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本文が長いのではじめに解説を。この文章は「李徴が虎になった、という解釈は果たして妥当か?」ということの検証が肝です。「教師用指導書」は、「虎になった李徴は〜」などと平気で書いてくるし、多くの先生がそう教えていると思います。定期テストでも「李徴が虎になった理由を〜」みたいな問題がよく、作られると思います。しかし、『山月記』を注意深く読んでみると、李徴が虎になったという決定的な証拠は(僕のみる限り)ないと思います。そのあたりのことを書いています。無駄話が非常に多いので、お急ぎの方は飛ばしながらどうぞ。

『山月記』について(物語の読み方・疑い方)

 暇な人は読んでみてください。暇じゃない人は、どこかに仕舞っておいて、十年後くらいにまた『山月記』を再読するとともに、こちらも目を通してみてくださいな。



【第一部 青春期の「絶望と焦燥感」】

●『山月記』が人気の理由
 中島敦『山月記』は、中学・高校で扱われる小説の中でも、『走れメロス』『こころ』『舞姫』に次ぐくらい人気が高い。これまでさまざまな活動を重ね、また飲み歩いたりする中で、たくさんの人と出逢い、ふれあってきたが、この四作品は本当によく話題にのぼる。『檸檬』『高瀬舟』『山椒魚』『城の崎にて』『羅生門』『オツベルと象』『富嶽百景』……これらはそのあとに来るだろう。
『山月記』の人気の理由は、文体の格好良さ、若くして死んだ作者のプロフィールと顔、など色々とあるだろうが、やはり「共感」というところが大きいはずだ。思春期の少年少女たちに、「わかる……」と思わせる力が、『山月記』にはある。「ああ、李徴の言っていること、自分にも心当たりがある!」と、『山月記』を読んだ子供たちは、自分と李徴とを引き比べ、反省をする。そして「自分はどのように考え、生きていったらいいか」を考えたりもする。
 教える側の大人は、これを「若者が自身の姿を振り返り、反省するための格好の機会」として見る。自分がわざわざ説教を垂れなくても、『山月記』を読むだけで勝手に反省してくれるのだから、楽なものだ。たぶんそういうわけで、長らく(もう何十年も)『山月記』は国語の教科書に掲載され続け、実際に日本のほとんどの高校で扱われているはずだ。

●「共感」のポイント
 特に若者の共感を呼ぶのは、たとえばこんな場面である。
(引用部は軽く読み流してください。)

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。(中略)今思えば、全く、己は、己の有っていた僅かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。

「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰」(自分に才能がないことがバレてしまうかもしれないという卑怯なおそれと、努力することを面倒くさがるなまけ心)……ここに、若者は「心当たり」を感じる。自分の身を振り返る。「自分が今ひとつ『がんばれない』ことの原因は、ひょっとしたらここにあるのではないか?」と。
 僕は女の子であったことがないので女子のことはよくわからないが、少なくとも男子は、そういうことを考える傾向にあると思う。「努力してみてダメだったら、もう絶望するしかない。だから努力したくない。」という気持ち。小説家・漫画家・ミュージシャン等を志望する人間に非常に多く見られる。受験生にも多い。恋愛でもそうだ、「告白してみて断られたら傷ついてしまう。だから告白しない」というのも似ている。(これは女性からも非常によく聞く。)

必要なのは「絶望と焦燥感」
『G戦場ヘヴンズドア』という漫画がある。現在は『少女ファイト』というバレーボール漫画を描いている日本橋ヨヲコ先生の大傑作だ。主人公は漫画家を目指す二人の男の子。そのうちの一人が、ある雑誌の編集長から言われるセリフに、こんなものがある。

かわいそうになあ。気づいちゃったんだよなあ、誰も生き急げなんて言ってくれないことに。なあ。見ろよこの青い空白い雲。そして楽しい学校生活。どれもこれも君の野望をゆっくりと爽やかに打ち砕いてくれることだろう。君にこれから必要なのは絶望と焦燥感。何も知らずに生きていけたらこんなに楽なことはないのに、それでも来るか、君はこっちに。

 クリエイター、すなわち何らかの作品を「創る」職業は、「絶望と焦燥感(あせり)」に向き合わなくてはやっていけない。この編集長はそう言っているのだと僕は感じる。絶望から逃げようとすれば、結局何もできないまま終わってしまう。青い空、白い雲。人生は素晴らしい。学校生活を眺めればそこに「青春」がある。楽しいことならいくらでもある。それなのになぜあえて、「絶望」なぞと対面しなければならないのか?しかし、ものを創る人間というのは、その「絶望」に立ち向かってこそ、良いものを生み出せるのである。絶望を目の当たりにして、焦燥感に駆られてこそ、人は動き出すのだ。

天才とは
 もちろん、絶望など一切抱かずに、ただ「楽しい」というだけで素晴らしい作品を創り続けられる人間もいる。それはおそらく天才というものだ。天才とはおそらく、何の理由付けもなしに、まるで呼吸をするかのように努力をし続けられる人間のことである。凡人が名を成そうとすれば、努力のための理由付け、すなわち「努力のための努力」が必要なのかもしれない。
 これは、スポーツや勉強など創作以外の分野でも同じことが言える。自分よりできる人間と出会ったり、高い目標と向き合って、そこに「絶望」を感じてこそ、「焦燥感(あせり)」が生まれ、「もっと努力しよう」という動機付け(モチベーション)が生まれる。そして天才というのは、そんな動機付けなど一切なしに、涼しい顔をして、あるいはとても楽しそうな顔で、トレーニングや勉強をこなし続けられる人間のことなのではないか、という気がする。
 野球の大天才といえば日本では誰を置いてもイチローだが、彼が並外れた努力家だということはよく知られている。彼に「絶望と焦燥感」がどれほどあったのか、あるいは、なかったのか。それはわからないが、とにかく彼は「並外れた努力」をすることができて、それゆえにあれほどの成績を残し続けている。
「Genius is one percent inspiration and 99 percent perspiration.(天才は一%の霊感と九九%の発汗)」と言ったのはトーマス・エジソンである。彼がどういう意味でこう言ったのかはいまいちわからないところがあるが、「一%の霊感(ひらめき)さえあれば、そこに九九%の発汗(努力)を積み重ねて、天才的な働きをすることができる」というような意味だと言われている。僕なりに解釈するならば、「天才とは、たった一%のひらめきに対して、九九%ぶんの努力を(大した苦もなく)積み重ねることができる人間のことだ」となる。
 そうするとつまり凡人とは、「ひらめきがあっても、努力できない人」とか「そもそもひらめきがない人」ということになる。
 李徴は、どうだっただろうか。
 李徴は一般的に、「努力から逃げた」人間だと解釈される。彼が自分でそう言っているからだ。彼は「絶望と焦燥感」と向き合うことを嫌がった。「自分には才能がある」と思いたいがために、「本気を出す」ことをためらっていた。

ミュージシャン志望の男の話
 ある男が、「おれはミュージシャンになる。CDをつくる」と豪語した。ところが、三年経っても四年経ってもライブすらせず、「CDつくるつくる詐欺」を続けていた。「絶対に名作をつくる」とだけ繰り返して、具体的に何かをつくるということはなかった。それは僕の友達の大学時代の彼氏だったのだが、やがて二人はお別れし、女の子のほうはケッコンして幸せそうに暮らしている(※2017年3月現在)。
 よく話を聞くと、この男が本当に何もしていなかったわけではない。曲を作るには作っていたらしく、それを見て彼女は「一応やってるんだ」とは思ったそうだ。しかし男は、彼女に曲を聞かせるでもなく、「いい曲になりそうだ」とだけ言っていた。だが、曲はできなかった。どうやら彼は、「うーん、やっぱりこの曲はいまいちだな」とか「ちょっと演奏がよくないから作りなおそう」といったふうに、作ってはやり直し、を繰り返していたようだ。
 彼は理想が高かった。「自分にはいい曲が作れるはずだ」とだけ思って、実際に作ったものがその理想に遠く及ばないと、「こんなはずじゃないのにな……」と、それを破棄した。他人に聴かせることもしなかった。まさしく、「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧」である。あまり良くない曲を作って、それを人に聴かせてしまったら、「才能がない」と思われてしまう。それは断固として避けたい。だから彼は、「いい曲」が出来上がるまでは、他人に、彼女にすら、曲を聴かせることができなかったのだろう。
 この彼に「刻苦を厭う怠惰」があったかどうか、僕は知らない。ひょっとしたら、努力家ではあったのかもしれない。ただ彼に決定的に不足していたのは、おそらく「絶望」と向き合うことである。だから「焦燥感」に駆り立てられもせず、三年も四年も、「大学生活」というぬるま湯の中で、ひたすら「ミュージシャンになるぞ」とだけ想い続けたのだろう。

「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」
 李徴は、「詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。」と言う。そしてその気持ちの源を、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉で表現した。
 自尊心というのは、自分を尊ぶ心のことだ。自分を大切にする心。これがなければ、人間は壊れてしまう。自尊心が育っていなければ、自らを傷つけることに対して平気になってしまう。
 ただし、逆にこの気持ちが強すぎれば、それは「臆病さ」を呼び込む。自分を大切にしたいと思うあまり、傷つくことを過剰に恐れる。傷つく可能性のあることを、一切できなくなる。一歩踏み出す勇気、それがなくなる。けなされることを思うと、作品が発表できない。失敗することを思うと、チャレンジできない。フラれることを思うと、告白できない。
 他方、羞恥心とは、恥ずかしがる心のことである。尊大とは、「いばって、他人を見下げるような態度をとること」と辞書にある。えらそうな様子のことだ。「自分には才能がある」「自分はいい曲を作れるはずだ」「俺は他人とは違うんだ」そういう心持ちのことをさしている。
 そう思っている人が、もしも「自分の才能のなさ」に気付き、それが周囲にもバレてしまったらどうなるか? もちろん「恥ずかしい」である。そんな事態は、できれば避けたい。だから、えらそうに、「俺には才能がある」と思い込んだり、そのような様子を周囲に見せたりして、気づかないように、バレないように、気を遣うのだ。「恥ずかしい」という最悪の事態を避けるために、「尊大」な態度を貫くのである。
 以上が、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の僕なりの解説だが、もっと僕なりの言葉に置き換えるならば、それは「絶望から逃げようとする心」である。

絶望の“望”を信じる。
 100s(ひゃくしき)というバンドでも活躍する中村一義という歌手は、『魂の本』(名盤『太陽』に収録)という曲の中で、こう歌う。「ただ僕らは絶望の“望”を信じる。」
 望みが絶たれるということは、絶たれる前、そこには望みがあったということである。絶望を凝視すれば、本来あった「望み」が浮かび上がって見えてくる。僕はそう思う。絶望は怖がるものではなく、希望を探すための道しるべなのかもしれないのだ。
 高校生の時、ある女友達が言った。「よく死にたいと思う。」僕は驚いたが、その後に続いた言葉で、ぐっと胸を詰まらせた。「でもそれは、生きたいことを確認するためなんだ。」
 生きたいと確認するために、死ぬことを思う。彼女はいつも、自身に問いかけていたのかもしれない。「私は本当に生きたいのか?」と。そのために彼女は、「死にたい」と思ってみていたのだ。そしてそのたびに、「ううん、そんなことない」と思ったり、「だけど、死ねないよね、やっぱり」と思ったり、したのだろう。それは決して強くなんかない彼女なりの、生きる努力だった。彼女は絶望を見つめて、そこから「望」をすくい取ろうとしたのだ。


【第二部 『山月記』の解釈をめぐる冒険】

テストが終わり、きみたちは自由になる
 以上が『山月記』における、思春期の少年少女が共感する(であろう)ポイントについての僕なりのまとめである。これを読んでいるみんながどう思うか、それは知らない。もうテストも終わったわけだから、それぞれ好きに解釈して構わない。そう。小説には「解釈」というものがつきものだ。ここからはそれについての話をしよう。

学校で、『山月記』はどのように教えられるか
「指導書」と呼ばれるものをご存じだろうか。教科書の内容を解説した本で、学校の先生はこれを参考にして授業をする。そこにはいったい、どんなことが書いてあるのか。東京書籍と筑摩書房と、二種類の指導書を参照していこう。教科書にもいろいろ種類があるのと同じく、指導書もそれぞれ書いてあることが違うのである。
 東京書籍版の「単元設定・教材選定の理由」という部分には、こうある。(以下、引用は適当に読み流すこと。)

「山月記」は、人が虎に化すという虚構の手法によって主人公の内面の苦悩を追究し、人間の真実の姿を描く一つの世界を作り出している。学習者である高校生は、今まさに自己形成の途上にある。自分とは何か、何になれるのか、何になりたいのか、などといった問題を真剣に考え、自己を模索しているはずである。そのような生徒が、主人公李徴の苦悩と孤独やその生き方にふれることは、何かしら自己形成のうえで資するところがあるだろう。また李徴だけではなく、その友人たる袁サン(人偏+參)の生き方や感じ方を考えてみることで、更に人間関係への理解を深めることができるだろう。

 筑摩書房版の「教材編集の意図」には、こうある。

『山月記』の主人公が虎になったのは、妻子への愛がなかったからだ、自身の猛獣のような自我、自意識が外形として現れたからだと考える生徒は多い。李徴自身がそう捉えてもいるのだから、当然のこととも言える。しかし、よく読めば、李徴の考えは何度も変わり、どの答えも李徴の想像でしかないことがわかる。ここで重要なのは、虎になった原因より、虎になったことで、李徴は何をどう考えたのかということである。突如現れた不条理を前にした人間のあり方と心情、苦悩と葛藤が見事に表現された本作品をとおして、小説の面白さと深さを生徒に感じ取らせたい。

 こういうことをねらって、学校はきみたちに『山月記』を読ませるわけである。さすがに指導書も現代的になって、「一つの解釈の押しつけ」にはならないよう、配慮されているようだ。というのも、一昔前までの(恐らく、今もかなりの割合で行われていると思われるが)『山月記』の授業は、かなり道徳的な押しつけが横行していたようなのである。
「李徴はなぜ虎になったのでしょうか?」「それは、李徴が自分のことしか考えない、邪悪な人間だったからです。」「なぜ、李徴の詩は超一流ではないのでしょうか?」「それは、李徴が自分のことしか考えない、邪悪な人間だったからです。」……これはちょっと大げさかもしれないが、たとえばこのような解釈を押しつけるような授業が、かつては平然と(たぶん今でも)行われていて、それをテストに出題し、生徒たちに書かせて恥じなかったのである。
 しかし、李徴が自分のことしか考えていないとか、あるいは本文に即して言えば、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」とを持っていたとかいうのは、筑摩書房版の引用部にもあるとおり、すべて李徴が自分で述べているにすぎない。本当にそうなのかというと、わからないのである。
 ここには、「人の言うことを、どれだけ信用してよいか」という、第一部で述べた内容よりも遙かに巨大な問題がある。

教科書の「一人称小説」の多さ
 冒頭で、いくつもの小説のタイトルを挙げた。このうち、『こころ』『舞姫』『檸檬』『城の崎にて』『富嶽百景』は、「一人称」という文体で書かれている。つまり、地の文の主体が「僕」とか「私」とかになっているものだ。『走れメロス』の書き出しは「メロスは激怒した。」である。一方、『檸檬』の書き出しは「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧(おさ)えつけていた。」とある。「メロスは」という書き方は「三人称」と呼ばれ、「私の」という書き方は「一人称」と呼ばれる。
『こころ』の教科書に収録された部分は、「先生」と呼ばれる人物の「遺書」とされていて、当然主体は「先生」であり、「私」という一人称で書かれている。『舞姫』は豊太郎という人物が船の中で書いた手記(辞書には「自分の体験やそれに基づく感想を自分で文章に書いたもの。」とある)とされていて、これまた「余」という一人称で書かれている。
『こころ』と『舞姫』は、日本を代表する大文豪の双璧、夏目漱石と森鴎外による作品で、教科書に載る小説の中で最も人気のある二本だと言っても過言ではない。これに匹敵するものがあるとしたら『走れメロス』くらいである。(ところが、どういうわけかこの学校ではこの二作を授業では扱わないので、がんばってどうにか読んでみてください。やや難しいけど、名作だし、常識だし、教養です。読んでおくと、得することがあるかもしれない。それに授業でやらないということは、真に自由に読めるということでもあるので、むしろ喜ばしいと思って。
 ※追記:この年は『こころ』をむりやり扱い、翌年度はがんばって両方やりました。)

語られたことが真実とは限らない
 さて、一人称小説を読む際には、注意すべきことがある。それは、「これは語り手がそう言っているだけで、すべてが真実とは限らない」ということである。
 たとえば、『舞姫』のラストは、このように結ばれている。「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり。」これは、「いろいろあったけど、全部相沢が悪い」という意味にも解釈できてしまう。この物語の中で主人公の豊太郎は、まあ簡単にいえば「出世のために女を捨てる」というようなことをするわけだが、その責任をすべて、親友の相沢という男に押しつけている、というようにも見えるわけである。
 そうすると、「主人公はなんのためにこの話を語っているのか」ということを考えたとき、「ああ、なるほど、自分は悪くないってことを主張したいのか」という感想にもなる。だとすると、『舞姫』がすべて豊太郎による語り(手記)である以上、そこに書かれていることは、彼が自分の都合の良いように書き換えている可能性が出てくるわけである。
『山月記』における李徴の語りも、同じように、どこまで本当かわからない。

『高瀬舟』の喜助は嘘つきか
『山月記』の話に入る前に、もう一つ例を出そう。すでに授業で読んだことのある人も多いだろう、『高瀬舟』という作品だ。読んだことのない人は軽く読み流していただきたい。これは、弟を殺して罪に問われた喜助という男が、自分を護送する庄兵衛という役人にむけて、殺人の詳細について語るという筋である。安楽死の是非、というテーマで語られることの多いこの作品だが、それとは別に、一つの持論が僕にはある。それは、「喜助が言っていることはほとんど嘘なのではないか」というものである。そういう視点であの小説を読み返すと、怪しいところがたくさん出てくる。喜助の話は条理が立ちすぎている、とあるのだが、それは「嘘を語っているうちに、それを本当だと思い込んでしまった」ということなのではないか、と思えてくるのである。
 詳細を語る余裕はないが、芥川龍之介の『藪の中』という小説は、『高瀬舟』への一つのアンサー(答え)になっている気がする。芥川は実際、『高瀬舟』を意識してそれを書いたのだと僕は思っている。名作なので、ぜひ読んでみてほしい。(詳しい話が聞きたければ、たずねてきて下さい。)

李徴の言うことは信用できるか
『山月記』の読者が忘れがちなところに、李徴は「発狂した」のだ、ということがある。

彼は怏々として楽しまず、狂悖の性は愈々抑え難がたくなった。一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿った時、遂に発狂した。或る夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駈出した。彼は二度と戻って来なかった。

 これは地の文で、語り手が言っていることなので、かなり信頼のおける情報だといえる。こういう「三人称小説」の場合、語り手はすべてを知り尽くす神のような存在であって、決して嘘はつかないものだ、というのが小説の暗黙の了解としてあるのだ。
 この時の状況を、李徴自身が語っている箇所もある。

今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。

 語り手の、客観的な視点からは「発狂した」とあるが、李徴自身は「我が名を呼んでいる」「声に応じて」「覚えず」という言葉で表現しているだけだ。当たり前だろう、発狂した人間が、「自分は発狂した」と認識できるわけがない。
 僕はもちろん、李徴の言い分よりも、神のような視点を持った語り手による言葉を信じる。李徴は発狂したのだ。誰かに呼ばれたというのは、発狂した李徴の妄想であると考えたほうが、僕には納得がしやすい。
 ちなみに指導書の解説には、こうある。

「誰か」とは、本文の記述からは定かではないが、理由もなく運命を押しつけるもの、超自然のもの、超越者などが想定される。(東京書籍版)

この声の正体ははっきりしないが、後の記述からすれば生きもののさだめを司る「神」や「運命」と言えよう。(筑摩書房版)

 どちらも僕の意見とは違う。超越者? 神? いや、それは李徴の心の声であろう。そう僕は思う。もちろん、どの解釈が正解ということはない。僕はこう思う、指導書を書いた人はこう思っている、それだけのことだ。
 李徴の「発狂」は、おそらく「幻覚・幻聴・妄想」を伴ったもので、そういう病気は実際にある。聞こえるはずのないものが聞こえる、というのは、小説でなくともあり得ることなのだ。
 また、古代の人間は、自分の頭で考えたことを、神の声として認識していたのではないか、という説がある。そう考えると、世界中のどの文化にも「神」のようなもの(超越者)が存在している、という事実もうなずける。神の声を聞く預言者たちも、本当はすべて自分の心の声なのに、それを「自分の考え」と「神の言っていること」とに分けて捉えてしまっていたのかもしれない。そういう人間の意識が、神という存在の源なのかもしれないのである。(もちろん、神というものが具体的に存在するという可能性も、否定はできない。)
 さて、語り手によって「発狂した」と言われる“登場人物”の言葉を、どこまで信じることができるだろうか?

李徴の言葉が嘘ならば
 李徴の言葉が信用できない、という話になれば、李徴が自分自身について語る言葉は、すべて疑ってかかったほうがいい、ということである。小説を「読む」ということは、実はかなり面倒な行為なのだ。
 ここで、語り手の言うことはとりあえず信頼できる、ということにしよう。そうでなければもう、何も信じられないことになってしまう。
 指導書はじめ、学校空間では「李徴はだめなやつだ」というニュアンスで語られることが多い。僕は「第一部」でこう書いた。

李徴は一般的に、「努力から逃げた」人間だと解釈される。彼が自分でそう言っているからだ。彼は「絶望と焦燥感」と向き合うことを嫌がった。「自分には才能がある」と思いたいがために、「本気を出す」ことをためらっていた。

 しかし、「李徴の言うことを信じず、語り手の言うことだけを信じる」という方向性で考えてみると、それがどうやら疑わしくなってくる。
 語り手は「己の詩業に半ば絶望したためでもある」としっかり書いている。彼はこの時点では、ちゃんと絶望と向き合い、その結果として、芸術を諦めているのである。またその前には、「漸く焦燥に駆られて来た」とも語り手は言っている。(何という偶然だろう、平成の名作『G戦場ヘヴンズドア』に書かれた「絶望と焦燥感」という言葉が、ほとんどそのまま『山月記』という古典にも書き込まれていたではないか。日本橋ヨヲコ先生も、やはり授業で『山月記』を読み、これらの言葉を深層意識に刻み込んでいたのでは……と考えることも、できないではない。かなり無理矢理な想像だけど。)
 李徴は確かに、師にもつかず、詩友とも交わらなかったかもしれない。しかし、だからダメだ、ということに必ずしもなるだろうか? 師匠がいないで大成した詩人なんて、いくらでもいるだろう。孤高を守り抜き、傑作を残した芸術家も、たくさんいるはずだ。ダウンタウンには師匠はいない。僕の尊敬する漫画家である鳥山明先生や植芝理一先生、岩明均先生などは、どうやら人と交わるのが得意でないようで、アシスタントすらほとんど雇わずに作品を創っている。それで生まれたのが『ドラゴンボール』『ディスコミュニケーション』『寄生獣』といった名作たちなのだ。
 李徴はただ、夢に破れ、仕事に疲れ、発狂し、自虐的になっているだけなのではないか?
 もちろん、それで李徴に人格的な問題がなかった、と言えるわけではない。「絶望」には「半ば」がつくし、「焦燥」には「漸く」という言葉が与えられるような人間だった、ということは、語り手の口ぶりからも確かなのである。「半ば絶望」ということは、半分は絶望していなかったということだし、「漸く焦燥」ということは、焦燥感を得るのが遅すぎたということでもあるのだ。(こういうふうに、ほんの細かいところにも目を光らせて、解釈の材料とするのが、小説を「読む」ということの醍醐味でもある。)

李徴が信用できなければ、袁サンも信用できない
 李徴の才能の話であるが、その詩が「第一流の作品」ではない、と感じたのはあくまでも袁サンである。語り手が言うのは、「格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせる」というところまでなのだ。
 一流は一流を知る、という言葉がある。二流には一流が、わからないかもしれないのだ。袁サンは果たして、一流であっただろうか。袁サンが「第一流の作品」ではないと思ったからといって、それをそのまま信用して良いものだろうか。
 ちなみに東京書籍版の指導書では、李徴の詩に欠けているものとして、「専一に磨こうと」しなかったことと、「芸術に不可欠な自己充足性の欠如」「自我を堂々と肯定できない」ということを挙げている。後者はわかりにくいが、自尊心に欠陥があるということだろう。筑摩書房版はもう少し自由な解釈を許していて、「はっきりわからない」と正直に書いている。
 だが、何にしても、そう思ったのは袁サンである、ということを忘れてはいけない。袁サンの意見を、そのまま自分の意見にする必要なんて、どこにもないのだ。
 同様に、袁サンが「この超自然の怪異を、実に素直に受容れて、少しも怪もうとしなかった。」からといって、我々読者までが、李徴の話を全面的に信用する必要が、果たしてあるのだろうか。
 李徴は本当に虎になったのか、という問題である。

李徴は虎になんかなっていない、という解釈
 第二部の最初に引用した指導書の文章を思い出してほしい。どちらも「李徴は虎になった」という前提を崩していない。つまり、「李徴は虎になった」ということを暗黙の了解として教えることが、ほとんど強制されているようなものである。でも、僕の考えでは、李徴は虎になんかなっていない、という解釈は可能だと思う。

『人虎伝』との比較
 原典(つまり、元ネタ)である『人虎伝』では、地の文で李徴(と名乗る存在)のことをほとんど「虎」と表記している。ところが『山月記』においては、地の文(ここでは、李徴の独白箇所を除いた、語り手によるナレーション部分のこと)で李徴を虎と表現している箇所は一切ない。注意深く読み返してみても、語り手は一度も、李徴のことを「虎」と断言してなどいないのだ。原典では「虎」とはっきり、何度も何度も書いてあるのに、『山月記』にそれが一切ないというのは、何か怪しい感じがするのである。
 もちろん、李徴自身は「虎になった」と主張するのだが、発狂して人里から遠ざかった人間の話を、どこまで鵜呑みにするべきだろうか。また、李徴が話している時、彼は袁サンの前にはいっさい姿を現していない。普通に考えて、人間が虎になることはないし、虎が人語を操ることもありえない。だったら、基本的には「李徴が虎になったというのは事実ではない」と考えるほうが妥当ではないのだろうか? 『山月記』の舞台は唐代の中国であり、『ハリー・ポッター』のような「超自然の怪異」がまかりとおる世界ではないのだ。

残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。虎は、あわや袁サンに躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟くのが聞えた。

 袁サンはここで一度虎を目撃するが、その時に虎は人語を話していない。そして虎が草むらに隠れた後に、「あぶないところだった」と声が聞こえてくるのである。
『人虎伝』ではこうなっている。「異乎哉幾傷我故人也(異(い)なるかな、幾(ほとん)ど我が故人を傷つけんとせり)」。ここで李徴の声は、「友人(故人)を傷つけるところだった」とはっきり言っている。ところが『山月記』では、「あぶないところだった」とだけ言って、その点をぼかすのである。
『人虎伝』の場合、虎が李徴そのものであることはほとんど前提として書かれているが、『山月記』はそうではないのである。「あぶないところだった」という言葉には、こういう意味があっただけなのかもしれない。「あやうく旅人が虎に襲われてしまうところだった」

李徴はどんな姿をしていたか
 そしてこの後、袁サンが「『その声は、我が友、李徴子ではないか?』」と尋ねると、「叢の中からは、暫く返辞が無かった。」とあり、それから「『如何にも自分は隴西の李徴である』」とようやく答える。「暫く返辞が無かった」のは、何故だろうか? 「虎になったことを親友に打ち明けるべきかどうか迷った」というような答えは、一つの解釈でしかない。もしかしたらこれは、まったく別の逡巡(ためらい)のための時間だったかもしれないのだ。
 はじめ李徴は自分のことを、「異類の身」とだけ表明した。「異類の身」というのは、必ずしも虎や、本当の意味での獣のことだけを意味しないだろう。「まるで獣のような風体」という比喩的な意味だったかもしれない。その後も「あさましい姿」「醜悪な今の外形」と言うにとどまっている。虎という言葉を使うのはもっとずっと後、二人の昔語りが一通り終わってからのことだ。「虎になった」と初めははっきり言わなかったのは、別に虎になどなっていなかったから、と考えることはできないだろうか。
 李徴は発狂して、闇の中へ駆けていった。それから一年ほどは、野生の中で暮らしていた可能性が高い。そうすると、仮に虎になどなっていなくても、よっぽどひどい見た目をしているだろうことは容易に想像がつく。発狂前でさえ、「豊頬の美少年の俤は、何処に求めようもない」と語り手に言われていたのだ。髪も髭も伸び、衣服は失い、泥だらけの姿で、地を這い、木の実や動物の肉を食って暮らしている、そんな李徴の姿が、僕には思い浮かんでくる。それを「異類の身」と表現することに、さほど違和感はないように思えるのだ。
 かつての旧友、それも自分がエリートだったことをよく知る相手の前に、そんな姿はさらせない。草むらから出てこないのは、虎になったからではなく、単に自分が人間のまま、変わり果てた姿になってしまったからだ、と考えて、不都合があるとは思えない。ちなみに袁サンもこの時点では「今の身」と言うだけで、虎という語は使っていない。

では、虎はいったいなんだったのか?
 李徴が虎でないとしたら、では、なぜ虎は袁サンを襲わなかったのだろう。これを考えなくては、説として成立しない。
「たまたま」と考えても、別に構わないとは思う。袁サンは一人で歩いていたのではない。大勢で歩いていたのである。その中には屈強な者もいれば、武器を持っているものもいただろう。虎がどこまで賢いのかは知らないが、分が悪いとみれば襲うことはないのではないか。基本的に動物は自分より大きな相手を襲わないと聞く。たとえばサメに襲われそうになったら、服を脱いで体に結びつけるといいらしい。サメが「こいつは大きいぞ」と勘違いして、逃げていくというのだ。本文のどこにも書いてはいないが、仮に従者が大きな旗でも持って歩いていたとしたら、虎が「こいつは大きいぞ」と思って、身を翻すこともないとはいえない。
 それとは別に、僕のとんでもない考えを一つ、披露しよう。李徴は発狂して失踪して、野生に暮らすうちに、虎と仲良くなったのではないか。それで袁サンを襲おうとした虎を呼び止めて草むらに戻した、という無茶苦茶な解釈を僕は考えているのだ。実際、赤ちゃんの頃から虎と一緒に育ってきたという女の子がいて、大きくなった虎を今もペットとして家の中で放し飼いにしている、というネットの記事を見たことがある。オオカミに育てられたオオカミ少女がいた、という話もある(本当かどうかは、今やわからない)。サーカスには虎もライオンもいる。手なづけられないことはないのだ。李徴がある種の「猛獣使い」だった可能性は誰に否定できるものでもない。だからこそ後半で、「人は誰でも猛獣使」という発想に至った……のかもしれないのである。
 ラストシーンにも虎が姿を現すが、これも李徴が猛獣使いというか、虎と仲が良いというような事情を想像するならば、まったく不自然はない。ただの偶然と考えても、それを否定することはできはしない。
 この説と、「人間が虎になった」という話と、どっちが現実的かといえば、どちらかといえば前者のほうが現実にはあり得る可能性が高い。……もちろん、これは現実ではなく小説なのだから、どちらも同じように確からしいのではあるが。

信じたいために疑い続ける
 かなり無茶苦茶な解釈だったが、この説を完全に否定することが、果たしてできるだろうか? もしも本文と矛盾する箇所があったら、ぜひ教えてほしい。そしたらまた、一から考えてみる。
 このように、ああでもない、こうでもない、と考えていくのが、文学を味わう一つの楽しみである。「疑うこと」から、解釈は始まっていくのだ。「“なぜ?”が僕の道しるべのようでもあるな。」と歌ったのは、先にも引用した中村一義だった。(『謎』。アルバム『金字塔』に収録)
 また、「信じたいために疑い続ける」と歌ったのは、岡林信康という歌手だ。もう四四年も前の『自由への長い旅』という曲だが、色あせない。「シンジル」と「シンジツ」はとても似ている、なんてことを僕は昔から好んで言っているが、「シンジル」ためには実は「疑う」ということが必要なのである。疑うことをせずに、ただ信じるだけというのは、手抜きだ。信じる相手に、すべてを丸投げしている。それではいけない。信じるというのは、相手に任せることではない。信じるというのは、自分の中ですることだ。もしくは、自分と相手との、関係の中で育まれていくものだ。
「あの人は浮気なんてしないはず」と無邪気に信じて、ぼんやりとしていたら、その裏にはとんでもない現実があった、なんて話はざらにある。相手に浮気させないためには、「きっとしないよね」と信じることよりも、「浮気なんてしないですむような関係」を育むことのほうがずっと大切だ。その努力をし続けることは、実は「疑う」ということの、真に美しいあり方なんだと僕は思うのである。(このへんはちょっと難しいので、暇な人はゆっくり考えてみてください。)
「とりあえず否定する」ような態度を取るのではなく、適切に、「信じるために疑う」のであれば、それは素晴らしいことなんじゃないか、ということだ。

疑って、見えてくるもの
『山月記』という小説を、徹底的に疑って、疑って、考えて考えて、「なぜ?」を積み重ねて、その結果、幾つかの「信じられそうな結論」を自分なりに導いていく、そういう作業を今、説明したつもりだ。それで僕が導き出したのが、「李徴は虎になんかなっていない、発狂しただけだ」というものである。発狂しているのだから、幻覚や妄想がどれだけあっても、不自然ではない。李徴はたぶん、自分は虎になったと思い込んでいるのである。それも、僕の解釈に従って言えば、「袁サンに対して語っているうちに、いつの間にかそんな気がしてきて、本当にそう思い込むようになった」のだ。そうだとすればそれは、僕の解釈における『高瀬舟』の喜助に似ている。
 李徴は小説の中で、とても饒舌である。つまり、よくしゃべる。なぜこんなに喋るのか? 喋りたいからである。なぜ喋りたいのか? それは、わからない。だが、考えることはできる。僕が勝手に思うのは、李徴は「自分の今の状況に、理屈をつけたかった」のではないか、ということだ。
『金田一少年の事件簿』という漫画に「うしろめたい男はよくしゃべる」と書いてあった。悪いコトをした人間は、それを誤魔化すために必要以上に言葉を重ねるわけだ。また、愚痴や悪口というものは、マシンガンのように言葉を連ねていくタイプのものが多い。たくさん喋ることによって、「あいつが悪い」「自分は悪くない」「こうなっているのは○○のせいだ」というような感じで、考えをまとめ、自分を正当化していくのである。「語る」ということには、そういう効果がある。もちろん「書く」というのも同じである。ちょうど『舞姫』の豊太郎が、相沢という親友にその責任を押しつけようとした(そうも解釈できる)ように。
 李徴にしても喜助にしても、僕の考えでは、たくさん喋ることによって、自分の考えをまとめようとしているのではないか、と思う。そして、喋っているうちに、テンションが上がってきて、はじめは「ちょっと盛ってみた」くらいのことから、どんどん話が大きくなって、「嘘」と言えるようなレベルにふくれあがり、遂にはその嘘を自分自身が信じ込んでしまう。そんな経験は、ないだろうか。僕はよくある。「あなた、○○って言ってたじゃない!」と言われて、「えっ。言ってないんだけど……」というようなやりとり。どっちが正しいのかはわからないのだが、食い違っている以上、どちらかが事実をねじ曲げているのである。小説の中の人物だって、それと同じようなことをする。
 そういう具合に、世の中において「真実」といえるようなことを探すのは難しい。難しいから、それがどこにも存在しないのかといえば、うーん。どうなんだろうね。そうとも言えるし、そうでないとも言えそうだ。わからん。
 
『山月記』にまつわる様々の解釈
 ここに書いていることは、もちろんすべて僕の考えである。僕の解釈である。きみたちがそれに従う必要はないし、従ったほうがいいということもない。ただ、「参考に」くらいはしてもらえたら、恩倖、これに過ぎたるはない。
 ほかの先生ならば、全然べつの解釈をするだろう。ある知り合いの先生は、『山月記』を、「変化を受け入れる物語」として読むらしい。李徴は虎になった。そして、そのことを次第に受け入れていく。そういう物語として解釈し、それを生徒に教えるのだという。その先生が言うには、「だって虎ですよ。虎って格好いいじゃないですか。何か動物になれって言われたら、僕は虎になりたいですよ。」
 なるほど、虎は格好いい、か。そうかもしれない。李徴はナメクジになったのでもなければ、ミミズになったのでもない。あの勇ましい、虎になったのだ。そしてそれを、彼は受け入れつつある……そういう解釈も確かに、できるのだろう。人間は変わっていく。人間を取り巻く環境も、変わっていく。それに順応していくことは、とても大切な能力である。ここにきて李徴は、その力を得たのかもしれない。
 また、 雁須磨子さんの『こくごの時間』という漫画では、「虎になったとか、かっこつけてんじゃねーよ」みたいなこと(ごめんなさい、うろ覚え)を言う女子高生が登場する。確かに、虎をチョイス(別に選んだわけではないのだが……いや、もしも妄想だとしたら自分で選んでいると言えるのか)した李徴の性格は、やはりちょっと問題があると見られても仕方ないのかもしれない。口先でどれだけ反省を述べようと、その姿が虎じゃあねえ……ネズミになって出直してきな、という感じ、なのかな。
 ここでなんとなく思い出すのが、最近話題になった元少年Aという著者による『絶歌』という本だ。これも、本人が語ったものである。だから、すべてが本当であるとは思えない。(そもそも本人が書いたのではない、という疑惑さえある。)そしてこの本が受けている批判としてけっこう多いのが、「かっこつけてる」といった種類のものだ。「なんか自分に酔ってる感じがして、反省しているように思えない」と。どうも僕は、『山月記』を思い出して仕方ない。またこの本の中には、梶井基次郎の『檸檬』にそっくりな場面が登場する。それを読んで、「うーん、教科書に載っている文学作品が普遍的なことを書いているから、たまたまかぶったということなのか、あるいは『山月記』や『檸檬』をこの著者が読んで、それに影響されたのか……」と、わりとどうでもいいことを考えた。ちなみにこの著者は中学生の時に逮捕され、医療少年院に送致されているため、高校で習うはずの『山月記』や『檸檬』を読んだかどうかは、わからない。
 ほかにも無数の解釈が、『山月記』に関してはなされている。また、その他の文学作品についても、教科書に載っているものについては特に、多種多様な解釈がすでにある。それを知る必要は、別にない。「どんなふうに読んでもいいんだ」と思って、それが楽しいと思えるならば、好きな作品について、好きなように、考えればいい。それは何も文学にとどまらない。アニメでも映画でも音楽でも、アイドルでも、友達でも、世の中そのものについてでも、「解釈」というものは何にでも可能だ。ただ、「それは一つの解釈でしかない」ということは、忘れないこと。そうでないと、他人を決めつけることになってしまう。……そう。「○○ちゃんってこういう子」という考え方だって、一つの解釈に過ぎない。人間にはいろんな面がある。たとえば高三で習う(可能性の高い)『クレールという女』や『平気――正岡子規』という文章は、人間の多面性について取り扱ったものだとも言える。どんなものでもいろんな側面がある。いろんな表情がある。決めつけるのではなくて、「こういうふうに考えることもできるよね」という程度で、やっていくといい、って僕は思うよ。それこそが自由ということなんじゃないかとか、曖昧に大きなことを最後に言っておきます。

さて、きみたちは?
『山月記』をどう解釈するだろうか。別に、してみろとは言わない。ただ僕は、するめのように味がしみ出てくる優れた文学作品をああだこうだと解釈するのが、楽しい。『山月記』は特にそうだ、というわけでもない。優れた文学作品はみな、そうである。優れたものならほかに腐るほどある。ただ、たまたま『山月記』が教科書に載って、みんなが読んできたから、特に重要なものになってしまった、と僕は認識している。『こころ』『舞姫』『走れメロス』『高瀬舟』……これらについても同じことが言える。読んでいないものや、忘れてしまったものがあれば、ぜひとも一度読んでみてほしい。
(後略)

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