中学生は、「やれ」と強制されたことでなければ、「気持ちいいこと」以外はやりたがらない。親や先生が「勉強しろ」と言うのは、そう言わなければ自分から勉強し始めるということがないからだ。
 マンガを読むことやゲームをすることは、「やれ」と言われなくてもやる。なぜならばそれは、それが「気持ちいいこと」だからだ。当たり前だ。
 人間は、「気持ちいいこと」しかしたがらない。「気持ちいいこと」を我慢する時は、「我慢すればそのあとにもっと気持ちいいことがある」という時だけだ。こういう考え方ができることを「理性がある」という。中学生には理性がない。
 理性がないから、中学生は「今、気持ちいいこと」しかしない。「あとで気持ちよくなるから、我慢する」ができない。
 では、どうしたら理性のない、「今、気持ちいいこと」に溺れてばかりの中学生に、「我慢」をさせられるのか? たとえば、生徒が授業中さわがしくしていたら、先生はどうやって静かにさせたらいいのか?
 それは簡単だ。「恐怖」を与えてやればいい。先生が大声で中学生を怒鳴りつけるのは、「恐怖」を与えるためだ。生徒に「怖い」と思わせたらもう先生の勝ち。「怖い」は「気持ちよくない」だから、それを避けるために、「我慢」ということをする。だから怖い先生が怒れば、教室は静かになる。
 じゃあ怖くない先生はどうしたらいいか? 「恐怖」を与えられないなら、どんな形でもいい。とにかく「気持ちよくない」を与えてしまえば、生徒はそれを避けるために「我慢」をする。
 たとえば女の先生がヒステリックにぎゃーぎゃー怒り始めたら、みんなどう思うだろうか? たぶん「怖い」とは思わない。「面倒くさいなあ」とか「うっとうしいなあ」とか思うはずだ。それを「気持ちいい」と思って、さらにさわいで怒らせようとするやつもいるかもしれないが、それは本当に性格の悪いやつだけだろう。たいていの人は、「気持ちよくない」と思って、その場をやりすごすために、とりあえず大人しくする。よって教室は静かになる。
 学校の先生というのは、ふつうそういう努力をして、「静かな教室」という秩序を保っている。そういう努力をしなくても「静かな教室」を作り上げられる人は、たぶん先生としての才能がとてもある人で、かなり少数だと思う。ほとんどの先生は、「恐怖」などの「気持ちよくない」を生徒に与え続けることで、「静かな教室」という秩序を保つ。
 怖い先生の授業のとき、君たちは携帯電話を使わない。使ったのがバレたときに、怒られて、怖くて、「気持ちよくない」からだ。あるいは怒られている自分をみんなに見られるのがみっともなくて、恥ずかしくて、「気持ちよくない」からというのもあるかもしれない。とにかく、「この先生に怒られると、気持ちよくない」という判断をして、みんな携帯電話を使うのを我慢する。私語もつつしむ。
「静かな授業」には、たいていはそういうからくりがあって、「あの先生の授業は面白いからみんな静かだ」ということはない。一見そう見えても、実は「あの先生は怖いからみんな静かにしていて、そうすると真面目に授業を受けなければいけなくて、受けてみると授業は面白かった」ということでしかない場合が圧倒的に多い。中学生にとってはどんな授業よりも友達と話したり遊んだりするほうが楽しいに決まっている。そうでない人は「マジメすぎる」とか「変なやつだ」とか言われてしまう。

 で、僕は、教室を静かにするために、中学生に「気持ちよくない」を押しつけることを、したくない。実際、ほとんどしない。怒ってもないのに怒ったふりをするのが嫌だし、できることなら「みんなが気持ちいい」という状態で授業をしたいからだ。結果、教室はうるさくなる。
 これではもちろん学校の先生としては失格で、「プロ意識の欠如」とか「能力不足」とか言われるかもしれない。それを否定するつもりはない。僕はずっとそのような先生で、「自分は中学校の先生には向いてないな」ということも思う。そういうわけでたぶん僕はもう中学校の先生はしない。

 くり返すが、ほとんどの中学生には理性なんてない。「我慢」なんてのはできない。「今、気持ちいいこと」をひたすら求め続けるだけだ。それを押さえつけて勉強させるためには、「気持ちよくない」を押しつけなければならない。
「みんなにとって面白い話」をすれば、中学生は「気持ちいい」と思って食いついてくるから、その時はこっちに集中してくれるが、こっちも常に「みんなにとって面白い話」ばかりをしているわけにはいかない。一度にたくさんの人間を相手にする都合上、せいぜい「面白い人には面白いけど、面白くない人には面白くないかもしれない話」くらいしかできない。
 全員が面白いと思うような話を常にしながら、決められた授業内容を正確にこなすのは、とても難しい。それこそよほどの天才でなければできない。僕は面白い話をする才能はかなりあるほうだと思うが、それでも不可能だ。たぶん教員として何十年も修行しなければ、それができるようにはならないだろう。
 なにしろいまの僕には「威厳」というものがない。これさえあれば「無言の圧力」で生徒たちを黙らせることができるんだが、常にへらへらしてるような僕は、そういうものを持っていないし、いまのところ持つ気もない。「威厳がある」ということは「近寄りがたい」ということで、僕は「近寄りがたい」人間になるのは嫌だ。むろん、「嫌だ」なんていうのは子供じみた甘えで、学校の先生というのは威厳を持つためにあえて自分から生徒と距離を置くように努めなければならない。つまり進んで「近寄りがたい」存在にならなければいけないのだ。それを嫌だと思う僕は、やはり中学校の先生には向いていないのである。

 中学校の先生に向いていない僕は、ふつうの中学校の先生とは違った方法を採っていた。ずばり「生徒の自主性を重んじる」だ。(ちなみに「自主性」とは「自分の判断で行動する態度」のこと。)
 おや、と思う人もいるかもしれない。「生徒の自主性を重んじる」というのは、ふつうの学校の先生がよく使いたがる言葉だからだ。でも実際、授業中に生徒の自主性を重んじている先生なんているはずがない。生徒の自主性を重んじるのならば、授業中に本を読んでいても、ゲームをやっていても、将棋をしていても、携帯電話を使っていても怒らないはずだからだ。そんな先生はいない。
 ところが。いないと思ったらここにいたのである。僕である。
 僕は、生徒が授業中に何をやっていても基本的には怒らない。ただ、それが授業のさまたげになったり、ほかの生徒の迷惑になったり邪魔になったりする場合には、そのことを叱る。なぜなら、それは「ほかの生徒の自主性をそこなわせる」ことだからだ。「生徒の自主性を重んじる」のならば、「ある生徒の自主性を重んじるために、ほかのある生徒の自主性を犠牲にする」なんてことができるわけがない。だから怒る。
 一人でひっそり、黙々と本を読んでいたり、隠れてこそこそ携帯電話をいじったりしている人に対しては、とりあえず何も言わない。「生徒の自主性を重んじる」をしていると、そうなる。
 ただこれにも問題があって、「本を読んでるやつが一人いると、周りの人がそれに影響されてしまう」ということ。つまり「秩序が乱れる」が起こるわけだ。一人遊んでいるやつがいると、「あ、遊んでもいいんだ」と、見ている側は思う。「あいつばっか遊んでて、自分が遊んでいないのは損だ」と思って、遊び始める。そういう連鎖は果てしなく続き、最後にはクラス全体が遊び始めて、授業は崩壊する。
 でも僕は「生徒の自主性」なるものを重んじるので、「ほかの人が遊んでいても、自分がどうするかは自分で決めるべきだ」と思って、しばらく放っておく。
 中学生には理性がないから、そうなるともうおしまいで、歯止めがきかない。仕方なく「うるさい!」と叫んでみても、もうだめだ。ほとんどの生徒が「今、気持ちいいこと」を求めて、授業に集中しなくなる。そうなってしまうのは、僕のようなやり方をしていたら当たり前に訪れる結果だ。だって、ほとんどの中学生には「理性」がないのだから。

 結論を言えば、僕が中学生に望むのは「理性を持ってほしい」ということだ。周りに流されず、「今、自分はどうするべきか」を冷静に考えるだけの理性を持つこと。それがたぶん、中学校で身につけるべき最も大切な能力なのではないかと思っている。
 理性を持てば、「この授業で自分が遊んでいて、大声でわめき散らしていることによって、誰にどのような結果がもたらされるか」ということがわかるはずだ。わからなかったら、考えろ。それを考えるだけの頭を育てることも、義務教育で大切なことの一つだ。
 まともな人間が「授業でさわぐとどうなるか」を考えれば、結論として「さわがないほうがいい」が出てくるのは確実だ。そういう結論を出せないやつは、まともな人間ではない。クズだ。「他人のことよりも自分のことを優先するほうが気持ちいい」と考える、腐った、ゴミのようなやつだ。
 まともな人間は、「自分のことよりも他人のことを優先するほうが気持ちいい」という感覚を持っている。「自分だけが気持ちよければいい」というのは動物の感覚だ。そういうやつが人を殺したり、強姦をしたりする。
 理性のない人間は、「今、気持ちいいこと」しか問題にしないから、「こいつを殺したら気持ちいいだろうな」と思ったら、本当に殺してしまう。冗談で言ってるんじゃない。実際にそうだ。僕は実は「このままだと、君たちは人を殺すよ」ということが言いたいのだ。
 理性のない人間が「この女の子を犯したら気持ちいいだろうな」と思ったら、本当にそれをしてしまう。それは「授業中に友達と大声で話すのは気持ちがいいだろうな」と思って、本当にそうしてしまうことと同じだ。「そんなバカな」と思うかもしれないが、本当に同じだ。
「理性」の反対語は「本能」で、本能に身を任せれば人間はかんたんに他人を傷つける。理性とは本能を押さえつけるためのもので、それがなければ人間とはいえない。
 教育の、とくに義務教育の目的の一つには、「本能を抑えるための理性を育てる」があるのではないかと僕は思っている。
 では「理性」を育てるにはどうしたらいいかというと、本当は「生徒の自主性を重んじる」なんかしてはいけないのかもしれない。それは「本能を野放しにする」ことになりかねないからだ。でも、僕はそれをしていた。それはなぜか。
 単純に、人間の理性を信じたいからでしかない。ほかに理由はない。
「人間は、放っておけば本能をむきだしにして自らの欲望だけを追い求め続ける」というのは、たぶん正しいが、しかしそれでは絶望的すぎるじゃないか。
 僕は、「どこかで気づく」と信じたいのだ。遅かれ早かれ人間は、どこかで「理性」というものに目覚めると、そう思いたいのだ。
 くり返すようだけど、「理性」というのは、「自分のことよりも他人のことを優先するほうが気持ちいい」という、人間にとってとても当たり前な感覚だと、僕は思う。そういう感覚が、人間には自然に宿るのではないかと。なにも「誰にでも生まれつき宿っている」と言いたいわけじゃない。「僕らは、人間をそのように育て上げるような世の中に生きている」ということだ。そのことを信じたい。
 恐怖などの「気持ちよくない」を生徒に与えることによって、一時的に教室を静かにすることは簡単だ。しかし、それは所詮「不快感を刺激して従わせる」ということでしかない。猛獣つかいがムチをふるうのと同じだ。実際、小中学生は動物のようなものだから、ムチをふるうのが一番効果的なのかもしれないし、教員に求められている能力というのは、実は「ムチをふるう能力」なのだ。
 でも現代の教員には「体罰」ということが許されていない。動物のような小中学生を飼い慣らすために最もお手軽で効果的なのが「体罰」であることは明らかなことなのに、それは「絶対にしてはいけない」ことになっている。だから「威嚇」をしたり、「威厳」を示したりすることによって、あるいは何らかの「不快感」を生徒に与えることによって、子供たちを操作しなければならない。「成績下げるぞ」という脅し文句もその一つだ。僕はそういうのが嫌だ(どうせなら体罰のほうがすっきりしていていいと思う)から、「教員失格」と言われてしまうかもしれない方法を採った。
 それが「生徒の自主性を重んじる」だ。
 正直、成功したとは言えないし、「叱る(怒ったふりをする)」ということを一切採り入れずに授業をすることも、実際は不可能だった。そんなことをしていたら教えるべきことが教えられない。だから僕なりにつたないムチを必死にふるったりして、どうにかこうにか間に合わせてきた。その結果は、「聞いてるやつは聞いてるし、聞いてないやつは聞いてない」だった。「聞いてるやつ」が四十人になることももちろんあったけど、「聞いてるやつ」がほんの数人になってしまうこともあった。そういう時はやっぱり、授業の質もがくんと落ちる。誰も聞いてないのに面白い話をし続けるほどばかばかしいことはないからだ。そうすると「話がつまらないから遊ぼう」になって、悪い循環が訪れる。
 ここで先生である僕を責めるのは簡単だし、それはまっとうな批判ではあるけれども、「話を聞いていないやつが多いと、話がつまらなくなって、マジメにやろうと思っているやつに被害が及ぶのだぞ」とは、ちゃんと言っておく。こういうことを考えて、「マジメにやろうとしているやつに悪いから、授業を聞いてるふりをしながら、静かにマンガでも読んでいよう」と発想するのが、「理性」というやつである。わかる?

 何度も言うけど、僕は人間の「理性」を信じたい。「僕らは普通に生きていれば自然に理性が育まれていくような素晴らしい世の中に生きている」と思いたい。実際、きっと、そんないい世の中でもないとは思う。でも、土と水と光で花が咲くように、人間の「理性」もそういった「ありふれた素敵なもの」によって開花するようなもんなんだろう、そうあってくれ、と祈っている。
 土はアスファルトに封じ込まれ、水は消毒しなくちゃ飲めなくて、太陽からは紫外線が直接降りそそいでくるようなこの世界の中で、本当に「美しい」花は咲くのだろうか。そんなことも考えてしまうけど、でも、僕は信じたいのだ。「信じる」ことは「真実」へとつながっていくための、ただ一つの道だ。
 青い空に流れていく雲をだれもが「美しい」と思うなら、世の中は捨てたもんじゃない。そのように思わなければやっていられないほど、世界は絶望に満ちている。そのことはたぶん、まともに生きていればそのうちにわかる。わからなければ、鈍感だ。「美しい」ということがわからない人には、「美しくない」もわからないから、汚く、醜いもの、この絶望的な世の中に対しても鈍感になる。だから、感覚を磨け。何が美しいか、何が正しいか、何が善きことであるのかという「自主的な判断」を可能にするような、「理性」を持つこと。それが人間の、人間であるための条件なのではないかと僕は思う。

 こんなところで辞世の句を終わりにする。今後もこのようなくだらない文章を読みたいと思う奇特な人間はインターネットで「少年Aの散歩」と検索するがよい。鬼が出ても蛇が出ても知らんが。疑問・質問はそこから送るか、もしくはXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX。これからも仲良くしてくれる人は仲良くしてくれるといい。さよならだけが人生であるが、袖振り合うも多生の縁とも言う。願わくは永遠に我らの絆の途絶えんことを。それからこの文章は少し多めに印刷するので、まわりに欲しがりそうな人がいたら教えてあげてね。
 中学生は、人生をあと六十年だか七十年だか、あるいはそれ以上まだ残している。その長いんだか短いんだかわからない人生を、どうぞ大切に生きていってほしい。僕の言っていることは、自分で言うのもなんだけどたぶん本当に正しくて、今はよくわからなくても、十年後、二十年後にはきっと誰もが気づいてくれることだと信じる。二十歳や三十歳になっても気づけなかったら、その人は、人間としてすっげーダメなやつなんだろうと、真剣に思う。だから、気づけるように、今のうちに種を蒔いておいた。発芽し、花の咲くことを祈る。かなり多くの中学生が、花を咲かせずに大人になるんだが。

【注 2017/03/19】
「正しい」と言い切るあたりに25歳の青臭さを感じなくもないですが、退職に際してテンションが上がっているのと、「ほとんどわかってもらえていない気がする徒労感(あるいはいらだち、負け惜しみ)」等々のせいで、そうなっているのだと言い訳をしておきます。
 自分で言わないと、ぜんぜんだれにも言ってもらえないし、というのもあるけど、「この人の言ってることを自分は面白いと思うけど、まったく耳を傾けない人もいる。いったいどういうことなんだ?」と戸惑っているかもしれない一部の直観的な子たちに、「だいじょうぶ君たちは正しい!」と言ってあげたかった、ということでもあったのだと今は思います。

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