ひごろのおこない/Entertainment Zone
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。

過去ログ  2026年7月  2026年8月  2026年9月  TOP
2026.8.1(土) 花火を見るつもりじゃなかった
2026.8.2(日) 聞こえない読者の声を聞くんじゃ!
2026.8.3(月) 誰にも教えない店を教える
2026.8.4(火) リンク集の巡回
2026.8.5(水) ゴロゴロなるまま
2026.8.6(木) 根津・上野→阿佐ヶ谷
2026.8.7(金) ごはん・おふろ・わたし問題
2026.8.8(土) 言葉と現実は必ずしも一致しない
2026.8.9(日) 言葉野郎
2026.8.10(月) 『木』配信開始
2026.8.11(火) ただし、うつ病ではない。
2026.8.12(水) 『木』の『木』
2026.8.13(木) 阿佐ヶ谷ツアー(1)
2026.8.14(金) 阿佐ヶ谷ツアー(2)
2026.8.15(土) 水論争
2026.8.16(日) 何がオーセンティックバーだ
2026.8.17(月) 新潟行1
2026.8.18(火) 新潟行2
2026.8.19(水) 浜町MUSUBI
2026.8.20(木) アレルギー
2026.8.21(金) 新Podcast「農愛」
2026.8.22(土) 障害A~花火は平面~
2026.8.23(日) ジャッキーsunのお散歩遠くvol.1 c/w かなみ
2026.8.24(月) 新潟の夜、振り返り
2026.8.25(火) 陽気ライン
2026.8.26(水) ボケるという孤独な行為
2026.8.27(木) 野菜について
2026.8.28(金) ヒスり侍、ヒスって候
2026.8.29(土) 元気を出せ!
2026.8.30(日) 楽しそう
2026.8.31(月) ほんとのこと知りたいだけなのに夏休みはもう終わり

2026.8.1(土) 花火を見るつもりじゃなかった

 友人夫妻にお招きいただいて会食の予定だった。火鍋屋を予約してもらっていた。
 電車で近づくごとに浴衣が増えていく。もしやと思って調べてみると目的地の近くで花火大会があるらしい。ヒェー。帰りは電車が混みそうだ。
 駅まで迎えにきてもらい、夫妻と二人の子供たちと合流。雑談のなかで「明日は近所の花火大会で、ママ友たちと観に行く」と言われたので、え、花火大会って今日じゃないの?って言ったら「大変だーーー」みたいになり、火鍋はキャンセルして僕も花火に行くことになった。
 つまり彼らは1日の花火大会を2日だと勘違いしていて、のんきに「ジャッキー1日ウチ来ない?」と誘ってくれたというわけだ。おそろしい。
 合流したのが15時半くらいで、お暇したのが20時半くらいだから5時間ほど滞在したことになる。子どもたちともたくさん遊んだし、夫妻どちらとも二人きりで話せる時間もあって非常に充実した。
 そもそもその「夫」は高校1年(103)の同級生である。「妻」とは19年くらい前とかに付き合い始め、間もなく僕も一緒に遊んでいるのでどちらも付き合いはめっちゃ長い。合計45年くらいか? ヒェー。
 子どもは6歳と3歳? 違ったら申し訳ないがだいたいそんくらい。初対面だったがスルッと遊べた。やっぱり子どもの世界には「常連」なんかないのだよ。
 異常なほどスルッと遊べたことについて、「子どもってそういうもんだ」とも思うし、「僕も子どもだからな」とも思うのだが、結局のところ子から見て「両親ともにこの人とものすごく自然にコミュニケーションしていて、互いに強く信頼しあっているのがわかるから」ってことなのだろう。
 一女一男と僕が仲良くできたのは、僕がその両親とものすごく仲が良いからで、子どもはそこをスッとわかって受け入れる。あるいはDNAや育ち方の相性がいいとか。もちろん彼らがあまり人見知りをしない野性的な(?)子たちだということでもあるのかもしれないけど(普段の彼らの様子は知らない)。
 ともかく人と人とが仲良くするってのはこういうことだよな。長男(およそ3)とは追いかけ合ってシーツを頭から掛け合ったりして遊んだのだが、その遊びに名前などないし、ルールもなく、ただ阿吽の呼吸で楽しいと思えるようにやるだけなのだ。もちろん大人だからリードはするし手加減もするわけだが、もう本当に僕は絶対に「自分も楽しくなかったら遊ぶ意味なんてない」と思うので、「子どもが楽しくなれれば自分はつまんなくてもいい」なんて一瞬たりとも思わず、「そちらがそのつもりならこちらも楽しませてもらう」という精神で向かう。それが伝わったのか知らんが、「長男がすごくジャッキーを気に入ったみたいだからまた来てくれ」とあとで言われた。よっしゃ。
 午前5時から釣りに出て昼寝もしないパワフルな長女(就学前)ともたぶん気が合ってずいぶん楽しく過ごせた。『カリオストロの城』は怖がるのに地獄の絵本は平気で読めるのおもしろい。帰り際追っかけてきてくれたのも嬉しかった(もとの場所まで運んだ)。なぜかほぼコミュニケーションをとっていないお友達の子も追いかけてきてくれた。子どもは「追いかける」のが好きなのだと思うし、「別れを惜しむ」とか「ちゃんとバイバイする」のが好きというか、それをしないと座りが悪いのかもしれない。僕は宮沢賢治の『雪渡り』がマジで好きなので、あの別れ際を思い出してジワッときた。
 この記事に書いたことは完璧に拙著『常連のいない場所づくり』と繋がっている。「コアにあるのは子どもの頃の正しいこと(ウウ ウウ)」って三重野瞳さんが歌っておりますが(『Wonderful Bravo!』)、まったくそれが証明されたような感じがして幸先が良い。

2026.8.2(日) 聞こえない読者の声を聞くんじゃ!

 おそくおきてゆったり川口へ。「ブックバーひつじが」の出張営業に行く。
 そこで古くて新しい企画「往復書還」の始動が決まり、始めたので、よろしければ見に来てください。この日のことも少し最初の記事で触れています。ジャッキーさんの最新情報はすべてこのホームページに集まるんや!(可能な限りね)
 で、あればこその「有料」なわけだから。とりあえず本はみなさん買ってください。

 焼酎をグイグイ流し込んだからけっこう酔った。夕食とってから川口をぶらぶら歩いてみたがコンディションのせいか良さそうなお店が見つからなかったのでどこにも寄らずに帰る。店師といえそんな日もある。「今日は違うな」という直観に正直であることも大事。元気と時間があったら西川口か蕨、あるいは赤羽にでも行っていたと思うけど。

 タイトルは、町田康さんが「文章がうまくなるための方法」という問いへの回答として(だったと思う)言っていたらしいこと。軽く調べてみたがソースはわからない。わかったら教えて~。
 わが1stアルバム『木』についてのみつきちさんとの対談(下に文字起こし)で、「ジャッキーさんは耳がいい」と言ってもらった。ちなみに目もいい。「良し悪しがわかる」ということの言い換えなのだが、技術がそこにまったく追いついていないので、常にその「あいだ」のどこかに像が結ばれる。そこが面白いような気がする。
 なんだって0点と100点のあいだのどこかに着地するのであるが、耳や目のいい僕は50点未満だと棄却する。しかし80点や90点は技術的に出せないので、60~70点くらいを出力の目安としている。ただし奇跡が起こって局所的に98点とかをたたき出すことはあるかもしれない。その「60点から98点までの揺らぎ」みたいなのが僕の限界芸術(漫画でも歌でも詩でも)にはある気がする。
「聞こえない読者の声を聞くんじゃ!」というのは、「それは何点です」という声を常に聞いておけということでもある。たぶん僕は究極的には「客」なので(それは店づくりや接客でも同じ!)、そういう視点でなんでもやっているんだろうな。器用貧乏で、最低限のクォリティのものはたいがいの分野で出すことができる。その代わり突出したものは創り出せない。


 下記、スペース音声の文字起こしだが精確ではないし、長いのでいちいち読んでられないと思います。後年の資料として置いておきます。

※『木』談議の文字起こしは1stアルバム『木』のページに移送

2026.8.3(月) 誰にも教えない店を教える

 深夜あるお店にいて、始めは僕だけだったがその後どんどん人が増えて計5名になった。5席もあったのかこのお店。5名中4名は飲食店の経営者であり、1名は従業員だった。プロの集う店。異様に安い。チャージもない。
 ダービー通りの路面店。立地は最高なのだがあまりの入りづらさでバランスをとっている。知る人ぞ知る、知っていても入りづらい。戸は重く物理的にも開けづらいから、軽い気持ちと軽い力で開けようとした人は開かなくて引き返すと思う。中の灯りは目張りまでして漏れないようにする徹底ぶり。どこまでも隠れていたいのである。
 たぶん20年近くやっていて近隣の飲食店の人にはそれなりに知られているはずだが、これまで自分以外に複数組のお客がいたのを見たことがなかった。「5席が埋まる」というのはたぶんそれなりに珍しい事態だ。もちろん僕が金土のゴールデンタイムに顔を出さないからでもあろうが。
 むろん経営は良いわけではないようで、微力ながらと最近繁く通っている。機会があれば人を連れて行く。ここ数ヶ月で5人くらいかな、友達の友達も含めて。
 気を遣ってとか、助けようと思ってという話ではない。それも多少はあるものの、ただ良いお店なのだ。魔界のようなダービー通りの聖域。ノーチャージで一杯600円(23時までは現在500円)、よく見るといいお酒も置いている。マスターも話のわかる人で、癖はあるがこの街では随一の知性かもしれない。いやホントに、錦糸町には知性ってもんがないのですよ。僕が素直に気張らずに、自然体で通えるお店はここくらいしかない。いろいろ行くぶんには行くけれども、どこかよそ行きの顔をしていなければならない。ここではリラックスしてちょっと込み入った話もできる。酒の話から漫画の話まで。そして(僕はやらないが)競馬のこともよく知っている。
 23時までの居酒屋営業が始まったのはつい最近である。マスターは基本的に不在で、お姉さんが激安でいろいろ作ってくれるのだが、何を食べてもめちゃくちゃうまい。材料も良いし手も込んでいる。すなわち、まったく儲かっているように見えない。またお客もあんまりいない。勿体ない。
 このお店はひょっとしたら今がターニングポイントかもしれなくて、この居酒屋時間(17時からだったかな?)は店先に「営業中」の札を出しているのだ。徹底的に隠れようという路線はちょっとだけ緩和されている。新しいお客を入れようとしているというか、入れざるをえない姿勢をとっている。
 実際居酒屋を始めてからカウンターの面積が3~4倍に広がった(どういう意味かはわかりますよね?)し、せいぜい2~3席しかとれなかったはずのところ5人は座れることも証明されている。かつてのごちゃついた、ゴミ屋敷のような(失礼)お店も好きだったし、あれぞ「自分だけの隠れ家」という感じで実に気持ちよかったのだが、気軽に人を連れて行けるようになった現在の状態もけっこう良い。どちらも知っているのが誇らしくもある(初めて訪れたのはコロナ前である)。
 完全に知られざる店だったのが、遠くない将来に「Googleマップに写真が載る店」になる可能性がある。今は載っていない(外観のみ)のだ。口コミは2年前の1件、「この場所は営業終了している可能性があります」という警告も出ている。あの立地で、20年やっていて。それは一つの奇跡である。しかしそれはいつまでも続かなかろう。今よりもう少し広く知られるか、もしくはこのまま消えてしまう可能性だってゼロではない。(さすがに彼は辞めないと思いたいが、他人にわかることではない。)
 このお店は僕にとって「誰にも教えない店」である。本当ならそのような存在のままあり続けてほしいが、実際少し方向性が変わっているのだから、僕もちょっとだけ変える。連れて行ってほしい人がいたら連れて行くし、この日記でのみ教える。あのお店の「今」を知ってほしいからである。そして「未来」を見ていってほしい。とくに「店師」を標榜したり憧れる者には、奇跡の軌跡を目撃してもらいたい。
 むろんSNSには書かないし、誰も書かないでほしい。Webの口コミにも書かないでほしい。ゆっくりと少しだけ広まって、今のスタイルのままで少しでも儲かってほしい。マスターは(言っちゃえば僕のような)知性あるお客が好きだと思うし、この日記の読者には一定以上その資格が必ずあります(僕の面倒な文章を好んで読むくらいですから……)。もうちょっと「良い客」が増えてほしいのだ、良い店なのだから。
 ただし、絶対にお店の人にはこの日記のことは言わないでほしい。そしたら僕が行きづらくなる。照れるし、なんか妙な介入をしたとも思われたくないから。言った人は絶交やぞ。ただ「ジャッキーさんから教えてもらって」とだけ伝えてほしい(伝えなくてもよい)。「ジャッキーさんがこう言ってました」はギリいいけど、「こう書いてました」は絶対NG、絶交案件。名は「麟」と言います。

2026.8.4(火) リンク集の巡回

「世界に親切」8/1付で更新されていた。よしよし。
「makoto’s~」も7月更新されている。こういうホームページがたくさんあったのが昔のインターネットなんだよな今の新参は昔のインターネットを知らないから困る(この元ネタも知らないから困る)
「回転機関」7/21(と思ったら書いてる途中に7/31まで更新された! 時間的に夜学バーでやってるか?)、「ヘンナサク」7/27、なかなか続いている。さく氏はルビッチめっちゃ観てて嬉しい。僕はそんなに本数観てないけど好きな洋画TOP5には『生きるべきか死ぬべきか』が入ります。
「こよみ☆スーパーノヴァ」も7/29まで書いてる。素晴らしい。永遠に飽きないでほしい、みんな。
 リンクしてるhtml日記はこんなところかな?
 タンブラーやブログで更新している人たちもお疲れさまです。たまに見に行ってますよ!
「みずのみば」ホームページ更新せよ!と言いたいところだがさすがに疲れてそうなので「ゆっくりゆっくり~」と歌っておく。参考歌:ジャッキーsun『カリフラワー』

 いろんなミディアでみんなの様子を見ていると「病んでるな~」と思う。「皆病んでる~」と思う。ミスチルね。「必死で生きてる~♪」
 辛いときはマジで辛いので仕方ない。写経でも座禅でもして生き延びるしかない。
 早めに死ぬやつもいるが、なんとか友達と会うことだ。「ダメだ、話す人がいない」という事態に陥ったらけっこうヤバいので、話せる相手を増やす。べつに核心に迫った、本音を話せる必要はない。世間話でもなんでもいいから、「話す」という現象に入ることが大事だと思う。むしろ核心的な話を他人とすると「やっぱりダメだ!」になりやすいと思うので、「このぼた餅がうまくて」くらいのことでたぶんいい。だからなんか、年寄りのやってる喫茶店とか居酒屋に通っとくのとかってけっこうセーフティネットなのだ。
 ベタつかない関係をどれだけ持てるか、というのとか。夜学バーもそれなりにドライだけど、そのへんの古い喫茶店とかって意外とぜんぜんもっとドライで、バーとかと違って踏みこんでくることが少ない。天気の話とかで済む。なんかそういう感じの空間をいくつも見つけておくと、何も話さずに誰かと話すことができて、僕なんかは命拾いさせてもらってきたのでございますよ。

2026.8.5(水) ゴロゴロなるまま

 1日から6日までお店に立たないでいるのだが、なんだかんだ用事があり休めたのは4日と5日だけだった。スケジュールが空白なのはそれだけで気持ちが良い。
 6日から少なくとも19日までは連続して何かしら用事がある。
 僕ァ暇なほうがいいのだ。
 Gacktさんが「僕は一日一食だから普通の人の三分の一しか年を取らないんだ」とか言ってた。なんやそれ。でもわからんでもない。僕もあんまり働いてないしずっと寝てるかゴロゴロしてるので普通の人よりはあんまり年を取っていない気がする。
 忙しいと活動している時間が長くなって早く死んでしまいそうな気がするな。太く短くか、細く長くかみたいな。手を抜き気を抜いて生きていきたいものだ。
 20代は本当にゴロゴロして過ごした。大学の単位も2年生までにかなり取ったから3~4年生はだいぶゴロゴロした。卒業後は働かなかったのでずっとゴロゴロしていた。ゴロゴロ好きなやつがゴロゴロの味を覚えるといつまでも「ゴロゴロしたい」としか思えなくなる。ゴロゴロしたいなあ。
 30代、自分のお店を開いてからはゴロゴロって感じではなくなったがコロナ禍が良いアクセントとなった。わりあいゴロゴロできた。次にゴロゴロできるのはいつなんだろうか。
 最近けっこうゴロゴロしている。体調が良くない、というのは半分言い訳かもしれない。ゴロゴロしていたいのだ。それは僕なりの鬱回避でもある。ゴロゴロするのをやめたら鬱になるかもしれない。っていうか事実は逆で、何があってもゴロゴロするから僕は鬱にならない。どれだけ忙しかったりストレスが溜まっても、狂ったり鬱になる前に僕はゴロゴロするだろう。それをもって自分には鬱の才能ないの。って思う。今も勉強中よ「躁」。

2026.8.6(木) 根津・上野→阿佐ヶ谷

 ひさびさに「あずさ」のモーニングをいただき、ギン氏とのPodcast第0回(お楽しみに!)を収録。いったんお店で事務など色々やって、ヒロカワで世間話。目の前に「変なホテル」が立つらしい。竣工は2年後。それまで営業が続いていることを心から望むものの、「踏み荒らされる」のは個人的にかなりイヤだ。たぶんほとんどはDOPEのほうに行くのだろうし、お客が来ること自体はママにとっても嬉しいはずだが、「外来種による侵略」のようになるケースもけっこうある。有終の美を飾るのにそれが良いことかどうか。2年後には誰もが「古い喫茶店リテラシー」を持っていると良いなあ。
 御茶ノ水まで歩き、阿佐ヶ谷へ(341円が253円になるのだ)。「かわ清」開いていた。次は14日(金)だそうだ。17時から。17時台に行かないとすぐ満席になってまず断られるので早めにぜひ。これも普段なら絶対誰にも教えん店だが、さすがに多くの人に経験してほしい。有料だからね、このホームページは。情報も出しますよ!
 メリデへ。85歳でこれだけ(僕が)まともに話せる人は少ない。ありがたい存在だ。手品をいろいろ披露してくれた。「ぜんぜん手が動かない」と仰っていたが十分に鮮やかである。
 前回見つけたハミングへ。それから久々に一番街にわたりVINGAでジョージアワイン飲む。やはりうまい。しかしさすがに飲みすぎた。飲んでるあいだのパフォーマンスはあまり落ちないほう(限界はある)だが、二日酔いで翌日に響くのはなんとか避けたい。経験を重ねて少なくなったがたまにやると落ち込む。
 元気で暇な時期だったら新宿で降りて朝まで遊んだり、湯島でもうちょっとなんかして帰ったりするのだが、危険を感じて帰宅。大人……。本を読むなどする。『置き配的』の文章に困惑しながら寝る。こういうのは僕が読むべき本じゃないのですよね。僕は橋本治さんとか読んでいればいいのです。

2026.8.7(金) ごはん・おふろ・わたし問題

 事実における生体と機械の、もはやその主従すら決定不可能な入り組んだ交雑は、しかしそれでも「君は犬で、これは散歩だ」という言葉が何らかの正当性をもつような、主体と道具を分離する擬制と両立できるのか。《原文太字》
(福尾匠『置き配的』P185)

 これはみなさん意味がとれるのですか? こういう文章に出くわすと自分は頭が悪いのだなと思う。皮肉でもあるがかなり本音で。そういう脳になってないというか。
 この一文は「第9回」というチャプターのなかにある。「序文」において(第9回と第10回は)「とくに、最大の飛距離が出せた文章だと思っているので、欠かさず読んでもらえるといいなと思います」と説明されていたので期待して読んだ。そこで太字になっているのだから重要な内容なのだろうが、ちっとも理解できない。
 欠かさず読んでもらいたいと著者が願うチャプターの太字部分が、僕にはわからないのである。

 実のところ僕は「現代文」という科目が(国語科の教員のくせに)けっこう苦手だ。本文が僕に了解できる文で書かれていればもちろんほぼ満点が取れるのだが、論理的整合性にブレがあったり複雑すぎるような文章やいわゆる「悪文」だと、途端にわからなくなる。すべての解釈可能性を検討してしまう。そんなものは割り切って「テストの答えになりそうなもの」を冷静に求めるのがプロというものだろうが、僕にはその能力がない。
 ハッキリ言ってそれは一種の障害だろう。論理的に複数の解釈ができうる言葉に向き合ったとき、そこから「常識的な解釈」をくみ取ることが難しい。
「察する」ということが不可能なのである。日常でも、論理的に意味を決定できない言葉を投げかけられると、かなりの労力を使って推理、推測している。誰でもそうなのだろうか? いや、自然にできる人もいるはずだ。僕には明確に負担だし、推理に失敗し、解釈を間違えてしまうこともよくある。
 たとえば、「どっちを先にする?」と問われたとき、その「どっち」を指す二つの要素が言葉や身振りなどによって明確にされていないと、「何と何のことだろう」と立ち止まり、すべての可能性を検証する。普通ならそこまでの流れや文脈によって自然にわかるのだろう。(こう思えるようになったのは最近だ、ちょっと前までは全員僕と同じように迷うのだと思っていた。)
「どっち」とはどれとどれのことか? 直前に三つの話をしていたなら、三つのうちのどれか一つが省かれて、二択になっているということだ。「ごはん」「おふろ」「わたし」的な。

「ごはんにする? おふろにする? それとも、わ・た・し?」
「えっ。」
「うふふ、冗談よ。で、どっちにする?」

 このようなやり取りの場合、可能性は二つある。

①わたしを持ち出したのは冗談であり、ごはんかおふろかの二択を改めて問うている
②わ・た・し?という古典的な誘惑の仕方は冗談であるが、選択肢としてわたしを持ち出したことは冗談ではなく、ごはん・おふろという生活的なルートを選ぶか、わたしというエロティックなルートを選ぶかを問うている

 僕にはどっちかわからないのである。
「えーっと、それは、わたしルートかごはん・おふろルートかってこと?」と問わなくてはならない。あるいは、そこにエロティックなムードが存在するか否かを観察し、あるいは何らかのアプローチによって検証し、どちらなのかを推理しなくてはならないわけだ。
 実際にはたぶん、「それはもちろん……おまえだーっ!」とか言って茶化し、「キャー! って、違う違う、ごはんかおふろかってことよ!」などのノリツッコミを待ったりするのだろう。むろん相手の性格や関係や雰囲気にもよるが。で、「キャー! おやめあそばせ~」とかいってわたしルートに突っ込んでいく場合もあるだろう。
 なんか、そういうふうに僕はものを考える。すなわち「問いかけられた時点では答えは存在しない」という原則に拠っているのだ。
 思いがけず重要なところに来たので次回に続く。

2026.8.8(土) 言葉と現実は必ずしも一致しない

「問いかけられた時点では答えは存在しない」という原則、と前回書いた。
「ごはんにする? おふろにする? それともわ・た・し?」と相手が問いかけたとき、まだそこに答えはない。もちろん話者による意図はあるだろう。仮に「わたしを持ち出したのは冗談であり、実際にはごはんかおふろかを決めてほしい」だとする。しかし、僕が「おまえだーっ!」と襲いかかるフリをして、「キャー! おやめになって」というやり取りが発生したとき、「わたし」のルートに進んでいく可能性は十分にあるわけなのだ。
 問いかけるときは「ごはんかおふろか、どっちかだぞ」と意図していたとしても、「わたし」を持ち出してしまったがゆえに、聞き手はその可能性を重く見て、とりあえず茶化してみたところ、「うーんなるほど、ごはんやおふろをあとにして、とりあえず肉体的にキャッキャしてもいいか」と気が変わるかもしれない。気が変わったとしたら(決して不同意性交とかではなく)幸福に丸く収まるだろう。
※「すでにお風呂はわいており、味噌汁も温まっている」という状態を想定した場合、「音とか匂いとかで察しろよ」という不満はあるかもしれない(言葉ばかりを重視している聞き手が悪い)し、一方「おふろは保温がきくし味噌汁も温め直せばいい」という妥協案もある、みたいなこともいろいろ考えたが、こういうのはキリがないのでここでは検討を省く。

 僕の思考にはたぶん、以下の二つの傾向がある。

①意味を確定するための要素に過不足があると意味が確定できない
②現実が言葉の通りになるわけではないと思っている

 言葉の論理性というものを重視する一方で、論理的に組み立てられた言葉が現実と必ずしも一致しないことも知っている。言葉を信頼している一方で、現実の前に言葉は無力だとも思っている。
「好きだって言ったじゃん!」
「その時はそう思ったんだよ。」
 という無責任なような回答も、「そりゃそういうこともあるよな」と思える。
「え、遊園地に行くって言ったよね」
「言ったからって行くとは限らないよね」
 みたいなことでさえ許容しうる。「確かに」とか思ってしまう。
 ただ僕は狂っているので、「言った」というのが確実に事実である場合、「言ってない」と言われたら「いや言ったのは事実だろ」というこだわり方はすると思う。「それは嘘じゃん!」と。しかしそこで「私は言ったと思ってる!」と言われたら、「そう思うのは自由だから仕方ない」と折れる。わかるかしら……。
「言った」という事実を「言ってない」と捏造されるのはイヤだが、「私は言ったと認識している」と言われたら、その認識を変えることは自分にはできないし、認識自体が事実なら嘘ではないので、「それなら仕方ない」となる、のであります。そこを争っても不毛なだけだ。
「言った」という事実を「言ってない」とひっくり返すのは、神レベルのヤバい超能力なので、「それはおかしい」となる。ゆえにひるがえって、相手が「言ってない」と主張しているのに、僕が「いや言ったよ!」と主張することもしない。「自分は言ったと信じているが、言ってないという認識の人もいるのなら、自分が何を言っても無意味である」という形で、引く。証人や証拠があるなら別かも知れないけど。
 あと、本当は引かないほうがいいんだろうね。「いや言った!」と何があっても主張しとかないと、あとで不利になるかもしれないから。このへんはよくわかんない。僕の大きな弱点だと思う。社会的な戦い方ができない。だから社会と関わりたくない。アー! 儚くなりたい。本当に。(急に暗くなって、終わる。)

2026.8.9(日) 言葉野郎

 言葉を信じているからこそ、言葉を独立したものとして捉える。
 言葉は現実を縛るものではないし、現実が言葉を縛りもしない。。
 言葉など所詮言葉でしかない。だからそこには自由がある。

 僕は重要な局面に言葉を失う。「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんなバカな過ち」(小沢健二『ローラースケート・パーク』)そのまんまである。
 言葉にとって最大の自由とは黙ることなのだ。へりくつの逃げ口上だが、真理でもあると僕は思う。
 言葉を失ったとき、それでも漏れ落ちる言葉が僕の場合は詩となる。
 日常生活のなかでそうそう詩など口にしない。結果的にはだいたい黙っている。
 黙ることを卑怯と知りつつ、それでも間違いを恐れて何も言えない。
 何でも良いから何かを言えばいいのかもしれないが、黙ることにだって絶対に意味がある。
 言葉を信じるということは、言葉が途轍もない力を持っていると知ることであり、口にすればわざわいとなることもわかっているのだ。
 物語の中にピストルが出てきても発射される必要など本来はない。どんな言葉でも口に出す義務などない。
 ただ黙っていることも大事。
 それだと不利になったり、「なんか言ってよ!」と悲しまれたりもするだろうけど。
 言葉の可能性が自分の能力を超えたとき、すなわち、「なんと言っていいのかわからなくなったとき」に、無理して「絶対に間違っている言葉」を重ねる必要がどのくらいあるのだろうか?
 僕は話せば話すほど「いま自分は間違ったことを言っている」という自覚が強まっていき、ひどい自己嫌悪になる。それでも話してしまう時というのは、正直に言ってあんまり重要な事態ではないのである。まだ言葉よりも自分のほうが勝っている時なのだ。
 たぶんこの文章は意味がわからないと思う。日記だとそういうことができるからいい。「エッセイ」ならそんなことはしない。本来もうちょっと僕は親切な書き手であるが、このホームページ上ではあまり気を遣わない。破綻はないように努めるが。

 言葉が自分を凌駕している時、すなわち自分が言葉を使えなくなってしまっている時には、僕は黙ってしまうということだ。言葉が使えなくなっているのに、がんばって使うのを誠実だとは思えない。それは僕があまりにも言葉を信じ、重んじ、愛しているからだろう。
 それは病気であり欠陥だと当然自覚している。だから許せとは言わないが、許されないのだとしたらその部分なのではないか。
 自由だとか自分というものを、そこに至っても優先してしまう性根である。
 目の前の相手よりも言葉を優先している。
 ここで言葉というのは僕にとって自由と自分のことだから、要するに自分本位なヤツってこと。

2026.8.10(月) 『木』配信開始

 詳しくは1stアルバム『木』のページをつくったのでご覧ください。
 いま思っていることもそこに書いた。
 ジャケ写は美しい僕の横顔である。美しい日本の私みたいな書き方をしてしまった。撮ってくれた人の技術と心に改めて感謝。木が写ってるので選んだのもあるが、やっぱ自分の顔だろと思ったのである。顔を出していかないとダメだ。せっかくかわいいんだしな。
 ナルシシズムってだけじゃなくて、やっぱ人間は顔に安心するんですよね。友達の写真がSNSに載ってると嬉しいもんな。顔を大切にしていきたい。
『常連のいない場所づくり』に著者近影をわざわざ撮って載せたのもそうだし、それを本名で出すのもそうだが、ようやく自分を自分として認めてあげようという気になってきた。
 自分がやったことだから稚拙な弾き語りでも作品として出すわけだ。
 わたしは教育者、っていうか教育家だから、後進のためにそれをやっているところもある。「あなたはあなたをありのまま認めてあげたほうがよい」と、言われても言われても、頭でわかっても、心ですんなり受け入れるのは難しい。僕はこの年齢までかかりましたよ、と、それを示すだけでも意味があると思う。
 ただし、そういうことをする壮年にはヤバいのが多い。「抑圧からの解放!」ってノリで奇抜なことを堂々とやりだす。下手くそな自撮りをSNSに載せまくって「自我!!」なぞと陶酔してるおじさんが良い例だし、「自由な性!」なぞとハプニングバー通いをSNSで表明してはばからない人とかも行きすぎた例だと思う。自作曲の弾き語りCDはけっこうヤバくて、ギリギリどうかな?と自分でも不安だが、胸を張ってせいぜいカッコよく上質にやるしかない。結果として良いものであれば問題ないのだから。
「あなたはあなたをありのまま認めてあげたほうがよい」というのはマジで大事な考え方ですが、「女装することがわたしのありのまま!」みたいな発想はちょっと危険な可能性がある。本当に女装するのがありのままなのか? 女装しないのがありのままなのではないのか? ありのままから逃げるために女装しているのではないのか? そういう疑念から逃れることは難しい。そこで最も良いと僕が思うのは、美しく女装することである。
 美しく女装して、「これがわたしのありのままです」と言えればいいのだ。では美しく女装するとはどういうことか? 橋本治さんは「ブスってのは、自分をブスって思ってるやつのこと」と仰っておりました。なんであれ自分で美しいと思える姿でいればいいのだ。ただ「女装する」という属性をまとっていることを「自分らしい」と言っているのでは足りない。「男である自分に違和感があるから、女として認められたい」という場合でも、結果としてその姿を自分で美しいとか素晴らしいとか思えたほうがいい。
 自分を美しいと思えるのならば、周囲からの評価や視線はあとからついてくる。自信を持つことが大切だ。僕は『木』というアルバムを非常に美しいものだと信じている。恥ずかしいけどもね。そこは両立するはずだ。

2026.8.11(火) ただし、うつ病ではない。

 僕はうっすらと鬱に似た病気を持っているような気がしているが、医者でも医療の研究者でもないのだからアリモノの「うつ病」という定義に自分が当てはまるかどうか考えても仕方ない。むしろより個人的に文学的に「病気A」という概念を設定し、自分はそのAという病なのだと仮定してみよう。
 8月11日は完全に調整日というか、何もしない日だった。何もできない日だったと言わせてもらえたらありがたい。無理をすればいろいろできたのだろうが、無理などしたくなかった。疲れ切っているし、いろいろあったのだ。
 無理をすればいろいろできるのに、無理をしたくないから何もしない、これはAという病なのである。
 もしかしたら病Aは、「無理をすれば鬱になるような人」が、無理をしないことを選択してしまう病なのかもしれない。無理をすれば鬱になるのだが、無理をしないから鬱にならない。
 あえてここでは「うつ病」という言葉は使わない。僕はうつ病についてよくわかっていないからである。僕はたぶん「鬱」といえるほど重い状態に陥ったことはないのだが、それは病Aのおかげなのではないか、という仮定を今、立てている。診断を受けたら僕だってうつ病と言われたかもしれないし、言われなかったかもしれないのだが、そんなことは今まったく関係なく、「A」と「鬱」という段階の話をしていて、とりあえず僕はまだ「鬱」という段階に至ったことがないということにしておこう(これも本来は僕が決めることではないのだろうが、ここは医療の現場ではないのでいいだろう)。
 病Aは、このように言い訳をして易きほうに流れていくことを正当化する病でもあるかもしれない。逃げたいのである。逃げたいがゆえに「だってこれ以上がんばったら鬱になっちゃうから~」みたいに言って誤魔化しているわけである。
 たぶんめちゃくちゃ計算高い。病Aの人は。なんとかうまいことやろうとしている。罪悪感は「病A」とか言ってもみ消そうとしている。
 とにかくまあ何もできなかったな今日は。恐怖と不安で。具体的には疲労と倦怠感で。それでも『ただし、うつ病ではある。』という本(弊社から刊行予定)のゲラは読んだ。一日の終わり、真夜中にようやく。今まさにうつ病で休養している人の書いた本で、うつ病になるとこんなにも大変なのだということが伝わってきた。僕はここまでではないからうつ病ではないのだろうが、しかし似ている部分はある。毎日うっすらと何もできない。ひどい日はそれが濃くなる。今日のように。
 メールを返すのも一苦労、とその本に書いてあった。本当にメールを返すのって大変だ。オマエはうつ病でもないんだからちゃんとメールを返せよ!って自分でも思うのだが、病Aはそういう病気なのだから仕方ないではないか。そういえば昔「新型うつ」という言葉が流行ったが、あれも病Aだか病Bだかなのかもしれない。あとマジで言っちゃえば、Aは「甘え」のAってことネ。もちろん、鬱は甘えではございません。病Aは甘えであり、甘えとは病気なのです。

2026.8.12(水) 『木』の『木』

『木』のページ更新されてます(16日に作業、歌詞など追加)。
『木』とは僕の弾き語りアルバムですが、11曲めに『木』という曲が入っていて、いわゆる表題曲。
「木」というフレーズをただくり返すだけの手抜き曲、と言えば本当にそうだし、実際「2曲は作りたいけど時間がないので現実的には1.5曲くらいしか作れそうにないから1曲は手抜き曲にしよう」という意図が明確にあった。

 いまサブスク版を初めて聴いているのだが、僕はとにかく声と歌詞がいい。融け合ってすべて美しく呪文のように響く。ジャケ写もカッコいいしもっとモテたほうがいい。というのは置いといて、そこへいくと『木』って曲は歌詞の力がほとんどないわけですね。「木」しか言ってないから。
 でもこないだ(14日)Txitterのスペース機能でかなみさんと話したとき、『木』(曲)がいい、って言ってもらえて、正直「マジで?」と思った。あんまり自信のない曲というか、歌詞もないしネタ曲みたいなもんだから褒められると思ってなかった。
 そんで改めていま聴いてみたら、いや、フツーにいいですね。ボーカルもいいんだけど、それ以上にこれは編曲が、あるいは演奏がいい。
『木』は3番まであって、1番は「木」というフレーズ一回につきギターが一回ジャラーン、って鳴る。2番も同じくジャラーンなんだけどギターのボディをたたいてパーカッション的な伴奏つけてる。3番はジャンジャカジャンジャカ普通にストロークで弾いてる。
 この構成が、まさに「木」なんだって今さら気づいた。木、成長してるじゃん。最高。
 そう思うと、最後の「木 木 木 木」の四連続のボーカルの感じにも意味というか、余情が感じられるようになる。
 歌っているときはとにかく木のことを考えて、僕なりの木観をこめました!って感じでやったんだけど、なるほど僕は木っていうのをこういうものだと思っているんだなと、あとからわかったわけです。
 成長というのでなくても、四季というか一年という周期のようにも思えるし、なんかとにかく「変化がある」ってことが僕にとって木だったんだな。
 木ってどっしりして変わらないようでもありながら、一年でぜんぜん変わるし、長い時間をかけてどんどん大きくなったり、枯れていったりする。
 そんで次の12曲目の『よみがえる』は、悲しい曲でもありながら祈りと希望があるやつ、みたいなものなんだけども、実はダイレクトに『木』と繋がっているわけでしてね。同時期につくったし。
 実はいま僕の家には木がありまして、その木はとても大切な木であって、大好きな木なんですね。それはけっこう大きい状態でうちに来たんですけれども、どんどん変わっていくんですよ。そんなに変わらないようでいて。また時期によって葉の散り方とかもまったく違うんですね。よく見ていると、というか、よく見ていなくとも、なんとなくでも長いあいだ見ていると。
 木というのは「長い間」をもって「変わる」ものである。その周囲にはもっと短い命がたくさんあって、相互に関係しながら過ごし続けている。その一つの象徴が樹液と甲虫だったりするわけです。
 僕の愛はいまそういうものたちに向けられていて、『木』(アルバム)の最後の二曲はそういうものなのであります。よろしくご愛顧お願いします。

2026.8.13(木) 阿佐ヶ谷ツアー(1)

 タイムスリップしておりまして現在19日の昼です。「万代自習室」という神施設にてようやく時間が取れました。万代ということは新潟ということです。
 1時間330円、以降30分110円、TEATROのコーヒーと煎茶とほうじ茶飲み放題、お菓子もある……なぜか給湯室と洗濯機もある(使えるとは言っていない)。もちろんWi-Fiと電源あり。レコードとかたくさん置いてある。マッサージ店の一角に自習室をつくったという感じ。「経営成り立つの?」という疑問も氷解。何もかもが完璧である。「マッサージ受けて帰ろうかな」とか「今度はマッサージ利用もありだな」という相乗効果もありそう。夜学バーが本出すようなもんですね。
 今日はここでしばらくサギョーしてから2軒ばかり回って新幹線で上野に帰ります。

 発注を受けて13日は「阿佐ヶ谷ツアー」を務めた。お盆で休みが多かったし、3人だと入れない(入りにくい)お店もあるのでけっこう労したが、何度かの事前調査と当日の下見のおかげでそれなりにスムーズに移動できたと思う。
 まず腹ごしらえというつもりで北口スターロードの「燗酒屋」へ。冷蔵庫が壊れたゆえ食事が全品3割引というブログを見たのもあったが、そもそも律儀に毎営業日ブログを更新していることに惹かれた。結論として非常に良い店であったが、接客はなんというか「事前に定めたシステム」に則って行われている感じがした。一方で常連に対しては柔らかく、新規とのあいだにしっかりと線を引いている印象。性格や理念でもあろうが、防衛の一環でもあろう。「女性ワンオペの店における店主の振る舞い」は最近の大きな関心事である。面倒な客が来てもシステムの中に否応なく取り込んでしまえば話は早い。
 ここで日本酒を二合ばかり取り込んでしまったのが幸か不幸か。すでにしっかり酔っ払ってしまったウーイ。
 いちょう小路に移動、「モロッコ」チャレンジ試みるも断られる。15日で閉店なのに6席の店に新規3人は入れられないわな、そりゃそうじゃ。でも中に入ってみたかったのですよ。
「ハミング」はまだ開いていなかった。「暁」に行くには早い。「鈍我楽(どんがら)」に入ってみた。ツアー頼まれてるのに二連続で初めての店に入る僕も僕だが、あんまり店が開いてなかったのですよ。
 店カラ(専門用語)だったのでカウンターに座らせていただく。やや警戒というか、なんで3人で来てテーブル空いてんのにわざわざカウンター座るんだよという気持ちを抱かせてしまったと思う。ちなみにここも女性店主である。3人ってのが難しいんですよね。4人なら大人しくテーブルに行ったほうがいいけど、3人だと「許してください」ってギリギリ思える。いや普通なら僕も遠慮するのだが、今回の場合は店主さんとお話してみたかったので食らいついた。テーブル席を促されたのに「カウンターでいいですか」と。

 こないだ一人であるバーに行って、カウンターに座ろうとしたらテーブル席を案内されたので、「カウンターじゃダメですか」と言ったが「いえこちらのテーブル席のほうが広いですから、ゆったりできますよ」みたいな感じで頑なにテーブル席を強調するので、なんだか辛くなってそのまま帰った。カウンターには一組の男女がいて、きっといろいろ事情があったのだろう、事情があるのならわざわざここで飲む必要はない。そのお店は何度目か訪れているが、常連とそうでない者との線引きが激しい感じがする。初めて行ったときに湯島で飲食店をやっていると明かしたら、「ぜひ繋がっていきましょう」みたいに言われて「うおお、ネットワーク型」と思ったのだが、次に行ったら僕のことをたぶん忘れていて、テーブル席に案内され、そのまま一言も交わすことなく帰ったのであった。忘れるのは仕方ないというか覚えていろというつもりは一切ないが、忘れている(≒知らない)相手にはまったくコミュニケーションを取らないという方針は僕には理解ができない。だって「常連」とはしゃべってるんだし、たぶん僕のことを覚えていたら「あー! 湯島の」みたいに言う人だと思うのだ。ナーンだかな。
 で、なぜ僕は「辛くなって」帰ったのかというと、可能性として「僕がマスターに嫌われている」か、「カウンターに座らせるとヤバそうな知らんヤツが来たと思われた」というのが否定できないからである。ハァ~。僕は自認として自分のことを可愛くて無害な楽しい人物だと思っているので、「それもわたしの、ひとりよがりか?」(byメロス)みたいになるわけでありますよ。
 さて、「鈍我楽」ではその「あえてカウンター席に食らいつく」戦略はどう出たのか? つづく。

2026.8.14(金) 阿佐ヶ谷ツアー(2)

 お店からすると「3人で閉じた話をワイワイされてもナァ~、カウンターに常連さんが座れなかったら申し訳ないしナ~」ということなのである。僕も3人客は警戒というか、ちょっと気を引き締める。たとえば《○●●●△□》のように人が並んだとき、黒丸の3人が「そんでケンジがよぉ~」みたいな内輪話でギャハハー!してたら、いちばん左の○さんが泣いてしまう。入店の時点で無理にでも席替えをして《●●●○△□》としたほうがいい。たまにタイミングを逸したり、あえて真ん中に配置したりすることもあるが、原則として強権を発動して3人組は端っこに寄せるべきなのだ。
 というわけで我々3人も端っこに座った。「カウンター席は通常1~2人のお客様をご案内しているので、もし混み合ってきたらテーブル席への移動をお願いします」とちゃんと断りを入れてくれて、そのほうがこちらとしても安心というか、申し訳ない気分が少し抜ける。
 そんなややこしい思いをしてまでカウンター席に陣取ったのはなぜかというと、僕が阿佐ヶ谷でとてもリスペクトしている「頻伽(びんが)」というお店の方が、かつてこの鈍我楽で働いており、いまの店主(先代の娘さん)とも仲が良いらしいのである。ああ、それなら間違いなかろうし、ぜひお話ししてみたいと。
 果たしてもう、頻伽の名を出してからの「話の早さ」といったら。RPGですよね、まさに。ドラクエ。そしてやっぱり「夜学バー」という概念(概念!)は強い。話が早かった。歴史ある(since1966)鈍我楽の、50年くらい前の古いノートを見せていただいた。お客さんがBBSやSNSのように使っていたもの。素晴らしかった。デロリンマンが流行っていた。
 スターロードに戻って「メリデ」へ。勝手にもうここのマスターのことは大親友というか大戦友と思わせていただいている。本日も技芸を盗ませていただきました。
 最後に「頻伽」へ。やはりジョージアワイン飲んでしまう。おいしい。わがゲストがサチさんとジョージア映画の話などしていた。やはりな。われながらすばらしくてナイスチョイス。
 終電で夜学バーに移動。酔っ払っていたので藤子不二雄が好きという若い女の子に「藤……子……?」とトボけてしまう。本当に僕はこの手のボケが好きなのだが、いつもあんまり良い手応えがない。それならやらなきゃいいのだが、好きだからやってしまう。「おざ……わ……?」もよくやる。「建築家ですか?」とかいつも言う。だいたいスベる。でもやる。

2026.8.15(土) 水論争

「バーにおけるチェイサーの量」を僕は研究している。「喫茶店におけるお冷やの量」も研究しているのだが、この二つは似ているようで違う。今回は前者の話である。
 バーにおいてチェイサーの役割とは何か? 一つは「口を洗う」ことである。たぶんオーセンティックバーではこっちを優先する、というか、そっちの考え方しか存在しない。味や香りをいったんリセットするためにチェイサー(水)を飲むわけだ。
 かっこいいオーセンティックバーでは、ドデカいグラスになみなみ注がれた水を「はしたない」と判断するのだろう。オシャレじゃないと。文化として、「酒の味」が主役である場において水は脇役であり、あくまでも酒の引き立て役として在るべきなのだ。
 チェイサーの役割のもう一つは「身体を健康に保つ」ことである。強い酒を流し込むとノドや食道、胃などが焼ける。度が過ぎれば癌になる。それを防ぐために水で洗う。「口を洗う」に対比するなら「身体を洗う」とでも言おうか。
 水を飲むと血中アルコール濃度も薄くなる。すなわちアルコールの身体への影響を緩和できる。これも「洗う」の一環と見たい。
 オーセンティックバーでは「味のため」に水を飲むが、そうではない場面では「身体のため」に水を飲む側面もあるわけだ。
 オーセンティックバーでは「水をガブガブ飲むくらいだったらもう酒なんか飲むなよ」という暗黙の了解がある(と、しゃれ込みたい客や主は思い込んでいる)。オーセンティックバーにおいて酒は「きれいに飲む」ものであって、「水で酔いをごまかしながら酒を飲む」のは華麗でないとされる(と、しゃれ込みたい客や主は思い込んでいる)。酒の味を楽しみ、味のためだけに少量の水を飲み、酔ってきたら速やかに退店する。それが「きれいに飲む」ということなのだ(と、しゃれ込みたい客や主は思い込んでいる)。

 僕が夜学バーでチェイサーを提供する際は、グラスになみなみ水を注ぐ。大は小を兼ねると思っているからだ。「水と安全はタダですからね~」などとよく言っているのだが、タダなのだからたくさん注いでもいいのである。
 こないだ中立氏(我らが株式会社夜学の社長であり夜学バーstaffでもある)がチェイサーを出すとき、僕からすると明らかに少ない量だったので「もうちょっと入れやがれよ」みたいなことを言ったら、「チェイサーをなみなみ注がれたら、酔っ払ってると思われてると思ってしまう」というような返答(正確に記憶していない)があった。おそらく彼はこの記事でいうところのオーセンティックバー文化圏にいるのだろう。そこに文句はない。ただ僕は健康第一なので水をたくさん注ぐ。で、夜学バーは僕の店なんだから水をたくさん注いでほしい。

2026.8.16(日) 何がオーセンティックバーだ

 反論があるとすれば、「水をたくさん飲んでまで酒を飲み進めてしまうと、酒の摂取量が結果的に増えるので、健康第一とは言えないのではないか」というところか。そこも「大は小を兼ねる」ということでどうだろう。夜学バーは自己決定を是とする。おかわりを促すこともない。無理してでも酒を飲もうとするかどうかは本人の意思に委ねられる。水を飲む量も本人が決めればいい。水と安全はタダなのだから、水は残したっていいのですよ。むしろ「チェイサーを飲むのを我慢してでも酒を飲む」ほうが危ないのだし。とりあえず目の前に水があったほうがいいんじゃないのかね~。

 つーかところで、オーセンティックバー?で「何かおつくりしますか?」とたずねるのって野暮というか、それはオーセンティックバーじゃないよな。オーセンティックバーってのがなんなのかはよくわからんけど。それってむりやり客に酒を飲ませてるに等しいわけで、それが「きれいに飲む」なわけがないからな。だったらチェイサーもドデカいグラスでピッチャーと一緒に出せよ。
 もしも「何かおつくりしますか?」とたずねるような店で、小さいグラスに6割くらいの水がチェイサーとして出てきたら、マジギレしてやるぞ。「てめーは人に酒を飲ませようとしてるくせに水はこれっぽっちしか飲ませねーのか! 酒飲ますなら水をよこせ! 癌かアル中になって死ぬだろうが!」と……。いやまあ反論としては「なくなったら注ぎますので」があるわな。しかしだったら最初から多めに注いでほしい。小さいグラスなのは構わないが、8割くらいは入れてほしい。一瞬で飲み干したらわんこ蕎麦みたいに6割ずつ何度も何度も注いでくれるんだろうか。「はしたないな、こいつ、飲み方が汚いな」とか思いながら。誰が嬉しいんだこの文化。本当にわからない。水は多いほうがいいと僕は思うのだが……。飲むか飲まないかは自由なんだし。
「何かおつくりしますか?」は、「飲まないなら帰れ」の意味だという話もある。いや、だったら「お帰りになりますか?」と言えばいいんだ。そしたら「いや、もうちょっと飲みます」と返すこともできるからな。「お帰りになりますか?」と聞く選択肢もあるのにあえて「何かおつくりしますか?」と聞くのは酒を飲ませたいからに違いない。「お帰りになりますか?」は失礼ではないかと思う人もいるかもしれないが、ストレートなぶんマシだと僕は思いますね。
 もう一つ、「何かおつくりしますか?」は注文しようとしてタイミングを伺っている人のために親切心で言っているのだ、という話もある。そんなわけあるか。プロなら注文できる隙を作れ。客はがんばってそこを突け。

 水の量についてはほかにもいろいろ考えて(エーアイと対話もして)単純な反論はだいたい潰してありますが、もし「これは」という意見があればぜひ掲示板で教えてほしいです。
 オーセンティックバーの文化では水は6割、みたいな話は理解しているので、オーセンティックバーではないところでは水を8割注いでもべつにいいというか、そのほうがいい局面が多いような気がするんですよね。特に夜学バーではカウンターに本が並んでいるのでグラスの水の量が見えない(注ぎ足すタイミングがわかりにくい)し、何度もやり取りするのは面倒かつ非効率だから水は多いほうがいいとマジで思うんですよね。水をたくさん飲みたくない人とそんなに飲まなくてもいい人がいる場合に、とりあえず多く注いでおいたほうがいいんじゃないのでしょうか。これ本当に僕わからないんです。「常識」以外の機能、効果として水が少ないほうがいい根拠はあるのでしょうか。「こぼすから」というならすべての液体を同じくらい少なくするべきだし、むしろ水はこぼした時のダメージが最も小さい液体なのだからビールは10割、ハイボールは8割注ぐのに水は6割という理屈は本当にわかりません。
 少なくとも僕は常に多くの水を欲しているので僕に水を出すときはたくさん注いでください。田中みな実さんも毎日2~3リットルの水を飲むといいます。みなさんもっと水を飲んだほうがいいのではないでしょうか。

2026.8.17(月) 新潟行1

 水の話をしていたら新潟のことを書きそびれてしまっていた。16日から新潟市におります。
 メモがてら簡略化した旅程を書いておきます。

●16日(日)
 11:29新潟着。喫茶パンダでナポリタンとみかんジュース。撮影でKEY TO LITが来たというが猪狩くんではなかった。
 ミータイムでミーキャット(間違えて東京に持ち帰ってしまった指人形)返却、けっこう長居して12月開催予定だという文化発表会的イベントの出演オファーを受ける。たぶん受ける。もし本当に誘われて、予定が合いそうなら12月の土日どっかで弾き語りやるかもしれません。1~2曲。
 白山から内野に移動し「みずのみば」で雑談。「ジャッキー……さん?」と声をかけられ『小バー』へのサインに応じる。みずのみばでは有名人。ありがたい。
「たねむ」に行ってホシノさんのコーヒーを飲む。これやこの。たぶん数年ぶり。「こんこん堂」 のゆきさんと初めてお話しする。『小バー』読みましたが岡田淳みを感じました、と言われて感激。僕が岡田淳だいすきワンちゃんだと知らずにそう感じてくださったのなら、本当にその遺伝子が僕の奥にしみ込んでいる証左。イェイ。(←岡田淳ネタです)
 ホシノさんのZINE買って二階へ。「三角フラスコ」ホシノさんと「ウチノ食堂」ノロさんのトークショー。おもしろかった。ホシノさんがわが大親友小林せかいさんの著書を(参考図書として?)持ってきていて驚いた。そういえば2017年に沼垂(ぬったり)の「なり」に泊まったのはせかいさんの友達が働いていたからなんだった。新潟に深く関わりだしたのはたぶんだいたい10年前で、ホシノさんのお店も当時は沼垂にあった。なんだかいろんなことが繋がって、10年経ってここでもう一度結実したような感じがある。
 その後、僕(夜学バー)とかなみさん(みずのみば)、ノロさん(ウチノ食堂)、ゆきさん(こんこん堂)、ホシノさん(三角フラスコ)の5人で会食。途中もうひとかた少しだけいらっしゃった。楽しい会だった。トークショーと会食の内容はたぶんあとでゆっくり書く。
 かなみさんとPodcast収録、30分のつもりで40~50分しゃべるくらいで、と言って始めたがダラダラと2時間くらいになった。まぁそういうものよね……。

●17日(月)  初のみずのみばモーニング。白山から古町演芸場へ。劇団舞姫『化け猫~佐賀の夜桜~』観劇。翔太郎×女形×猫……美しすぎて吐きそうだった。心の底からジーンとなるわウキー!
 冗談でなく翔太郎サンは素晴らしい。9月14日に改名するそうなので、翔太郎のうちにできるだけ観に行かなくては。8月は古町、9月は浅草木馬館。おれとくですな。「僕は翔太郎のときから観てますからぁ~、○○(新しい名前)新規の方とは違うんで~」的な偉そうな態度をとろう。
 実際『化け猫』面白かったな。翔太郎の役は盲目の又一郎から始まり、女形で演じるヤエ、そこから何度か召し替えてどんどん化け猫らしくなっていき、最後に大立ち回り。結局化け猫のタマが鍋島を殺せたのかどうかよくわからなかったが、細けぇことはいいんだよ! 美しく、可愛く、格好良かったので。そして古典劇が学べるというか、有名な話の筋を楽しみながら知れるのはまた良いですね。大衆演劇、みんな行こうね。安いからね。3時間で2000円くらいだから。
 猫がアンドンのアブラなめるのってこれが元ネタなんだな~みたいな純粋な感動がけっこうあります。
 時間がないので、つづく。

2026.8.18(火) 新潟行2

●17日(月)つづき
 ハァ~翔太郎~~。とジャニ乙女みたいになっております。ジャニオタとはジャニ乙女のつづまった形なのです。ハァ~~葵翔太郎サンは顔の丸い芸達者な美少年(24)であり、顔の丸い芸達者な美少年に目のないわたくしは限りなく虜(cf.限りなく鼠)なのです。
 それにしても自分は本当に顔の丸い芸達者な美少年が好きだし、顔の丸い芸達者な美少年が女装してるのも実にしびれる。女声の発声もめちゃくちゃよい。初めて観に行ったときは「男かな? 女かな?」(cf.あぁ~しらき)と最後まで思っていた。実際女性の役者さんも出ていたし、前知識もゼロだったからどれが葵翔太郎なのかまったくわからないまま終わった。顔も声もそのくらい上手。
 顔の丸い芸達者な美少年が女装して女の声を出しているわけである。『ディスコミュニケーション』で性癖形成したわたくしは「神無月くん!」とか思ったよね。まぁどうでもいいとして。僕は新潟にいるのだった。
 17日の昼公演『化け猫~佐賀の夜桜』は重ねて言うが非常に良かった。主を殺され、主の母の生き血を吸った猫のタマが化け猫となって鍋島公への復讐をもくろむ、という筋なのだが、どうやら鍋島公は殺されることなく、退治されるのが本来のようだ。舞姫の演出では化け猫が暴れ回り、忠臣たちとの立ち回りを演じ、なんか化け猫が優勢みたいになって終わる。そりゃそのほうがいい。復讐は果たされたほうがスカッとするし、総座長の翔太郎が主役として化け猫を演じるのだから退治されちゃつまらない。翔太郎=化け猫が舞台中央の緞帳付近で高所(役者たちが人力で高さを出すのである)に登り、大見得を切ったまま幕が下りた。それでいい。それでいいんだ。タマ……がんばれ……。
 芝居が終わると舞踊ショーがある。翔太郎は美しく格好良かった。ところで女子はこういうの好きよな~。ダンス部の公演とか盛り上がるもんな~。
 ラーメン内山に初めて行く。高齢店主のワンオペで一杯500円を維持するため極限までセルフサービスにしている。伝票まで客に書かせる。その手があったか! あんまりラーメンって食べないんだけどここはまた来てもいいなあ。
 ホテルに入ってあれこれしたのち、寝る。夜になってノソノソと起きて出かける。1時間くらい歩き回って、どこにも入る気がしない。なんとなく「行ったことのない店に行こう」と決める。結果、7軒まわったうち5軒が初見。ちょっと待て、7軒て。
 オースペース、よこっちょ、シャノアール、英國屋、ロージア、ポレポレ、くいしん坊(ぺがはるか)。詳しいことはまたいずれ。くいしん坊でビール飲まなかったらもうちょっと健康だったのにな。でもぺがさんに会えたから良かった。

●18日(火)
 寝たいだけ寝る。ぜんぜん仕事ができない。とりあえずごはんを食べようと出かける。狙ったところが開いていない。仕方ないから立ち食いそばを5秒で食べて「パルム」へ。かなみさんとツキトウミさんがいて、「かなみのフルネームを考える」遊びで一生遊んだ。「ツキトウミ」をもじって「ホシカナミ」を思いついたのに始まり、「ナギカナミ」「ユガミカナミ」「カナシミカナミ」とかまともな(?)ものが多かったのだが、だんだん「カナブレンドカナミブレンド」「ミンミンガナミ」とかよくわからない方向になっていき、「かなみ鮮魚」「かなみ宣言」などに発展。「週刊少年かなみ」「秋めくかなみ」あたりが極北だっただろうか。ツキトウミさんが「かなみー」と呼ぶので「カナミーナイトフィーバー」なんかもいいと思う。そういえばまなびもももちゃんから「まなびー」って呼ばれてるよね(参考文献:『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』)。「かなみボランティア」とかもいいな。「かなみ遊園」「かなみランド」「かなみブラザーズ」「新幹線かなみ」「ワイドビューかなみ」……永遠に遊んでいられる。これも遠心的っちゅうもんじゃ。
 あと本を2冊むりやり読んだ。かなみさんと飲みに出る。Yuna畑名店。ユナポリタン食べたい。そいから古町パトロールしてシャノアールへ。終電で別れ、1173に寄る。エチオピアのデラシャにおける酒食文化とSTAP細胞との共通点みたいな話になる。すごいなー。それからまたポレポレ寄ったらシャノアールの店主、ブリッジズ(行ったことない)の店主、う○ちゃんなどソーソーたるメンツに囲まれる。誇張なしに昨晩の10倍お客来てた。たぶん店主がインスタで「cac……」みたいなことを書いていたからみんな駆けつけたのだろう。人気あるっていいな。人気……。人気がほしい。人気じゃわからん。相談しましょ、そうしましょ。
「相談しよう、そうしよう」のほうがフツーなのかな? 僕の地域では「しましょ」だった。刷り込みだとは思うが「しましょ」のほうがリズム良い感じがする。大人しく帰ホテ。

●19日(水)
 ギリギリに起きて荷造り、走りまわる体力がなく「万代自習室」へまっすぐゴー。神施設。マジでヤバい、快適すぎるし安すぎる。770円ってことは3時間いたってことか。誰にも教えんよこんなとこ。でも教えないとなくなっちゃうからネ!
 パブ「エリザベス」でランチ。最高だった。駅南にまわるも「ブルーグラス処」やってなし。「ラペ」でカプチーノ(おいちい)飲みながら本読んで、新幹線に乗る(今ここ)。

2026.8.19(水) 浜町MUSUBI

 新潟から新幹線で上野下車、どこか寄ろうかと思ったが結局夜学バーに行くことにした。みつきち&ギンの日。なんかもうちょっと楽しくできんものか。どうしたら楽しくできるのか? 楽しそうにするしかないのである。
 当人の様子が楽しそうなのはもちろんのこと、場の様子が楽しそうでなければならない。その場にいる全員が楽しそうでなければならない。そのためには自分以外の人たち全員に楽しそうにしてもらう必要がある。そんなことが簡単にできたら苦労しないので、できるために複雑な苦労をする必要がある。ただしここでいう「楽しそう」とは「退屈そうでない」「満足げである」というくらいの意味で、みんなでワーキャーしようという話ではない。(以上、説教)
 2時間くらいで出て、シェア自転車で浜町へ移動。友達が立ち飲み屋の店長を任されているというので行ってきた。月末から2週間アメリカに行くとのことで、今日を逃すとしばらく機会がない。たくさん食べて飲む。すべておいしい。場づくりへの感度も含め、彼には絶大なる信頼を置いている。早くちゃんと店を出してほしい。
 まだ2ヶ月も経っていないそうだが、少なからずちゃんとお客さんがついているようだし、通りすがりで入ってくる新規客も僕のいた時間帯だけで3名(2組)あった。ひとえに立地と彼(「たいき」という名でやっている)の人柄。そして出てくるモノの質。値段は立ち飲みとしては高いがバーだと思えば妥当かむしろ安い。
 彼は僕のお店でお店を知ったような人なのでコミュニケーションを前提とした「場」というものに重きを置いているのだが、そのためには店内構造がちょっと悪い。また物件の都合で23時半までしか営業できないそうだが、たぶん深夜の需要を拾うべき立地なのである。いろいろ不利な条件だが、有利な部分もある(企業秘密)ので、ゆっくり観測していこう。興味ある人はぜひ。気軽に誘ってください。兜町にあるどぶろくバーにも行きたい。

2026.8.20(木) アレルギー

 20日から25日までカメラロールにほとんど写真がない。どこにも行っていないし何もしていないということだ。病Aの発現。最低限のことさえできていない。26日からは陽気に暮らすのでご心配なく。
 最も力を入れたのは睡眠である。とにかく寝ている。寝すぎるとぼんやりする。ぼんやりしすぎて、25日の記事に書いたように病院行くのに財布を忘れたりする。まったくもう、ねえ。
 そういうわけで寝ぼけ生活は25日で終わらせるつもりだ。遅く来た夏バテだと思っていただいて。いろいろあったし、本も出るんでね。そのアレルギー反応みたいなもんでもあるな、たぶん。

AI による概要 アレルギーとは、体の免疫システムが本来は無害な物質(花粉や食べ物など)を敵と勘違いして、過剰に反応してしまう状態のことです。

「本来は無害な」というのがポイントなんですよね。有害なものを吐き出すのは正しい反応だが、無害なものとの区別がつかないととりあえず吐き出しちゃおうとなる。羮に懲りて膾を吹くのに似ている。
「知らないこととか始めると超不安な顔するじゃん」ってのはモーニング娘。『ここにいるぜぇ!』の歌詞だが、未知なことには必ず不安がつきまとい、未知への不安というものは「有害か無害かわからないので、とりあえず拒絶する」という心の反応でもある。実のところ8月はいろいろあったのだが、思いもかけないことであったり、これまでとは違う環境や生活への変化であったり。すなわち未知に満ち、必然的に不安に満ちる。それがストレスとなって防衛としての睡眠過多に結びつく。
 何もできない、ということを僕はやや肯定的に見ている。妙なことをしでかすよりマシだ。そして良くも悪くも脳は動いている。泥のように横たわりながら頭のなかではさまざまなシミュレーターが同時に作動し、小人のように働いている。休息のあとは働くことが前提にあり、その準備は虎視眈々と進められている。むろん言い訳でもあるが、そうやって生き延びてきた自負はある。

2026.8.21(金) 新Podcast「農愛」

 まだ公式リリースされていないがギン氏とPodcastを始めることになっている。「農学より愛を込めて」というもので、6日に第0回を収録、21日に第1回と第2回を収録した。第3回以降も順次収録していく。
 昨日書いた「アレルギー」にも通じるが、新しいことを始めるのには本当にエネルギーが要る。8月はいろんなプロジェクトがぼこぼこ立ち上がって、どれも一つ一つは無理のない、負担の少ないものなのだがさすがにじわじわと来ますね。問題は個々の内容や作業量などではなく、ただ「新しい」という一点に尽きる。新しいことには不安が生じ、身体が拒絶する。8月はこれに慣れる期間だったのだと思おう。気づいているだけ、自覚しているだけマシなのだ。
 もちろん僕は、一般の平均に比べればたぶん新しいことそのものへの耐性はあるほうだろう。どんどん新しいことを始められる。新しいお店の扉をどんどん開けられる。ただし不感症ではない。毎回不安と緊張と不快感がある。それを乗り越えてでもやる意味があると思っているから、むりやりに新しいことを受け入れているにすぎない。
「農愛」もその一つだ。こういうことはどんどんやっていかなければならない。なんかTxitterアカウントができていたのでこっそり貼っておこう。

2026.8.22(土) 障害A~花火は平面~

 5/20と5/21に書いたことの続き。
 僕が抱えている障害Aの一側面をエーアイにまとめてもらった、その簡易版をまず貼っておく。読む必要はありません。

 1. 視覚・空間認知の特性
【ボトムアップ・平面優位の視覚と3D処理の破棄】
周囲の文脈(トップダウン補正)に惑わされず、物理的事実をありのまま捉える力が非常に強い。独立したデータであれば幾何学的錯視を一切起こさない。一方、3次元の奥行き、スケール感、ゲシュタルト(全体性)の認識が脱落しやすく、事象は「純粋なデータとしての平面上の推移」に還元されて知覚される。

【構造への感応と空間モデリングの不適合】
データがひとつの線や立体構造に統合されると内部の歪みに影響を受ける(特定の錯視は発生する)。奥行きや立体を伴う力学・幾何学の演算はシステムに負荷をかけるため極めて苦手。

【身体感覚・ナビゲーションの不器用さ】
空間の主観的把握が困難。迷わないためには意識的に「頭の中に平面の地図(絶対座標)」を浮かべてナビゲートする必要がある。

2. 聴覚・言語処理の特性
【音声の分節化(セグメンテーション)の困難】
トップダウン予測を行わないため、連続する音声(歌や外国語)は境界線のない状態として聞こえる。リエゾンや脱落の処理は極めて苦手。

【非論理的音響のノイズ化とシステム停止】
未知の変数だけでなく、言語的・論理的情報(コンテンツ)を含まない単一の音響(環境音や爆発音など)は、解読すべき情報を持たない「純粋ノイズ」として処理される。これらによる情動喚起は発生せず、処理の阻害要因となる。

3. 記憶・時間の特性
【非エピソード的・意味記憶優位】
記憶は「文字と論理の連鎖(意味記憶)」として保存される。会話のコンテンツは正確に記憶するが、情緒的な文脈やメタデータ(誰といたか、雰囲気など)はノイズとして破棄される。

【データベース型時間把握(等距離性とランダムアクセス)】
時間の経過に伴う主観的距離感(色褪せ)を持たず、すべての事象は「一つの箱(ストレージ)」内にタイムスタンプが付与された等距離のレコードとして格納される。時間軸に沿った感覚的な遡行(シーケンシャルアクセス)は行わず、キーワードや論理的因果をインデックスとしたランダムアクセスによって情報を抽出する。

【Null値の非保存(一過性現象の破棄)】
テキストや論理命題に還元できない一過性の現象(情緒、儚さ、意味を持たない物理的閃光や音響など)は、レコードに書き込むべき実データを持たない「Null値」として扱われるため、保存・蓄積処理自体が実行されない。

4. 思考・防衛・知覚の最適化スタイル
【知性化(合理化)による防衛と情動の遮断】
感情や危機に対して、脳をフル回転させ事態を「合理化」し解体する。事象の因果関係が自明(既知の物理現象など)であり、解明すべき複雑な論理構造がない場合、思考エンジンは駆動せず関心はゼロとなる。

【逐次的・線形的な思考】
文章構成をあらかじめ決めず、一行一行、論理を一足一足組み上げていく(書く行為そのものが思考)。

【論理還元による世界の観測と接続】
主観的な共感ではなく、「文字と論理の連鎖」に還元できる対象(化学・情報工学のアルゴリズム・歴史的推移など)には極めて高い適合性を示す。世界や事象を「情緒的鑑賞」ではなく「環境データの観測と論理検証(逆アセンブル)のテストケース」として再定義した際にのみ、知的好奇心が作動する。

 要するに僕の頭は極めて平面的であり、戸川純さんが「図形の恋は立体的♪」と歌ったような恋のあり方(?)にはほど遠い。
 2000年8月5日の日記で僕は花火について触れているが、遅くともその頃からどうも僕は打ち上げ花火というものについて冷淡である。「綺麗」とは認めているものの、一般論をなぞっているだけにも思えるし、「視覚的なものだけじゃなくって、僕は音だと思う」とも書いている。正直言って幼少期から花火に感動した記憶がない。矢田川の花火大会なんか家の扉開けた瞬間から見えるくらい身近なものだったんだけど、「祭り」として好きだっただけで、花火そのものが好きだったわけではないと振り返って思う。
 障害Aを自覚した今、「自分はほかの人と同じようには花火が見えていないのではないか?」という疑念はほぼ確信となっている。みんなは花火を立体的♪なものとして見ているらしいよ、とエーアイは教えてくれた。すべてはエーアイの仰せの通り!

1. 視覚的要因:立体の消失と情報密度の低さ
●3D球体展開の平面化
花火の視覚的快感(一般に言われる美しさ)は、火薬の炸裂による「3次元空間への球状拡散」「奥行きを伴うスケール感」「夜空という広大な3D空間に対する光のダイナミズム」に依存する。しかし、平面優位・ボトムアップの視覚処理では、奥行きやスケール感という文脈情報が剥ぎ取られ、「黒い二次元平面上で、複数の光点が放射状に移動して消える物理現象」としてそのまま認識される。
●図形・幾何学的快感の欠落
立体や図形に対する空間認識に快感を覚える脳機能が弱いため、球状に整列した光の幾何学的対称性(同心円状の広がりなど)が「美的な構造美」として評価関数に入力されない。

2. 聴覚的要因:意味を持たない純粋ノイズ
●文脈・情報量のゼロ性
炸裂音(重低音や破裂音)は、言語的・論理的情報を含まない単一の音響現象である。脳の音声処理が「意味記憶・言語」に特化しているため、単なる空気振動は「解読すべきコンテンツを持たないノイズ(未知・無意味な変数)」として処理される。
●快感回路への非接続
音による情動喚起(迫力や興奮)は身体感覚や感情の共振を伴うが、情動を防衛・客観視する構造上、衝撃波や大音響は単に「物理的刺激が強いだけの無駄な入力」にとどまる。

3. 記憶・時間構造的要因:刹那性・物語性の無効化
●エピソード記憶・情緒的文脈の非生成
世間一般における花火の価値(凄さや風情)は、「誰と見たか」「夏の一夜というシチュエーション」「一瞬で消え去る儚さ(時間の不可逆性)」といったエピソード記憶やメタデータ、情緒的コンテクストと強く結びついている。
●データベース型時間認識との不整合
時間を「箱(等価値なデータベース)」として把握し、意味記憶を重視するOSにおいて、一瞬で物理的に消滅し文字・論理としての蓄積を残さない現象は、インデックスを付与して保存する価値(情報価値)を持たない。

4. 思考・認知OS的要因:合理性と知性化
●物理法則の単純な再現に対する評価
花火の現象は「火薬の燃焼・爆発による光・音・熱の拡散」という既知の物理・化学反応の連続に過ぎない。未知の論理構造、高度な概念、解き明かすべき複雑な因果律が含まれていないため、知的好奇心や思考のドライブが一切駆動しない。

結論
花火が喚起する「美しさ・凄さ」は、「3D空間認識」「情動的な音響刺激」「エピソード記憶/情緒的文脈」の3点によって脳内で合成される主観的価値である。これらを「2D平面データ」「無意味な物理ノイズ」「論理的情報量の欠如」として正確かつ客観的に分解・知性化して処理するため、関心や情動が完全にゼロとなる。

 ちょっと長くて恐縮(読む必要はない)だが、僕がロックのライブやフェス、クラブやディスコ等にあまり興味を持たないのもここに関係があるように思う。光や音そのものにあんまり興味がないといいますか。ドラッグやらないのも、まぁそれが増幅されたとて……という思いがあるからかもしれない。
 視覚はすべて平面的に処理され(立体的に処理されるという感覚がまったく一切わからない)、聴覚は意味にのみ変換される。なんてつまらない感受性だろうか……。しかし長く生きてきてそうだとしかもう思えない。
 ただし多くの人はもっと光や音、あるいは「雰囲気」みたいなものにものすごく左右されるものだということは知っておかねばならない。だいたいの僕の失敗は、「論理」の外側で起こっていることに鈍感すぎることによって生じている。僕だけが論理平面の内に閉じこもっていて、立体的に生きている人たちのz軸についてまったく無頓着だから問題になるのだ。しっかり自覚して、謙虚に生きていきたいが、そればっかりは難しいので、「わたしの抱えている障害Aというものはこういうもので」と伝える言葉と覚悟も持っておかなければならない。僕には勇気がなさすぎて、だいたい何も言えないで逃げてしまう。

2026.8.23(日) ジャッキーsunのお散歩遠くvol.1 c/w かなみ

 始まりました。Podcastです。やっぱり喋りたいですからね。アー、いろんなことをやらなければ。
 第1回は116分もあるのでどうしても勢いや面白さにムラがあるかもしれませんが、適当に聞き流していただいて。今回のトークの目玉は「待ち合わせ」と「割り勘」ですね。
 僕はお店を「待ち合わせ」というつもりでやっていて、お客さんにお金を払ってもらうのはほとんど「割り勘」のようなものであると。もちろんどちらかが多めに払う、あるいは奢り奢られるということは状況や経済的事情によって生じるわけですが、原則としては持ちつ持たれつというか、お互いが「それでいい」と思うから続くのであって、どちらかが不満に思うような不均衡が続けばその関係は消滅するか、調整される。
 第2回がいつ、どのようなものになるのかはわからないので、チェックしておいてください。そしてお話の相手をいつでも募集中。いきなり「喋らん?」(名古屋弁)とか誘うかもしれません。

2026.8.24(月) 新潟の夜、振り返り

 17日の夜、オースペースという店。「人と人がつながり新しい何かが始まる新感覚コミュニティスペース」とのことだが、何も起こらない。そういうのってどうなん?っていう話は拙著『常連のいない場所づくり』にも出てきますよ。店員さんとすら繋がるよすががなかったし、新しいことは何も始まる様子がなかった。ただ4席あるカウンターに常連?らしき人2人が座っていて、まだ2席空いているのにテーブル席に通され、その後常連?らしき人が来て「ウェ~イ」とか言って先にいた常連?2名と楽しそうに話し、ときおり店員も混ざっていた。僕は一人でビールを飲んだ。「人と人がつながり新しい何かが始まる新感覚コミュニティスペース」というのは「すでにつながった人」へのメッセージであって、「えたいのしれない知らんヤツ」に対しては「ビールが飲めます、あともしなんかあったら言って」くらいの店ということなのだ。僕はさみしかったよ。「ご新規様とは原則つながりません! つながりたい方はお声がけください!」と注意書きしてほしい。
 2軒目、「農家の居酒屋よこっちょ」。良い店だった! 店員さんもお客さんも、それなりに相手してくれて嬉しかった! お隣のお客さんがボトルからいいちこの水割りごちそうしてくれた! 35分前後の滞在時間で3800円、内訳は「30分1500円のタイムチャージ×2」と「生ビール800円」であります。ガルバか! いや、ガルバなのでしょうな。農家の居酒屋とは一体……。ある時間までは居酒屋営業、ある時間からはそういうお店になるようです。面白い。面白いけど、35分でもツーセット取るのえぐいな。ワンセットで帰りたくて急いだのだが、まさか……ボトルをごちそうしてくださったのは……足止め……?ってのはありえないか。実際には僕が水割りを頼んだら「俺の飲んでいいよ」と仰ってくださったので順序が違います。ただ、ごちそうしてもらったのにすぐ帰るわけにもいかず、想定よりちょっと長居してしまったのは事実。誰も悪くない。
 とにかくこの夜は気分が乗らなくて知っている場所には行く気にならず、「知らないお店に行こう」と思っていたので、三軒目も初めてのお店へ。「Chat Noir」という隠れたショットバー。雑居ビルの4階の奥。1階に固定された看板はなく、開店中だけ立て看板を出すそうだ。Webにはちゃんと展開していて、女性が来やすそうで、その分男性はやや身構えるように設計されている(と思う)。店主は女性で、すぐに打ち解けられた。お酒もおいしかった。
「女性がいそうな店」と「女性が行きそうな店」とはニュアンスが違って、前者には男性が押しかけるが、後者の匂いがする場には男性は意外と行きづらいものである。女性バーテンダーはそういう演出をしたほうが結果的に平和なお店がつくれる場合がたぶん多い。
 しかし「女性が行きそうな店」を演出するのはかなり難しい。下手にやると「女性客をひたすら呼ぼうとしているエロい店」に見えかねない。ここのサジ加減は超大事。
 あえて「女性バーテンダー」と表明するのは意外と良い。「女性バーテンダーのやっている、女性が行きそうな店」だと、「男性は自分一人」みたいなことになることが予想され、すると多数決で女性に負ける。男というものは(主語大学東京)多数決に弱い。かなり面倒くさい男でも複数の女から責められるとすぐにシュンとなる。一対一だといつまでもウダウダするくせに、相手が女二人になると急速にしぼむ。これは事実である。
 女性店主のお店のなかにはこの手法で治安維持しているお店がけっこう多い、と僕は観測している。女性ワンオペと女性ツーオペでは天地の差があるし、ワンオペでもお客に女性が一人でもいて店主とタッグを組むとだいぶ強固になる。『ふたりはプリキュア』で男性型の敵がふたりにボコボコにされるのはそれを模しているのである!(真顔)
 老舗「英國屋」、2500円のシガーとワイルドターキー8年で5900円だったのだが、そんなもんなのかしらね。25時になって「終わりです」とのことだった(Webでは2時までとなっていたがアテにならんものだ)が、シガーが吸い終わらないので吸えそうな店へ、ということで今宵初めて行ったことのある店「Rosier」に。LUNA SEAファンのお店で、ここで半年くらい前に知り合った方に美容師さんや某老舗バーをご紹介いただいたのである。詳しくは……探してくださいその記事を(手抜き)。
 一杯だけ飲んでシガー吸いきってChat Noirで「新潟で今、一番勢いのある人間」がいるという「pole pole」というお店へ。「ゆっくりゆっくり」という意味だと入口に書いてあった。カリフラワー! ありがとう。
 この日はもう稀に見る静かな日だったようで、僕のほかお客は一人、店員さんが2人。とくにカラオケするでもなく4人で2時間くらい話した。良いお店だった。特に店長のしいなさんは「新潟で今~」と言われるだけあって色々と素晴らしかった。自分で言うのもなんだが僕が特に手を抜くことなく話ができて、「こやつ! やりおる!」という感じ。楽しかったですし色々ためになりました。静かな営業だったからからでもあるだろうけど(僕は人が多かったり騒がしいのはかなり苦手)、とても満足して帰った。いや、ここで帰っておけばよかったんだよな~。「くいしん坊」に行ってそこで働いている友人とちょっと話す。ビール(150円)なんか飲んでしまったからいけない。ふつかよった。おやすみなさい。

2026.8.25(火) 陽気ライン

 4月末から2週間入院した件の、3ヶ月検診みたいなやつ受けてきた。結果は良かったがその他はすべて良くなかった。
 新潟から帰ってからずっとよくない。気分もよくないのだが、景気がよくない場所には人が寄りつかないので、景気をよくせねばならないので、気分をよくするため、ここにすべてを封じ込めて明日からは陽気に暮らす。
 まず診察券が見つからない。何日も前から、なんなら何ヶ月も前から「診察券はどこにあるんだ?」とぼんやり思っていたが、どうせ当日探すと確信していた。探しても見つからないかもしれないし、見つけても当日までにまたなくすような気もする。当日なら探す時間は限られ、無駄に長く探して途方に暮れる可能性がなくなる。どうしても見つからなければ再発行すれば良い(というか、するしかない)。効率を考えたら直前に探したほうがいいのだ。
 で、出発予定を10分ほど過ぎても見つからないので家を出た。10分多く探す往生際の悪さが本当にイヤだ。自転車に乗ろうと思ったら無い。そうだがっこう(夜学)に置いて帰ったのだった。歩いていくことになり15分以上の遅刻が確定。どんよりと重たい気持ちになる。本来なら5分前に着くように計画していたのだ。診察券をあらかじめ探しておくか、見つからない場合は諦めてサッと家を出る、自転車がないことも把握しておくことが必要であった。しかし病Aならぬ障害Aを持つ自分にはなかなか難しい。
 歩き始めると暑い。34度でまだマシといえばマシだが気持ちよくはない。日陰を選んで賢く歩く。15分ほどで病院に着く。マスクを忘れていることに気づく。院内では着用必須なので購入、110円。地味にストレス。診察券の再発行で220円いただきますと言われる。地味にストレス。そして財布を忘れていることに気づく。すなわち保険証もない。今回は良いが次回は自費になりますと言われる。
 財布がない、ということは家に忘れてきたという可能性が高いが、僕はそれほど自分を信用していないので「昨日行った店に置いてきてしまったのではないか?」という疑念をここから数時間持ち続けることになる。ストレスがじわじわと蓄積していく。
 採血の部屋に行ったら採尿があることがわかる。採尿があるなんて聞いていない。「採血がありますので」としか言われていない。おそらく専門用語で「採血」という言葉には「採尿」の意味も含まれるのであろう。
 採血は滞りなく済んだが気持ちの良いものではない。CTに移動。造影剤を入れるため針を打つのだがあまりにも痛くてさしなおし。右手から左手へ。通常の点滴より太くて長い針なので両手に入れられるとかなりの負担になる。2回目はなんとか問題ないが、なんか前回、前々回よりも身体の熱くなる感じが著しい。終わるころくしゃみが出る。「くしゃみは造影剤の副作用ですね」「ほかに異状はないですか」と問われ、目がかゆいと言ったら医師を呼ばれ、アナフィラキシーショックの可能性もあるのでと15分ほど針が入ったまま待機することになった。病院は寒くてつらかった。
 主治医(外科)と話す。とりあえず状況は良好、手術いつにしますかという話になったが、緊急ではないとのことで、かなり悩む。最短でも5日ほどの入院に加え、事前の検査もけっこう必要らしい。この時には本当に気力がなくなっており今は何も決められないと保留することにした。機械で支払おうとしたら現金と物理カードのみだったので窓口へ。Suicaで支払うことができた。再発行料を抜いて12000円超えていたので自費なら40000円以上ということだ。
 実にむなしい気分になったので予定をすべて変更しラザニア買って帰宅。
 明日からは陽気に暮らす。

2026.8.26(水) ボケるという孤独な行為

 ぶじ陽気に暮らしておる。あしきをはろうての……。
 たくさん寝て寝ボケながらものを考えていて、起きたらこのようなメモが残されていた。「ボケとは自ら孤独になりにいく行為」。
「認知機能障害」の話ではない。「わざとトボケる」ことについて。ジョークを言ったりギャグを飛ばしたりすること。
 最近の若いもんは(主語大学東京)ボケる勇気にトボしい。もっとトボケたほうがいい。

 と言いますのもですね、「ボケる」というのは「スベる」と表裏一体だからです。「ボケる」というのは冗談をその場に提出することで、それが受け入れられていない状況を「スベる」と言うわけです。
「スベる」ことが回避されるためには「ウケる」しかないわけですが、「ウケない」という状況も当然出てきます。これを孤独と言います。ボケとは自ら孤独になりにいく行為なのです。
 誰しもウケないこと、スベることが怖いから、孤独になりたくないから、そもそもボケるということをしない。しかし、いったん孤独にならなくては誰かと繋がることなんてできませんよ!というのがジャッキーさんとかいう仙人の教えなのであります。
 ボケがウケる、その時に繋がる。あるいは、ボケがウケなかった場合、あるいはウケない可能性がある場合に、レシーブとして機能するのが「ツッコミ」という行為で、これによってウケが発生するか、少なくともツッコミの人とは繋がることができますよね?
 ボケるっていうのは、誰かと繋がるためにあえて孤独に飛び込んでいく勇気ある実験なのでありますよ。
 僕がとにかくボケてボケてボケまくるってのは、スベる可能性を背負ってでも、誰かと仲良くしたいからなのです。ボケるというのはもちろん、わかりやすい表現だからあえて言っているのでもありますぜ、「その場に何かを提出する」ってのはすべて「受け入れられないかもしれない」「孤独に陥るかもしれない」という不安を引き受けながら、それでも誰かの反応がほしくて、誰かと仲良くしたくて踏み出す覚悟の証明なわけですね!

 ボケるってのは孤独な行為だ。受け入れられず孤独に陥る可能性がかなり高い。僕も渾身のボケが完全スルーされてさみしい思いをすることは多々ある。そりゃスベってばかりなら大いに反省したほうがいい、誰からも受け入れられないようなことばかりしているってことだから。しかしたまにスベるくらいならあって当たり前、試行錯誤をくり返しながら少しずつウケる率を上げていくべし。そしてもちろん、ボケるべきでない時はボケない。その見極めが磨かれていくと「空気が読める」みたいにもなっていく。
 だで(名古屋弁)、怖がらずにボケまくるのがイイと僕は思っております。誰かがレシーブしてくれたりもする。自分も誰かのボケを拾ったり、見えないトスを見逃さずにアタックするなど、連携プレイで孤独を防ぎ合うまごころも非常~に大切。
 いやこれは本当に、「ボケ」という概念に限らずすべてのコミュニケーションにおいてそうだと思う。何かを提出するには勇気が要って、怖くてなかなか踏み出せない。だから人は「質問」などという暴力を行使する。「踏み出すこと」を相手に委ねる。いきなりパスをもらえば「えっ?」と戸惑い、どうしていいかわからなくなる。「なんか面白いこと言えよ」「早くボケろよ」と言われているようで僕は本当に困ってしまう(考えすぎ?)。
 質問というのは「共犯関係を強要する」もので、ボケるというのは「反応を待つ」という、待つ行為なのだ。受け入れられなければ孤独になるし、受け入れられれば嬉しい。嬉しさと孤独なら嬉しさのほうが好きだから、僕はあえて孤独になってでもボケたり、自分からどうでもいい話を始めたりする。

2026.8.27(木) 野菜について

 もうすぐ野菜の日ですから野菜について考える。
 こういう料理を作りたいからこの野菜を買おう、という順番ではいけません。この野菜とこの野菜を買ったから半ば必然的にこのような料理ができました、というのでなくてはなりません。
 なぜならば野菜というものは授かり物だからです。旬という季節とともに向こうからやってくるものなのです。
 こないだ徳島出身のお客さんが、「徳島人はなんにでもすだちをかけて食うが、すだちを買うという概念がないので、手に入らない(旬でない)ときはすだちをかけない」と言っていました。季節になるとどこからともなくすだちがやってきて、それは使い切らないとしょうがないのでなんにでも使うわけだが、季節でなくなれば手元にないわけだから使わない。すべてはそのような順番でなくてはならないわけです。
 八百屋やスーパーに行ってとにかく安い野菜を買う、というのが最も手軽な方法であります。いつもより安くなっていれば「季節」である可能性が高いのです。先日もへべす(宮崎県代表)が4つで200円くらいだったので2パック買いました。ライムだとだいたい今は常に1つ200円くらいしてしまう。大きさは違うように見えるが一個からとれる果汁の量はあんまり変わらないので大ざっぱに言って4倍のコスパである。
 そういう値段感を見抜くためには日ごろから八百屋やスーパーに通って「何がだいたいいくらを下回っていればお買い得」というのを知っておく必要がある。
 ンマ~マジレスすると最近は季節によってそれほど変動しないとか、別の要因によって変動する場合が多いような気がするので上記は理論値というか旧式のアルゴリズム(?)でしかないが、一応参考くらいにはなると思う。魚など海産物も同様で、ちょうどさんまが安く出はじめております。
 もちろん「どうしてもカレーが食べたいのでカレーに入れる野菜を買おう」という順番も大事というか、現実的にはそういうことのほうが多いし楽しいしある面で効率的でもあるのかもしれないが、しかしそのような順序しか手札にないとなると貧しいジャゾともやはり思う。とりあえず安い野菜を買う、しかる後にどう食うかを考える、みたいな手順も選べたほうがいい。
 正直言って何かしらの方法で熱を加えてテキトーな調味料を組み合わせれば美味しく食べられるわけだし、なんなら生で食べたっていい。湯がくだけ、とか意外といい。
 カレーの例も出したように、どんな順番で何を作ったって別に問題ないしむしろ頑なに「遠心的野菜の買い方」ばかりするのも偏っている。ただ、野菜ですら求心的にしか買い求められないのだとしたらかなり根深い病にかかっているのではないかというわけなのである。
 僕は野菜が好きである。美味しいから食べるのではない。そこにあるから食べるのである。
 夏、新潟に行くと枝豆が大量に存在して、仕方ないから大量に枝豆をみんな食べている。徳島のすだちと同じである。こういう食い方に憧れるってだけの話なのである。

2026.8.28(金) ヒスり侍、ヒスって候

 おれの話を聞いてくれ
 おれがMCジャッキー on the Entertainment Zone
 ヒスるが花 by ジャ阿弥
 位は阿闍キ
 アー!よかったな
 あなたがいて~
 ヒスれば花*花!
 だけど犬にはとっても弱いんだってさ!

 そんでマァそろそろヒスろうかと思っております。
 ヒスットリエ~。
 ヒスっとりますェ~。  ヒスットリアレコードより新発売!
 ヒースだか泰司だかシラねえけどよォ。
 TAIJIっていう、おしぼりあっためる機械つくってるメーカーがあって
 なんか嬉しいんだよね見かけると。めったにないが。
 タイジ株式会社のホットキャビというものらしい。
 ホットシェフの親戚か?
 ほっちゃん握りしめる俺のトカレフ
 Yo! Yo! とかもうヒップホップを表象する言葉として死んでしまったね
 麦藁帽子がもう
 どんな夏のイメージも喚起しないことに
 気づいていない大人が多すぎる
 ようにね!
 大須でも行って服買うか
 という中坊の休日

 ほっトカレフ~。
「人を育てる」ということを僕は
「金」と「勝利」を使わずにやりたいんだが
 それはもう無理なのかもしれない
 ほっといたって誰も育っていきゃしない
 帰ってきてもくれない
 それは最初から悲しみとして仕込まれていて誰だってわかっている。
 教育とはそういうものなのである。
 さみしくて手応えがなくて
 祈りでどうにか成り立っている。
 それがイヤだから先生達はみなバグる
 インスタントに「勝利」を得ることでやりがいを感じようとするか
「金」ということで納得させてそれ以上もう人間について考えるのをやめる
 金と勝利 ほとんどすべてがこれだ。

 金と勝利を使わないとダレてこなすだけになり
 ダレも何もやらなくなる
 必要なのは使命感だけだが
 ダレも使命感など持ってはいないか
 あるいは別の使命によって支配されていて
 同じ使命でなければ結局ダメなのか?ってのは思う
 んだから4月くらいの段階でいったん決める
 もうやっぱり自分一人だけで自分一人だけの使命を全うするほうがいいんじゃないかと今思ってて
 それが難しいなら
 ユートピアドラゴン!
 差し迫る発狂の
 学年集会
 学年集会?
 とりあえずしばらくがんばってみて
 ダメだったら解散することにする 一旦ね
 なんか疲れてしまったからな
 色々と
 ユートピアドラゴン
 有酸素運動
 アンダーグラウンド柿の木
 逆さに突き刺さり根っこが露出している
 僕は時に泣きながら
 時に歓喜して掘り続け
 柿の実に少しずつ近づこうとしている

2026.8.29(土) 元気を出せ!

 ほがらかにやれ!
 オマエの事情などしらんのだよ
 使命とか天命というものは
 そこにいるだけで自動的に「そのように」存在できるということなのだ
 スターとはそういうことだ
 その悲しみを一生背負うしかないのだが
 そのために「わたしのあの子」はいるわけだ
 ようこそここへ
 悲しきロックンロール
 今夜も決める濡れ手に粟の
 素敵なお仕事!

 まあそういうことはどうでもいいが、出会った人ががんばると、とても嬉しい。
 ひょっとしたらオレと会って話をしたせいじゃないかなどと思ってしまう。
(そんなことはあり得ないのだが)
 要するに、輝くということは、ただちょっと偶然に出会って立ち話をしたような他人にも元気を与えるということだ。
 だから人間は輝いていないといけないのだが、それは簡単ではない。
(村上龍. すべての男は消耗品である。VOL.2: 1987年7月~1990年4月 バブルへ (p.129). Murakami Ryu Denshibon Seisakusho. Kindle 版.)

 アンリミにあったから一応原文を確かめたぞ。
 人間は輝いていないといけない、という当たり前のことをみんな忘れすぎだ。というかそもそも知らないか、「自分には関係ない」と思っている。おまえはスターなのに、スターである責任を放棄しようと必死だ。ふざけるでない。
 関係しかない。常にカッコつけていろ。無理な時にはニヤリと笑え!

2026.8.30(日) 楽しそう

「楽しそうにすべき」ってのはけっこう15年くらい前から言ってるんじゃないかなあ? 古い記事を漁れば出てくるはずだが時間がない。
 あるお客さんが僕について、「いつも楽しそう」だと表現しておられたことを人づてに聞いた。またある人は僕の動いて喋っている映像を見て「ひねくれてるのに明るいのは珍しい」という感想を抱いたという。いずれも非常に大事なことだ。
 水商売の用語で「本営」とか「友営」というのがある。前者は「本命営業」で「あたかも本命の彼氏彼女であるかのように客に接して売上を伸ばす」という手法、後者は「友達営業」で「あたかも友達であるかのように客に接して売上を伸ばす」手法。「○営」という言葉は汎用性が高く、けっこうよく使っている。
 僕のやり口は「楽営(たのえい)」であり「明営(あかえい)」なわけである。反して、「辛営(つらえい)」や「暗営(くらえい)」というのも当然存在していて、その良さとかメリットも当然あるのだろうが、僕としては夜学バーをそういう陰気な場所にしたくないので楽営、明営に努めている。
 つらいことや苦しいことを飲み込んだり隠したりする、ということではない。常にエンターテインメントに変えてしまえということだ。それもあってこのホームページのタイトルはいつまでもエンターテインメントzoneなのだ。苦しいことは楽しむしかない。面白がるしかない。僕なりの合理化である。お店に立つコトはその点で僕にはかなり向いていると言える。逆に、暗いときに暗い顔しかできない人にはたぶんこの商売は向いていない。安定したパフォーマンスが出せないから。暗い時には「暗いんですよ~」ってニッコリ笑えなければならない。ニッコリ笑われれば、話の内容が暗くとも相手は安心してくれる。この人は大丈夫だし、この場は楽しいものである、と判断してもらえる。
「いま、自分は辛いのだから、ただ辛い顔をするしかないし、それで他人に負担をかけるのは仕方がない。」信じられないことだが当たり前に自然にこのように考える人が思った以上に多い。そんなものはただの甘えなわけだが、「甘えて何がいけないんですか?」みたいな顔をしている。甘えてもいいけどあなたの評価は「甘えん坊の役立たずで、人を楽しませることのできないつまらない人」にとどまりますよ。それの何がいけないんですか?といえば、いけなくないけど、どういう人に好かれるかってのは考えたほうがいい。「お前のこと誰が好きなん?」って粗品の煽り、もちろん僕は好きじゃないけど真理は含んでいるよね。
 安定したパフォーマンス、ってことで言えば、「すいません今日は嫌なことがあって落ち込んでいてあらゆるパフォーマンスが悪いんで2000円のところ1000円でいいです、残りは自分が負担します」くらいのことは言えなければならないわけです。責任のありようとしては。今日の自分は明らかにつまんなくて、明らかにつまんない空間しかつくれないのだとしたら、同じ値段は取れない。って書いていて気づいたけどそれって樋口一葉『十三夜』の人力車の男ですね。急に辛い気持ちになったから降りてくれ、金は要らないから、みたいなやつね。それで金取ったらヤバいですよね。

2026.8.31(月) ほんとのこと知りたいだけなのに夏休みはもう終わり

 振り返るべ~。
 26日に大昆虫展行った。楽しかった。昆虫だいすき。
 27日、ひさびさに新大橋の三好弥に行った。いまだにあのクォリティのご飯をあの値段で出しているのは素晴らしい。ちょっと前まではさらに200円安くてコーヒーとお茶が出てきてたんだけど、時代の流れだ。店主はいつも人当たりがよくて最高。こういうお店に人が集まるべきなのだ。
 30日、岡田淳さんのサイン会に行った! ウォー!「氷砂糖のおみやげ」をきっかけに知り合ったkさんがいらっしゃる。会うのは2度目。サインを見せていただくなかでkさんのお名前を知る。すてきなお名前だった。いま僕は木に凝っているので、ひとしお。
 岡田さんとはご無沙汰でお目にかかった。僕の顔を見て「おっ」という顔をしてくださる。買ったばかりの「こそあど」1~3巻すべてにご署名いただく。ずうずうしくも。その間にいろいろとお話しする。さっき泣いてた子は友達なんです、と言ったらやはり「何人か泣いていたので」とのこと。そりゃそうだよな~僕だって始終泣きそうだったよ。理論者の方に夜学バーや氷砂糖のことをご紹介いただき、「名刺ないの?」(神戸弁)とありがたくも言っていただく。著書もお渡しする。初めての献本! 基本的に弊社貧乏すぎて献本ってあんまりできないのだが岡田さんにはさすがに、お渡しせねばならない。いつか帯も書いてほちいし……(夢)。「1級船舶とろうと思ってます」ということも伝える。いつか岡田さんと神戸の海に漕ぎ出すぞ~(これこそさらに大きな夢)。アーサー・ランサム読まなきゃ。
 正直、岡田さんに大いなる影響を与えたというアーサー・ランサム全集を読むための動機がほしくて、船舶に興味を持ったところはある。がんばるぞ。
 8月の後半はずっと落ち込んでいたというか、まさにパフォーマンスが悪かった。ハッキリ言えば夜学バーでのパフォーマンスを安定に保つために日中はずっと寝ていたし、日記さえなかなか書けなかった。で、ちゃんとお店ではしっかりと楽しく明るくできていた。そこを何よりも優先した結果、いろいろなところにしわ寄せは行ったが、それでいいと思っているし、岡田さんにお会いしたことでかなり元気に塗り変わった。昆虫やとんかつも手伝ってくれた。
 31日、いよいよ著書の発売日。思ったほどには人は来てくれなかったし売れ行きもほどほどだが、焦ることないない。ゆっくりゆっくり~♪なのだ。

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