重い。
ez 0411-050408
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