【二〇〇九年度二年国語】「読書の時間」について

 きみたち二年生には週に一時間、「読書の時間」というものが割り当てられている。一年生の時にもそうだったと思う。きみたちが去年、「読書の時間」をどのように過ごしてきたのかは知らないが、今年の「読書の時間」は僕が担当する。よろしく。
 まず、はじめに言っておこう。この「読書の時間」には、「本を読む」以外のことを一切してはいけない。そりゃ呼吸したりアクビしたりなんてのは仕方がないが、「遊ぶ」「喋る」「勉強をする」などはすべて禁止。と言ってもまぁみんなも人間だから、「どうしても本を読む気分になんかなれない」という日もあるだろう。そういうときは「何もしないでぼんやりしている」ということだけは認めるから、くれぐれも他人の邪魔だけはしないように。
 だって「読書の時間」つってんだからね、「本を読む」だけをひたすらするんだよ。そしてこれは「授業」なんだから、もちろん「成績」に含まれるよ。どうやって点をつけるかっていうと、主に「他人に迷惑をかけていないか」これね。要は、大人しくしていなさいってこと。

 んでね、どうしてこんな当たり前のことをわざわざ言うのかというと、「なぜこの学校には読書の時間なんてものがあるのか?」ということを、きみたちに考えてほしいからだよ。なぜだと思う?
 本を読むことを習慣づけさせるため? 国語力をあげさせるため? 人生に必要な知識を与えるため? 豊かな感受性を育てるため? 「活字離れ」を少しでも食いとめさせるため? 先生が楽をするため? 「うちの学校では読書の時間というのを取り入れておりまして」って宣伝するため?
 全部正しいけど、重要なものが抜けてる。
 それは「きみたちに集中力というものをつけさせるため」だよ。あるいは「一人になることに耐える力を身につけさせるため」と言ってもいい。……これから詳しく説明するよ。

 ハッキリ言って、きみたちには集中力がない。せいぜい一〇分か、十五分しか集中力が持たない。「何かに夢中になって時を忘れる」ということが、きみたちの生活の中にどれくらいある? その集中力を「授業」や「読書」や「人の話を聞く」ということに注ぐ能力が、きみたちにはあるかい? 僕に言わせりゃ、ないね。全然ない。ほら、この文章を読むのだって、もう「めんどくさいな」って思ってるんじゃない? きみたちにはそのくらい、集中力がないの。
 なんでかって、そりゃ、きみたちがあまりにもたくさんテレビを見るからだよ。(見てない人ごめんね。)きみたちは好きな番組を、夢中になって見るだろう? だけど、夢中になっている時間は、一〇分か十五分でとぎれてしまうでしょ。だって、コマーシャルが入るもんね。
 どんなに面白いドラマも映画も、コマーシャルによって細かく切り刻まれる。集中してる、と思ったらコマーシャルが入って、またもう一度はじめから集中し直さなくちゃならない。きみたちは知らず知らずのうちに、そういうことに慣れすぎてしまっている。「集中が一〇分か十五分しか続かない」という体質に、なっちゃってる。だから授業だって、「よしやるぞ」と思っても、一〇分か十五分で集中がとぎれる。とぎれるのは仕方ない、ふたたび授業に集中してくれればいい。だけど多くの場合きみたちは、友達と喋ったりとか、手紙を書いたりとか、隠れてケータイを見たりとか、そういうことに集中を傾けてしまう。
 でもね、集中がとぎれるってのは仕方ないんだ。きみたちはそういう体質なんだもの。テレビもそうだし、インターネットとか、ケータイのメールとか、週刊少年ジャンプとかね、ああいった「細かく切り刻まれてしまっているもの」に慣れちゃってるから、「五〇分間の授業」とか「本」という「まとまったもの」に集中を向けることが、できない。正直な話、このプリントが配られた時に、「うわ、長いな」って思った人もいるんじゃない? だとしたら相当、キテますな。

 面白い例を紹介しよう。
 もう十年以上前の、とある女子中学校での話。その学校では生徒たちがみんな授業に集中できなくて、どのクラスも「学級崩壊」状態だった。一分たりとも口を閉ざしていることができないで、先生たちがどれだけ声をからしても、ちっともよくならない。そこで、「毎朝一〇分間だけ、全校生徒に本を読ませる」という運動を始めた。最初はいやがっていた生徒たちもだんだん「本を読むこと」に慣れてきて、そうしたらなんと、劇的に生徒たちの授業態度がよくなったらしい。少なくとも一〇分間くらいは口を閉じていられるようになった。生徒たちは、なにも悪気があって授業でうるさくしていたわけではなくって、単に「授業に集中できなくて、喋らずにはいられない」というだけだったんだ。というお話。  この「朝の一〇分間読書」という運動は、またたく間に全国に広がった。僕が中学生だった時にも、とつぜんこれが始まった。うちの中学は、成城なんかとは比べものにならないくらい荒れていて、ほとんどの授業がまともに成立してなかったから。
 わかるかな? これがたぶん、「なぜこの学校には読書の時間なんてものがあるのか?」という問いへの、一つの答えだ。つまりきみたちは、「五〇分間の授業を集中して受けることができない」と思われているんだよ。だから、わざわざ「読書の時間」を作って、「五〇分間集中しつづける練習」をさせている、っていうふうに、僕は思うな。僕が作ったわけじゃないからわかんないけど、たぶんそうだろうな。
 でもね、「朝の一〇分間読書」ではなくて、「読書の時間」なのはなんでだと思う? 喜んでいいよ。みんなは「一〇分間くらいは集中できるだろう」と思われているってことだね。だから五〇分。きみたちは、その程度には信頼されているのだよ。信頼にはちゃんと、応えてね。

 さて。そういうもくろみがあって、この「読書の時間」というのは存在する。「読書の時間」でちゃんと練習すれば、他の授業でも集中できるようになる。これは間違いない。だって、「本を読む」っていうのと、「先生の話を聞く」っていうのは、ほとんど同じことなんだからね。
 先生が授業でなにか説明をしていて、きみがそれをじっと聞いているとする。そのとき、きみは一人になっている。まわりには四十人の友達がいるんだけど、そのとき、先生ときみは「一対一の関係」になっている。すなわち、「話す人と、聞く人」だ。もちろん、ほかの生徒たちも同じように「先生との一対一の関係」を作っている。はずだ。みんなも同じように、ちゃんと話を聞いているんならね。
 先生が話す。きみが聞く。その関係は「一対一」のもので、きみとほかの生徒たちは「関係」がない。ほかの生徒たちはほかの生徒たちで、それぞれに「先生との一対一の関係」というものを作っている。「一対四十」で行われる授業ってのは、必ずそういうものだ。先生が生徒に問いかけた(あるいはその逆の)ときにだけ、きみは「ほかの生徒」というものを意識する。そういうものである、べきなのだ。

 この「一対一の関係」っていうのは、「本を読む」ということと同じだと、思わない? 先生が話す。きみが聞く。本になにかが書いてある。きみがそれを読む。それらは「一対一の関係」であるという点で、同じでしょ?
 しかも、まわりにたくさん友達がいるときに、黙々と本を読む、というのは、「まわりの人と喋らないで授業を聞く」っていうことと、同じだよね。それが「一人になる」ってことね。まわりにたくさん友達がいるけど、授業中はその友達関係をいったんシャットアウトして、先生の話に一対一で向き合う。それはとても寂しくて、我慢のいることだけど、それに耐える力を身につける、っていうのが、大切なんだ。実は、中学校で学ぶ最も大切なことっていうのが、この「一人になることに耐える力を身につける」ということではないかな、と僕なんかは思うのだよ。好きな人と映画観に行って、好きな人のことを気にしないで映画に集中する、ってことにも似てるね。難しいけど、やれるよ。
 もちろんね、授業の中では、まわりの友達と相談したり、わからないことを教え合ったり、アイコンタクトを取ったりすることも重要だ。だけどそれはあくまでもオマケ。基本的には、一対一だよ。本を読むように、先生の話を聞く。まぁ先生も人間だから、「うなずいてあげる」とか「わかんないような顔をしてあげる」とか「質問をしてみる」なんてことをすると、授業がうまく進んだりもして、そこは本とは違うところ。そういうのは臨機応変にやればいい。「邪魔をしない」「迷惑をかけない」ということさえ守れば、ね。
 ほら、ちょっとまわりを見渡してごらん。それが「できてる」人も、いるでしょ? 授業中ぜんぜん喋らない、っていう人、いるでしょ? 授業に関係あることしか喋らない、って人も、いるでしょ? でも、それができない人もいる。きみたちの中には、本当にたくさんいる。じゃあどうしたらいいか、っていうところで、「読書の時間」があるわけね。

 そういうわけで、「読書」、してください。じっくりと。家から自分の好きな本を持ってきてもらってもかまわないし、図書室で探してもいい。休み時間のうちに読みたい本を見つけておくこと。授業中に探しに行きたいときは、僕に一声かけてね。いちど選んだ本はなるべく最後まで読むこと。
 それから、「集中力を高める」ために、「文字ばっかりの本」しか読んじゃダメ。事典、図鑑、ギネスブック、絵や写真が多すぎるもの、全部ダメ。ぼんやり読めちゃうからね。当然ながら雑誌もダメ。どうしても「ちょっと図が多いけど、読みたい」というものがあれば、その熱い想いを僕に話してみてね。特例を認めるかもしれないんで。
「なに読めばいいかわかんない」とか「難しいのはわかんない」とか思ってる人は、とりあえず「岩波少年文庫」とかから適当に、「タイトルは知ってるけど、どんな話なんだろう」って思うようなものを読んでみたらいいと思うよ。時代を超えて、国を越えて残っているものは、やっぱり面白いし、読むだけで「教養」にもなるからね。自分の将来や、やがて生まれる(かもしれない)子どものことを考えるんなら、今のうちに有名な作品を読んで、教養をつけておくといいと思うな。親に教養がないというのは、子どもに背負わされた一つのハンデだ、と、国語科教員の立場から言い切ってしまおう。
 あるいは、僕に相談してくれれば、貧しい知識と経験をフル稼働して、考えるよ。「こんなもん読んでみたら?」つって。生ぬるいもんは薦めないけど。

 いろいろと堅いことも言いましたけれどもね、「それでも誰かと喋りたい!」っていう人は、話題によっては相手になるよ。ほかの生徒と話してその人の迷惑になるよりは、マシだもん。あ、そうそう。授業中に人に話しかけたりしてる人ね、「迷惑なんかかけてないよ」って思いこんでるかもしれないけど、相手は「迷惑だ」なんて言いたくても言えないんだからさ、ちょっと考えてみたほうがいいと思うよ。あるいは、相手が本当に「迷惑じゃない」と思っていたとしても、長い目で見ればその相手のためになっていない、っていうこともあるからね。本当に友達だと思ってんだったら、そういうことも考えてあげてね。

 ではなんか用があったら僕は国語科室というところにいるのでいつでもどうぞ。(水と金はいません。)


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