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無題です。ファイル名は「最後の授業で配るやつ.jtd」
今は二〇一六年一月三十日、午前四時五六分です……。と、スマスマ生放送のキムタクみたいなことを言っておりますが、要するにギリギリのタイミングでこれを書いています。これが皆様にお配りする、最後の紙となります。おそらくは非常に少数ながらも、このような紙を好いてくださっている酔狂な方もいらっしゃる、ということが判明いたしましたので、なにか、書いてみます。
こんな時間まで寝られないでいるのは、ひとえに、このほんの数日ほどの間にあった、僕のプライベートにおける事情がすべてです。いやなことがあったわけです。それはあまりに大きなできごとで、夏目漱石の『こころ』でいったら、「私」(青年)が叔父さんに遺産をごまかされたとか、「K」が自殺をしてしまったとか、そういったレベルの話です。それで僕の精神はここ数日間、正確にいえば二五日の月曜日の夜くらいから、ずたぼろなのです。ずたぼろのまま、教壇に立っていたし、今日だって数時間後には立つわけなのです。
だけど僕はいちおうプロフェッショナルなわけですから、できるだけそのようなことを仕事に影響させることなく、やっていたし、今日だってそうしようと思っています。先日の『こころ』の朗読が鬼気迫るようなものに見えたとしたら、別にそれが理由でもなんでもなく、僕が演劇経験者であることや、こないだ翻訳家の柴田元幸先生による朗読を聞いて触発されたという、わりとわかりやすい理由によるものです。
この数日間、僕の心は常に泣いているというか、死んだようなものでした。しかし大人というものは、そういうことを仕事に影響させてはいけないものなのです。それで僕はじつにがんばって、学校にいるうちはできるだけそのことを忘れていようと努め、ある程度の成功を収めたというわけです。本当はずっと泣いていたいし、なんなら『こころ』にも描かれた、あの最も恐ろしい行為にさえ手を染めてしまいたくなっているのです。もちろん実行はしやしませんが。
ここで僕は、「どうだ偉いだろう」という自慢をしたいわけでは、もちろん、ありません。ただ、「ほとんどいつも通りにしているような誰かが、じつは物凄く落ちこんでいたり、精神的にずたぼろになっていたりすることがある」、ということを強調したくて、わざわざこんな話をするのです。
人にはそれぞれ事情があります。どんな事情かは、他人にはわからないものです。人はいつも同じ精神状態にあるわけではありません。
『こころ』の「先生」は、あるいは「K」は、どうして自らの命を絶とうとしたのでしょう? わかりきっているようで、じつはよくわかりません。それは、読者であるわれわれも、作者である夏目漱石も、正確にはわからないと思います。
人にはそれぞれ事情があって、それを正確に推しはかることは誰にもできません。時には本人でさえも、なぜ自分が悲しんでいるのか、わからないことだってあるのですから。
だから人には、どんな事情でもあるかもしれないのです。どんな事情かはわかりませんが、いつだって誰だって、なんらかの事情を抱えているのかもしれない、そう考えることは、できます。だいたい、いっさいなんの事情も抱えていない人間など、いやしないのです。
人にはそれぞれ事情がある。それがどんな事情かはわからないが、何かしらの事情が必ず、ある。それを想像することは、とても大切だと思います。「想像力」です。これは、とても大切なものです。
僕は数日間、ものすごく重たい気持ちを隠して、仕事をしていました。それはけっこうしんどいことです。しかしそう言ったところで、生徒からすれば、「そんなん知らねーよ」「大人のくせに甘えんなよ」「給料もらってんだから当たり前」「人生ってそういうもんでしょ」「あたしらだってさ」と、きわめてもっともな感想が出ることでしょう。すべてその通りです。
でも、もしも少しでも、「そうだったのか……」と驚いてくれるなら、心にとどめておいてください。誰にだってそういうことはあるのだ、と。
隠すことが僕よりもずっと上手で、いつでも元気そうにしているような人でも、じつはものすごく巨大な事情を抱えている、そんなことがあることを。
この「想像力」は、もしかしたら僕のよく言う「いいやつ」であるための条件、そのものなのかもしれません。
想像力なんです。
月曜日に放送された『しくじり先生』というテレビ番組に、松本明子さんという方が先生として出ていました。松本さんは極度の「自己中」で「KY」で、そのために芸能界を二年干され、息子からは三年も無視されていた、とのことでした。松本さんは自分が「自己中」であるということに、五十歳手前まで気づけなかったそうです。相手のために、よかれと思って、していたことが、じつは独り善がりな、相手のいやがる行為でしかなかった、なんてこと、ばっかりだったそうです。
たとえば、思春期になった息子に対して、むりやり抱きしめたりマッサージしたり、しつこく話しかけたり、服も自分のセンスで買い与え、GPSで常に居場所を確認し、徹底的に束縛して、過剰に愛して、ついに「一生俺に触るな」と言われたそうです。それで松本さんはスキンシップをやめるのですが、かわりに、眠っている息子の顔を舐めたりするようになったそうです。何という恐ろしいお母さんでしょう……。
でも、松本さんは四九歳くらいになって気づいたんですね。「あ、これって自己中ってことなんだ」と。相手のために、息子のために、そう思ってやってきたことが、じつは全然、「ために」なんてなってなかったんだ、と。
そして松本さんは言います。
「相手の立場になってものを考えるのが大切だ」。
けっこう、当たり前の話かもしれません、そんなこと。「私は大丈夫だよ」「ちゃんと相手の立場になって考えてるよ」そう思うかも知れませんが、果たしてそうでしょうか……。さっき書いたように、人の事情というのは、ほかの人にはわからないものなのです。わからないので、本当は、「相手の立場になって」というのは事実上、不可能なのです。
「相手の立場になって考える」はもちろん、最も大切なことです。しかし、「相手はきっとこう考えているだろう」と予想するのは、禁じ手です。それは「自己中」同然です。
「相手の立場になって考えることなんて、本当はできない」と思うことが、じつはいちばん大切なのかもしれません。「本当はできないけど、精一杯想像してみる」、というのが、せいぜいのところなのではないだろうか、と、僕は思います。
運転免許を取りに行くと、けっこうな率で教えられることとして、「だろう運転」と「かもしれない運転」というのがあるといいます。
「きっと車は来ないだろう」「歩行者はいないだろう」という態度で運転していると、事故を起こすというのです。だから、「車が来るかもしれない」「歩行者がいるかもしれない」と心がけることが、安全運転だ、という話です。
「だろう」というのは、想像力ではないのです。「想像をしてみた」という、雑な事実があるだけです。だって、「だろう」というのは、想像の結果が一つしかないからです。それは貧しいことかもしれません。「だろう」は妄想なのです。「あの人は私を好きなのだろう」と思い込むと、問題が起きます。「俺のことずっと見てたじゃん、好きなんだろ?」と言って強引になにかしてくる男というのは、実在します。
対照的に、「かもしれない」というのは、想像力です。想像した結果が、たくさんであるほど、「想像力が豊かだ」という話になります。こっちは「妄想」ではなくて、「空想」のほうが近いかもしれません。楽しい雰囲気がしますね。
誰かと接する時、「もしかしたら今日は落ちこんでいるかもしれない」と、思えることは、優しさなのではないかと思います。ただ、「きっと落ちこんでいるだろう」と考えてしまうと、決めつけになってしまいます。ここは難しいところです。
三学期は、『こころ』という作品を扱いました。この作品の話をすると、「先生」と「K」が、なぜ自殺しようとしたのか、ということが、必ず話題になります。そこに答えはありません。「こうだろう」と言えることは、ないです。この百年のあいだに、ひょっとしたら何千万人もの読者がそれを考えてきて、「これだ」というものがないのです。しかしその何千万人に及ぶかも知れない読者は、それぞれに「こうかもしれない」という思いを、ひとつ、あるいはいくつか、抱いたと思います。その「かもしれない」をどれだけ生み出してきたかが、文学作品の価値――そんなものがあるとしたら――を示す、ひとつの指標なのではないかな、と思うことがあります。
「だろう」は可能性をふさぎ、「かもしれない」は可能性を広げます。無限の可能性をはらんだ、空想の世界に羽ばたく大きな翼、それが「想像力」というものだと、思います。そしてそれはきっと、「優しさ」につながるものです。
だから僕は、本を読むってのはいいもんだな、って思ったりもするんです。たくさんの「かもしれない」を、想像することができるから。
教壇に立つ先生を見たら、想像してみよう。「昨日はいいことがあったのかもしれない」「いやなことがあったのかもしれない」……それだけでなく、「先生は昨日、奥さんとけんかしたかもしれない」「お酒を飲みに行ったかもしれない」「いつも無愛想だけど、本当は生徒のことが大好きなのかもしれない」「いつも笑顔だけど、心の中ではどす黒いことを考えているのかもしれない」「イチゴが好きかも」「女装してるかも」「鼻血が出やすいかも」などなど。なんでもいいです、考えることが、想像力を鍛えます。もちろん、それを口に出したら、戦争になることもありますが、黙っているぶんにはタダです。失礼なことを考えてしまったら、「失礼なことを考えちゃった」と、舌を出しましょう(ローラみたいに)。それでいいです。それで想像力が育つのであれば、どんどん練習しましょう。
人には、あらゆる可能性があります。それを「だろう」でつぶしては、だめです。「かもしれない」ならば、「そうじゃないよ」と言われても、「じゃあ、こう?」って言って、べつの「かもしれない」を差し出すことができます。それをくり返して、人と人とはわかり合っていきます。
僕が、ずっとファンだったある歌手の方と友達になった頃、ネットや週刊誌にその歌手を批判する言葉がよく載っていました。そこに書かれていることの大半は、事実ではないデタラメでした。そのデタラメを信じた人がまた、その人の悪口を言います。それで僕はいきどおって、兄に「なんでよく知りもせずに、あんなヒドイことが書けるんだろう?」と言いました。「有名人の友達がいないんだろ」即答でした。
そうです。僕はすでにその人と友達になっていて、つまり「有名人に友達がいる」という状態だったから、わかったのです。有名人に友達がいると、「有名人も人間なんだ」ということがわかります。すると、「間違ったことで悪口を言うと申し訳ない」という気持ちが働いて、軽はずみにものを言えなくなり、「そもそもこの話は本当なのだろうか?」と疑うことができます。しかし有名人を人間だと思っていないと、そういう想像が働かないようなのです。報道を平気で信じて、「松本人志が中居くんに、キムタクにあやまれって言ったって」なんてことを、無邪気に言います。松本さんはその記事を、完全に否定しましたね。もちろんその否定すら、嘘かもしれないのですが、それを書いた週刊誌は謝罪しました。
「こうだろう」という決めつけに、「そうじゃないかもしれない」と思えるのは、本当に高級なことです。いきなりビンタされたとき、相手を殴り返すより先に、「もしかしたら顔に毒サソリがついていたのかも」と思えたら、世の中から暴力が一つ減りますね。もちろんその後に追撃が来たら困るので、どのみちガードは必要だと思いますが。
学校の先生も同じなんです。先生も人間です。大学とかに行ったら、それをいつも考えていてください。あなたが私語をしていたら、先生は傷つくかもしれないんです。傷つきそうにない顔をしていても、家に帰ったら泣いているかもしれない。そういう想像力は、大切だと思います。「優しさ」です。
おしまいに。みんなにとってこの学校は、通過するだけのものだと思いますが、しかし確かに通過した場所です。踏みしめた場所です。大切にしてください。僕のことは、忘れてもいいですが、もし必要になったら、いくらでも利用してくれて構いません。僕自身、高校時代の先生と連絡を取ったり食事に行ったりすることはよくあります。先生も卒業生も、人間なのですから、人間同士の付き合いを、好きなようにすればいいのです。もちろん、節度と礼儀はもったうえで。ほかの先生たちもきっと、嫌な顔ひとつせず、にこやかに応対してくれることと思います。みんな人間なので。
「じゃあね あとで寄るよ」(少年Aの散歩)/<ここにフルネームを入れていました>
追伸 僕の友達の名言で、「想像力を超える現実はない」というのがあります。あらかじめ徹底的に想像しておけば、現実はその範疇に納まる、ということです。想像力を鍛えておけば、「事前に心配していたことよりも悪いことが起きる」ということは、なくなるわけです。これも想像力の、効用の一つ。
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