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●詩について(佐藤春夫を例に)
詩。詩ってなに? なんとなくわかるけど、なんとなくしかわからない。そんな感じだと思う。「一行ごとに改行してあって……えーっと……」くらいかな。「よくわかんない」「苦手」って思う人もいると思う。大人でも、「詩ってなんだ?」って言われて、ちゃんと答えられる人は少ない。
佐藤春夫という、僕の大好きな文学者は詩についてこんなことを言っている。
言葉の芸術たる文学で、散文がその言葉の持つ意味に従って言葉を極くすなおに社会的に使っているのに反して詩は同じ言葉を使いながらもその意味を重んずるよりも言葉の持っている別の要素を意味以上に珍重して使っている。言葉の意味よりも音の美しさを、言葉の色合いを、言葉の匂いを、言葉の光沢を、言葉の目方を。――とこう云い出したならば人々は言葉には意味の外にそんなさまざまなものがあるかと疑い怪しむかも知れない。しかし言葉には意味以外に色、におい、ひびき、光度、重量その他、などさまざまな神性をまた魔力を皆それぞれの一語一語が持ち合わしている。意味というのは言葉のそういう性格のうちの功利的なほんの一面にしか過ぎないものである。言葉をこの功利的な一面に即して使うのが我々の社会的な約束である。だから日常の会話や実用の文章などはこの約束に従って使い慣れている。言葉の芸術の場合も散文が言葉の意義を重んじているのに反して、韻文は寧ろ言葉の意義を二の次として言葉をどの面からでもその最も美的効果の多い方面から使っている。(『新体詩小史』より)
【要するに】
小説みたいな「普通の文章」だと、言葉の「意味」が重視されるんだけど、詩の場合は言葉の「意味」以外の要素を大切にしている。音の美しさとか、色合いとか、においとか、光沢とか、重さとか。そう、言葉には「色」や「におい」や「ひびき」や「光り具合」や「重さ」っていう、「神様が宿っているような力」、あるいは「魔力」とも言えるようなものがあるんだ。「意味」っていうのは、言葉の持っている性格(性質)のほんの一部分にすぎない。
ふつう、社会ではこの「意味」ってものばかりが重視される。日常会話や書類なんかだとたいていそうだ。言葉の芸術(文学)の場合でも、小説(散文)が「意味」を重視しているのに反して、詩(韻文)は「意味」なんか二の次で、その他の面(色とかにおいとか)を、「美しさ」という観点から重視している。
「詩」って、はじめから「意味なんかどうでもいい」と思って書かれているのだ。だから「わけがわからない」「意味不明」で当然。「わからない」からといって、「苦手」なんて思う必要はない。
ブルース・リーという人が映画の中で「考えるんじゃない、感じるんだ!」(『燃えよドラゴン』)と言ったけど、それと同じ。「わからないけど、なにか感じる」でいい。
だから、詩を読んで、「なんかいいなあ」とか「いいリズムだなあ」とか「きれいだなあ」とか思えたら、それでいい。もちろん「意味」を読んではいけない、ということではない。意味がわかるなら、それもいい。
かみしめよう。
詩が「読める」または「書ける」ためには、「言葉の意味がわかる」だけじゃ、だめ。「意味以外のもの」を感じないと。「二月」って言うのと、「如月(きさらぎ)」って言うのじゃ、意味は同じでも、なんか雰囲気が違うでしょう?
その「雰囲気」こそが、「意味以外のもの」なのだ。
じゃあ、「意味以外のもの」を感じるためには、どうすれば?
そのためには、言葉をよく知ること。言葉と仲良くなること。言葉を愛すること。
それから、「美しいとはどういうことか」も知らなくてはならない。「美しい」を知らなければ、詩は書けないし、読めもしない。美しくなければ、詩ではない。そして詩は、どんなに醜い意味の言葉でも、美しくすることができる。言葉はすべて美しく「できる」のだ。そう信じることが、「言葉を愛する」ということだったりする。
しかし逆に、どんな言葉だって醜くも「できる」かもしれない。簡単だ。
言葉に悪意を込めればいい。
でもそんなことは、やっちゃだめだよ。「美しく」あるために。
(二〇〇九年度、某私立中学校の二年生に配布したプリントを書き改めた。)
【附録】佐藤春夫氏の事 芥川龍之介(傍線は引用者による)
一、
佐藤春夫は詩人なり、何よりも先に詩人なり。或は誰よりも先にと云えるかも知れず。
二、
されば作品の特色もその詩的なる点にあり。詩を求めずして佐藤の作品を読むものは、猶南瓜(かぼちゃ)を食わんとして蒟蒻(こんにゃく)を買うが如し。到底満足を得るの機会あるべからず。既に満足を得ず、而して後その南瓜ならざるを云々するは愚も亦甚し。去って天竺の外に南瓜を求むるに若かず。
三、佐藤の作品中、道徳を諷するものなきにあらず、哲学を寓するもの亦なきにあらざれど、
その思想を彩るものは常に一脈の詩情なり。故に佐藤はその詩情を満足せしむる限り、乃木大将を崇拝する事を辞せざると同時に、大石内蔵助を撲殺するも顧る所にあらず。
佐藤の一身、詩仏と詩魔とを併せ蔵すと云うも可なり。
四、佐藤の詩情は最も世に云う世紀末の詩情に近きが如し。繊婉にしてよく幽渺たる趣を兼ぬ。「田園の憂欝」の如き、「お絹とその兄弟」の如き、皆然らざるはあらず。これを称して当代の珍と云う、敢て首肯せざるものは皆偏に南瓜を愛するの徒か。
【附記】
中2に向けて書かれた2009年度版には、冒頭に以下のような文章があった。
新学年の最初の教材として、有名な『少年の日』を教材として扱ったが故である。
佐藤春夫。
一八九二年(明治二五年)四月九日生、一九六四年(昭和三九年)五月六日没。
小説家で詩人。評論、随筆、自伝、紀行文などを含め幅広い作品をのこした。大正五年作の小説『西班牙犬の家(すぺいんけんのいえ)』で文壇デビュー。代表作は小説『美しい町』『田園の憂鬱』『F・O・U 一名「おれもそう思う」』、詩集『殉情詩集』『わが一九二二年』『魔女』など。
「門弟三千人」(弟子が三千人もいる)と言われた大文豪だが、今ではほとんど読まれない。現代には佐藤春夫の文学を「わかる」やつが少ないようである。
まったく、けしからん。
「少年の日」は大正十年発表の『殉情詩集(じゅんじょうししゅう)』に収録。その「自序」(自分で書いた序文)には、「われ幼少より詩歌を愛誦し、自ら始めてこれが作を試みしは十六歳の時なりしと覚ゆ」(ぼくはちっちゃいころから詩や歌が好きで、自分で初めてそういうものを作ってみたのは十六歳の時だったと思う)とある。十六歳というけど、これはおそらく「数え年」で、現代の数え方とは違うから、今でいえば十四歳か十五歳だったのではないかな。つまり、みんなと同じくらいの歳。みんな詩とか書いてる?
詩。詩ってなに?……
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