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2008年度に作成、2009年度に改訂したものの新版(「いいやつ」バージョン)

 以下は、僕が二十三歳の時に書いたもので、、都内にある私立共学校の中学二年生に向けた文章の一部(改訂版)である。

(前略)
●「快か不快か」と「トクかソンか」
 子供は、「快か不快か」でしかものを考えない。「気持ちいいか、気持ちよくないか」ということである。大人はそうではなく、「トクかソンか」という、いわゆる損得勘定でものを考える。
「自分が気持ちよいか」というのが人間の基本としてあって、成長してくるとそれが「自分にとってトクか、ソンか」というのに変わる。さらに成長すると「自分や周囲の人々にとってトクか、ソンか」になって、それより行くと「世界人類や、地球や、宇宙にとってトクか、ソンか」ということを考えて、自分の利益(トクになること)をあんまり求めなくなる。そういう人は「聖人」などと呼ばれる。
 なにも「聖人」になれと言うのではないが、「せめて自分や周囲の人々にとってトクか、ソンか」を考えられるようにはなったほうがいい。それが「大人」というものなんだから。

●「大人になりたくない」という大人
 とか言うと、「大人なんかにゃ、なりたくねー」とか言い出すやつが絶対いる。「だって自分だけが気持ちよければいいんだもん」という言い分だ。そういうやつは他人に迷惑をかけてでも「自分の快楽」だけを追求するやつで、そのくせ「誰にも迷惑なんてかけていないから、いいじゃないか」と言い切ったりもする。が、ほとんどの場合それは「迷惑をかけていない」のではなく、「迷惑をかけていることを知らない」のだ。自分の行動によって周囲にどんな影響が出るか、ということがちゃんと考えられないと、そうなる。「想像力がないやつ」とは、そういうやつのことである。
 さらに言うと、「大人になりたくない」なんてことを言い出すやつはたいてい「もう大人になってしまっているが、その現実を受け入れたくない」やつで、本当の子供は、自分が大人になるなんてことを考えもしない。(興味がある人は、J・M・バリの『ピーター・パンとウェンディ』を読むがよろしい。偕成社文庫または福音館文庫の訳がおすすめ。)SOPHIAというバンドの『せめて未来だけは……』という曲に、「大人になりたくないとつぶやいている大人 子供に戻りたいとつぶやいている子供」という歌詞があるが、みっともないよね。
 中学二年生にもなってしまったら「もう半分は大人」で、実はみんなそのことに気づいてしまっている。で、どうしてもそのことを受け入れたくないやつが「大人になりたくない」とかぬかすわけだが、手遅れなのである。きみたちはもう、「半分は大人」なのだから。

●「トクかソンか」を考える
 学校の先生は、「授業中は静かにしなさい」と言う。それは「きみたちはもう半分は大人なんだから、それができるはずだし、しなければいけない」ということだ。「トクかソンか」を考えられる人は、それができる。しかし、「快か不快か」しか考えないで生きているやつは、それができない。
 きみたちは先生によって態度を使い分けている。こわい先生の授業では静かにしているし、こわくない先生の授業ではうるさくする。それは、「こわい先生に怒られると、不快だから――気持ちよくないから」だ。こわくない先生には、どれだけ注意されても、別に不快ではない。気持ちいいとまでは言わないが、特にダメージはない。だからうるさくする。「快か不快か」だけを考えているから、そういうふうに態度を使い分ける。
「トクかソンか」をまともに考えられる人は、たいていの授業で大人しくしている。「真面目にしている」ではない。「大人しくしている」だ。実は隠れてメールしてるのかもしれないし、ボーッとして話なんか聞いていないのかもしれない。友達と手紙を交換したり、小声でささやき合っているかもしれない。だけど、とにかく「大人しくしている。」なぜかといえば、「それが自分や周囲のトクになるから」だ。

●授業中うるさくすることに、トクはあるか
「自分が気持ちよくなる」とか「話し相手が気持ちよくなる」というのはある。それは「快か不快」かの領域なのだが、トクと言ってしまえば、そうでもある。しかし「話す」というのは、「うるさくしなくてもできる」ことだ。相手にだけ伝わるような小声でひそひそ話せばいいだけの話なんだから。「うるさい」というのは、「ぎゃーぎゃー話す」ということではない。「普通の声で話す」というのも、授業の中では十分に「うるさい」ことなのだ。「ひそひそ話す」ということが必要になるのは、「普通の声だとうるさい」からだ。「ひそひそ話す」ことが得意で、一度も先生に怒られたことのないような人は、「要領のいいやつ」とか言われる。「要領のいいやつ」は「快か不快か」で動く子供ではなく、「トクかソンか」で動くことのできる大人だから、「優等生」ということになって、先生にひいきされる。当たり前のことである。

●うるさくしてソンになることは、けっこうある
 まず、「自分の成績が下がる」というのが一つ。「快か不快か」というのは「いま、ここ」の問題だが、「ソンかトクか」というのは「将来、どこかで」という問題だ。未来のことを考えて「今はそんなに気持ちよくなくてもいいや、いい成績が取れればあとで気持ちよくなれるんだから」と思えるのが、大人である。はんたいに、「いま」のことしか考えられないのが、子供である。
「自分の成績が下がる」には、原因がいくつかある。「先生の話を聞いていなくて、テストが解けない」が一つ。「先生からの印象が悪くなって、成績を下げられる」も一つ。そして、「うるさいし、話を聞かない生徒が多いので、先生がいちいち注意したり、同じ説明を何度もしなくてはならなくなって、多くの時間を無駄にして、さいごには授業が急ぎ足になって、丁寧な説明をしてもらえなかったから、テストが解けない」というのもある。あるいは「誰も話を聞かないから先生がやる気をなくして、わかりやすい説明を一所懸命するのをやめて、ただ教科書を読み上げるだけのようなつまらない授業をしていたから、たまに話を聞こうと思ってもぜんぜん頭に入らなくて、結局テストが解けない」というのもある。
 気がついたと思うけど、こうなるともう「自分の成績が下がる」だけの話ではない。「周囲の成績も下がる」になる。真面目に授業を受けようとしている人にも、必ずとばっちりが来る。これが「他人の迷惑になる」ということである。
 それから余計な話だけど、きみたちが授業中にうるさかったり、成績が下がったりすると「親が恥ずかしがる」とか「学校の評判や進学率が下がる」とかいうふうに、教室の外にいる人たちもソンもする。それはひいては、「日本の将来」にも関わってくる。思いのほか大きな問題なのだ。

●もういちど「将来の話」をさせてくれ
「将来の話」なんてもう、耳にタコができるほど聞かされて、うんざりしているかもしれないけど、一度だけさせてほしい。と言っても、一度言ってわかんなかったらやっぱり何度も言わなきゃならなくなるんで、一度でわかれ。そのかわり、「もう一歩踏み込んだ将来の話」をするから。
 現実的な話、成績が下がると高校に行けなくなる。自分は行けても、「周囲の成績が下がる」というとばっちりを受けた人の中には、高校に行けなくなる人もいるかもしれない。そうでなくとも単純に、「親に怒られる」というソンをする人はいっぱいいるだろう。「成績が下がる」は、ソンである。
「うちはべつに、テストの点数悪くても怒られないし、そもそも高校なんて行けなくてもいいよ」というワイルドなやつもいるにはいる。だけどそういうやつには「じゃあなんで中学校に来ているんだ?」という疑問がわく。
 結論から言って、学ぶ気のないやつは学校なんか来なくていい。子供は学校に行く義務なんかなくて、学校に行く権利があるだけだ。それは憲法にもちゃんと書いてある。だから来なくてもいい。「親が行けと言うからしぶしぶ来る」というやつもいるだろう(親には「学校に行かせる義務」というのがある)が、だったらせめて大人しくして、他人に迷惑をかけないでいるべきだ。「一人」の権利を守るために、「ほかの全員」の権利が侵されるってことだって、あるんだから。
「学ぶ気のないやつは」と書いたが、そこで「中学校で何を学ぶのか」という問題だ。

●中学で何を学ぶか
 一つには、「要領よく生きること」を学ぶというのがある。「集団の中で、他人に迷惑をかけないで、でも自分自身も楽しくなるように生活すること」、それが「要領がいい」ということだ。それを学ぶ。これに関してはもう書いた。そしてそれ以外に、きみたちが学ぶのは「教科」だ。
 中学校にはいろんな「教科」があるが、そのほとんどが、ハッキリ言って同じことを教えている。それは、「こうだから、こうなる」という、考え方の基本だ。難しい言葉で言うと「因果関係」で、因果の因は原因の因、因果の果は結果の果だ。国語も英語も数学も理科も社会も、「こういう原因があって、その結果はこうなる」ということしか教えていない。その他の教科も、突き詰めて考えると似たようなものだ。
 たとえば、「源頼朝が鎌倉に幕府を開いたから、この時代は鎌倉時代と呼ばれる」とか、「青いリトマス試験紙が赤くなったから、この水溶液は酸性だ」とか、「英語では助動詞が来ると動詞は原形になるから、He can does it.ではなくHe can do it.になる」とか、きみたちは「こうだから、こうなる」ということをたくさん学ぶ。
「こうだから、こうなる」ということを積み重ねていくことを「論理」と言う。そして言葉とは、「論理」そのものである。きみたちがふだん何気なく使っている言葉は、すべて「この言葉はこういう意味で、こういう特徴があるから、こういうふうに使う」ということを、無意識に考えながら使われている。「この人は先生だから、敬語で話す」とか「この人は先生だけど、とても仲が良いから、かしこまった場でなければ敬語を使わないで話す」とか、言葉というものは、常にそのように「論理」的に使われているものなのである。だからこそ、「国語がすべての教科の基本だ」ということも言われる。学問の基本は論理であり、論理の基本は「言葉」にあるからだ。

●想像力のあるやつは勉強ができる
 国語がすべての教科の基本であって、「国語ができる」ということは「論理がわかる」ということと同じで、そのことはつまり「勉強ができる」にほぼ等しい。だって、中学校の勉強は、「こうだから、こうなる」がわかっていればできてしまうものなんだから。
 最初に言った「想像力」というのは、「こうだから、こうなる《だろう》」というのを考える力だ。「授業中うるさくしたら、周りの人の成績が下がる《だろう》、そうしたら他人の迷惑になる《だろう》」と考える「方法」のことだ。こういうことをちゃんと考えられる人を、「想像力のあるやつ」だと言う。
「こうだから、こうなる」というのは「論理」の基本だとさっき書いた。「こうだから、こうなる」が考えられる人を「想像力のあるやつ」というのだから、「想像力のあるやつは勉強ができるし、勉強ができるやつは想像力がある」はずだということになる。だから「優等生」と呼ばれる人たちは、ふつう授業中に「大人しくしている」のだ。
「想像力があるやつ」の中には、「だけどテストの点数は悪いやつ」というやつもいる。そいつは、「できるのにやらない、またはやり方がわからないやつ」なんだと思う。逆にテストの点数は良いのに想像力がないやつというのもいて、そいつはたぶん「ものすごい努力家」か、「暗記が得意なやつ」なんだろうと、僕は勝手に思っている。(たぶん間違っていない。)
 中学校で学ぶ大切なことは、「暗記をする力」ではない。「こうだから、こうなる」ということを考える力なんだ。中学校で「論理」の基本を身につけなければ、その先の高校、大学、そして実社会において「なにもできない」ということになる。だけどどういうわけだか、暗記さえできれば点数が取れるように、学校のテストというのはできている。矛盾してるよねえ。でも、それが日本に長年染みついた性質なんだから、今のところは仕方がない。大人になって君たちが変えて行かなきゃいけないことなんだ。だからこそ、学校や塾に任せているだけじゃいけないってもんさ。「自分の頭で考えろ」っていうの。
 
●さあ、想像力を働かせてみよう。
 さて。きみたちは国語ができない。そのことはきみたちの書いた作文を読めばよくわかる。きみたちの書く作文の中では、言葉が「論理的に」使われていない。ぐちゃぐちゃだ。「これはこういう言葉だから、こういうふうに使う」ということがわかっていないから、そうなる。テキトーに、雰囲気だけで言葉を使っちゃうから、「文法がおかしい」みたいなことを言われる。「文法」というのは、言葉を「他人に伝わるもの」として成り立たせるためにあるもので、「これはこういう言葉だから、こういうふうに使うんだよ」ということが定められたルールブックのようなものだ。つまり、「こうだから、こうなる」という、論理そのものなんだ。
 論理ができない=国語ができない=作文が書けない、ままでいると、どういうことが起こるか。さあ、想像してみよう。
 作文が書けないと、困ったことになるんだ。次に、僕が中学三年生のために書いた文章の一部を引用してみよう。
(中略)
 っていうふうに、想像するといろいろなことが見えてくる。もっともっと想像力を働かせると、もっともっと恐ろしい未来が見えてくる。そう、想像力っていうのは「こわい」んだ。

●想像力から逃げてはいけない
「勉強する」ということは、「覚える」ことと「思考する」ことが基本にある。「覚える」とは、冒頭(ぼうとう)で言った「考えるための材料」を蓄え(たくわ)ることで、「思考する」とは、「考えるための方法」を練習することだ。この二つが合わさった「考える」ということができるようになると、そこに「想像力」は生まれる。でも、君たちは「勉強」はしているはずなのに「想像力」がない。というか、「想像力」を働かせることを拒否している。なぜか?
 想像力を働かせると、「この気持ちいいだけの状態を続けていてはいけないんだ」ということがわかる、「このままだとあとで、困るんだろうなあ」ということがわかる――いや、わかって「しまう」。だから、きみたちは想像力を働かせない。考えることがこわいからだ。「将来」という現実から逃げて、ただ楽しいだけの状態を続けていきたいからだ。しかし、「もう半分は大人」であるきみたちは、そんなのんびりとしたことは言ってられない。本当は、考えなきゃいけない。想像力から逃げてはいけない。「自分の頭でものを考える」ということに、挑戦しなければいけない。
(後略)



【ここからは、「現在」の僕の文章である】
 学校の先生や、偉い人はよく「想像力を持ちましょう」なんてことを言うが、それが具体的にどういう意味であるかはあまり説明されない。そこんところを僕なりに表現してみたのが右の文章である。二十三歳の若造が、中学二年生に向けて書いているので、荒っぽかったり、言葉の強めなところもあるが、誠実に書いているなと今読み返しても思う。
「中学校で何を学ぶか」ということについての僕なりの意見はここにだいたい書いてある。それでは、高校生である君たちは、ここで何を学ぶのだろうか?
 たぶん、だいたい同じである。やはり「考えるための材料」と、「考えるための方法」を学ぶのだ。知識と、思考法。
 では、知識と思考法を身につけることに、何のトクがあるのだろうか?
 僕は、人生とは「判断」のくり返しだと思う。朝、眼を覚ませば、まず自分が今日という日を生きるかどうかを決める。学校に行くかどうかを決める。ご飯を食べるかどうか、歯を磨くかどうか、お手洗いに行くかどうかを決める。制服のリボンを何色にするかを決める。一日の中で、僕たちはおよそ無限に「判断」ということをする。その中には、どうでもいい判断もあれば、重要な判断もある。
 たぶん「考える」というのは、この「判断」のために行われるものなのだ。人は、何かを決定するために考えるのである。考えることの得意な人は、判断することも得意。判断が得意だと、人生を上手に生きていくことができる。これはたぶん、間違いのないことだ。
 どんな判断を迫られても、「考える」というワザを使って、切り抜けることができる。そういう人間を「賢い」とか「りっぱ」とか言うのだと思う。学校の勉強というのは、そのための力を磨くためにするのだ。
 一見、生活に関係のなさそうな数学なり古典なりといった分野も、筋トレのように「賢さ」を磨いてくれる。筋肉をつけないと走れないのと同じように、頭にも筋肉のようなものがあって、それをしっかりと鍛えれば、「考える」がうまくなる。優れた「判断」をできるようになる。そういうものだ。
 そしてこういう能力をこそ、「教養」と言うのだと僕は思う。知識があるだけではなくて、それを使って考え、判断に生かすことができる。それが教養だ。
 教養という言葉を調べると、ある辞書には「心の豊かさ」と書いてあった。たぶんそういうことだろう。教養というのは、「いいやつである証」なのだ。賢いということは、想像力があるということで、想像力があるということは、思いやりと知恵があるということ。つまり、心が豊かだということだ。
 僕はそう思っている。
 だから、「学校の勉強って何のためにするんですか?」と問われた時の、僕の答えは決まっている。
「いいやつになるためだ。」
 僕はいいやつになりたくて、大人になった今でも、勉強を続けている。本を読み、人と会い、どこかへ行って、何かを見ている。いいやつの周りには、いいやつが集まるので。

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