香菜、頭をよくしてあげよう

 筋肉少女帯というバンドの曲で、『香菜、頭をよくしてあげよう』というのがある。作詞はヴォーカルの大槻ケンヂ。この人は小説『くるぐる使い』や『新興宗教オモイデ教』(ともに角川文庫)などの名作も書いているので、読書好きの子はぜひ読んでみてほしい。
『香菜、頭をよくしてあげよう』は、ラブソングである。香菜というバカな女の子がいて、その彼氏らしき男の視点から歌われる。

 モフモフとジャムパン食べている君の横で僕はウムム!と考える
 抱きしめてあげる以外には何か君を愛す術はないものか?
 「あたしってバカでしょ? 犬以下なの」と微笑む無邪気な君は
 本当にバカだ だから アレだ 僕は……
 香菜、君の頭 僕がよくしてあげよう


 男は、香菜の頭をよくしてあげようと、映画館や図書館に連れて行く。つまり「教養」を与えようとする。なぜ、男は香菜の頭をよくしてあげようとするのか? それは最後のサビを聴くとわかる。

 香菜、君の頭 僕がよくしてあげよう
 香菜、生きることに 君がおびえぬように
 香菜、明日、君を図書館へ連れていこう
 香菜、泣ける本を、君に選んであげよう
 香菜、いつか恋も 終わりが来るのだから
 香菜、一人ででも 生きていけるように


 男は、「いつか来る恋の終わり」を予感しているのである。もちろん、この恋が永遠に続き、ずっと香菜のことを抱きしめていてあげられれば良いのだが、ほとんどの恋は淡く、儚く、潰えてしまう。
 そうなった時、バカな香菜はどうやって生きていけばいいのか? バカな少女は悪い男に騙されて、遊ばれて、捨てられる。そんなことはありふれて、ありあまるほどにある。そうすると、バカな少女は自暴自棄になって、心を病んでしまったり、自殺を試みたりしてしまう。生きることに、おびえてしまう。
 香菜に恋するこの男は、いつか恋が終わるとき、香菜がそのような不幸に遭うことを憂えているのである。自分と別れてから、悪い男に騙されず、心も病んでしまうことなく、「一人ででも生きていけるように」願いながら、「頭をよくしてあげよう」と、一見傲慢だが、愛にあふれた言葉をつぶやくのだ。

   ところで、これを読んでいる君たちはバカである。香菜のようなものである。中学生というのは基本的に、この香菜のように、バカで、不安定で、脆いものである。断言するが、君たちは、少なくとも《まだ》、バカである。バカな香菜である。だから僕は君たちに向けて言うのである。「香菜、頭をよくしてあげよう」と。

「教育」というものは、「頭をよくする」ためにある。
 さっきから、「頭をよくする」というふうに、「よく」をひらがなで書いているが、「頭がよい」というときの「よい」には、少なくとも二通りの漢字の当て方があると、僕は思う。
 すなわち、「良い」と「善い」である。
「頭が善い」とは僕オリジナルの表現で、普通の人はあんまりこういう書き方をしない。だが、とても重要な視点だ。
「頭が良い」というと中学校では「成績が良い」という意味に限りなく近くなるが、「頭が善い」は、そういう意味ではない。人間として大切なことを知っているかどうか、ということになる。
 学校では、基本的に「頭を良くする」ための勉強しかしない。成城学園は比較的「頭を善くする」ための試みをしているほうであるが、それでも足りない。
 昔の人は、家庭で躾を受けたり、家業の手伝いをしたり、近所の人たちとふれあったり、あるいは「本を読む」ということによって、「頭の善さ」を獲得していった。しかし現代では、「家庭の躾」なんてあってないようなもんで、多くの家庭で、親は「勉強しろ」としか言わない。いや、「勉強しろ」とさえも言わないことだってある。「家業の手伝い」や「近所の人たちとのふれあい」なんて、都会のサラリーマン家庭ではほとんど見られない。「本を読む」に至っては、目も当てられないさまで、せいぜい毒にも薬にもならないような、「ただ読んで楽しいだけ」の本を漫然と読みふけるのみだ。それでも、読んでいるだけまだいい。テレビにゲームにインターネット、それと「週刊少年ジャンプ」等に、子供たちの生活は支配されている。「本」の入り込む余地なんて、どこにもない。

「頭が善い」とはどういう人のことを指すのかといえば、「人間はどうあるべきか」「その人間が作っていく世の中というものは、どういうものであるべきか」ということを、正しく知っている人のことだ。理屈で説明はできなくとも、心でわかっている人のことだ。軽々しく人を憎んだり、傷つけたりせず、人や物を愛することや、泣いたり喜んだり満足することを知り、人と人との関係を大切にし、言葉に対していつもまっすぐに向き合い、よくないと思うものにはハッキリと「よくない」と言い、道ばたにゴミを捨てないで、困っている人がいたらできる範囲で力になって、自分はできるだけ人に頼らず、自分の力でがんばって、それでもダメなら家族や友達に相談して、やたらとお金を使わずに、知恵と工夫で不便や困難を乗り切って、野菜を食って、米を食って、お正月には餅を食い、お盆にはご先祖様のお墓にお参りするような、そういう生き方が、いちいち説教なんかされなくったって、当たり前にできてしまうような人が、僕の思う、「頭の善い」人である。
 もちろん、今僕が書いたようなのは「例」であって、必ずしもそういう生き方をしろと言うのではない。お正月にお餅を食わなくったって、それだけで「頭が善くない」になるわけではない。
 しかし、「あたたかさ」や「情」を持った暮らしをすることこそが、人間の生き方として最も正しいことであるということを、僕は信じて揺るがない。携帯電話やインターネットでつながっていることも楽しいが、それ以上に現実の人間とのつながりというものを大事にして、「正しいこと、美しいもの、善なるもの」を知り、それらを大切にはぐくみ、愛し、いつくしむこと。
「正しいこと、美しいもの、善なるもの」と書いたが、これはいわゆる「真善美」というやつである。「真(正しいこと、本当のこと)」と「善」と「美」の、三つがそろってこそ、人間である。一つでも欠けてしまえば、その人は人間として失格なのだ。
「美」とはもちろん「美人」というときに使うような「美」の意味ではない。現代の日本で「美人」と言えば、それは「西洋で美しいと言われている人に似た顔つきをしている」でしかなくて、だから僕は「美人」なんて嫌いだ。犬に食われろ。「美しい」ってことは、そうじゃないね。僕が言う「美しい」は、「愛することは美しい」って言うときの「美しい」だからね。「自然は美しい」と言ったときの、「美しい」だからね。もちろん、愛することはときに醜くもなるし、自然はときに脅威でもあるんだけど。
 で、今している話は、この「真善美」のうちの特に「善」なるものを取り出して、語っているわけね。でも、「真」「善」「美」ってのは、違うようでいて根っこは一つであるようなもんだから、どれか一つがちゃんと身についていれば、ほかの二つも一緒に育まれていくようなもんで、とりあえず今は「善」について語っているけれども、同時に「真」と「美」について語ってもいるわけね。わかるよね、それは。

 さて話を戻す。
「頭をよくする」(ここでは、「良く」と「善く」の両方)ためには、国語科的に言うと四つの方法がある。ずばり「聞く、話す、読む、書く」である。これらをすると、学力は確実に上がるし、内面だってきっと磨かれる。一石二鳥なのだ。
「聞く」と「話す」に関しては、特に自分よりも目上の人と話をすると、とてもよい。学校の授業をちゃんと「聞く」というのも、とても大切。「読む」と「書く」も同じようなもんで、読むならいわゆる「ためになる」とか言われるもんを読んだほうがいいし、書くならできれば「内容のある、ちゃんとした文章」がいい。正直な話、読んだり書いたりするぶんには、どんなもんだって「やんないよりマシ」だから、自分が楽しいと思えるようなものを読んだり書いたりすればいいんだけどね。効果の大小はあるかもしんないけど。
「聞く」「話す」は、日常を過ごしながらちょっとだけ気をつけてくれればいい。「書く」に関しては、日記を書くとか、手紙を書くとか、メールを打つとかするときに、ほんのちょっと意識してみると、いいかもしれない。「話しながら頭をよくしてやる!」とか「書きながら頭をよくしてやる!」と思うだけで、全然違うからね。
 問題は「読む」なのだ。君たちはホント、「読む」ってことが苦手だね。僕が思うに、この「読む」ってのが一番、「頭をよくする」ためには重要だと思うんだけどさ。
 そう、もちろん僕は「本を読め」が言いたいわけ。でも僕が言うのは「本を読みなさい! 名作を読みなさい!」だけじゃない。大人はいつもそのような言い方しかしないけれども、そんな言葉が子供に届いた試しはない。だからもう少しひねくれたことを言う。
 本を読め!
 なんでもいいから、とにかく読め!
 自分が「面白い!」と思えるようなものに巡り会うまで、読み続けろ! そして「自分で面白い本を見つける」ができるようにせよ!
 そういう嗅覚を、身につけるべし!
 もし、「どうしても本なんか読みたくない」のなら、マンガ読め!

 僕は「戦後の日本人にとって、『頭の善さ』というのは、十歳までに手塚治虫をどれだけ読み込んだかによって決まる」と、勝手に決めつけている。これは極端な言い方で、僕自身これが正しいとは思っていないんだけど、でも、多少の真実は含まれていると信じている。手塚治虫っていうのは一貫して「正しくて、美しくて、善である」ことしか言わない人だから。どんなにグロテスクで、残酷な作品を描いても、そのどこかに「正しいこと」「美しいもの」「善なるもの」が含まれているのだ。……というのは言い過ぎと思う人もいるだろうが、少なくとも、邪悪ではない。
 自慢じゃないが僕は小学校に上がる前から文字が読めて(お母さんが絵本を読み聞かせしてくれていたからだと思う)、絵本やマンガを読みあさっていた。手塚治虫もそのころから読んでいて、大好きで、小学校二年生の頃には伝記や講演録も読んだ。それこそ十歳になるころには主要な作品はほぼ全部読んでいたと思う。僕がもし「頭がよい」のだとしたら、きっと理由はここにしかない。
「マンガ読め」と書いたが、マンガならなんでもいいってんじゃない。やっぱり「真善美」の含まれている作品を読むことが大切だと思う。でも、たぶん君たちには、そこに「真善美」があるかどうかなんて、わからない。ただ「面白い」か「面白くないか」、言い換えれば「気持ちよい」か「気持ちよくない」かしか、わからない。しかし、たとえば手塚治虫を読んでいれば、その判断はできるようになる。そこに「真善美」があるからだ。手塚作品に欠点がないとは言わないので、もちろん手塚でなくたっていい。「正しい」作品をちゃんと読んでいれば、同じことだ。ただ、少なくとも現段階では手塚治虫が最も「信頼できる」マンガ家である、ということ。少なくとも『火の鳥』くらいはちゃんと読んでおいてもらわなくては、「日本人としての教養」という面でも問題がある。

 マンガってのはバカにできたもんじゃなくて、今やれっきとした「文化」でもあるし、くだらねー小説なんかより数十倍も人生の糧になるような作品が五万とある。僕の大好きな『ドラえもん』だってそうだ。あれは正しくて、美しい。最近はまってるのは、矢口高雄の『蛍雪時代』である。近所の図書館にもしあったら、読むことをおすすめする。全国民が読むべき名作だから。
 なわけで、「文章が苦手」って人はマンガから入るべし。手塚治虫がちゃんと読めるくらい「頭がよく」なれば、活字だって読めるようになるはずだ。手塚ってのは、そういうレベルの存在だもん。
「マンガすら読まない」は、もう話にならんのであるよ。




※この文章にはさすがに注が必要かなー。手塚を推してるのは、なんといっても「無難だから」。ほかに思いつかないんです。真善美があると言い切ってるのはちょっと、違和感がないではないけど、じっくり、よーく考えてみると、やっぱそうなんだよね。手塚の作品って美しいと思うし、概ね正しかろうし、かなり複雑だけど、最終的にはやっぱり善なんだと、思う。だから僕は未だに好きなんだと思う。

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